2014-10-11 (Sat)✎
『日本百景』 秋 第136回 高原鉄道・旧国鉄宮原線 〔大分県・熊本県〕
峠の停車場でひと息つく“高原列車”
高原鉄道・旧国鉄宮原線
こうげんてつどう・きゅうこくてつみやのはるせん
(耶馬日田彦山国定公園)
ひと昔前、この高原にはローカル線が通っていた。 1日僅か3往復半。 まず、利用するに足らない路線であった。 でも、この線に私は、高原鉄道の趣を強く感じた。 山を眺め、不毛の高原を寂しく伝い、石のアーチ橋で里を越えて、途中の明日なきローカル線のたたずまい深き駅で僅かながらの馴染み客を拾っていくその表情に強く魅かれたのである。
そして今、この線はなくなれども、かつての雰囲気はそのままである。 この項目では、かつて鉄道を追いかけていた“あの時の私”の心で訪ねていきたいと思う。
そして今、この線はなくなれども、かつての雰囲気はそのままである。 この項目では、かつて鉄道を追いかけていた“あの時の私”の心で訪ねていきたいと思う。
さよなら宮原線記念乗車券と
肥後小国駅入場券
行程表 駐車場・トイレ・山小屋情報
JR豊後森駅前より車(0:10)→JR恵良駅前(0:20)→宝泉寺温泉(0:15)→旧麻生釣駅前
(0:20)→旧北里駅前(0:10)→小国中央(1:00)→日田市街
高原列車が
朝霧の中をついてやってきた
私の心の中に強く響いた“高原をゆくローカル鉄道”・旧国鉄宮原線。 ’84年12月に廃止となって存在しない今でも、あの時の感慨を思い返す時がある。 あの時の感慨を・・、あの時に追いかけたあの情景を・・、どうにか形として著したい。 そこで、自分が企画したこの『日本百景』の中で、補欠ではあるが“私の選んだ景色”として追い求めていこうと思ったのである。 それでは、頭の中で思い描く、宮原線列車の車窓からの眺めや鉄道の通ったあの雰囲気を思い返しながら進めていこう。
上下併せても10に満たない
列車本数なのに朝は早い
・・1日3往復半、土曜日のみ1本増発のローカル線をめぐるなら、始発に乗車する事は絶対条件である。 朝、5:39《豊後森》発の列車に乗り込んで、途中駅の中で唯一の有人駅・《宝泉寺》を目指す。
単行の気動車は、一人前の轟音を上げて《玖珠川》を渡る。 右手に美しい三角錐を魅せる万年山が、まだ空けやらぬ空に映える。 やがて、明日なきローカル線のたたずまいを残す《町田》駅に着く。
この駅を出ると、山里の集落と《玖珠川》の清流を眺めながら列車は行く。 次はもう、この列車の終点・《宝泉寺》だ。 1日50人にも満たない利用者の為にも駅がある。 そして、駅員は切符を切る。
単行の気動車は、一人前の轟音を上げて《玖珠川》を渡る。 右手に美しい三角錐を魅せる万年山が、まだ空けやらぬ空に映える。 やがて、明日なきローカル線のたたずまいを残す《町田》駅に着く。
この駅を出ると、山里の集落と《玖珠川》の清流を眺めながら列車は行く。 次はもう、この列車の終点・《宝泉寺》だ。 1日50人にも満たない利用者の為にも駅がある。 そして、駅員は切符を切る。
駅舎を一歩出ると、そこは有名な湯治場・《宝泉寺温泉》である。 温泉宿が並ぶ街並みは、決して“人煙稀な僻地”ではない。 車もよく行き交う。
1日の乗降客「100人ちょっと」の
線内最大駅・宝泉寺
しかし周囲は『九重の奥座敷』
しかし周囲は『九重の奥座敷』
と呼ばれる温泉街
:
街外れの土手を行く鉄道と駅だけが
街外れの土手を行く鉄道と駅だけが
時代より取り残されていた
どうやら取り残されたのは、土手を行く鉄道と駅舎だけなのである。 僅か13分であるが、この鉄道の置かれた現状を望んで、折り返しの列車に乗り込む。
折り返しの一番列車を待つ駅名標
次の目的地は、始発列車で通り過ぎた《町田》駅である。 《町田》駅で下車して木造の待合室を通り抜けると、神社の拝道のような石段が続いている。
明日なきローカル線のたたずまい
町田駅
下に降りて上の駅舎を見上げると、明日なきローカル線の寂しさが心に響いてくる。 7:10発の列車までの約50分、この駅をスケッチしよう。 7:10発の列車は、この線の終点・《肥後小国》まで行く一番列車だ。 この列車に乗り込み、線内最大の景勝地・《麻生釣》へ向かう。
