風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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物事を正しく理解できない奴ほどトンチンカンな事をいう 困ったもんだ(『長篠の戦』のディベート)

物事を正しく理解できない奴ほど、トンチンカンな事をいう。 困ったもんだ。 まぁ、今回の事例は武田と織田・徳川連合軍の長篠の戦で、幸いな事にトンチンカンな事を言っても人畜無害なのであるが。
それでは、そのトンチンカンな記事と、この男の矛盾が出てボロ出しまくりの主張をば・・。
一応、匿名にしときますね。 アホの名前を出しても仕方ないので。
 
ちなみに、この男のトンチンカン発言を赤色で、ワテの突っ込みを青色で表示しますね。
 

 
連合軍は武田の兵隊が遠くにいるうちは柵の前にいて、迫れば柵の内側に引いて戦ったのだと言われています。 このようにして武田軍を翻弄しつつ、出血を強いるのが連合軍の作戦だったと思われます。
武田軍は馬防柵の末端から後ろに回り込んで突破を図る作戦だったようです。
 
はぁ? 圧倒的な戦力差があるのに、何故にそんな事するのよ? 突破を図るのはいいけど、それなら何故に武田は戦線を拡大させたのよ? 突破を図るなら戦力一点集中が基本だろ?
 
良く謂われるのが、「武田軍に戦意は無く、勝頼が暴走したのが敗因だ」ですが、どうもそうは思えないんですね。 戦意が無いのに8時間も合戦したのでしょうか? 戦闘は午前6時に始まり、勝頼撤退でケリがついたのは午後2時でした。 武田軍は15,000のうち、10,000人が戦死したことになっていますが、多すぎると思います。 長篠城の抑えに3000人残しているから、10,000人の戦死者があれば完全に殲滅されたことになります。
 
史実は武田の負けが決まっての撤退戦で、だからそれだけの被害が出たのと、これ程の規模の軍勢が合戦に及んで2~3時間でケリ着くと思ってるの? 但し、戦死者に関しては、足軽達の逃散も戦死者として含めた公算大だね。
 
武田軍はその後も軍事行動を起こしていますから、殲滅されてしまったのでは話が通りません。
連合軍側、武田軍側とも戦意は高く、この際徹底的にやってやろうと思っていたのではないでしょうか?
 
もしかして、武田は織田・徳川連合軍とガチンコ勝負をしたとでも? だから、武田が城を落とせずにいると、織田の策略にハマって設楽原に引きずり出されたんだってば・・。
 
戦意が無いのは武田軍の御親類衆である、戦線中央を受け持った一条信竜、後備の穴山信君などです。
武田信玄が死んでから四朗勝頼が後を継ぎましたが、中々権威を確立できませんでした。 御親類衆が言う事を聞かなかったのです。 家臣団は勝頼の権威確立を願っていたのだと思います。 だからこの際、連合軍に大勝利を納める事によって、勝頼の権威を高めたいと狙ったのが家臣団だったのではないか?
 
その証拠に家臣団が頑張ったから戦死者が多いんでしょう。 内藤昌豊・山県昌景・馬場信房・土屋昌次・真田信綱、昌輝・甘利信康・原昌胤。いずれも錚々たる武田の武将ですね。 これだけの忠勇なる家臣が戦死したので、それ以後武田はガタガタになっていったのですね。 信長・家康は勿論、武田軍の殲滅を狙っていたでしょう。
 
はぁ? ヤル気満々だったから戦死者が多かった? アホじゃねぇの? どういう脳ミソの構造しているの? いっぺん解剖して見てみたいわ。 事実は武田軍の敗走で、重臣達に討死が多かったのは、大将である勝頼を逃がす為に囮や楯、身代わりとなったのだよ。 戦で頑張って軒並み戦死する訳ないだろうが? 大奮戦だったとすれば、戦死するのもいれば大手柄を上げるのがいるのが普通だよ。
 
連合軍は36000です。それが陣地に籠っているので武田軍に出てきて貰わなければ合戦にならないのです。 なんか日華事変の支那軍のようです。 だからいろいろ日本軍に対して仕掛けたように、織田徳川軍も武田軍に調略を仕掛けます。
 
「佐久間信盛が裏切るから、それに乗じて攻めれば勝てるぞ」とか「梅雨明けはまだ先だから織田徳川軍は頼みの鉄砲は使えないぞ」とか「信長は実はやる気が無いんだ。だから柵に籠って出てこないんだ」とか「徳川兵は強いが織田は弱い(=事実だ)」とかです。 決定的なのが、合戦当日早朝に鳶の巣山砦を徳川軍の酒井忠次隊が陥落させたことでしょう。 武田軍は後方に徳川勢に回り込まれたので退路を断たれる形になり、どうでもここで勝利しなければならなくなったのです。
 
はぁ? 後方を取られた(挟み撃ちにあった)時点で負け決定なのよ。 これが織田方の策略だよ。
それにハマって武田勢は織田・徳川の思惑通り、設楽原に逃げてきたのだよ。
 
竹広の激戦地から見た連吾川と徳川陣地です。 遠くに見えるのは建設中の第2東名です。 右手は山県昌景陣地ですが、非常に近いんです。100mくらいしか離れていません。 連合軍はこの川を堀とし、三線からなる馬防柵を城壁として、今でいう野戦築城で迎え撃ったのでしょう。 いよいよ日華事変の上海戦線を思い出します。川が呉淞クリーク、柵と鉄砲が塹壕とトーチカ陣地ですね。 日本軍は上海戦線を浸透戦術で突破しましたが、武田軍は失敗しました。
 
