2015-01-11 (Sun)✎
路線の思い出 第81回 天北線・松音知駅 〔北海道〕
松音知駅舎
地元郵便局から購入依頼がきた“さよなら天北線”タトウより
こんなのくるのは、もしかして当時のワテって有名人!?
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83) 廃止年月日 転換処置
音威子府~南稚内 148.9km 418 / 884 ’89/ 5/ 1 宗谷バス
廃止時運行本数
音威子府~稚内 下り7本・上り6本(内 急行1往復)
音威子府~浜頓別 1往復
声問~稚内 1往復《休日運休》
曲淵~稚内 上り1本
松音知駅(まつねしりえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡中頓別町字松音知に存在したJR北海道・天北線の駅である。 天北線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。
廃止時点で1面1線の単式ホームを有する駅で、ホームは線路の北西側(南稚内方面に向かって左手側)に存在した。 分岐器を持たない棒線駅となっていた。 かつては、2面2線の相対式ホームを有する列車交換可能な交換駅であった。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北西側に位置し、ホームに接していた。 構内は周囲より高台に位置していたため駅舎は高床式になっており、駅前広場から駅舎出入口までは木の階段が設置されていた。
駅名の由来は当駅が所在していた地名からで、地名はアイヌ語の『マツ・ネ・シリ』(女の山)に由来する。 附近に二つの目立つ山があり、それぞれ『マツ・ネ・シリ』、『ピン・ネ・シリ』(男の山)と呼ばれていた。
路線廃止後は地元住民曰く『個人の別荘』となっており、駅舎・ホーム・レール・腕木式信号機が残され、ほぼ現役当時の姿を保っていた。 旧天北線の駅舎では唯一、現存する駅舎であった。
2011年時点でも同様であったが、地元の人々による保存で駅舎は模擬展示との事である。
開口部は模造で、駅舎内に立ち入る事は不可能となっている。 現在の所有者は敷地内立ち入りおよび撮影禁止を表明しているが、この所有者という者の胡散臭さは満開である。
今回の思い出の駅は、最も過酷な体験をした駅である。 しかも、その過酷な目に遭うのは必然的でなく、当時の筆者(タワケ)の間抜けぶりから来たものである。 この体験を経た事で、例の『4人衆』の周回遅れの末席に加えられる程になったのであるが。 でも、『4人衆』の上位3名様はどこにいったのでしょうか? あの時は、北海道・冬のSTB(ステーション・ベット)界のカリスマとも言える御三方だったのだが・・。 ネットに、彼らの足跡が皆無だよ。
この駅には2回訪れていて、国鉄時代に訪れた時は駅に石炭ストーブがあり、駅舎の隅に黒ダイヤ(石炭)がバスケットにてんこ盛りに盛られていた。 そして、ライターさえ持っていれば、石炭を自分でストーブに放り込んで、トイレットペーパーなどを千切って点火する事ができたのだ。
松音知へのファーストアプローチの時に撮った駄作
キハ22である事が唯一の救い
そしてその石炭ストーブの能力の凄ましい事・・、お陰で真冬でも駅舎を締めきればダウンジャケット要らずだったよ。 この時はまだSTBには目覚めておらず、付近で駄作を撮影後に稚内へ引き上げて、夜行の急行【利尻】のリバース(士別駅で夜行の上下が交換するので、札幌行から稚内行に乗り換える)をして、連日道北のローカル線の撮影(ここでは興浜北線ですね)に当てていた。 まぁ、この時は高校1年だったので、過激なSTBはまだ無理でしたな。
バックにピンネシリ岳を入れる等
努力はしていたようである
・・で、この駅での『思い出』となるのは、JRになってからの2度目の訪問である。 この2回目も駄作しか撮れず、しかもキメ写真は思いっきり手ブレて掲載不可能・・という体たらくだった。
何か、天北線の山線区間は、ワテの写真にとっては鬼門のようである。 まぁ、まともなのが1枚もないですわ。
その 駄作 その1 でっす
駄作過ぎてどの区間で撮ったか忘れたよ
それと同じく、そろそろに興味を抱いていた『乗降場めぐり』もしていたので、上下列車を使って《周麿》や《恵野》、《常盤》などの乗降場の『乗ったで、降りたで』をしていたのである。 この時に《新弥生》から《周麿》へ、《周麿》から乗り《常盤》で降りる『乗降場リバース』の一芸をかまして、車掌にその面を覚えられたみたいだ。 これが、ワテが例の『4人組』の末席に加えられた『伝説』の始まりだったかも。