《宝泉寺》を出た列車は、次第に山峡に分け入っていく。 エンジンの音を唸らせて、牛の歩みのようにゆっくりと高度を上げていく。 辺りは荒涼とした高原地帯だ。 右に万年山、左に湧蓋山が見え隠れする中、高原地帯から山間の美林帯に移り変わると、大きく西方へカーブする。
“高原鉄道”の光と影
この辺りを行く列車は、樹木の間から差し込む光がシャドーを生み出して美しい情景を魅せていた。
あの時は、この写真を撮る為にこの線を訪ねたものである。
霞む高原より
始発列車が現れる
列車のエンジンの唸りが止んで随行運転となると、程なく《麻生釣》だ。 荒れるに任せた山小屋風の待合室、浮き上がった道床、歪んだか細いレール・・。 見るもの全てが哀れさを誘う。
もはや駅ではなく山小屋だ
麻生釣駅
目の前には情景豊かな《麻生釣高原》が広がり、観光拠点となってもおかしくない所なのだが、やはりこの駅も棄てられた鉄道線の面影のみを引きずっていた。 この駅で下車して、《麻生釣高原》の美しい景色をバックに列車撮影に勤しむ。
名峰・湧蓋山を望む
線内きっての撮影スポット
線内きっての美しいアーチ橋を魅せる
廣平橋梁をゆくキハ53
それは人の業なのか
この駅から線路を2.5km伝うとコンクリートアーチ橋と千枚田、そして背景には穏やかな丸みを魅せる湧蓋山と、絶好の撮影地であった。 今、乗ってきた列車が《肥後小国》駅から折り返してくるので、撮影する事も可能であった。 撮影を終えると、土曜日のみ運行の列車の発車時刻13:28まで時間が空くので、高原散策を楽しもう。
1日に数度・・
思い出したように列車はやってくる
思い出したように列車はやってくる
そして、13:28。 人里離れた山峡から思い出したように列車がやってくる。 裏寂れた鉄路に、ほんの一瞬生命が宿る。 峠越えで唸らせたエンジンをひと休めする為だろうか、どの列車もこの《麻生釣》駅で3~4分停車する。 この列車に乗り込んで、《麻生釣》を後にする。
《麻生釣》を出ると、列車はすぐに県境を越えて熊本県に入ってくる。 熊本県側の眺めは、大分県側の“不毛の大地”が示す裏寂しい眺めと打って変わって、牧歌的な明るい高原の雰囲気となって車窓に広がってくる。
先ほどの撮影地・廣平橋梁を渡る
:
我が国では九州のみに
見られる眼鏡橋だ
列車は先ほど撮影地としたコンクリートアーチ橋を湧蓋山を望みながら渡り、下り気味となってエンジンの音も軽やかに走っていく。 美しい高原の眺めを見つめているといつの間にか湧蓋山が後方に移動し、《北里》駅に到着する。
北里駅の改札口
この画像はかなり貴重だと思うよ
:
この駅の創生期は
この駅の創生期は
有人駅だったみたいだし
《北里》駅は不気味な廃城のようで、ここにも鉄道のみが取り残された情景があった。 しかし、駅舎の中の割れたステンドグラスや城壁を思わせるレンガ造りの壁に、開業当時は豪華な造りの駅であった事を思わせるものがある。
駅への階段は天井が引き剥がされて
「通路」となっていた
その後に廃止となったこの駅を訪ねてみたなら、無残にもステンドグラスで飾られていた駅舎への通路が取っ払われて“ただの通路”に成り下がり、悲哀の感情のみが心に漂うのであった。
北里駅の跡はモニュメントに
様変わりしていた
その前は改良された国道となり
その前は改良された国道となり
車は目もくれる事なく走り去る
:
これを目にした時
これを目にした時
「夢の跡」を彷徨う自らがいた
さて、この《北里》駅周辺の集落には、医学の礎を築いた北里柴三郎博士の生家と、博士の文献を保管した《北里文庫》がある。 駅から徒歩10分程なので行ってみよう。
この地よりの偉人
北里柴三郎博士の生家
博士の文献が保管されている
北里文庫
・・《北里》駅からであるが、あの時の私はこの駅から終点の《肥後小国》駅まで線路を伝って歩いた事を憶えている。 それは、最終列車を撮影する為である。
線内で最も有名な
幸野川橋梁をゆく
九重連山を望むコンクリートアーチ橋を渡り小国杉の美林の中を歩いていくと、大きく右へカーブして小国の市街地が視界に入ってくるだろう。 程なく、《肥後小国》駅だ。