それは中央が内藤昌豊の戦死以後、戦意に劣る御親類衆勢が崩壊してしまった為でしょう。 武田軍は少ない兵力で連合軍を包囲するかのように運動していました。 中央が崩壊すると南北は分断され敵中で孤立するからですね。 それを見た信長は正午ごろ総攻撃を命じます。 それで勝負が着きました。
 
なぜ、武田軍が優勢なる織田徳川連合軍に総攻撃を仕掛けたのか? いろいろ説がありますが、だいたいこんなところではないかと思います。
 


これに対してワテが以下のコメントを発したのが、ディベート(相手がアホ過ぎてディベートにもなってないけど)の発端です。 これ以降、腹の捩れる程の間抜けなトンデモ発言が、この男から連続発射されるのである。
 
長篠の戦は、すでに武田方の敗北が決まっての戦線離脱・退却戦だったそうです。 この時代の軍勢は退却にすごぶる弱く、だから負け軍と勝ち軍の差が大きくでるのですね。 「しんがり=殿」は味方軍勢を逃がす為に死を覚悟した名誉な拝命だった事からも分かります。 何でも徳川の家臣の酒井が長篠城を包囲する武田勢の背後を突き、挟み撃ち状態になって退却を余儀なくされたそうです。 それを織田・徳川連合軍が迎撃したのが真相のようです。
 
それに対してこの男はこう切り出してきました。

諸説いろいろありますが、織田軍の金ヶ崎の退却戦では巧く逃げた例もあります。 退却戦では一部の部隊を犠牲にしますが、飽くまでも一部の部隊であり、長篠の様に名だたる諸将が多数討死するようでは、初めから退却戦だったという説には賛同しかねます。 確かに犠牲は退却時に多く出ますが、それは組織的退却が出来ず、算を乱しての場合でしょうね。 関ヶ原の島津軍は明らかに逃げ遅れたので、殿さまを逃がすのに多くの家臣が死なねばなりませんでしたが。
 
早速、突っ込みどころ満載です。

お言葉を返すようで申し訳ありませんが、歴史を正しく認識する為にも、私は設楽原でのガチンコ勝負説は賛同できかねます。 そもそも戦の原因は、長篠城主の奥平が徳川に寝返った事です。  それを討つ為に武田勢は兵15000で包囲したのです。 それが、城も落とさずに設楽原で待ち構える倍以上の敵に突っ込むなど有り得ません。

従って真相は、長篠城を取り囲むも城は落ちず、そのうち密かに山林を回って攻めてきた酒井勢に背後を突かれて、武田軍は総崩れとなって退却を余儀なくされたのです。 退却となると、三方を山に囲まれた要害の長篠城からの退却ルートは織田・徳川38000の待ち構える設楽原以外になく、武田軍は強行突破を選択したのです。

重臣の多くが討ち死にしたのは、勿論大将の勝頼を逃がす為。 大将の身代わりとなって、敵兵を引き寄せたのでしょう。 また、金ヶ崎の事は上手く逃げたというより、追撃する朝倉軍の失態という方が正しい認識だと思います。 織田・徳川とのガチンコ勝負説はロマンはありますが、本当の戦として当てはめるならマンガ過ぎますね。 戦に敗れたら、家が滅びるのだから。
 
まぁ、最初は優しく、この男の矛盾点を諭してやるつもりでした。 でも、これよりこの男によるトンデモ説のオンパレードとなってきます。 なお、この男のスーパー『トンデモ説』とワテのそれに対する突っ込みを太字で現しますね。
 
そうでしょうか? それならば酒井勢をを駆逐して帰れば良かったのではないですか? 酒井勢はたったの2000.それを駆逐して退路を確保する方が遥かに容易だったのではないでしょうか?
2000の敵に回り込まれたから34000の敵軍主力を突破する必要があったとは、何か変な話です。 さらに敵軍主力は砦に籠って出てくる気配では無かったのですから。
 
早速、スーパーゴールの2連発です。 それはそれは見事なゴールですね(笑)。
 
呆れたワテは

あの~、酒井勢は山から奇襲をかけたのですよ。 ただが2000といいますが、背後から奇襲を受けて反撃なぞあの時代の軍勢では無理です。 そして、酒井を討った所で、山に15000もの大軍をどう逃がすのでしょう?  また、酒井を討ちにいった所で城方が背後から攻めてきますよ。  長篠城が落ちなかった理由は、城方も鉄砲を持ってた事です。 酒井を攻めて背中を向けたら、城から一斉射撃を食らって全滅しますよ。 負けがわかったら、足軽達は蜘蛛の子のように逃散しますので。

自説を通したい気持ちは分かりますが、いうほどにボロがでてますよ。 それは、ガチンコ論が矛盾に満ち溢れてるからです。 どんなアホな大将でも、あの状況で城も落とさず決戦には挑まないし、挑む意味も皆無なのです。 それが、敢えてどんなアホな大将ですらしない事を(武田勢が)したのは、背後から奇襲を受け挟み撃ちにあってそうする以外になす術がなかったからです。

武田としては、城を落として織田・徳川を動かさねば勝ちはなかった訳です。 鉄砲は武田方もありましたが、鉄砲は迎撃側や城方に有効な武器で、だから織田軍は動かず、武田軍を動かせたのですね。
 
(ワテの突っ込み)
でも、どこをどう考えたら、このような思考を思いつくのだろう。 予期せず無防備な背後から奇襲を受けて、反撃して駆逐するって? 武田軍はスーパー戦隊かよ? 後ろに武器でも備えたロボットなのかよ? ゲームや漫画の見過ぎ!
 
