風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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第175回  鹿島槍ヶ岳・残雪期 その1

『日本百景』 春  第175回  鹿島槍ヶ岳・残雪期 その1  〔長野県・富山県〕


ようやくガスが晴れて
頂が薄っすらと

さて、今回は春山を目指そう。 もちろん、何の訓練も無しに・・。 あるのは、もうとっくに使い果たして欠片もない、かつての遺産である10年前にあった体力の妄想だけである。

こんな事をしていてはいつか天罰が下るのが常道なのであろうが、ワテには類希なる悪運とゴ▲×リなみの生命力、そして天下御免の鉄面皮と、宇宙を駆けるレベルの『都合の悪い事は即座に忘れる鋭い忘却力』があるので、いつも何とかなっているのである。


鹿島槍ヶ岳・南尾根
爺ヶ岳までの冬道ルート行程図

  行程記録  本文の行程表と照らし合わせると、同じ人間のなせる業とは到底思えないね・・
《1日目》 扇沢駅(0:15)→柏原新道・登山口(1:00)→南尾根分岐(3:00)→尾根上
     (2:45)→ジャンクションピーク(1:30)→爺ヶ岳(2:30)→冷池山荘
《2日目》 冷池山荘(1:00)→布引山(0:55)→鹿島槍ヶ岳・南峰(0:50)→布引山
     (1:00)→冷池山荘
《3日目》 冷池山荘(2:00)→爺ヶ岳(1:20)→ジャンクションピーク(2:00)→尾根上
     (3:00)→柏原新道・八ヶ見ベンチ(0:40)→柏原新道・登山口(0:15)→扇沢駅


  《アプローチ》 夜行ツアーバスで扇沢へ直行
『関越道の夜行ツアーバス事故で7人死亡』事故によって夜行ツアーを主催する旅行会社の安全軽視が問題視されたのか、夜行ツアーの仕立てた夜行バスは安い上に、GWの多客時でも割と空席があるのだ。

でも、『安さ』と『目的地直行』という魅力は捨て難い。 この事故を取り上げての批判に終始するブログなどでは、「僅かばかりの安さを取りますか? 命を含めた安全を取りますか?」と記すモノもあったけど、今までのワテの行動を鑑みると、『金を払って安全を買う』に挙手する事はできないなぁ。
これに挙手してしまうと、今までの生き様の全否定につながるかもしれんから

従ってここは、『安い費用で、事故があっても何が何でも生き残る』にシフトするとしようか。
ちなみに、コレって今回の行動のフラグなのでないかい?


ロクに訓練も下調べもしない“ロクデナシ”が
こんなとこにやってくる
自体が『死亡フラグ』だぁね

今回のバスであるが、難波のO-キャットから新大阪までつなぎのバスに乗り、新大阪でそれぞれの行先のツアーバスに乗り換えるスケジュールであった。 関越道の事故を気にしてか、つなぎのバスの発車と到着時に、「今回のツアーはアルピコグループ(上高地周辺を牛耳る観光業者)所属の乗務員で運行しますので御安心下さい」と連呼していた。 でも、乗車したバスが、アルピコと遠く離れた兵庫の神姫バスだったのはどういう訳だろう?

まぁ、「ツアーだと安全の意識が薄いので事故の確率が上がる」とはいうものの、そんな連チャンで『宝(閻魔)くじ』が当たるハズもなく、つづがなく翌朝を迎える。 ただ一つ、新大阪出発時の遅れ30分が、4倍の2時間となっている事を除いては・・。 そして、この2時間の遅れが、今回のオチャメの引き金となったのは藪の中に。 ・・という訳で、朝の5時半頃の到着予定が、2時間遅れの7時半に扇沢駅に着く。 空はポツポツの雨だった。

  《1日目》 『死亡フラグ』を凌駕した『ゴ△ブ×なみの生命力』
扇沢に着いたのは7:30過ぎ。 山の道中では、特に雪山では『大』のキジ打ちはそれこそ命賭けになるので、扇沢駅のウォシュレットトイレで天国の心地を味わって済ますのが常道だ。 
そして、朝飯も『パワーを得るには消化のいい米飯食』という事で、奮発して朝定食(800円ナリ)を食う。

こうして、何だかんだしている内に8時半になっていた。 ちょっと山に登るには遅すぎる時間だ。
ここらへんにも、本文で言っている事と真逆を平然と行う『ロクデナシ』なワテの本性が垣間見えるのである。

