風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出  第72回  添田線・上伊田駅、添田駅

路線の思い出  第72回  添田線・上伊田駅、添田駅 〔福岡県〕
 

眠さに負けてコレを撮っただけで終わった
幼き日の取り返す事の叶わぬ痛恨のミス!
えぇ、見事に逆光の失敗写真ですわ
 
《路線データ》
       営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)
       香春~添田 12.1km             224  /  2448    
 
        廃止時運行本数      廃止年月日       転換処置
          6往復            ’85/ 4/ 1        西鉄バス

添田駅(そえだえき)は、福岡県田川郡添田町大字添田にあるJR九州・日田彦山線の駅である。
添田町の中心駅で、かつては添田線と接続していた。 島式ホーム1面2線を有する駅である。
旧国鉄時代は駅舎に面したホームがあり、現存する島式ホームとを連絡する跨線橋があったが撤去され、現在は駅舎とホームは構内踏切で連絡している。

国鉄時代は路線の要衝駅として立派な木造駅舎を駅の東側の位置に備えていたが、添田線廃止後に旧駅舎を取り壊してその敷地の一部を道路用地に充て、添田線の旧1番線があった位置に鉄筋コンクリート造2階建ての現在の駅舎を建設した。 その建替えられた現在の駅舎は物産館と合築となっている。
駅舎内には、簡易型の自動券売機が設置されている。 2015年に、無人化されている。

かつては添田線との接続駅であり、同線のホームは旧駅舎の前にあったが、全て撤去されて一部は道路用地として収用された為、撤去された旧木造駅舎及び添田線ホーム跡の敷地は砂利敷きの空地となり、現在の島式ホームは駅舎から約100m離れた位置にある。 構内に留置線があり、深夜に1編成が夜間滞泊する。

もともとは小倉鉄道が後の添田線の前身にあたる東小倉〜上添田間を開通させた際、その終点として開業させた駅である。 その後、1942年に日田彦山線の前身である田川線が延長された際、1.2kmほど北西の西添田駅から当駅を経由するルートで開業した。

西添田~添田間ではあまり離れていない2点間に線路を敷いたため、区間内に急カーブが2箇所あり、既に添田駅構内は添田線のホームや貨物の操車線でいっぱいだった為に、添田駅の日田彦山線ホームは駅舎から遠く離れた位置に作らざるを得なかった・・との事である。

上伊田駅(かみいたえき)は、かつて福岡県田川市大字伊田に設置されていた国鉄・添田線の駅(廃駅)である。 添田線の廃止に伴い、1985年4月1日に廃駅となった。 廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する無人駅であった。

ホーム上には、下の壁が剥がれるなど倒壊寸前の駅舎があった。



この添田線は、ローカル線の西の横綱的な路線であった。 何が横綱か?というと、旧国鉄時代に出されていた営業収支係数が毎年ナンバー1の『日本一の赤字』路線なのである。
当然に、ローカル鉄を追いかけまわしていた小僧の頃のワテのターゲット路線でもあった。
 
狙う構図としては、「大任駅の背後にあったボタ山を背景にキハ20単行」や、「倒壊しかけのボロボロの駅舎の上伊田駅を入れて」とか、構想だけは結構〔妄想の世界に〕逝っていたのである。
 

上伊田駅舎 (※ グーグル画像より拝借)
このボロボロの駅に降りての
撮影を思い描いていたよ
 
そうして、その構想を実行する時がやってきた。 ・・が、この路線のアプローチ計画が不味かったのである。 それは、宮崎からの夜行急行【日南】で行橋で降りて、田川線を南下して田川伊田まで行き、日田彦山線で香春に戻り、香春から添田線に乗って、その途中で良い撮影地を見つけて降りて撮る・・といった計画だった。
 
だが、この旅では宮原線・麻生釣での駅寝や火山灰まみれになった大隅線の桜島バック撮影などで疲れていて(この頃はまだ『奇跡の体力』の発動前でした)、寝心地の悪い夜行急行車内では疲れが回復しないまま、早朝の5時台に行橋に着いたのである。 当然に眠たく、田川線の車内では夜行列車の中より爆睡してしまったのである。
 