それに対してこの男は、更にスーパーゴールを決めてきます。 アルゼンチン・メッシやブラジル・ネイマールを遥かに凌ぐ恐ろしきゴールゲッターです。
 
酒井勢が奇襲をかけたと言うより、戦線を拡大したと表現する方が正しいでしょう。 しかしそれは本隊ではなく支隊でしたよ。 支隊救援に本隊から増援を出すことは可能なのです。 また酒井勢も猪武者ではないので、本隊に突入するほど馬鹿ではありません。
 
山へ逃がすって何を言ってるんですか? 道ってものがあるんですよ、 信濃から道を通って長篠城を囲んだのですよ。 当然でしょう? 道路を確保すれば悠々撤退できますよ。 城方は今日落城するか明日落城するかまで追い詰められているので、反撃する力なぞありません。事実酒井勢が支隊を奇襲しても呼応して攻め込んではいません。
 
長篠合戦のような形態を「後詰め決戦」と言います。 城を囲んでおいて敵軍主力を誘い出し、その主力と決戦する方法です。 この時代多く用いられた戦法で、秀吉の備中高松城攻めも、本能寺の変で決戦には至りませんでしたが、織田軍主力の増援を得ての後詰め決戦です。 だから城は弱らせておかなければなりませんが、落城させてはならないのです。
 
落城させると遠江の高天神城攻防戦(第一回目)の時の様に、織田徳川主力は帰ってしまいます。 これでは決戦になりません。 15000の兵力で力攻めすれば長篠城など500人しか居ないのですから、落城させることは簡単でしょう。 長篠城は食うに食なく撃つにタマなくという状態にまで追い詰められていたのです。 適当に弱らせておくという、ここまでは武田軍の思惑通りだったのですよ。

武田軍が撤退したいと思えば、酒井勢だけを駆逐して、信州との交通線(現国道151号線)を確保すればよいのです。 そうしたら整然と撤退できましたでしょう。 何も34000に突入していく必要などこれっぽっちもなかったのですよ。 だから最初から撤退せんでしたという説は成り立たないんですよ 。
 
(ワテの突っ込み)
あぁ、もう・・突っ込みたい、突っ込みたい! コイツ思いっきり頭悪いわ!
酒井勢が奇襲をかけたと言うより、戦線を拡大したと表現する方が正しいでしょう。
だから、砦にて鉄砲隊を揃えて待ち構える織田・徳川勢が、何でわざわざ酒井を使わして戦線拡大せにゃならんのよ? アンタのその説なら、織田・徳川勢は砦で火縄銃に火をつけたまま待ちぼうけだよ。
 
支隊に本隊から支援を送る? 奇襲受けたのが本隊でなく支隊だったので影響なしとでも?
来るはずのない(と想定していた)所からいきなり襲われたら、大混乱ですわ。 それが支隊であっても・・。 大混乱して総崩れ状態になって、そんな事できる訳ないだろう。 もう、アンタの頭が『神』の領域のズバぬけた悪さだと解ったよ。 第一、混乱したら、元々農民である足軽が浮足立って逃散し始めるよ。 この状態を『総崩れ』というのだよ。
 
山へ逃がすって何を言ってるんですか? 道ってものがあるんですよ、 信濃から道を通って長篠城を囲んだのですよ。当然でしょう? 道路を確保すれば悠々撤退できますよ。
 
道を確保? 山城に15000の人馬を含めた大軍が容易に通れる道なんかある訳ないだろ?
もし、そんな道を通せば、城の存在意義がなくなるだろうがよ。 昔の道を今のハイキングコースなんぞと完璧に混同してるよ、このお方。
 
「信濃から来たから、北の山を通った」って? アホですか! なら、何で「三方山に囲まれた要害・長篠城」なんだよ。 普通は城を囲もうとした武田勢は、織田・徳川勢が後詰めで集結する前に通ったと考えるし・・。
 
武田軍が撤退したいと思えば、酒井勢だけを駆逐して、信州との交通線(現国道151号線)を確保すればよいのです。 そうしたら整然と撤退できましたでしょう。
 
江戸時代に入って商業が盛んになった平穏時ならいざ知らず、現国道151号? 山城と主要街道を通りやすくすれば、いつでも敵に「おいでください」といってるようなモノだろうがよ。 頭大丈夫? かなり頭イタイぞ、アンタ・・。 それと、アンタの『当然』は『願望』で、アンタの『常識』は『非常識』だね(笑)。
 
背後から奇襲を受けて、酒井勢を駆逐? 武田勢はどんなスーパー戦隊なんだよ? 予期せぬ無防備な背後から襲われて易々と撃退できるなんて、どんな人間だよ。 人間の構造を理解してる? してねえだろうな。 「武田勢ほ15000もいるので、酒井勢の2000くらい易々・・」と、数の上だけで頭にお花を咲かせてるのだろな。
 
何も34000に突入していく必要などこれっぽっちもなかったのですよ。 だから最初から撤退せんでしたという説は成り立たないんですよ 。
 
奇襲を受けて大混乱をして、城の建つ周囲の地形状況は『三方囲まれて、山側への短時間の撤退は不可能』となれば、撤退路は唯一の退路の設楽原しかないだろうがよ。 この『三方囲まれた城』を否定したら、戦国時代の山城における戦手法の全否定となるよ。 それとも城を囲んだまま全滅する? 「これっぽっちもない」って、結果は設楽原に突貫しただろうがよ。 「これっぽっちもない」のは、アンタの頭の物事を正しく分析する能力だよ(笑)。
 
もうコイツは救いようのないアホだ・・と悟ったワテは
貴方は、戦術というものを全く理解してませんね。 支隊あろうがなんだろうが、予期せぬ内に背後から攻められると総崩れになりますよ。 人間の部隊なのだから。

そして、どんなアホな大将でも、城を取りに行って城を落とさずに総攻めなんかする訳ないんですよ。
なぜなら、それをすれば全滅必至の大敗を喰らうからです。 貴方の説の「アホな大将論」で城の包囲を解き総攻めすると、必ず自由になった城方が無防備な背後を攻めてきて、瞬く間に総崩れです。
何度もいうように、貴方のガチンコ論は、自ら挟み撃ちに合う愚行中の愚行です。
 
戦はゲームやマンガじゃないんだから、背後を突かれても無敵のヒ-ロー武人なぞいないのですよ。
簡単に落とせるなら、なぜ500の長篠城を落とさなかったのか?  なぜに鳥居スネエモンのような事をしてまで城を落とそうとしたのでしょう?
 
