2015-07-27 (Mon)✎
路線の思い出 第108回 根北線・越川駅跡地 〔北海道〕
斜里町の知床博物館に展示されている
越川駅標
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’69)
斜里(現 知床斜里)~越川 12.8km 不明 / 2368
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’70/12/ 1 斜里バス(現在はバス運行廃止) 廃止直前は1日2往復
越川駅(こしかわえき)は、北海道斜里郡斜里町字越川にかつて存在した国鉄・根北線の駅である。
標津線の根室標津駅までの延長時には中間駅となる予定であったが、延長される事事はなく、根北線の廃止と共に1970年12月1日に廃駅となった。
根北線があった時を記す石碑
もはやここまで来ると、「苦し紛れ」と云われても仕方がないだろうな。 そう、今回取り上げる根北線は、もちろん乗った事もなければ見た事もない路線である。 この路線を追いかけた始めたのは、廃止されてからの路線の遺構が国の登録有形文化財となるなど、廃線跡めぐりが脚光を浴びてからの事である。
越川駅舎
この駅で駅寝してみたかったよ
※ グーグル画像より拝借
でも、その廃線跡探訪ブームの到来によってこの路線の事を知ってから、今まで知らなかった事を悔いる位にネットや書籍資料などを調べまくったのを憶えている。 そして調べれば調べる程、更に悔いを募らせる事が重なったのである。
すごく夏草が茂ってるな・・
※ グーグル画像より拝借
それは、路線の途中駅の以久科駅などは永らく駅舎が撤去されずに存在していたにも拘らず、その前を気付かず通り過ぎるなど、今思えばかなり勿体ない事をしていたのである。
そう・・、あの時は、山に夢中だったのだ。 もう、鉄道の事は無関心でさえあった。
ワテに限らず人というモノは、生涯一つの事に熱い情熱を持ち続けるという事は恐らく不可能なのだと思う。 何らかの理由で一度醒め始めると、坂を転がり落ちるように情熱を失っていくものなのだろう。
ワテの場合は、大方のローカル路線が『廃止』された・・という帰結が理由であった。
こういう情景撮りたかったなぁ
※ グーグル画像より拝借
あれだけ熱心に、「真冬の北海道で駅寝」をするなど極めつけの『情熱大陸バカ』だった自分が、学校をサボって挙句の果てには中退するなど人生につながる『評価』をかなぐり捨ててでも追い求めた『ローカル線』を、あの時は目の前を通り過ぎながら気付きもしなかったのである。
『ローカル線』を追っていた時に抱いていた情熱は、吉田拓郎の歌のワンフレーズにある『この身を賭けても・・、全てを捨てても・・』って思いに通ずるものがあったと思う。 でも、「それなのに・・」なのだ。
そして時が過ぎ、再び思い返す時がやってくる。 当然、情熱を維持しきれなかった事の悔いを大いに抱きつつ・・である。 その思い返す切っ掛けも、案外他愛のない事から火が着くのである。
それは『無関心』の心の奥底には、あの時盛大に燃え盛っていたモノが密かに燻り残っていたからだろう。
松山湿原を訪れた当初の目的は
希少種・トキ草を撮りに・・であった
その切っ掛けは、美深・松山湿原を探勝した時の事である。 この美深・松山湿原のある美深町は、かつて『日本一の赤字線』である美幸線が走っていた所である。 でも、当初訪ねた目的は美幸線ではなく、湿原に咲く稀少の花・トキ草を撮る事であった。 でも、その時に見た駅跡の碑に釣られて「ちょっと廃線めぐりでもするか」と、美幸線の未成線区間を辿って枝幸へ向かう。
そして、かつてときめいた『北見神威岬』の廃線跡へ。 そこで、廃駅となった駅舎と野花に見た無常感。 これで完全に『廃線めぐり』に火が着いたのである。
駅跡に咲く野花が
時の無常を語っていた
これが焼けボックリに火!
再び火が着くと、筆者の性格は結構「トコトン」なのである。 この根北線の廃線めぐりはこの翌年の事だが、先に述べた様に「今まで知らなかった事を悔いる位に」下調べをしたのであった。
美しいアーチが緩やかなカーブを描く
『夢』の残り骸
有形登録文化財に指定された『渡らずの橋』も、かなり撮り方を考えたのを憶えている。
この遺構に
ギリシャ神話の神殿を思い浮かべた
※ 根北線に抱いた夢はコチラに記しています。
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No title * by 風来梨
風旅記さん、こんばんは。 見て頂いて、有難うございます。
この根北線は、「赤字83線」という、最初の廃止路線ですね。
この時は僅か12線のみの廃止に終わり、次の「特定地方交通線」の廃止時に「赤字83線」の二の跌を踏まぬように、廃止基準を明確化した・・といいますね。
道路の発達や人口の都市集中による過疎地の集落消滅などで、鉄道の意義は都市間輸送以外には見出だせなくなってしまったようです。
要するに、都市間の高速輸送以外に、鉄道が利益を上げる方法がなくなってしまった・・という事ですね。
でも、私の少年時代の鉄道は、「旅の手段」でした。 その時の事が忘れられず、今だにあの頃を追いかけている自分を書き記したのが「路線の思い出」ですね。
この根北線は、「赤字83線」という、最初の廃止路線ですね。
この時は僅か12線のみの廃止に終わり、次の「特定地方交通線」の廃止時に「赤字83線」の二の跌を踏まぬように、廃止基準を明確化した・・といいますね。
道路の発達や人口の都市集中による過疎地の集落消滅などで、鉄道の意義は都市間輸送以外には見出だせなくなってしまったようです。
要するに、都市間の高速輸送以外に、鉄道が利益を上げる方法がなくなってしまった・・という事ですね。
でも、私の少年時代の鉄道は、「旅の手段」でした。 その時の事が忘れられず、今だにあの頃を追いかけている自分を書き記したのが「路線の思い出」ですね。
鉄道も当たり前ですが人間の社会活動の中の一要素ゆえに、時代の要請に合わせて変化していきます。頭では分かっていますが、しかし、再びローカル線の廃線ラッシュが訪れそうなことに、気持ちは沈むばかりです。
私も現役だった時代そのものを知りませんが、こちらの根北線をはじめとして、国鉄のローカル線が纏めて整理された時期は複数回あったと思います。その度ごとに反対運動が盛り上がったり、諦めが漂ったりしたと思いますが、いずれも空虚なものだったのではないかと思います。鉄道を必要としていないと見える人々が急に騒ぎ始める訳ですから…
その喧騒を経て、運良く少しの遺構が残ったとき、人間臭さも存分に含んで、その時代からは既に切り離された“孤高の”魅力を持つのではないかと思っています。
私もいつか、この場所には行ってみたいのですが、それ以前に、今は現役の各路線──決して廃止されることはないだろうと思っていた骨格を形成している路線まで──さえ危ないと思うと、悲しくなります。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/