2011-03-31 (Thu)✎
『私の訪ねた路線』 第9回 添田線 〔福岡県〕
添田線を示す
まともに写った写真はこれだけ
:
夜行リバースという
愚行による眠さに負けた
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
香春~添田 12.1km 224 / 2448
廃止時運行本数 廃止年月日 転換処置
6往復 ’85/ 4/ 1 西鉄バス
《路線史》
元は日田線(現在の日田彦山線)の一部区間として、1915年に小倉鉄道により建設された路線。
建設の目的は、石灰石や当時の筑豊を潤わした“黒ダイヤ”石炭の輸送である。 1943年に戦時買収を受けて国有鉄道の添田線となる(後に路線名が日田線と改称される)。
戦時買収されてからは幹線である日田線の一部として運行がなされたが、沿線の中心都市である田川市の市街地(伊田・後藤寺)を経由しなかった事から、1960年に利用の実情に合致するように田川線の一部を本線に編入すると共に、現状の路線を添田線として分離・独立路線として切り離した。 これによって、現在の日田彦山線と添田線の線形が完成したのである。
だが、前述の如く、市街地を経由しない閑散区間だけを独立路線とした為に完全に貨客の流動から取り残され、営業成績は全国鉄線のワースト争いの常連線区となっていた。 1976年度の営業係数は3376と、北海道のライバル路線を抑えて堂々の国鉄赤字路線ワースト線区となっている。
赤字ワースト1に名を連ねるような路線に残存させる理由など見出せるはずもなく、1980年に施行された国鉄再建法により、翌年にはいち早く第1次廃止候補に指定される。 廃止が諮問されてからもこれといった対抗手段もなく、全国に散らばる他の1次廃止路線の多くが廃止となった1985年3月末限りで“切り離し”の悲運に泣いた添田線も路線廃止、沿線に路線網を形成する西鉄バスに転換された。
ボタ山を背にキハ20の単行が寂しげに走る姿が目に印象的であったのだが、残念な事に乗車だけで撮影の機会を逸してしまった。 返す返すも口惜しい事である。
戦時買収されてからは幹線である日田線の一部として運行がなされたが、沿線の中心都市である田川市の市街地(伊田・後藤寺)を経由しなかった事から、1960年に利用の実情に合致するように田川線の一部を本線に編入すると共に、現状の路線を添田線として分離・独立路線として切り離した。 これによって、現在の日田彦山線と添田線の線形が完成したのである。
だが、前述の如く、市街地を経由しない閑散区間だけを独立路線とした為に完全に貨客の流動から取り残され、営業成績は全国鉄線のワースト争いの常連線区となっていた。 1976年度の営業係数は3376と、北海道のライバル路線を抑えて堂々の国鉄赤字路線ワースト線区となっている。
赤字ワースト1に名を連ねるような路線に残存させる理由など見出せるはずもなく、1980年に施行された国鉄再建法により、翌年にはいち早く第1次廃止候補に指定される。 廃止が諮問されてからもこれといった対抗手段もなく、全国に散らばる他の1次廃止路線の多くが廃止となった1985年3月末限りで“切り離し”の悲運に泣いた添田線も路線廃止、沿線に路線網を形成する西鉄バスに転換された。
ボタ山を背にキハ20の単行が寂しげに走る姿が目に印象的であったのだが、残念な事に乗車だけで撮影の機会を逸してしまった。 返す返すも口惜しい事である。
《乗車記》
かすかな記憶をたどって・・。 列車は朝夕のみの6往復。 沿線風景は、かつて栄えた黒ダイヤの遺構・ボタ山と、上記の様に元々本線であった路線が線路付け替えの悲哀を見舞った姿が残っていた。
建替え前の立派な
駅舎を持つ添田駅は
黒ダイヤでの繁栄の証であった
かつては本線の名残であったのだろうか。 駅母屋よりの主線にあてがわれる『1番線』より発車する。 朝の8時の便、休日といえども乗車した者はワテの他はただ1人。 列車は乗客2人と空気と、柔らかに差し込む朝の光を乗せて出発。 線路に沿ってほぼぴったりと県道が寄り添う。 県道を挟んだ奥に刈り取られた田んぼと、その奥に庄屋の如く母屋の立派な農家が点在する。 決して、人里稀な僻地ではない。