長篠城には武田の三倍以上の鉄砲と馬を撃つ大鉄砲があったのですよ。 城が落ちれば包囲する必要もなく、後詰めにきていた織田・徳川も意味を失い兵を引くでしょう。 要するに城を落として裏切り者の奥平の首を刎ねれば、高い確率で戦を回避して武田は領土保全の目的を実現できたのです。 でも、事実は落とせなかったのです。 それを織田徳川と雌雄を決したい(ガチンコ勝負がしたい)と自身の願望をあわせるとは幼稚ですね。 その幼稚な願望で犠牲になったとすれば、武田の将兵は浮かばれませんよ。
 
私の退却戦説を否定するなら、なぜに城も落とさずにその包囲を解き、挟み撃ち上等!の自殺願望のような作戦を実行したのか?  それで何か得るものがあったのか?という事と、本気で三方囲まれた山側に15000をどう逃がすのか?という事。 逃がすのに時間がかかると間違いなく全滅ですね。
 
最も、武田軍が騎馬隊を人が歩くのがやっとの山林(今のように山道として整備されていませんので念の為)を難無く通って逃げおおせる「ゲームの世界の軍勢」なら、貴方の「アホな大将さえもしない作戦」も上手くいくかもしれませんが(笑)。 山に逃げたら最後、下り口を押さえられて全滅です。
 
それと、見たいものを見たいように見るのは、脱原発のお猿さんと一緒ですね(笑)。 「道はある、信濃からきたから」ですか。 普通は信濃から来ようがどこから来ようが、未だ織田・徳川が後詰めする前の設楽原を通ってきたと考えますが。 戦をする前から困難な進軍をする必要ないし。
 
よしんば山に道がありこれを15000の人馬で通ったとしたなら、「道があり敵襲もありえる」と、なぜに酒井の奇襲になんの想定もなかったのか? そして、大軍の人馬が通れる道があったら、「三方山に囲まれた長篠城ってのは大嘘ですね(笑)。
 
そして、そんな道があって、奇襲も酒井の支隊程度の微々たるものなら、なぜに蹴散らしてその道を通って国に戻り、軍勢を立て直さなかったのかな? もし織田・徳川とガチンコ勝負をするなら、一度国に戻って立て直した方が勝てる確率も上がりそうなものだけど。 なんか言えばいうほどにボロが出てますね。
脱原発のお猿さんと問答してるみたいです。
 
貴方が山に15000の兵を逃がす手法と、背後から奇襲する部隊が本隊でなく支隊なら、予期せず無防備でも大した被害を受けずに蹴散らす事がほとんどであると実例を示して証明しないと、自らの説を通したいだけになります。 でもこれは、貴方のいう脱原発のお猿さんと一緒なのでは?

してこれを証明できないのであれば、15000の軍勢が退却できる唯一のルートだが倍以上の敵が待ち構える設楽原を大将の勝頼を逃がす事だけを目的に強行突破したという私の説(というより、歴史研究家の検証によって確証されてるし)を否定できなくなります。  逆に貴方のガチンコ説は、なんの利もない説として死に体となります。
 
戦をしたい(させたかった)のは貴方自身じゃないですか! 武将たる者、できる限り戦は避けるものですよ。 それは家と家臣・領土領民を守り維持する為です。
 
雌雄を決する為に、ワザと長篠城を落とさなかった?  お笑いです。 例え武田にいい条件で雌雄決戦をしても、良くて痛み分けです。 まずは滅亡の道をたどるでしょう。 そして残ったとしても、これが原因で家が乱れます。 もしそんなアホ大将がいても家臣が諌め、最期は誅殺するでしょう。
 
さっきも言ったように、長篠城を落として織田・徳川に兵を引かせれば、無傷で領土保全の目的を達する事ができ、無傷という事は「最強武田騎馬軍団」を誇示し続ける事がてきる訳です。 そうすれば、織田・徳川の対応次第では織田・徳川より離反して武田方に付く諸将兵も出てきます。
 
戦国時代といえども、勝っても損害を受ける戦は最終手段です。 まずは、領土保全と家臣の忠誠の確保です。  貴方の思考は謀反で滅ぶアホ大将そのままですね。 それと、城兵1000で25000相手に落ちなかった例ありますよ。 出羽合戦の長谷堂城です。 内容は御自身で調べて下さい。
 
貴方は「長篠城を包囲したのは織田・徳川に後詰めを出させる為で城を落とさないのは、武田の思惑通り」とバカ丸出しな事を言っておられましたが、なら思惑通りでなぜにあんな大敗となったのか?
そもそも貴方の説で武田が勝とうとするなら、織田・徳川軍が後詰めに来陣した直後に攻勢をかけるハズですよ。 敵が来陣して馬防柵を作るのをなぜに許したのでしょう? これで総攻めというなら、ただのバカです。
 
そしてなぜに鳥居スネエモンのエピソードがあるのか?  城を落とすのが主目的でないならあのエピソードは有り得ません。
 
そしてガチンコ決戦なら、なぜに城の後方で酒井隊の奇襲を受けたのか?  全軍総攻撃でしょ? 
武田軍は出撃していないハズなのに、なぜに城の後方で奇襲を受けたのかな?
 
