2014-10-13 (Mon)✎
路線の思い出 第66回 高千穂線・天岩戸駅、高千穂駅 〔宮崎県〕
何気なくとった駅の俯瞰写真だが
今となっては貴重だね
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
延岡~高千穂 50.1km 256 / 522
移管年月日 移管処置
’89/ 4/28 高千穂鉄道
移管時運行本数
延岡~高千穂 6往復
延岡~日ノ影 下り1本・上り2本
日ノ影~高千穂 上り1本
《高千穂鉄道・路線データ》
廃止年月日 廃止転換処置 移管先廃止時運行本数
’05/12/27 宮崎交通バス 延岡~高千穂 下り14本・上り15本
(下り1本・上り2本 土・休日トロッコ列車で運転)
高千穂駅(たかちほえき)は、かつて宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井にあった高千穂鉄道・高千穂線の終着駅である。 島式1面2線ホームの駅で、延岡駅以外では唯一の有人駅であった。
2003年の1日平均乗車人員は220人であったとの事。
駅の先端には、車止めの代わりに車両基地があった。 この部分は開業当時線路こそ敷かれていなかったものの、高森方面への延伸に備えてすでに切り通しとなっていた。 国鉄時代は列車の滞泊がなく、当駅に夜間到着した列車は日ノ影駅まで折り返していたが、高千穂鉄道になって当駅構内に車庫が設置され、滞泊が行われるようになった。
駅廃止後の現況は、2008年10月時点では駅構内に気動車とトロッコ車両が留置されていた。気動車は製造から20年近く経過し、しかも屋外に雨ざらし状態で放置されているため、傷みが激しくなっていた。
その後、トロッコ車両はJR九州に譲渡され、キハ125形400番台に改造後2009年10月より、同じ宮崎県内の日南線で〔海幸山幸〕として再起した。 また、気動車のうち1両は、四国の阿佐海岸鉄道に譲渡されている。
2010年現在は、旧駅舎には高千穂あまてらす鉄道の事務所が置かれ、土日祝日等に同社により旧駅構内が開放されている。 同年8月から、スーパーカートによる当駅~天岩戸駅間を遊具としての鉄道運行を開始した。
結構気合いの入った駅写真だね
乗客が誰もいなくなるまで待って撮影していたみたい
高千穂線を訪れたのは、もう30年も前の『国鉄』の時。 その時は輸送密度がジリ貧ゆえに特定地方交通線に指定され、路線廃止とバス転換を迫られていた頃である。
その時の私は高校に上がったばかりの小僧で、鉄道を追っかけていた『鉄道趣味全盛期』の頃であった。 でも、この年頃って普通は特急列車や寝台列車に気を惹かれるモノなのだが、この小僧は普通ではなかった。 ある時に白樺林とローカル線の写真を見てから、ローカル線にどっぷりハマっていたのである。
日本一の橋梁をゆく列車を見上げて
それで「高千穂線を撮るなら、日本一高い橋梁で」と心に秘めて、この地にやってきたのである。
まぁ、ちょっと前にこの線で初体験はしたものの、まだまだその筋ではビキナー(まぁ、今は玄人猛者なんだけど、ちっとも誇れない実績だわ・・コレって)で、この時は天岩戸駅の真下にある高千穂ユースホステルに泊まったのである。
高千穂YHのスタンプ
その時は期末試験が終わってすぐに終業式をパスって(取り消し線部分は良い子はマネしないようにネ)撮影旅に出てきたので、ユースの泊り客はワテ一人きりであった。
当時のユースホステルは開放的で、泊り客に過ぎない一人の小僧の夕食にわざわざうな重を出してくれて、なおかつ内緒という事で地元名産で当時CMなどで大々的に名を馳せていた『そば焼酎・雲海』を御相伴になったのである。 『雲海』は口当たりが良く、調子にのった小僧は酔うまで飲んで酒盛り宴会からグデ寝となってしまったのである。 まぁ、ここで未成年が酒を・・なんて野暮な事は言いっこナシね。
・・で、朝目覚めるともう日は高く・・、つまり寝過ごして始発の便を撮り損ねてしまったのである。
もう、荷物を抱えて撮影地へ走る。 急げば、何とか8時台の列車が撮れそうだから・・である。
もちろん撮影場所は、『日本一の橋梁』を対岸から眺める事のできる国道の橋の上である。
全体を写して高度感を魅せる
二日酔いの割にはアングル考えてますねぇ
この頃の方が鉄道撮影の写真のウデは上だね
だが、昨日の弊害である二日酔いの頭痛が、走る事によって症状として現れ出したのである。
着いたその後は自業自得の痛みにより充血した虚ろな視線で、『日本一の橋梁を渡るローカル鉄道』という憧れの『お立ち台撮影』に臨んだのである
まぁ、二日酔いにしてはよく撮れてるねぇ。 この筆者(タワケ)は普通の状態よりも、何かアクシデントがあった方が結果がいいみたいだねぇ。 記してる自分で言うのも何だが、ガキの頃から結構なロクデナシだったようである。 それでは、その一品をごろうじろ。
朝もやで『神話の里』の雰囲気が出たかな?
次に訪れたのは、ローカル線の廃止問題に大方のケリが着いた二十歳過ぎの時である。
この時は鉄道から離れて風景写真に夢中だった事もあって、第三セクターに移管された高千穂線には全く目を向けなかったのである。 この時は車の旅て、この地を訪れた目的も滝や神楽観賞であった。
この時は神楽観賞もしたよ
今思えば残念な事である。 それは、その後に台風災害によって路線自体が廃線となってしまったからである。 「第3セクターの車両は魅力に乏しいし、焦らずともいつでも撮れるし・・」とタガを括っていたら、ある日突然に台風災害によって『永遠に手に届かぬモノ』になってしまったのだから。
それで、今は少しではあるが自己嫌悪に似た悔いを抱いているのである。
在りし日の高千穂駅
今は駅舎はあれど
列車が発着する事のない駅となってしまった
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