さて、唯一いい事としては、今日は大雨の予報であったが、何故かポツポツ振りから幾分回復傾向のようであった。 そして、予報では明日は『快晴』との事である。 だが、登山口の指導員の兄さんは、「明日も天候は悪いですから」と言っていた。 これは、明日を『快晴』と信じて疑わぬ純粋無垢(厚顔無恥)なワテにとっては、慰ぶがる言葉であった。 従って、当然スルーである。 
まぁ、こういう性格がオチャメを呼び込むのだな・・ってつくづく思う。

さて、柏原新道の登山口で登山届を提出するが、その時に指導員の兄さんに「予定では鹿島槍往復と行ければ針ノ木まで」、「無理なら大人しく鹿島槍の往復ですわ」とアホ丸出しの希望を述べる。
たぶん、この兄さんは心の中で腹を抱えて笑っていたか、「コイツ、ほんまもん(なぜ関西弁!?)のアホや」と呆れ返っていた事だろうと思う。


こんなの筆者(ロクデナシ)に
行けるわけねぇよな

普通に考えてもルートが冬道に変わっている時点で、針ノ木方面はクライマーの領域なのである
そしてこの事から、この大タワケ(筆者)は、「鹿島槍へのルートは、5月は冬道になる」という事の把握を全くしていなかったという事も露呈したのである。 

要するに、何の下調べも無しに訪れて、ともすれば『種池山荘(雪で埋まっている柏原新道の登頂地点)でビバークだァ~』、『そんで、空身で鹿島槍の往復だァ~』と、元気一杯に脳ミソがお花畑色に膿んでいたのである。 「我ながら、救いようのない性質だなぁ」と痛み入る状況である。

さて、始めは柏原新道の整備された登山道をゆく。 《八ッ見ベンチ》(何でも八ヶ岳の展望所らしい)までは、多少雪が出てくる程度で何の心配もなかったが、そのちょっと上で目ざとい黄色の立て札が現れる地点から、『地獄の一丁目』が始まる。

その黄色い看板には、この様に記されてあった。 「柏原新道は6月中旬まで、ルートが雪に埋まって通行不能です。 種池山荘も営業しておりません。 爺ヶ岳から冷池方面へ行かれる方は、爺ヶ岳南尾根(冬道)を直登して、直接爺ヶ岳の頂上を目指してください」。 「・・・」

これを目にしたワテの心の声「聞いてないよ~」。 これで100%、種池を通って針ノ木へ至る『(脳ミソの膿んだ)夢物語』は終焉を迎えたのであった。 で、その冬道だが、通常は良く整備された柏原新道がある為に人が通らないルートで、それゆえ足場が不明瞭なのだ。 そして、22㎏を担いだ身の上には・・、そして全く訓練もせずに山に登ろうとする大タワケには、『酷』という言葉が相応しい程の急傾斜なのである。

途端に足の出が止まり、ヘタリ込みタイムが多くなる。 たぶん、この積み重ねが今日の到着時間の答えだと思う・・というか、それ以外には考えられないだろう。 時計は見なかったが、「2時間ほど登ったかな?(実は3時間かかってたりして)」と思う頃から、だんだん雪が出始めてきた。
この雪は、帰りに苦しめられる雪であったのだが、登りではそんなに恐怖心はなかったのである。

ファインダーで覗いた時はエグく
感じたけど写真で見ると
案外傾斜が緩いね

そして、森林限界を超えたのか、それとも尾根筋に出たのかは判らないが、猛烈な雪斜面が前面に展開する様になる。 当然、この強烈な雪傾斜を登っていくのだ。 早速、前爪付の10本爪アイゼンを装着して、この傾斜に挑む。

その前に、「500gでも荷重を減らそう」とポカリスエットを入れた行動水を飲む。 ここからは喉が渇けば雪喰えばいいので、水は1リットルもあれば十分だ。 さて、見た目は毛勝山の雪渓なみに見えたこの傾斜も、取り付いてみれば適度に平らな休憩場所があり、また角度も思ったほどにはキツくなく、ズリ落ちそうな場面はほぼなかった。

たまに、「下る時に厳しそうだなぁ~」と思える『伝家の宝刀』を抜く地点(あまりにも安い『伝家の宝刀』である)がある位だ。 だが、実際はこれ以上に『伝家の宝刀』抜きまくり・・だったりして。

・・で、約2時間半位かけて3段ほどの大きな傾斜の塊をこなし、この傾斜の頂点に立つ。
「あぁ、やっと爺ヶ岳の頂上に着いたな」という感慨で、脳ミソをお花畑色に化膿させて。 
だが、その頂点に立つ黄色い立て札は、『ジャンクションピーク・ここより南尾根を下ってください』という“臨時”に立てられた道標であって、爺ヶ岳の頂上標柱ではなかったのである。