以上から、城を取り囲むも落とせず、織田の策略にハマって酒井隊の奇襲を受けて総崩れとなり、三方山で唯一の退路である設楽原におびき出されたという事が事実です。
 
備中高松城などでまたボロを出されているようですが、貴方のいうおびき出しは、城を取り囲む側(羽柴秀吉)が相手(毛利)より巨大勢力でなければ成り立ちませんよ。 ガチンコ勝負したとして、確実に勝てる勢力でないと無意味だからです。
 
事実、毛利は秀吉の要求に従って清水宗晴の切腹による和議に応じ、毛利の身の上を保証させたのです。
まぁ、おびき出すというより屈服させる手段って事です。 従って、これはガチンコ勝負を誘う手段ではないです。 でも、長篠の戦における武田は織田・徳川軍の1/2以下で、決戦を挑んでも奇襲でもかけて成功しない限り敗北必至で、この手段は策略として成り立たないのですよ。
 
貴方がアホな説を言い出すのは、武田の思惑しか頭にないからですね。 織田・徳川勢がなぜに動かなかったのか、なぜに馬防柵を立てたのか、この戦いにおける織田・徳川の勝つ為の策略は何だったのか・・と総合的に考え、矛盾点(貴方の主張のほぼ全てが矛盾点だった(笑))を排除していくと自ずと史実が見えてきます。
 
と叩みかけたのだが・・
 
ここで(ワテの突っ込み)
城方は今日落城するか明日落城するかまで追い詰められているので、反撃する力なぞありません。
事実酒井勢が支隊を奇襲しても呼応して攻め込んではいません。
 
アホですか! 城方も鳥居スネエモンのエピソードにより「後詰の救援が来る」と血気盛んになってたし、武田勢が城を取り囲んだのが5月の始めで、設楽原の戦の勃発が5/21。 城の兵糧庫が消失したという事実はあるが、飢えて全滅する程ではないよ。 そして、酒井勢に背後を襲撃されて大混乱して退却を始めたので、城方が呼応して攻め込む必要などありませんよ。 状況というものの分析力が全くないね・・、アンタは。
 
だから言うように、弾薬が尽きてきている・・とはいえ、城が落ちるまでには至っていない・・という事ですよ。 そして、現に城方の大鉄砲を恐れて突っ込む事ができなかったのだし。
 
城は弱らせておかなければなりませんが、落城させてはならないのです。
城を落とさずに決戦をしたら、それこそ全滅必至でしょうが・・。 退路もなく、軍勢の集散を指示する指令部(本陣の事)を置く事も適わなくなる。 アンタは武田勢が血気盛んにやる気満々突貫した・・というが、司令部も設営できず、退路もなく、収束場(いわゆる、負傷兵の救護や休憩の場)もなく、奇襲を受けて混乱してる状態でそんな事できると思う? アンタのいう武田勢は間違いなく人間じゃなく、サイボーグかガンダム世界の『ニュータイプ』だな。 そして、アンタの頭も『ニュータイプ』(笑)。
 
そもそもこの戦の起こった訳は、奥平の寝返りだよ。 即ち、元々武田の領地だった訳だ。 その領地のシンボルが『城』だよ。 それを敵を後詰めに誘い出すだけのもので、落とす為のものではない? ホントに頭大丈夫? 精神病院に行って見てもらったら?
 
城を落とす事で、ほぼ全てが解決するよ。 裏切り者の奥平の首を刎ね、武田の領地と宣言でき、後詰めに来た織田・徳川は無意味なので、恐らくというか絶対兵を退くよ。 織田信長の語録として、『一兵たりとも損じずに武田を討つべし』との考えを明らかにしているし。
 
織田・徳川が兵を退くと武田は無傷で領地の奪還ができ、織田はともかく後詰めに失敗した徳川が窮地に陥る事になる。 徳川の信用が落ちて、徳川から武田に乗り換える城将が現れかねないからです。
そして、兵を退いた織田との関係もギクシャクしてくるよ。 普通、大将たるもの、このように考えますが・・ね。 「雌雄を決する為に、いざガチンコ決戦へ・・」なんて、ゲーム中毒のアホの考える事ですよ。
 
でも史実は城が落ちずに、逆に先程の織田信長の語録「武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と、一兵も損じず相手を殲滅するべく酒井勢を城の裏側に密か(軍議も通さぬ周到さだったという)に回し、奇襲をかけて武田勢を織田・徳川連合軍の前へ引きずり出す策を講じて、武田は見事にその策にハマって敗走したのですよ。
 
15000の兵力で力攻めすれば長篠城など500人しか居ないのですから、落城させることは簡単でしょう。 長篠城は食うに食なく撃つにタマなくという状態にまで追い詰められていたのです。
適当に弱らせておくという、ここまでは武田軍の思惑通りだったのですよ。
 
数の事だけ考えるからアホなんですよ。 いろいろな要因があり、それを含めて考えると武田勢は「落とせなかった」のですよ。 「後詰めが助けに来る」と血気盛んになり、大鉄砲で武田の騎馬隊を駆逐していく様に、武田は容易に攻め手を送る事が出来なかったのだろうね。
 
だから、もしガチンコ勝負というアホ極まる作戦をするにしても、「落とさずに弱めるだけ」で城を落とさないなんて有り得ないんだってば。 それは先程に記したように、退路もなく、軍勢の集散を指示する指令部(本陣の事)を置く事も適わなくなるからですよ。
 
それに思惑通り? 自軍の倍以上の軍勢を呼び込む事が『思惑通り』とは、頭がイカレてるな。
ヤバいぞ!アンタ・・。 まぁ、備中高松城の事を上げて理屈をコネてたが、そのアホ論説潰しは後ほどに。
 