街は大きく活気があり、街の中心にあるバス停留所からは、各方面の観光地に向けてバス路線が充実していた。 しかし、街外れの終着駅には、人はほとんどやってこない。 旅情を誘うポスターの笑顔が侘しい限りである。 終着駅もまた、取り残された情景であった。
地元の人にも路線名を誤読されていた
宮原線の終着駅・肥後小国駅
肥後小国駅の思い出・・
かつての駅通りは集落街の外れにポツネンとあって、町に住む人で
さえ『みやはらせん』と誤読する程に忘れ去られた存在だったのに、
今や駅跡は道の駅となり、国道が交差する街の中心となっていた
駐車許容台数以上にやってくる車、
ガラス張りのギラギラしたドーム型の道の駅施設、
御土産物屋に名産品売り場や人気のアイスクリーム、
その脇にほんの僅かに駅跡だった事を示すモニュメント
過ぎ行く時の無常を、ここでも違う形で見せつけられた
この鉄路は、果たしてロマンチックな“高原鉄道”であったのだろうか。 いや、それは人目を避けた“日影の細道”だったのである。 でも私は、この路線を“日影の細道”と称したくはない。
夢とロマンを乗せた“高原鉄道”と思っていたいのだ。
肥後小国駅に227Dが入線する
この列車は折り返して最終列車というには
この列車は折り返して最終列車というには
早すぎる16:43発の228Dとなる
“高原鉄道”で夢を紡いだ後、湧き出でる湯の里・《小国》で旅の疲れを癒して、最終列車と呼ぶにはまだ早すぎる16:43発の《豊後森》行に乗り込む。
宮原線の沿革と
いで湯の里・小国のご案内
※ 詳しくはメインサイトより『高原鉄道・旧国鉄宮原線』を御覧下さい。
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No title * by 蓬莱人
いいねエ~~。寂しい夜の駅、郷愁をそそりますよ。
No title * by tom
こんばんは
乗ったけどなくなってしまった線、乗りたいけど乗れなかった線。いろいろあります。
最も行きたかったけど行けなかった路線は宮原線です。湧蓋山のお立ち台も良いですが、麻生釣駅の風景も素敵です。やはり駅寝をされたんでしょうか?
乗ったけどなくなってしまった線、乗りたいけど乗れなかった線。いろいろあります。
最も行きたかったけど行けなかった路線は宮原線です。湧蓋山のお立ち台も良いですが、麻生釣駅の風景も素敵です。やはり駅寝をされたんでしょうか?
No title * by 風来梨
蓬莱人さん、こんばんは。
この漂う郷愁に誘われて、この路線には何度も足を運びました。
でも、「もう30年も昔の事となってしまったのか~」と思うと、また哀愁を感じてしまいます。
もう戻らない若き日の事を思う哀愁に・・。
この漂う郷愁に誘われて、この路線には何度も足を運びました。
でも、「もう30年も昔の事となってしまったのか~」と思うと、また哀愁を感じてしまいます。
もう戻らない若き日の事を思う哀愁に・・。
No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。
廃止までの2年間を通い詰め追っかけた・・、私には『青春の路線』でした。 それでも、悔いは幾らでも出てきます。
手ブレをコイだ幸野川橋梁の写真のリベンジがしたかった・・
湧蓋山バックの写真をもっと撮りたかった・・
哀愁の駅・町田をもっと撮っておくべきだった・・
北里駅のステンドグラスも撮っておくべきだった・・etc
まぁ、贅沢な後悔なのではありますが・・。
ちなみに、訪れた5回の全てで麻生釣での駅寝です。
いゃぁ・・、若かったなぁ。 麻生釣駅の駅寝にまつわる面白ハプニングがあるので、それはまたいつの日にか『路線の思い出』にて・・
廃止までの2年間を通い詰め追っかけた・・、私には『青春の路線』でした。 それでも、悔いは幾らでも出てきます。
手ブレをコイだ幸野川橋梁の写真のリベンジがしたかった・・
湧蓋山バックの写真をもっと撮りたかった・・
哀愁の駅・町田をもっと撮っておくべきだった・・
北里駅のステンドグラスも撮っておくべきだった・・etc
まぁ、贅沢な後悔なのではありますが・・。
ちなみに、訪れた5回の全てで麻生釣での駅寝です。
