風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出  第78回  宗谷本線・塩狩駅・智東駅

路線の思い出  第78回  宗谷本線・塩狩駅・智東駅  〔北海道〕
 

塩狩峠で撮ったもののあまりパッとせんなぁ
まぁ、キハ22だから許そう
 
《路線データ》
    営業区間と営業キロ            輸送密度 / 営業係数(’15)  
   旭川~稚内 259.4km             746  /  489         
運行本数〔名寄~音威子府〕(’18)
名寄~音威子府 特急 3往復、普通 下り4本、上り5本

塩狩駅(しおかりえき)は、北海道上川郡和寒町字塩狩にあるJR北海道・宗谷本線の駅である。
相対式ホーム型がずれた形の千鳥式ホーム2面2線を有する列車交換可能な駅で、相対式のホームは構内踏切で結ばれている。 現在は永山駅管理の無人駅であるが、木造駅舎は残されている。 2018年の乗降調査による1日の平均乗降客数は1名以下との事。

以前は駅舎側本線の旭川側のみ片開分岐であったが、現在は高速化にあわせて稚内側も片開分岐に敷き直され(旭川側の片開分岐も駅舎側ホームの位置に設置場所を変更)、駅舎側本線が一線スルー状になっている。 また、かつては上下線の中央に待避線が1本あったが、無人化に伴い撤去されている。

1909年2月28日、名寄駅発旭川駅行きの最終急行列車が塩狩峠の頂上付近に差し掛かった時、連結器が外れて最後尾の客車が単独で上り勾配を逆行・逸走する列車分離事故が発生した。 乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)・旭川鉄道運輸事務所庶務主任の長野政雄が、デッキ上のハンドブレーキを操作して暴走する客車の停止を試みるもデッキから転落し、床下に巻き込まれ殉職した。 しばらく走行したあと客車は停止し、乗客にけが人や犠牲者はなかった。

後に三浦綾子によってこの話を元にした小説『塩狩峠』が発表され、映画化もされた。
作品中では主人公・永野信夫が暴走する客車を停止させる最後の手段として、みずからの体を車輪の歯止めにするべくデッキから車両の前に飛び込んで殉職しているが、実際の事故では当事者死亡につき、顛末の詳細は不明である。 事故当時は塩狩駅は開業していなかったが、長野政雄の顕彰碑と塩狩峠記念館・文学碑が立てられている。

智東駅(ちとうえき)は、かつて北海道名寄市字智恵文智東にあったJR北海道・宗谷本線の駅である。
利用者僅少に伴い、2006年3月18日に廃駅となった。 1992年度の1日乗降客数は0人(1人以下)との事である。

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅であった。 ホームは線路の南西側(稚内方面に向かって左手側、旧2番線)に存在した。 無人駅で分岐器を持たない棒線駅となっていたが、かつてはホームが千鳥式に配置された相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。

かつてあった駅舎は構内の北西側に位置しホーム北側に接していて、互いのホームは駅舎側ホーム南東側と対向ホーム北西側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側(北側)が上りの1番線、対向側(南側)が下りの2番線となっていた。

その有人駅時代からの駅舎は1986年11月のCTC化による交換設備廃止と駅の無人化を機に取り壊されて、車掌車を改造した貨車駅舎が設置されたが、その設置場所は旧駅舎の基礎の上ではなく、下りホームである旧2番線側に位置変更となった。 交換設備運用廃止後は、線路は側線を含め1993年3月までには撤去された。

そのほか1983年4月時点では1番線の旭川方から分岐し駅舎南側の貨物ホームへ至る貨物積卸し用の側線を1線と、2番線稚内方から2番線ホーム手前への側線を1線有していた。
また安全側線を上下各1線有していた。 

駅名は当駅の所在する地名からで、駅開業当時のこの辺りの地名は《智恵文村》と呼称されており、その東端に位置する事から「智東」と名付けた事に由来する。 かつて、林業が盛んであった頃には近隣山林から切り出した木材の積み出し駅であったが、林業の斜陽化と共に居住者は全て流失して周囲は原野に還り、いわゆる秘境駅のひとつに数えられていた。

周囲には民家が無く駅周辺の道路が除雪されない為、1987年から冬季は全列車が通過し閉鎖される臨時駅となっていた。 廃止直前には、営業期間中でも普通列車が2往復(下りは午後の2本、上りは朝夕1本ずつ)しか停車しなかった。



今回の路線の思い出は、あまり記憶になく「こんな所でも撮ってたのね・・」って駅を挙げようと思う。
それは、宗谷本線の塩狩駅だ。 これを撮った時は美幸線や興浜南線・北線など、第一次の廃止線が廃止された翌年、即ち廃止線を追いかけるのにそれほど切迫していなかった年の1986年だったろう・・と思う。
 

現在の塩狩駅
※ グーグル画像より拝借
 
まぁ、1983年から長大4線を最後に、廃止線がほぼ全て廃止転換された1989年あたりまで、毎年冬の北海道へ『○鉄』しに行っていたのである。 そして、最後の方は『北海道・冬の駅寝撮り鉄(キチガイ)四人衆』の末席に加えられていたみたいだしぃ・・。 でも、前3人との根性や熱意の差は、周回遅れ以上のモノがあったけど。 ネットでこのヒト達の痕跡は見つけられないが、彼らは何処!?
弟子を引き連れるなど、結構カリスマ性のあったヒト達だったのだけれど。 
 
