2014-12-20 (Sat)✎
路線の思い出 第76回 湧網線・紅葉橋仮乗降場 〔北海道〕
全く無人地帯・・という訳ではないのだけれども
なぜか利用客がジリ貧だった湧網線
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
中湧別~網走 89.8km 177 / 2322
廃止年月日 転換処置
’87/ 3/20 網走バス・北見バス
廃止時運行本数
中湧別~網走 5往復
中湧別~佐呂間 上り1本
紅葉橋仮乗降場(もみじばしかりじょうこうじょう)は、かつい北海道(網走支庁)常呂郡佐呂間町字知来にあった国鉄・湧網線の仮乗降場である。 湧網線の廃線に伴い、1987年3月20日に廃止となった。
湧網線を管轄する旭川鉄道管理局によって設置された、局設定の仮乗降場であった。
廃止時点で、1面1線の単式ホームと線路を有する駅であった。 ホームは、線路の南側(網走方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 また、一部の普通列車は通過した(1986年3月3日改正時点で、下り3本上り3本が停車)。
廃止時まで仮乗降場であり、無人駅となっていた。 駅舎は無かったが、ホーム中央部分から板敷きの通路を渡った位置に待合所を有していた。 ホームは中湧別方にスロープを有し、駅施設外に連絡していた。
駅名の由来は、当仮乗降場附近を流れる、佐呂間別川に架かる橋の名前に由来する。
紅葉が美しい場所との事である。 廃駅後の2011年時点では、佐呂間別川の河川改良工事が行われた影響で何も残っていない。 また、当仮乗降場跡の仁倉方にある小さな沢には、カルバートが残存していた。
ローカル鉄を追いかけていたあの頃・・、更に詳しく時期を言うと、湧網線・士幌線・羽幌線・瀬棚線などの第二次指定の路線が追い込まれるように廃止となる『国鉄からJRへの経営移管された1987年の冬』であるが、廃止線への葬式鉄の訪問殺到と同時に、ある事も鉄の取る行動様式として始まりつつあったのである。 それは、『仮乗降場』と呼ばれる正式な駅ではない停留所規格の駅を、『下車が困難な秘境駅』として下車していく事が、鉄趣味のカテゴリーの一つに加わりつつあったのである。
要するに、今は『鉄』の一大カテゴリーとして存在する『駅降り鉄』や『秘境駅訪問』の先駆けとなった年なのである。 なぜ先駆けとなったのかというと、恐らく・・ではあるが『国鉄からJRへの経営移管』の時に、国鉄時代では本部で承認を受けずに『地元の運行管理局が便宜的に設置した仮の駅』であった仮乗降場が、JRの移管先によって承認されて『正式な駅』に昇格したからであろうと思う。
民家もあれば踏切もある
ごく普通の田舎風景をゆく路線だった湧網線
即ち、今までは北海道版の時刻表にしか列車の発車時刻が記載されていなかった『仮乗降場』が、全国販売の時刻表に掲載されるようになったのである。 しかも、今までは正式でない『仮の駅』として北海道の時刻表ですらキロ程が記載されていなかったものが、正式な駅としてキロ程が記載されたのである。
要するに、キロ程が記載された所で、駅の所在位置が把握できるようになったのである。
この事で、こういう元『仮乗降場』を訪れるのが簡単になった事と、JRへの移管前にラッシュとなった第二次廃止指定路線の路線廃止がブームへの引き金となったのだろう。 なぜなら、これらの廃止路線に『仮乗降場』は数多く存在し、葬式鉄の『お名残り』下車のターゲットとして浮上した為である。
湧網線もJRへの経営移管直前の