何も34000に突入していく必要などこれっぽっちもなかったのですよ。 だから最初から撤退せんでしたという説は成り立たないんですよ 。
 
何度もいうように、『三方山に囲まれた城』に『15000の大軍が容易に退却できる道』は、アンタの悪い頭に咲き乱れるお花畑の世界の中以外にはないし、『奇襲を受けてもそれが本隊でなく支隊なら、奇襲した相手を容易に駆逐して、取って返して大攻勢をかける事のできるニュータイプ化された軍勢』も、アンタの悪い頭の中で形勢される妄想以外には有り得ないんですよ。
 
背後を攻められて大混乱となり、信長の策略通りに『唯一の逃げ道』である設楽原に釣りだされたのですよ。 即ち、『成り立たない』のは、アンタの思考形態なんですよ。
 
それでもアホは食らいつきます
(ここでゴジラのBGMを鳴らす)。
>大将の勝頼を逃がす事だけを目的に強行突破したという
勝頼は突破なんかしちゃいませんよ。 どこでそんなトンデモ説を拾ってきて、必死に言い募っているのか解りませんね。 穴山信君隊だって無傷で帰っているのです。 他の隊があれだけ苦戦した戦場を突破するにに無傷というのは、突破などしていないと言う証拠でしょう。

常識を以て考えれば、2000の敵に恐れをなして34000の敵に突入する奴が基地外です。
必要なのは常識ですよ。常識。

>なら思惑通りで、なぜにあんな大敗となったのか?  そもそも貴方の説で武田が勝とうとするなら、織田・徳川軍が後詰めに来陣した直後に攻勢をかけるハズですよ
それが本文で書かれている意思統一の欠如ですよ。 10000対34000で勝てるかどうか迷わない奴はいません。 それがために両陣営間では諜報合戦・謀略合戦が盛んに行われた訳です。 佐久間信盛が寝返るの寝返らないのと遅疑逡巡しているうちに、鉄砲が活用できる梅雨明けを迎えてしまった結果があの合戦です。 織田徳川軍は梅雨明けギリギリのタイミングまで戦を引き延ばしたというのが「天の時」です。
 
>貴方のいうおびき出しは、城を取り囲む側(羽柴秀吉)が相手(毛利)より巨大勢力でなければ成り立ちませんよ。
私は織田本隊の増援を得てと書いてありますよ。 都合の悪い所は読み飛ばすあなたの姿勢が歴史資料に対して謙虚だと果たして言えますか?
 
コイツ、完全に頭がワヤになっとるよ。
で、ワテの突っ込み
 
>大将の勝頼を逃がす事だけを目的に強行突破したという
勝頼は突破なんかしちゃいませんよ。 どこでそんなトンデモ説を拾ってきて、必死に言い募っているのか解りませんね。 穴山信君隊だって無傷で帰っているのです。 他の隊があれだけ苦戦した戦場を突破するにに無傷というのは、突破などしていないと言う証拠でしょう。
 
はぁ? なら何で勝頼は僅か数百の手勢で落ち延びたのですかね? 突破せずに設楽原にいたら間違いなく討死して首を上げられているだろうね。 トンデモはアンタの頭だよ。 もぅ、自説を通したいあまりに『キチガイ化』してるし・・。
 
穴山信君は無傷で帰ってる? 本文でアンタが「勝頼と仲が悪く、この戦の出陣も血筋衆なのでイヤイヤ出てきて、戦で不利が判ると勝頼をほっぽって戦線離脱した」っていってるだろうがよ。 記憶力もおかしくなった? もう、アンタの頭の悪さは病気で進行性なのだろうね(笑)。
 
その通り、穴山信君は武田が滅んで三か月後の本能寺の変では、堺で逃げる徳川家康の『かばん持ち』していた節操なしだよ。 言う通り、勝頼を見捨てて戦線離脱したから無傷なんだよ。 もう、自分の言った事にツバを吐く哀れな状態に陥ってるね。 アンタの頭・・。
 
常識を以て考えれば、2000の敵に恐れをなして34000の敵に突入する奴が基地外です。
必要なのは常識ですよ。常識。
 
普通に考えたならその通りですよ。 でも、アンタのガチンコ説は、何の策もなしに『ヤル気』だけで38000に突っ込んだ・・とのキチガイ主張じゃないですか?
 
それに、「退路が設楽原以外になく、奇襲を受け総崩れに陥ってる状態」と何度もいってるでしょ?
理解能力が皆無だね・・、アンタ。 よくその頭で今まで無事に生きてこれたね・・、感心するよ。
まぁ、アンタのお花畑な頭の中での武田勢は、『奇襲を受けてもそれが本隊でなく支隊なら、奇襲した相手を容易に駆逐して、取って返して大攻勢をかける事のできるニュータイプ化された軍勢』なのだからね。 まぁ、『キチガイ』に常識って言われても、全く説得力ないし。
 
>なら思惑通りで、なぜにあんな大敗となったのか? そもそも貴方の説で武田が勝とうとするなら、織田・徳川軍が後詰めに来陣した直後に攻勢をかけるハズですよ
それが本文で書かれている意思統一の欠如ですよ。 10000対34000で勝てるかどうか迷わない奴はいません。 それがために両陣営間では諜報合戦・謀略合戦が盛んに行われた訳です。佐久間信盛が寝返るの寝返らないのと遅疑逡巡しているうちに、鉄砲が活用できる梅雨明けを迎えてしまった結果があの合戦です。 織田徳川軍は梅雨明けギリギリのタイミングまで戦を引き延ばしたというのが「天の時」です。
 