爺ヶ岳の頂上にて
「夏道は雪に埋もれて存在しません」
と宣言した立て札

そして左を向くと、針ノ木岳に続く稜線上で雪に埋もれた種池山荘の方が、ここより高い位置にあるでやんの。 そして、見たくない気持ちを満面に浮かべて右を振り返ると、三角錐のお山がデンと腰を据えて鎮座されておられる。 即ち、あの上までは確実に登らねばならないのである。

ジャンクションピークからこの三角錐のお山へ取り付くまでが長かった。 完全に気持ちが萎えてしまったからである。 ・・で、この登りに取り付いた時に時計を見ると、15:25。 「うわぁ・・、もう夕方」。 「これに登るのに1時間、爺ヶ岳から1時間半で、着くのは18時過ぎだなぁ」と胸算用をするが、この胸算用には重要なファクターである『上半身のタダに従って休憩を繰り返す救いようのない意志薄弱なワテの性質』が抜けているのである。

とにかく登らねば始まらないので、テレテレと登る。 ちなみに、ここからは雪が風で吹き飛ばされたようで、ガレガレのガレ場をジグザクに登っていく。 こうなるとアイゼンは邪魔なので、外してザックの天袋にしまって登っていく。 ヘロヘロになりながらも、案外早く15:25に見上げた頂上の丘へ登り着く。

だが、今登り着いた『先程時計を見た取り付き地点から見上げた頂上』は『ニセの頂上』で、更に1.5倍の標高差の三角錐が、『15:25現在で頂上と思っていた頂上丘の上』にデンと乗っかっていた。
この情景を見て、完全にヤル気は沸騰して泡となって蒸発した。


もう17時だ
着くのは確実に暗くなって
しまってからのようだ

もう、50歩登っては石に座り込んで・・を繰り返し、本当の爺ヶ岳の頂上に着いたのは16:50であった。 この時点で30分オーバーである。 その上、その爺ヶ岳の頂上で雷鳥さんがまるまると太ったボディを魅せてのた打ち回っているのを見て、写真タイムを15分程取ってしまって、爺ヶ岳出発は17:10となってしまった。

その貴重な15分でした事

夜が迫るというのに
1枚目でソッポ向かれてつい


良く撮れたねって
喜んでいる場合じゃないって


まるまると太って
飛べない鳥・ドン鳥
オマエは向こうの山を見て何を思うのか


この後転げ落ちるかな~
何て思ったりして
たまに転げ落ちるヤツいるし

「ここから夏のコースタイムの1:10で行ったとしても、18時半だねぇ」、「冬山で夜道かよ~」と、関越道でのバス事故で立った『死亡フラグ』が現実になってしまった。 ここからは、刻一刻と暮れて暗くなっていく空を見ながら、「急いでも夜に着くのは避けられんしィ」、「ヘバッているし、急ぎたくても足が着いてこん!」と、半ばヤケクソになって歩いていく。

爺ヶ岳の本峰の裏に切られたバイパス道は雪がなく、そのままゆく。 もうここまでくれば、22㎏を担ごうが『しんどい』という感覚はなく、ただダレて歩くだけであった。 そして、暑い。
そして「汗に濡れる衣服は余計に身動きが重くなる」と、Tシャツの上にカッパだけになる。

やがて、《冷乗越》への下りとなり、根腐れ雪が出始める。 これの歩きにくい事。 
スボスボハマるし、ズルズル滑る。 そして、一度ハマると足を抜き出すのにエライ手間がかかる。 もう、素手で雪に手をあてがって、這い上がるしかないのだから。 こうして、この文を書いている10日後も癒えない、第二度になりかけの凍傷が出来上がったのである。 この厄介な根腐れ雪のスボスボゾーンこそ、明後日の『X地点』であるのは藪の中に。


オチャメの連続で『死亡フラグ』シーンが
佳境に入っておりまして
ちょっと見栄えのいい写真で
お口直し(誤魔化し)おば・・

この根腐れ雪の地点を越えると、どんよりと暗くなった空の下、谷を挟んで対峙した丘の上に煌々と灯りを照らす山荘が見えてきた。 これが対岸に見えるようになるとアト10分ほどのハズだが、この時点でドヤされる事が確実なほどに、ドップリと暮れて星一つない闇夜となっていた。 ここから、またもや雪がなくなって砂利道となる。 再びアイゼンを外して「もう、ままよ!」と、ジグザグの砂利道を目視(カンテラ出すの面倒臭かったの・・)で下りていく。

