2015-01-04 (Sun)✎
路線の思い出 第79回 深名線・北母子里駅 〔北海道〕
かつては小吹雪の中で3時間待つ“情熱”があった
“情熱”と“バカ”は紙一重
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
深川~名寄 121.8km 168 / 3157
廃止年月日 転換処置
’95/ 9/ 4 名士バス
廃止時運行本数
深川~名寄 1往復(車両は直通・列車番号は朱鞠内で変わる)
深川~朱鞠内 下り3本・上り2本
深川~幌加内 下り1本・上り2本
朱鞠内~名寄 2往復
北母子里駅(きたもしりえき)は、かつて北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字母子里にあったJR北海道・深名線の駅である。 深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。
廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する駅であった。 ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側で旧上り線)に存在した。 その他に深川方から駅舎側に分岐し、駅舎東側の旧貨物ホームへの行き止まりの側線を1線有していた。
かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅で、駅舎側(北側)が下り線、外側(南側)が上り線となっていた。 使われなくなった駅舎側の1線(下り線)は、交換設備運用廃止後は撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。 1992年度の1日の乗降客数は24人との事。
無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北側に位置し、構内踏切で側線及び旧下り線跡を渡りホーム西側とを結ぶ通路で連絡した。 当駅所在地は1978年(昭和53年)2月に氷点下41.2度という戦後の公式日本最低気温を記録したことで有名であり、真冬は氷点下30度以下になる事も多かったが、当駅設置の温度計は氷点下30度までしか計測出来ない物であった。
その後同年3月に国鉄総裁の高木文雄が当駅を訪れた際にその話を聞き、後日氷点下60度まで計れる寒暖計を特注して当駅と朱鞠内駅に贈呈している。 当駅待合室に駅ノートがあり、耐寒体験に訪れた人々の思い出が記されていたとの事である。
駅名の由来は当駅の所在する地名『母子里』からで、根室本線に同音の茂尻駅(もしり)が既に存在したため『北』を冠した。 その地名は、アイヌ語の「モシリウンナイ(mosir-un-nay)」(島・がある・川)の前半部分に由来する。
当地は北海道大学農学部雨竜演習林のモシリウンナイ事業区に属し、1928年に演習林が植民地区画を行って『茂知』植民地と名付けた。 その後最初の植民が行われ、その中の若い家族に子供が生まれた事から、当地の看守所職員がこれを記念して植民地名を『母子里』と改名し、1930年の村議会で正式な地区名となったとの事。
廃駅後しばらく駅舎が残っていたが1998年に解体され、跡地はNTTの携帯電話中継の基地局となった。 また、プラットホームは2000年時点では残存している。 2011年時点でも同様で、ルポルタージュによると生い茂る雑草に埋もれていたという。
今回取り上げるこの駅は、氷点下41.2℃という我が国最低気温を記録した地にある駅である。
そして、その頃にローカル線撮影に熱を上げていた小僧の頃の筆者(タワケ)は、こういった変な『日本一』の制覇にも力を入れていた。 そう、この『日本一極寒』な区間での撮影を目論んだのである。
それも厳冬期を狙って・・である。 要するにこの筆者(タワケ)は、困難な撮影をする事で自慢の種を作っていた小物だったようである。
冬の北母子里駅
※ グーグル画像より拝借
なぜなら、この路線は1日に運行が僅か3往復で、車でもなければ駅かその周辺でなければ不可能とも思われる条件なのだ。 そして冬となれば、道はほとんど冬季閉鎖となり、車も使えないに等しいし、この頃のワテは車の免許も持たぬ小僧だったのである。
その小僧が、極寒の地の最も極寒な時に駅間を3kmも歩いて、なおかつ3時間も費やすという『3フィーバー』を目論んだのである。 でも、この『3フィーバー』って、書いてて心底アホだと思えるのは何故!?(涙)
まぁ、この時の筆者(タワケ)には、『北海道で冬の駅寝をしながら撮り鉄する(トンデモ)四人衆』の末席に加えられる程の体力があり、それのみを武器に突っ込んでいたのである。
北母子里駅舎
※ グーグル画像より拝借
:
廃止直前は交換設備が外されていたとはいえ
名寄~朱鞠内区間では最大の駅だった
3往復の運行で撮影するなら、上下2番列車の往復となる。 そして、この2番列車を撮るには、1番列車で北母子里に着いて、長時間待機する必要がある。 朝の列車が北母子里に着いてから撮影を目論む2番列車が往復する時間帯までは、駅で持ち込んだマンガなどで時間を潰す。 それでもヒマとなり、3時間前には手持無沙汰となり駅を出る。 もう、ヒマ潰しも兼ねて、隣の冬季閉鎖の秘境駅・白樺まで歩くつもりでいたのである。