はぁ? アンタのアホ極まる説の通り、15000で38000に突貫(ガチンコ)して勝つなら、常道として奇襲や夜襲をするだろうがよ。 織田・徳川が設楽原に着陣した直後を奇襲するなど、『勝てる策』を労するだろうがよ。 着陣した直後は統制も整っておらず奇襲をするには一つの狙い目で、勢力で劣る部隊が大物を食うにはこういう奇をてらった攻撃以外に活路はないのだよ。
 
それをしなかった・・という事で、ヤル気満々のガチンコは否定されました。 また、佐久間信盛の寝返りの工作をしてたのは事実として、なら何でその寝返りが確証しないまま設楽原に突っ込んだのでしょうかね。 信長が梅雨明けを待ってたのは事実だが、佐久間信盛の裏切りが確定していたら、梅雨明けを過ぎて仕掛けても織田・徳川は大混乱となり勝機を見出せるが、裏切り工作が確定しないまま突っ込んでも潰されるだけだよ
 
従って、武田が策を労すもそれが確定しないまま設楽原に突っ込んだのは、信長の思惑通りに酒井隊の奇襲を受けて総崩れに陥り、唯一の退路である設楽原に一か八かで突っ込んだ・・という以外に有り得ないだろうがよ。 普通ガチンコ勝負するなら、策を労して『勝てる確率』が高まった時に仕掛けるもんだよ。
あぁ、頭が『キチガイ』状態に陥っているアンタなら、自分が突っ込みたいと思った時に突っ込むんだろうけど。
 
>貴方のいうおびき出しは、城を取り囲む側(羽柴秀吉)が相手(毛利)より巨大勢力でなければ成り立ちませんよ。
私は織田本隊の増援を得てと書いてありますよ。 都合の悪い所は読み飛ばすあなたの姿勢が歴史資料に対して謙虚だと果たして言えますか?
 
きちんとワテの文読んでる? ワテの文は羽柴秀吉側が後詰めに来た毛利より大勢力なら、後詰め側を屈服させる手段・策略として城を落とさずに弱らせる高松城のケースもあり得るよ・・と書いてあるし。
但しこれは、後詰めを誘い出す手段でなくて、相手を屈服させる策の一つだと言ってるのですよ。
 
それは、この高松城が秀吉にとって『必ずしも落としたい城』でない事が条件として加わります。
でも、武田勢における長篠城は、戦略上にも領地保全上でも、体裁(裏切者の奥平の処罰)の上でも『必ず落とさねばならぬ城』だったんですよ。
 
従って、後詰めの織田・徳川勢の1/2にも満たない長篠の戦の武田勢においては、この例は当てはまらないと言ってるのですよ。 ここでも、アンタの物事の理解能力の欠如が証明されたね。
 
で、総括
戦国時代を全く理解しないアホとディベートするだけ無駄でした。 山城に両方から大軍勢が容易に通れる道があるなんて、頭大丈夫?なレベルですよ。 双方から大軍が容易に侵入出来れば、城の意味ないじゃない。

それに、兵力的にも状況的にも不利窮まる武田勢が何の策も労さずただ突撃するなど、低レベルな貴方が大将以外にはありえませんよ。 そんな事すれば全滅です。 勝頼が逃げのびる事ができたのは、織田方の策に落ちて敗走するも、家臣・重臣が囮、身代わり、楯となって勝頼を逃がしたからですよ。
 
だから、普通では少数勢力ではタブーの戦線拡大が武田側で行われたのでしょうな。 もちろん、戦線を拡大して勝頼隊の居場所を解り辛くして、大将の勝頼を設楽原より逃がす為です。 要するに、重臣達が戦線の各地に散らばって、それぞれに「我れが武田の御大将・勝頼なり」と言って敵兵を引きつけたのでしょうね。
 
それを、酒井勢の襲撃を「織田による戦線拡大」だって・・。 腹がよじれる程のお笑い戦略をお持ちの御仁だね、アンタ。 設楽原の下方で鉄砲を構えて武田勢を待ち構える織田方が、敵を撃ち漏らす確率の高くなる戦線拡大などする訳ないだろうがよ。 もしかして、そこらへんを徘徊する犬猫より頭悪いんじゃない?

アンタの説(ヤル気満々のガチンコ説)は、後詰めに来た織田方が何もせずに砦に篭ってるだけでないと成立しないのですよ。 でも、そんな訳ないでしょうが。 織田・徳川も勝つ目論見で策を得て後詰めに来てるんだよ。 まぁ、武田側だけ考えるから、「織田・徳川方が何にも考えす『武田の思惑通り』後詰めに来て、何をするでもなく待ってるだけ」ってオチになるんだよ。 即ち、頭が悪すぎるんだよ! アンタ・・。

おバカなアンタの説の通りに、あらゆる点で不利な武田軍が全滅必至で有り得ない総攻めするなら、夜襲や奇襲、相手の侍大将を抱き込み混乱させる策を労するなど、勝つ為の何かをするはずなんですよ。
そして、その策が確定する(この場合は、武田の総攻撃と同時に佐久間の裏切りが確実に行われる確約)まで動いたらダメなんだよ。 それが全く見受けられないのは、武田が織田方の策にハマって釣り出されたと考える以外にないでしょ。

これ以上アホを相手にするのも疲れるのでもうヤメにしようか・・。
 




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No title * by 風来梨
殿下・・、この件に対して殿下の御裁定を欲しまする。
あの『阿下喜の誓い』の時よりの殿下の愛しき家臣・梨より。