それを証拠に、国道の至る所に西鉄バスのバス停ポールが立ち、乗車中に何度か西鉄バスを見かけたのである。 要するに、この地域の交通機関は西鉄バスで、全てのパイ・・即ち利用客は西鉄バスを利用しているのである。 ただ、定期割引率の高い学生を除いて。
やがて、伊原(いばる)駅に着く。 棒線の無人駅にしてはホームは広い。 黒ダイヤの積み込みを想定してのものだろうか? だが、ホーム上の待合所は波板で囲っただけのもので、ブロック造りの駅舎も半分は地元農家の物置に使われていたようである。
駅を出ると、またもや道路と田んぼと大きな母屋を持つ庄屋に寄り添って民家が点在する同じような風景が車窓に流れる。 それが商店などが現れて「街の中心っぽくなってきたかな」というような眺めに変ると、線内の中心駅・大任だ。
大任は、かつて油須原線という運炭バイパス線との交点となり石炭輸送要衝となる予定だったが、石炭より石油へのエネルギー転換の前に構想は廃棄され、路線の存在価値と共に廃れるままとなってしまったようである。 だが、廃止まで駅員が配置され、かつての栄光を示す立派な木造駅舎にそのプライドが示されているようであった。
悔いが残るとしたら、この駅で降りてボタ山をバックに添田線を撮る事が出来なかった事、夜行リバースの愚行による眠さに負けて撮影を見送った事である。
ガキの頃の痛恨のミスで
添田線を示す証はコレだけ
大任を出ると、ビデオを再生してるが如く、また前述の如く同じ風景が流れる。 やがて、今任駅。
駅舎は駅務室が突払らわれ、待合室だけの1/3化されていた。 ボロボロの木造駅舎で、よくこんな事ができたな・・と驚きさえ感じる。
次の上伊田は、更に驚ろかされる。 この駅も同じく1/3化されているが、駅舎の下地が剥がれて内面が見えていたのである。 1/3化して、よく倒壊せずに建っていられたなぁ・・って感じである。
やがて、全山石灰石の土層からなり、資源採掘の為に奇怪な姿に変えられた山・香春岳が前面にそびえると、これまた立派な黒ダイヤの栄光を示した駅舎を持つ香春駅の母屋寄りのホームに入線する。
ただ添田駅と違うのは、ホームの下端に設けられた別枠の『0番線』の発着と、明日なきローカル線として突き放されていた・・という事だろうか。
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No title * by オータ
赤字日本一の縁で、北海道美深町とこの添田町が友好都市になったのは、有名な?話です。人口的にはどうだったのでしょう? 美幸線は同一町内で、本当に乗る人がいなかったのですが、添田線の場合は?
No title * by 風来梨
オータ様、こんばんは。
そうですね。 鉄道ジャーナルなどの鉄道雑誌にも取り上げられてました。 美幸線の建設目的は、宗谷支庁で第二の町・枝幸町と道央との短絡線で、海産物や森林資源+宗谷・歌登の炭坑輸送です。
これら全部、開拓時代の産業なんですよね。
添田線は、完全無欠の黒ダイヤ輸送ですね。 最盛期は、大任駅は油須原線とのジャンクションになる予定だったとの事。
でも今は、両方の路線跡も“夏草や兵どもが夢の痕”の状態です。
廃線跡には無常感が漂っていますね。
そうですね。 鉄道ジャーナルなどの鉄道雑誌にも取り上げられてました。 美幸線の建設目的は、宗谷支庁で第二の町・枝幸町と道央との短絡線で、海産物や森林資源+宗谷・歌登の炭坑輸送です。
これら全部、開拓時代の産業なんですよね。
添田線は、完全無欠の黒ダイヤ輸送ですね。 最盛期は、大任駅は油須原線とのジャンクションになる予定だったとの事。
でも今は、両方の路線跡も“夏草や兵どもが夢の痕”の状態です。
廃線跡には無常感が漂っていますね。
No title * by カムイ
これが、日本一の赤字線っスね。
いいなぁ。 先輩が中学・高校の頃は、こんな路線に乗れたんだ。
写真でしか見れないボロい駅舎や気動車に乗ったり下りたりできたんだなって。
いいなぁ。 先輩が中学・高校の頃は、こんな路線に乗れたんだ。
写真でしか見れないボロい駅舎や気動車に乗ったり下りたりできたんだなって。
No title * by 風来梨
いゃぁ・・、いつでも行けると軽く見て写真が残せなかった、大いなる後悔の路線だよ。
次の例会は何出す? 裏取引だ! 全部に傑作入れてくれたら、3点投票してあげよう。
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