廃止線が片付いたそれ以降は山にシフトを変えて、これまた夏に毎年の如く行ってたし。
書いてる自分自身で思うが、この筆者の人生設計はスチャラカだねぇ。
 

昔も今も筆者は
鉄道写真は車両はさりげなく・・の構図です
 
上述のように北海道の寒さに関しては、当時の筆者(タワケ)は冬の駅寝も厭わない『(キチガイ)4人衆の末席』に加えられるほどの猛者だったが、車はなく機動力は鉄道頼りのゼロの状態だった。
まぁ、このように機動力がゼロで、一日数本の運行しかない過酷な廃止ローカル線撮影を欲するなら、それが『冬』という季節なら、駅寝も駆使せねばカメラに収める事が不可能だったと思うし。
 
話は反れてしまったが、この塩狩で撮った記憶が薄いのは、たぶんその過酷な廃止ローカル線撮影のインターバルとして撮ったに過ぎないからだと思う。 やはり、過激な事をすると頭に記憶がこびりつくのだが、何事もなく比較的『安全牌』な撮影行動だったとすれば、記憶に残らないというのも頷ける。
 
その薄れた記憶力を記した旅ノートから辿っていくと、この撮影に向かう前の事だったか・・、時間潰しの為に今は無き『伝説の駅』・智東まで行った事になってるよ。 あり丁寧に言えば、朝の早くに塩狩に着いてもヒマなだけなので、急行【天北】の通過時刻まで長い間を潰すべく智東まで往復していたようだ。
 

客車急行だった【天北】
これが撮りたいが為にこの地にやってきたみたい
 
当時の智東は駅舎もあり、運転要員も配置された『正駅』であったが、悲しいかな・・この時の筆者(タワケ)は駅に対する想いに目覚めておらず、もったいない事に『降りたで』『乗ったで』をしたのみで足跡は一切撮ってなかったよ。 もし智東の駅舎を撮っていたら、さぞかし閲覧数が増えただろうね、ワテのブログとホームページは・・。
 

智東駅駅舎
筆者の愛読書『北海道690駅』・著 宮脇俊三、原田勝正 より
塩狩駅に似ていて暖房用灯油タンクがデカかった
 
さて、塩狩駅は・・というと、写真以外の記憶がない。 なので、掲載写真に代えたいと思うので悪しからず。
 

塩狩駅にて
駅が寂れているのでキハ22が良く似合う
 
 
     ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『宗谷本線』を御覧下さい。
 
 
 
 
 
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No title * by 越後「写・楽」
「塩狩駅」の近く塩狩峠は
小説を読んだのか映画を見たのかの記憶が定かでは有りませんが
印象に残っています
昭和50年頃に訪ねたはずなのですがそれも全く記憶がありません
ですが今回の紹介で久し振りで思い起こすことが出来ました

No title * by 風来梨
越後「写・楽」さん、こんばんは。

塩狩峠の物語は、命を賭して鉄道事故から乗客を守った鉄道マンの実話を三浦綾子さんが小説にしたものですね。

塩狩の駅には、その鉄道マンの偉業を讃える石碑があります。

でも、当時の私は鉄道撮影以外は頭になく、素通りでした。 残念。

No title * by 風旅記
こんにちは。
今日も楽しく拝見させて頂きました。
きちんとした装備があってのこととは思いますが、それでも冬の北海道でのステーションビバーク、寒くて縮みあがりそうです。
塩狩峠を走るキハ22、さぞかしゆっくりと走っていたのではないでしょうか。
非力な上に積雪でさらに力を削がれ、冬にどのような状態だったのか、想像してみたくなります。
塩狩駅は車窓に眺めただけですが、いつか降りてみたいと思っていました。今の趨勢ですと、駅が廃止されてしまう方が早いかもしれません。残念なことです。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

No title * by 風来梨
風旅記さん、こんばんは。

>キハ22 さぞかしゆっくり・・
意外や意外、車体重量と出力を比較すると、キハ40よりキハ22の方が上なのですね。 結構キリキリと走ってましたよ。 まぁ、キハ54のツーエンジンとは比べるぺくもないですけど。

もう、JR北海道には在来線を維持する能力はないみたいですね。 救う方法は、再国有化しかないようですね。

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「塩狩駅」の近く塩狩峠は
小説を読んだのか映画を見たのかの記憶が定かでは有りませんが
印象に残っています
昭和50年頃に訪ねたはずなのですがそれも全く記憶がありません
ですが今回の紹介で久し振りで思い起こすことが出来ました
2014-12-27 * 越後「写・楽」 [ 編集 ]

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越後「写・楽」さん、こんばんは。

塩狩峠の物語は、命を賭して鉄道事故から乗客を守った鉄道マンの実話を三浦綾子さんが小説にしたものですね。

塩狩の駅には、その鉄道マンの偉業を讃える石碑があります。

でも、当時の私は鉄道撮影以外は頭になく、素通りでした。 残念。
2014-12-27 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんにちは。
今日も楽しく拝見させて頂きました。
きちんとした装備があってのこととは思いますが、それでも冬の北海道でのステーションビバーク、寒くて縮みあがりそうです。
塩狩峠を走るキハ22、さぞかしゆっくりと走っていたのではないでしょうか。
非力な上に積雪でさらに力を削がれ、冬にどのような状態だったのか、想像してみたくなります。
塩狩駅は車窓に眺めただけですが、いつか降りてみたいと思っていました。今の趨勢ですと、駅が廃止されてしまう方が早いかもしれません。残念なことです。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
2017-01-16 * 風旅記 [ 編集 ]

No title

風旅記さん、こんばんは。

>キハ22 さぞかしゆっくり・・
意外や意外、車体重量と出力を比較すると、キハ40よりキハ22の方が上なのですね。 結構キリキリと走ってましたよ。 まぁ、キハ54のツーエンジンとは比べるぺくもないですけど。

もう、JR北海道には在来線を維持する能力はないみたいですね。 救う方法は、再国有化しかないようですね。
2017-01-18 * 風来梨 [ 編集 ]