いゃぁ・・、若かったなぁ。 麻生釣駅の駅寝にまつわる面白ハプニングがあるので、それはまたいつの日にか『路線の思い出』にて・・
No title * by 風来茄子
こんばんは。だだの一度とはいえ乗れたのはあの時期の私としては奇跡的なことで、甦る記憶とともに懐かしく思い出されます。夕暮れの宝泉寺駅の寂しい佇まい、最終列車で降り立った見知らぬ街の小さな終着駅。情報だけを頼りに探し出した古びた旅館・・・そして翌朝の高原列車の爽やかな風情も。列車折り返しを利用して麻生釣、町田の両駅に降りている筈なのですがそれすら記憶が曖昧で定かでなく年月の流れに埋もれてしまっています。懐かしさと同時に何やら幻のような、追憶の彼方の出来事に感じられてしまうのです。
No title * by 散位 アナリスト杢兵衛
いいですね。なんか旅した気分です。
ナイス
ナイス
No title * by 風来梨
殿下・・、御下向賜り有難きめいわ・・もとい、恐れ入り奉りまする。
九州・宮原が落城した頃は、まだ殿下は天下に覇権を轟かす以前の事でごさいましたなぁ。
その頃は、遠出御法度という閉門蟄居に似たお暮しをされていましたなぁ。 まるで、東照大権現・家康公と同じ生い立ちをなされておいでになりますなぁ。
その時にアリの如く地を固められた殿下と、「キリギリスの生き方万歳」と、学業をサボり遊び呆けたワテとの差が如実でございまするなぁ。
「夢叶うなら、あの頃の勢力をもう一度・・」と、毎夜枕を涙で濡らすワテ・・。
九州・宮原が落城した頃は、まだ殿下は天下に覇権を轟かす以前の事でごさいましたなぁ。
その頃は、遠出御法度という閉門蟄居に似たお暮しをされていましたなぁ。 まるで、東照大権現・家康公と同じ生い立ちをなされておいでになりますなぁ。
その時にアリの如く地を固められた殿下と、「キリギリスの生き方万歳」と、学業をサボり遊び呆けたワテとの差が如実でございまするなぁ。
「夢叶うなら、あの頃の勢力をもう一度・・」と、毎夜枕を涙で濡らすワテ・・。
No title * by 風来梨
アナリスト杢兵衛さん、こんにちは。
傑作(ナイスって呼び方を元の傑作に戻して欲しい)を頂きまして有難うございます。
九州の鉄道を思い返せば、必ずこの路線の姿が思い浮かびます。
この路線は、私の青春の1つだったのだから・・。
傑作(ナイスって呼び方を元の傑作に戻して欲しい)を頂きまして有難うございます。
九州の鉄道を思い返せば、必ずこの路線の姿が思い浮かびます。
この路線は、私の青春の1つだったのだから・・。
No title * by ●
はじめまして。
アーチ橋を渡る写真が美しかったのでコメントさせていただきます。
自分の場合、宮原線現役時代には間に合わず、訪れたのは廃線数年後でした。
それでもアーチ橋と湧蓋山の美しさは印象に残っています。
いい写真を色々とアップしていただきありがとうございました。
アーチ橋を渡る写真が美しかったのでコメントさせていただきます。
自分の場合、宮原線現役時代には間に合わず、訪れたのは廃線数年後でした。
それでもアーチ橋と湧蓋山の美しさは印象に残っています。
いい写真を色々とアップしていただきありがとうございました。
No title * by 風来梨
●さん、こんばんは。
見て頂いて有難うございます。
また『傑作』も頂きまして嬉しい限りです。
この宮原線は私が高校時代に廃止になった路線で、かなり熱中した路線です。 それは、ある雑誌で見た荒涼とした冬の高原地帯をゆく宮原線列車の写真に虜になってから・・です。
私の中では、今でも高原鉄道・宮原線の姿が思い描かれます。
それは写真に残せた幸運と、もっと撮ってれば・・という後悔とが錯綜してますね。
見て頂いて有難うございます。
また『傑作』も頂きまして嬉しい限りです。
この宮原線は私が高校時代に廃止になった路線で、かなり熱中した路線です。 それは、ある雑誌で見た荒涼とした冬の高原地帯をゆく宮原線列車の写真に虜になってから・・です。
私の中では、今でも高原鉄道・宮原線の姿が思い描かれます。
それは写真に残せた幸運と、もっと撮ってれば・・という後悔とが錯綜してますね。