建替前の添田駅は味のある木造駅舎だった
元々添田線は幹線であっただけに
母屋よりの1番線が発着ホームであった
 
・・で、目覚めたのは、田川線の列車が終点の添田に着いてから程なく・・だった。
つまり、乗り過ごしたのである。 添田線の列車運行は朝3本、夕方3本で、予定通りに香春から来ていると添田線の下り香春発に乗る事ができたのである。 この便に乗ると、駅周辺ではあるが下り1本・上り2本の撮影が可能だったのである。
 

こんな狸の皮算用をしてますた・・
30年前に買った
鉄道雑誌の掲載写真を拝借
 
そしてその撮影地は、鉄道雑誌で目にした「香春~上伊田の巨大ボタ山・香春岳をバックに」と「取(撮)らぬ狸(列車)の皮算用」を数えていたのである。 だが乗り過ごして、添田からの撮影を終えて引き上げる列車にしか乗車できなくなり、見事に添田線撮影計画は頓挫したのだった。
 
計画が潰れたなら、当時の小僧の序列順位での添田線の位置づけは、同じく廃止対象線の宮原線や妻線、高森線などより下だったので、「まぁ、いいか」となってしまったのである。
この後は、もったいなくも添田線の中では爆睡したよ。
 

添田線の行先サボ
今となってはレアな貴重品
 
その後は、日本一の赤字路線という事で、リベンジするヒマもなく廃止されてしまった。
廃止された時に思ったのは、「あぁ・・、受験を放り出してもリベンジに行くべきだったなぁ」って事である。 まぁ、興味の惹けない事には徹底的に物臭さでヤル気のない性質だったので、大して受験勉強してなかったし。←そして、結果も当然にそれなりだったし・・
 
だから、この線に限っては、今も時折に痛恨の悔いが頭に過るのである。
普通の人には「受験と趣味を天秤にかけるなんて、何をバカな事を・・」と思われるであろうが、ワテにとってはあの頃から時が経っての『今現在』の後悔の方が重大なのである。
 
 
     ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『添田線』を御覧下さい。
 
 
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No title * by 風来茄子
石炭産業の斜陽化とともに運搬路線が廃止統合されたのは時代の流れですが、もし添田線が「日田彦山線」名義ならば現存路線が消えていたんでしょうね。当時の廃止基準が思いっきり粗雑だったのを良く覚えていますから。

この地域で私が乗れたのは宮田線だけです。第3次廃止対象路線として少し長く延命したお蔭ですが。何となく生き残った伊田線もあり、やはり基準が良く分かりませんね。

個人的には旧客で運転されていた室木線に乗ってみたかったですね。

No title * by 風来梨
殿下が勢いを増したのは、あの『阿下喜の誓い』にてワテを屈服させた頃でしたからな~。
それ以前は若年の家康公のように、苦難の連続でしたからな~。
戦果が宮田のみというご無念をお察し致しまする。

しかし、
>もし添田線が「日田彦山線」名義ならば現存路線が消えていた

とありますが、添田線の場合は廃止された天北線と宗谷本線の残存区間との力関係とは真逆で、新しく付け替えた「日田彦山線」は田川市街と伊田町市街の中心部を通るべくわざわざ迂回ルートで付け替えたのに対して、添田線は大任町以外は何もない区間だったので、恐らく逆はないでありましょうな。

まぁ、添田線側は、代行バスの西鉄バスも撤退したとの事ですから(今は町営コミュニティバスの運行との事)。

廃止線の選考基準は人キロ/kmですが、救済処置があやふやなのに対して、線区は厳格に指定したのが命運を分けましたな。

でも、廃止諮問期間で廃止された路線は転換交付金を貰えましたが、上砂川などの名無し線はそれがなかった訳ですから、損得勘定では路線名が着いた方が良い待遇でしたな。

No title * by きゃみ
こんにちは。トラバから来ました。
当時は夜行急行「日南」や「かいもん」を有効に使えましたよね。それがこの時は仇となってしまったようですね(>_<)
添田線は伊田や後藤寺の市街地のルートが後から出来上がってメインルートとなり取り残された路線ですね。超大赤字で有名だったので私も乗ってみるかな的に乗車しました。他には勝田線と宮田線、あと上山田線も乗ったはず・・・。上に書かれている室木線も同じく旧客があるので乗ってみたかった路線です。
写真としてはバックにボタ山は撮ってみたいところです。駅訪問者としては、上伊田の駅舎・・・これは垂涎ものですね。