1987年3月に廃止となった
・・と、ここまで鉄オタの事柄を記載してきたが、ナンチャッテな『○鉄』のワテの知識はコレが限界でっす。 従って、ここからは『地』を出していこうかと。 この時小僧だったワテも『右に倣え』で、廃止線にひそむ『仮乗降場』めぐりに熱を上げていた。
だが、ワテの訪れた時はJR移管の直前であり、まだ『仮乗降場』の情報源がキロ程の記載されない北海道版時刻表のみで、しかも停車する列車はこういう『仮乗降場』では基本的に運行本数の半数程度であったのだ。
要するに下手に何も考えずに降りると、「下車した列車が停車する最終列車だった」ってオチになりかねないのである。 あり丁寧に言えば次の駅まで歩いていくか、「それともこの仮乗降場で駅寝いっとく!?」なハメに陥るのである。
最後の力行シーン
言うなれば今の手法が完成された降り鉄趣味と違って、結構な確率で自爆必然の『勝負駆け』な面があったのだよ。 そういう制約!?(普通はこういう条件ではしないわなぁ)があったので、降りる乗降場の選定も熟考が必要だったのだ。 でも、生まれてこの方・・人生そのものが『ナンチャッテ』なワテは、そういうのはお構いなしの雰囲気だけで下車する乗降場を決め、そこをその線の撮影地としていたのである。
今回、この紅葉橋仮乗降場を下車駅に選んだのも、「紅葉橋という駅名の響きに興味を惹いたから」という恐るべき行き当たりバッタリな理由であった。 まぁ、これがワテの『クオリティ』であり、この『クオリティ』がなければ、恐らくこんなホームページやブログは運営されてなかっただろうっていうか、こういう旅紀行を展開するのは不可能であると断言できる。
・・で、まだ見ぬ『紅葉橋』がどんな橋なのか、どんな清流に架かる橋なのか・・と、期待を大きく膨らましながら一日上下各2本しか停まらない紅葉橋仮乗降場に降り立つ。 降り立った乗降場の駅風景は、『完全無欠の乗降場そのもの』って感じだった。 まぁ、鉄を趣味としない限り、一般の人なら頼まれても立ち寄りたくない駅風景であった。 一応、こういう駅舎!?付の板張りの『飛行甲板タイプ』駅であった。
駅名に魅かれて
降りてはみたものの
・・で、乗降場は予想の範疇であったので、この掘立て小屋に荷物を放り込み(荷物は野宿グッズ満載の盗られる心配皆無っていうか、盗れるものなら盗ってみやがれ!ってシロモノでっす)、撮影地の品定めを含めた付近の散策を開始する。 もちろん、まだ見ぬ『紅葉橋』の美しい橋梁風景を空想しながら・・である。
その妄想にニタ笑いを浮かべながら歩いていくと、両側がガードレールの無粋なコンクリート暗渠橋を渡って酪農場と思しきだだっ広い雪原に出る。 その暗渠橋を渡った端でガードレールに銘板が張られているのが目に入った。 そこにはひらがなで『もみじばし』と、仮乗降場の駅名標と同じ文字が表記されていた。
これを見た瞬間、雄大な妄想は立ち所に崩壊して崩れ去る音を耳にした(ような気がする)のである。
つまり、コレが憧れを抱いた美しい響きの『紅葉橋』の真の姿で、あのガードレールは川に落ちないように設置された『橋の欄干』だったのである。 これで、湧網線の撮影が限りなく『ダメ写真』になる事がほぼ確定したのであった。 真に『紅葉橋』は、ワテの中では『看板倒れ』であったのだ。
道路橋よりも立派な
『紅葉橋橋梁!?』を渡る
・・で、付近を横切る湧網線の線路と冬の木立を交えて撮ったり、コンクリート暗渠とガードレール欄干の『紅葉橋』の架かる川を渡る橋梁で撮ったりして撮影行動を終え、紅葉橋の乗降場に戻る。
何とか紅葉橋も“モノ”になったかな?