まぁ、今のように『駅降り鉄』というカテゴリーが形成されて無かった為、こういう利用は絶対に有り得ないし、それ故に乗務員の印象度は抜群なのである。 でも、これをすると、1日の運行本数が6往復と少ないが故に、あっという間に日が暮れてくるのである。
続いて 駄作 その2 でっす
3枚目のフィニッシュは思いっきり手ブレて
異様な物体に変化していますた
でも、乗降場は掘立小屋系の待合室があればいい方で、大概は吹きっさらしで、しかも当時はまだコンビニとかの便利な店もなく、なおかつ乗降場の周囲は基本的に民家など皆無の雪に埋もれた『無人荒野』なのである。
従って日が暮れると、持ってきた炊事用具を駅舎のある無人駅で広げて自炊しなければならなかったのである。 まぁ、大きな駅のキオスクで食糧を買い込むって手もあるが、それでは育ち盛り(でも、相当なロクデナシに育っちまったよ)の筆者(タワケ)の胃を満足させるには至らなかったのである。
まぁ、その時の山のザックで自炊用具一式を担いだその姿から、『4人衆』の中では「青ザックの奴」と呼ばれていたそうである。
・・で、自炊用具を広げて自炊をすべく、行動区間の最寄りの駅舎のあった無人駅・松音知に降り立つ。 この時は前に降りた記憶から、「この駅は石炭ストーブがあるしィ」とのお花畑が頭の中で満開だったのは藪の中に。
天北線の乗降場の駅名標は
一般駅と同じだったみたい
で・・、松音知に降り着いたのは20時前。 乗降場のリバースでかなり時間を食ってしまった為に到着が遅くなったのである。 でも、この後の行動としては、駅で自炊して飯食って最終23時の音威子府行に乗って音威子府から札幌行の夜行急行に乗り継げはいいのである。
「まぁ、3時間の時間があるし、ストーブもあるし、楽勝!」と、極寒の駅ホームより松音知の駅舎に入場する。 ・・「ストーブがない(汗)」。 そう、JRに変わってから経費削減の為だろうか、撤去されていたのである。
新弥生も降りてたみたい
しかも、極寒の地を徘徊(乗降場リバース)していたので、飯を炊く為に使うべくもっていたポリタンの飲料水はザックの中でカチコチに凍っていたのであった。 途端に旗色が悪くなってきたのである。
ここで飯を食うのを諦めるのが安全策なのだが、筆者(タワケ)は「十分時間がある」という事で、駅外から雪を掻き集めてコンロで解かして水を作る事を試みたのである。
でも、雪っつうのは、ナベ一杯の雪を解かしてもヤクルト1本分位の水にしかならないのである。
従って、水を作るだけで1時間の時間がかかってしまったよ。 今思えば、コンロの燃料ボンベを2つ持ってきていたのはラッキーだったと思う。
そして飯を作るのに40分、食うのに15分程で、何とか22時過ぎには食器の後片付けの段階にこぎ着ける事ができたのである。 だが、ここで新たなる問題が発生した。 食器に溜めていた水が、飯を食っている間という短時間にバリバリに凍っていたのである。 ちなみに、この日の外気温は氷点下26℃、駅舎内は氷点下21℃だったりして。
これで、この凍った食器の水を解かして捨てなければ片付ける事が不能の事態に陥ってしまったのである。 残り時間は、あと50分足らず。 でも、なかなか解けてはくれず(直接食器を火にかけると破裂するかもしれないし)、その内に駅舎の外で「ガラガラガラガラ(エンジンのアイドル音)」、「プシュー・ドン(扉の開閉音・・、キハ40だったみたい)」、「グガガガガ・・ブオーン(ディーゼルの発進音)」の三段変化の音色が鳴り響いて、程なくシ~ンと静まりかえった。
『乗降場リバース』
無計画にこんな事するから松音知で
最終列車の三段変化の音色を聴くハメとなる
これで、この駅でのSTBが確定したのだった。 取り敢えず凍った食器の水を解かして、片づけて駅寝の準備をする。 この時はまだシュラフのみで、テントはなかったし。 ・・で、シュラフを長椅子に広げて寝に入るが、万力で挟まれたが如く猛烈に足が痛い。
寒さに足の爪先が悴んでしまったのだろう。
この足の痛みに慣れた頃、駅の電燈が切られて真っ黒ら闇となる。 この状況に、シュラフから顔を出して「フゥ~」と溜息を着く。 すると、その溜息がダイヤモンドダストとなって顔に降り注いできたよ。
この地で、溜息のダイヤモンドダストを浴びる奇跡を体験したのである。
この状況で翌朝5:27発の興浜北線・北見枝幸行併結の始発列車の発車時刻の20分前まで寝れる神経が、ゴ○ブリ並の生命力の所以である。 下手すりゃそのまま眠りに着く危険性もあり、普通の人なら絶対にこんな事はしないはずなのであるが、それを敢えてこなすのが基地外たる所以であろう。
でも、始発列車の車内で、鉄共がよく効いた暖房の中で薄着で寝息を立てていたのを目にして、少し殺意が湧いたよ(笑)。
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