すると、『弱り目に祟り目』で、雨霰が降ってきやがった。 でも、濡れて困る服は脱いでいるので、濡れ衣服に体温を取られる事はないし、すごく暑かった。 この辺が下界にて『■キブ△なみの生命力』と云われる所以である。

このジグザクのジャリ道を《冷乗越》まで下りきると、再び根腐れ雪が出てきた。 
またズボズボハマって、凍傷になって痛い指を雪に突っ込むのも嫌だったので、アイゼンを着ける。 そして、「せっかくザックを下ろしたのだから」と、カンテラを出す。 後は、乗越の底から見上げる丘の上に、先程煌々と灯を出していた天国(『死亡フラグ』の天国じゃあないよ)へ向かっての雪の階段を上り詰めるだけだ。


取り敢えず綺麗な写真を見て
心を落ち着けましょう
この後、こっ酷く叱られるのだから


「もう、ここまでくれば、急いでも仕方がない」、「息を整えて、落ち着いて登っていこう」と心に決めて登っていく。 そして、登る事約10分位か、テントが見え出す。 テントが見えた事で、取り合えず『死亡フラグ』は回避する事はできたようだ。 だが、この上で費用をケチるべくテント設営という訳にはいかないし、衣類も中途半端に汗と雪で濡れて、それどころではなくなっている。 もし、強行すれば、テントの中で『死亡フラグ』が立ったかもしれないしィ。

そして、宿泊を決めた天国の館では、『お客の立場』は考慮してもらったものの、案の定こっ酷く注意・警告を受けた。 まぁ、着いた時間が19:30で、標高2400mの稜線を雨霰の闇夜にうろついたのだから致し方あるまい。

そして、この時間では夜食を作る時間もなく(山荘の消灯が20:15の為)、パンをかっ込んでから部屋に入って、20:15に就寝する。 山荘の中は寒い割には毛布2枚と薄い布団のみで、「これはシュラフを出した方が寝れるなぁ」とシュラフを出して寝る。

今日は、ヘバったとはいえ、11時間も22㎏を担いだのだ。 明日はヤル気が出ないだろうなぁ。
そして、明日は小屋内のピエロ(笑いモノ)になりそうな予感が。




鹿島槍への道中は
昨日の苦労がウソのような夏道であった

  《2日目》 鹿島槍の往復だけの安息日
この山荘は、時間観念がまともな所だった。 消灯は20:15と山時間だったなら、起床も4:45と山時間だった。 そしてワテは・・というと、昨日にちょっとオチャメ過ぎたせいか、多少呆けている。
あり丁寧に云えば、「もうチット寝たい」って気持ちである。 だが、ドヤドヤ・パタパタとスリッパ音がこだますると、起きなければならないようになってしまう。 ・・で、5時半に食事を作り始める事に。 この山荘の食事は、5時からみたいだ。 いゃ~、近頃希に見るまともな考えの山荘だねぇ。
こりゃぁ、昨日こっ酷く叱られる訳だわ。

さて食事は、昨日はタイムオーバー過ぎて作れなかった夜飯分を朝に食う事にした。 これは、ちょっとでも食料を消費しなければ帰りがシンドい事と、今日はどうするか決めかねていた(登山口で指導員の兄さんが言ってたが如く、稜線上は天候が荒れる予想であった)から、少しでも時間を浪費するという2面の気持ちがあったからである。

30分かけて飯を作って、食い終えたのが6時半。 その間、悪天とまでは言わないまでも、雪風が吹きすさぶ中を次々と出発していく。 それを見て、こちとらは「もしかして、沈殿なのか?」と心が揺れ動いていた。 まぁ、昨日濡れた衣服を山荘の乾燥室で乾かさない限り、下山は有り得ないのである。
濡れたままこの天候で下山すれば、昨日収まった『死亡フラグ』がまたハタめいてしまう。
となると、『沈殿』しか答えがないのである。

だが、7時を過ぎると山荘は清掃業務に入り、とっても居辛くなる。 そのまま1時間自炊室で沈黙の時を迎える。 清掃業務をしている最中に山荘内部をうろつく訳にもいかないからだ。 
あまりにも空気が重く、堪らずガラス越しに外を見ると、荒天のマックス予想時である8時(山荘で朝5時に天気概況を説明していたが、その時に今日の悪天のマックスは8時から9時と発表していた)に薄っすらと陽が差し込んできているではないか。


鹿島槍ヶ岳・冬道ルート行程図

これを見て、「行ける!」と、カッパと予備の服(登りに着てきた服はまだ生乾きで着れたモノじゃない)とジャンバーを着込んで、鹿島槍の往復に打って出た。 その道中であるが、昨日の爺ヶ岳からのルートが反則に思える程に歩き良かった。
 