乗降場に掲げられた発車時刻表を目にした瞬間、秘境駅下車の弊害が『確定』した。 夕方まで3時間以上列車がないみたいである。 これで、次の正駅である仁倉か知来まで線路を伝って歩いていく事が確定した訳である。
帰りは隣駅の仁倉まで2kmちょっとの線路歩き
正駅は石炭ストーブがあっていい
となると、どちらの駅に向かうか・・だが、ここは先程撮影した橋梁を渡らねばならぬ知来側はパスして、仁倉へ向かう事にする。 幸い隣駅の仁倉までは2kmちょっと・・と、比較的短い距離であった。
また、『オホーツク縦貫鉄道の夢』の本編にも湧網線の項目があります。
宜しければ、どうぞ。
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No title * by 風来梨
タケちゃん さん、こんばんは。
山あり、流氷の海あり、四季折々に魅せる湖景色など、湧網線の車窓は素晴らしかったですが、私はこの線に関しては満足なのが撮れませんでした。
撮れなかった訳の一つが、この記事の「紅葉橋」の妄想外れですね。
今となれば、常呂の流氷のお立ち台に行っておくべきでしたね。
なので、湧網線は最終日の写真1枚以外は全てB級の出来で・・。
山あり、流氷の海あり、四季折々に魅せる湖景色など、湧網線の車窓は素晴らしかったですが、私はこの線に関しては満足なのが撮れませんでした。
撮れなかった訳の一つが、この記事の「紅葉橋」の妄想外れですね。
今となれば、常呂の流氷のお立ち台に行っておくべきでしたね。
なので、湧網線は最終日の写真1枚以外は全てB級の出来で・・。
No title * by 散位 アナリスト杢兵衛
冒頭の雪山と電車の姿、絵になりますね。
No title * by 風来梨
アナリスト杢兵衛さん、こんばんは。
この路線に関してはイマイチの出来だと思っていましたので、お褒め頂き嬉しいです。
大方30年近くたった今は、かつてはイマイチと思えたモノも貴重な宝物ですね。
この路線に関してはイマイチの出来だと思っていましたので、お褒め頂き嬉しいです。
大方30年近くたった今は、かつてはイマイチと思えたモノも貴重な宝物ですね。
No title * by tom
こんばんは
元は”撮り鉄”そして”乗り鉄”。今は”撮りバス”をしています。
一昨年網走を訪れました。湧網線の代替バスはどうも廃止になったようです。代替バスになったからといって決して安心はならないようです。過疎地の公共輸送は色々と難しいようですね。
元は”撮り鉄”そして”乗り鉄”。今は”撮りバス”をしています。
一昨年網走を訪れました。湧網線の代替バスはどうも廃止になったようです。代替バスになったからといって決して安心はならないようです。過疎地の公共輸送は色々と難しいようですね。
No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。
廃止転換時に『アメ』として交付されたキロ当たり3000万円の転換交付金の基金が尽きた今、どこも不採算路線として存廃の危機にあるようですね。
添田線なんかも西鉄バスが徹底した・・との事ですし、引き受け手のない天北線の宗谷丘陵区間は、村が『コミュニティバス』と呼ばれるマイクロバスを運行しているとの事ですし・・。
今は「一家に免許の数だけ車がある」という御時勢で、公共交通機関は利用客が激減し更に縮小される・・いう悪循環となってます。
この悪循環は、更に人口が流出して地域住民の半数が65歳以上になる・・という『限界集落』化の引き金ともなってますね。
廃止転換時に『アメ』として交付されたキロ当たり3000万円の転換交付金の基金が尽きた今、どこも不採算路線として存廃の危機にあるようですね。
添田線なんかも西鉄バスが徹底した・・との事ですし、引き受け手のない天北線の宗谷丘陵区間は、村が『コミュニティバス』と呼ばれるマイクロバスを運行しているとの事ですし・・。
今は「一家に免許の数だけ車がある」という御時勢で、公共交通機関は利用客が激減し更に縮小される・・いう悪循環となってます。
この悪循環は、更に人口が流出して地域住民の半数が65歳以上になる・・という『限界集落』化の引き金ともなってますね。
湧網線ですか~・・・今でも線路跡を窺うことが出来ますよね。
サロマ湖畔沿いの国道を走る度に「廃止は勿体なかった」と何度も思います。
海あり山あり、そして湖もありと・・・車窓的には変化に富んで面白い路線だったんでしょうが・・・当時の情勢が存続を許してくれませんでしたね。
ただ、悲しいかな、それじゃあ今だったら「観光鉄道」として生き残れるのか?と考えた場合・・・やっぱり答えは・・・NOですものね。
芭露駅が好きでした。