歩く所は、1日3往復で貨物の運行も遠の昔に廃止された路線の線路である。
まぁ、ここが一番雪が無くて歩き易いのである(でも、良い子はマネしないよう)。
そして、撮影適地と思えたなら、線路より出て脇の土手にラッセルで向かうのである。
でも、これのキツい事。 それは、線路の周囲は線路から除雪された雪の吹き溜まりで、路盤の外に出ると全身で雪の中を泳ぐようなラッセル行軍を強いられるからだ。 コレは若くなけりゃ、たぶん無理だよ。
上り列車撮影時はまだ晴れていたが
歩き始めは天気も良かったが、朱鞠内行の上り列車を撮り終えた位から天気が怪しくなってきた。
そして、白樺に向けて奥に入れば入る程に雪が強くなり、やがて小吹雪状態となる。
この小吹雪状態で、さすがに白樺まで行くのは断念する。 そして小吹雪の直撃を避ける為、木々が密集し天然の鉄道防風林となった所で待機する。 ここで折り返しの列車が来るまで、約1時間待ったよ。
ここでの撮影行で、憶えた言葉が一つあった。 それは、「情熱とバカは紙一重」という言葉だ。
でも、それだけバカになれる程に情熱を傾けれたから、自らが思う『深名線』の情景を撮る事ができたのだと思う。
名寄行の折り返し列車を撮ってから帰路に着くが、多少小止みになったとはいえ雪と風が吹き付ける中の猛烈な帰路であった。 駅に戻って駅据え付けのストーブに当たって、その熱気に涙が出たのを憶えている。
・・時が経って、廃止された17年後の冬に車でこの地に立ち寄ったのだが、深名線の白樺へ向かう道道は除雪放棄扱いとなって、道の入口となる交差点から雪の壁となっていた。 つまり、交差点ごと道が消滅していたのである。 除雪してあるのは美深峠を通る国道275号線と、深名線を廃止に追いやった『名母道路』と呼ばれる名寄への道のみである。
でも、それとて完全なアイスバーン路で、この時は275号の美深峠を通ったが、これほどコチコチに凍ると、スタッドレスタイヤも効かないみたいですね。 ブレーキは効かずにズル滑りで、泊まるにはセカンドから普段は使う事のほとんどないローギアを駆使してインバーター駆動で止まるしか手がないのである。
北母子里にて『安全パイ』を撮る
吹雪の中で半日うろつけた
あの頃は若かった
この忙しい変速作業を強いられる事で、形は違えど撮り鉄をしていたあの時の雪中行軍を思い出したよ。 そう、雪中行軍から戻って、帰りの列車に乗る時に『安全パイ』として駅撮りを欲した事を。
まぁ、手応えはあったのだが、アレ程のキツイ行軍で『まさかの戦果ナシ』は避けたいと思う打算的な心が湧き出た事を思い出したよ。
放置された添牛内駅舎跡
あの頃を思い返して思い入れ深く撮ったよ
それを思い出して、この時は旧深名線の遺構をめぐり、あの時を思い出しながら札幌方面に向かったのを憶えている。
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No title * by 宮越とまと
こんばんは。
記事、大変興味深く拝読させていただきました。素晴らしいですね。また、本内容のような記事を楽しみにさせていただきます。
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No title * by 風来梨
殿下・・、丸鉄ネタへの御来訪痛み入りまする。
実際、白樺・蕗ノ台は原野でしたからなぁ。
ワテは、白樺で無人廃村の残骸を目にしてるし。
それを目にして、ビビって北母子里まで線路を歩いて撤退したし。←携帯発信なので何回目か検索不能ですが、白樺駅の回で語っておりますゆえ、宜しければ御読の程を。
実際、白樺・蕗ノ台は原野でしたからなぁ。
ワテは、白樺で無人廃村の残骸を目にしてるし。
それを目にして、ビビって北母子里まで線路を歩いて撤退したし。←携帯発信なので何回目か検索不能ですが、白樺駅の回で語っておりますゆえ、宜しければ御読の程を。
No title * by 風来梨
宮越とまとさん、こんばんは。 見て頂いて有難うございます。
廃止路線があった10台から20台は、こんなハチャメチャな事をしてましたね。 若く勢いがあったからできた事です。
今はその頃を思い返して、面白ろ可笑しく記事にしていけたらいいなって思ってます。
廃止路線があった10台から20台は、こんなハチャメチャな事をしてましたね。 若く勢いがあったからできた事です。
今はその頃を思い返して、面白ろ可笑しく記事にしていけたらいいなって思ってます。
No title * by 散位 アナリスト杢兵衛
なんかロマンですね。
No title * by 風来梨
アナリスト杢兵衛さん、こんばんは。
若き時のハチャメチャですが、今は大切な思い出という宝物になってます。
若き時のハチャメチャですが、今は大切な思い出という宝物になってます。
冬ですからその心配はなかったでしょうが、何やら自然そのものの威圧感を感じさせた鉄道路線など道内でも深名線だけでした。写真からもそんな開拓路線的な雰囲気が伝わってきますね。