雪坂の傾斜はほとんどなく、布引山への登りは完全に夏道であったし、しかも22㎏から開放された空身であったから、かつて・・までは行かないものの、コースタイムをチョコッと切る位なまで歩ける。
まぁ昨日は、『死亡フラグ』立ちまくりだったし。


爺ヶ岳よりコッチの方が
標高が高いハズなんだよね

完全な夏道でヘタレでも
空身ならコースタイムを切っちゃった

布引山を越えると標高は2700mを越えるが、雪は吹き飛ばされるのが全くなくなる。 完全な夏道だ。 この辺りを住処にする雷鳥も、黒主体のゴマちゃん仕様となっていた。 即ち、雷鳥の羽がとっくの前に抜け変わるほどに、早くから雪が少ないみたいである。

夏道のザラ場を緩やかに登っていく。 爺ヶ岳の南尾根のような嫌味もないスッキリとした傾斜を登っていくと、最後に雪の吹き溜まりをよじ登って鹿島槍の頂上に着く。 2890m・・。 
だが、ガスに巻かれて全く眺望はない。 やや登り甲斐に乏しい頂上風景であった。


頂上はガスに巻かれて白霧の世界
ちょっと侘しい

取り合えず、登頂の御褒美に、餡ドーナツとポカリ水を口に含む。 そして、15分ほど粘るが、さすがに吹きっさらしで寒くなったので引き返す。 帰りは、先程のゴマちゃん模様の雷鳥を撮ったり、一瞬霧が晴れた鹿島槍を撮ったりしたので、行きより20分ほどかかって下る。

鹿島槍の往復にかかった時間は、登りで1:50、下りて2:10と、昨日の11時間がフェイクのようなタイムだった。 この往復でもカメラや水で10㎏近く担いでるんだけどね。 僅か12㎏の差で、こんなにもワテの有り様を壊すとは恐れ入るのである。 えっ、まともな人間では有り得ない? ごもっとも!


完全に雪がなく
ドン鳥の羽根も
黒基調のマダラになっていた

さて、8時過ぎに出て、12:30には山荘に戻ってくる。 天気は薄日が射すハナ曇り状態だ。
今日はテントを張って・・とも考えたが、まだ乾燥室の衣服が乾いていないので、奮発して山荘素泊まり連泊とする。 でも、金持ってきて良かったよ。 金持ってきてなかったら、昨日泊まれなかったら『死亡フラグ』乱立だったしィ。 ちなみに、この連泊はマジで『死亡フラグ』の回避となったのである。

山荘では午後4時ごろから天気が崩れるとの予報を出していて、朝の8時から9時は外れたものの、次は当たりっほいみたいなのである。 山荘に戻って、今日鹿島槍往復で着た服も含めて乾燥室に吊るして、後はやる事ないので即効昼寝をかます。 キッチリ3時間近く寝て、起きると4時。

山荘居間のTVでは、衛星放送で日ハム×オリックスをやっていた。 呑気に野球を見ていたが、外は結構ブリっていた(ブリ=ブリザード・・吹雪の事デス)のである。 そして、野球が5時過ぎに終わり、乾燥室のモノも大方乾き、明日の下山には耐えれそうである。 ・・で、5時半頃からメシを作り始め、他の泊り客と談笑の中で夕食を終える。

・・で、ひと息着いた時、『死亡フラグ』が突然ハタめいたのである。 それも、散々フザけた行為に終始した昨日の筆者でなく、別の人の頭上に・・。 5時過ぎに「ブリった中で動けない」との連絡が入ったのを最後に1名が消息不明となったとの事。 山荘では「付近を捜索したが見つからない」、「明日下山途中で見かけたら、御一報下さい」との告知であった。

山荘でこの告知があったのが7時半過ぎ。 『死亡フラグ』の告知があろうがなかろうが消灯は20:15は変わらない。 ちなみに、山荘によると明日も天気は悪いらしい。 また、今日と同じく、午前8時から9時が悪天のピークらしい。 まぁ、明日は下山の人も多いだろうから、途中までくっついて降りればいい。 登ったものは、下りなければケリが着かないし。


今日は槍・穂高を見ながら
キツい尾根筋を降りていく

 続き《3日目》は、次回の『第176回 鹿島槍ヶ岳・残雪期 その2』にて・・

   ※ 詳細は、『撮影旅行記集』の『オチャメな・・鹿島槍・冬道顛末記』を御覧下さい。





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