No title * by 風来梨
きゃみさん、こんばんは。
トラックバックの承認を頂き、有難うございます。

結構寝過ごしとかしているんですが、その中でもかなり悔いの残る寝過ごしでした。 やはり、日本一の赤字線の写真は撮っておきたかったですね。

私は逆に、勝田線・香月線・宮田線が未乗廃止線ですね。
あのあたりは、全部周るのは至難の業でした。 1日6往復が筑豊地区に固まってましたから・・。 夜行は上り列車しか使えないので、朝の一番列車へのアプローチがかなり困難でしたね。

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No title

石炭産業の斜陽化とともに運搬路線が廃止統合されたのは時代の流れですが、もし添田線が「日田彦山線」名義ならば現存路線が消えていたんでしょうね。当時の廃止基準が思いっきり粗雑だったのを良く覚えていますから。

この地域で私が乗れたのは宮田線だけです。第3次廃止対象路線として少し長く延命したお蔭ですが。何となく生き残った伊田線もあり、やはり基準が良く分かりませんね。

個人的には旧客で運転されていた室木線に乗ってみたかったですね。
2014-11-24 * 風来茄子 [ 編集 ]

No title

殿下が勢いを増したのは、あの『阿下喜の誓い』にてワテを屈服させた頃でしたからな~。
それ以前は若年の家康公のように、苦難の連続でしたからな~。
戦果が宮田のみというご無念をお察し致しまする。

しかし、
>もし添田線が「日田彦山線」名義ならば現存路線が消えていた

とありますが、添田線の場合は廃止された天北線と宗谷本線の残存区間との力関係とは真逆で、新しく付け替えた「日田彦山線」は田川市街と伊田町市街の中心部を通るべくわざわざ迂回ルートで付け替えたのに対して、添田線は大任町以外は何もない区間だったので、恐らく逆はないでありましょうな。

まぁ、添田線側は、代行バスの西鉄バスも撤退したとの事ですから(今は町営コミュニティバスの運行との事)。

廃止線の選考基準は人キロ/kmですが、救済処置があやふやなのに対して、線区は厳格に指定したのが命運を分けましたな。

でも、廃止諮問期間で廃止された路線は転換交付金を貰えましたが、上砂川などの名無し線はそれがなかった訳ですから、損得勘定では路線名が着いた方が良い待遇でしたな。
2014-11-24 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんにちは。トラバから来ました。
当時は夜行急行「日南」や「かいもん」を有効に使えましたよね。それがこの時は仇となってしまったようですね(>_<)
添田線は伊田や後藤寺の市街地のルートが後から出来上がってメインルートとなり取り残された路線ですね。超大赤字で有名だったので私も乗ってみるかな的に乗車しました。他には勝田線と宮田線、あと上山田線も乗ったはず・・・。上に書かれている室木線も同じく旧客があるので乗ってみたかった路線です。
写真としてはバックにボタ山は撮ってみたいところです。駅訪問者としては、上伊田の駅舎・・・これは垂涎ものですね。
2016-02-07 * きゃみ [ 編集 ]

No title

きゃみさん、こんばんは。
トラックバックの承認を頂き、有難うございます。

結構寝過ごしとかしているんですが、その中でもかなり悔いの残る寝過ごしでした。 やはり、日本一の赤字線の写真は撮っておきたかったですね。

私は逆に、勝田線・香月線・宮田線が未乗廃止線ですね。
あのあたりは、全部周るのは至難の業でした。 1日6往復が筑豊地区に固まってましたから・・。 夜行は上り列車しか使えないので、朝の一番列車へのアプローチがかなり困難でしたね。
2016-02-07 * 風来梨 [ 編集 ]