ここまでトンチンカンな事を言って歴史を愚弄するこのバカを許せなかった衝動からこの記事を書いちゃいました。

モノ事の常道やセオリー、仕来たりや当時の人の思惑など、人の本分をここまで無茶苦茶に解釈できるこのアホは、頭が人間のレベルに達していないし。

言うなれば、こうすれば必ず滅びる、必ず負ける・・、絶対に有り得ない事柄を真顔で言っているし・・。

No title * by 風来茄子
おわぁ・・・圧倒的物量ですね。私などニワカ歴史好きなのでコメントして良いものやら分かりませんが私見を幾つか。武田勢は信玄の死で求心力を失い離反者続出で嘗ての最強騎馬軍団は機能出来なくなっていたとか。加えて鉄砲の性能向上で通説の三段撃ちではなく連射可能で連合軍の優勢は兵器面でも明らかだったらしいです。

佐久間信盛は忠節一途で裏切りの意図はなかったとする説もあるようです。信長は人事刷新・若返りを企図し老臣を冷遇したため信盛は割りを喰ったようですが・・・いずれ柴田勝家なども干されていたかも知れませんね。まあその冷酷な人事が臣下の不信不満を募らせ命取りとなったのでしょうけど。

歴史を詳細に検証するには兵站の進化、経済システムから処世術、宗教観まで広範に比較検証し当時の人々の実像に迫る必要があるのでしょうね。

No title * by 風来梨
殿下、御裁定頂き恐悦でございます。

長篠の戦を考察する上でのコンセプトは、武田勢が何故に「考えられる最悪な事」をしたのか?いう不可解な行動の解明です。

そう、武田勢にとっての「最悪な事」は、織田・徳川勢の待ち構える設楽原に無策で全軍突撃する事です。 そんな事すれば蜂の巣に遭って全滅必至です。 でも、武田勢はその「最悪」を実行したのです。

普通は、私の説(というより、矛盾点が見受けられず定説になりつつある)の「織田の策(山を密かに回ってきた酒井勢による背後からの奇襲)にハマって設楽原に釣り出された」と「策にハマって、なす術なく突っ込んだ」と考えるでしょう。

それをあのアホは、武田勢は「一丁やってやろうか!」とやる気満々で突撃した・・というのです。

そして、武田勢がやる気満々だった証拠として、戦闘が8時間にも及んだ事と、重臣達がこぞって討ち死にした事・・と、目茶苦茶な事を宣っています。

これって、武田勢に対しての大いなる侮辱でないでしょうか? 則ち、武田勢は戦術を何も考えない無能集団と言ってるのと同じだからです。

長くなるので続く。

No title * by 風来梨
続き

そして、そのアホ極まる説を固める為、更に有り得ない事で歴史そのものを侮辱しています。

例えば、「ただが二千程度が後ろから攻めてきたに過ぎず、退却というならそんなの簡単に蹴散らして、悠々と退却できる」と、奇襲戦法の否定と、武田勢をマンガかゲームに出てくるス-パー戦隊か何かに落としめています。

また、「退却するなら敵の待つ設楽原でなくとも退路は幾らでも確保できるので、設楽原に突撃したのは決戦を挑んでの事だ 退路が幾らでも確保できるのに敵が集結する設楽原へ退却するのは常識はずれ」と、「三方山に囲まれた長篠城」いう山城を築城した戦国時代の歴史背景の否定です。

要するに自説を通したい余り、矛盾点だらけの無茶苦茶な事を宣ってるのです。

「山城に大軍を難無く通す道を造れば、山城の意味がない」と突っ込むと、今度は酒井隊の奇襲を「あれは奇襲などではなく、織田方の戦線拡大策だ」と、今度は織田信長も戦術を知らぬバカ扱いである。

そもそも、設楽原の下方で待ち構える織田・徳川勢が設楽原からより離れた城の後方に武田勢を足止めすべく戦線を拡大する訳がないのである。

No title * by 風来梨
長くなってすんません。

更に、「武田勢が長篠城を囲んだのは織田・徳川勢と雌雄を決する為のものであり、城を落城寸前まで追い込んでも、落城させてはならない」「落城寸前まで追い込んで織田・徳川の後詰めをおびき出した・・までは武田方の思惑通り」と「精神病院に逝ってヨシ」な事を恥もなく言ってのけます。

もう織田・徳川と武田のガチンコ決戦という、このアホの願望そのものである自説を通す事に躍起であった。

でも、長篠の戦がなぜ起こったのか(徳川に寝返った長篠城主・奥平の成敗)という事と、武田に最良な終決は「城を落として裏切り者の奥平の首を撥ね、後詰めにきた織田・徳川に兵を引かせて領地を取り戻す事」などから、事実は長篠城は武田方にとって「絶対落とさねばならぬ城」なのである。

それを全く背景の違う備中高松城の事を上げて、後詰めを呼ぶ為に「城を落とさない」のは包囲戦の常道とばかりにキチガイ語録を宣っています。

他にも、三方ヶ原の戦を例にし、「武田信玄は後ろを取られたのに勝ったではないか!」ともう精神病患者化しています。

これにはもう言い返す気も失せて、現在に至っています。

No title * by 風来梨
あと、浸透戦術とか知り得た言葉を考え無しに使っているが、やはりアホで言葉の意味を全く理解していない。

確かに浸透戦術は少数勢力による走力を利用した戦術だが、攻め手は敵前線の手薄な部分とはいえ穴を空ければならない為、一瞬にして一少隊規模の敵兵を掃討する武器を持たねば不可能なのである。

要するに、機銃掃射や手榴弾を投げながら突破する戦法であるが、騎馬隊は走力はあれど、敵を一瞬にして掃討する武器は持ち合わせていないのだ。

これで突っ込んで一人二人討った所ですぐに囲まれて討ち取られてしまう。

そんな事は百戦錬磨の武田騎馬隊なら分かってるるはずで、それを敢えてやったのは、大将の勝頼を逃がす為に敵を引き付ける事で逃げる隙間を開ける為の作為だと推測できるのである。 ここでも、意味を違えた言葉を使って、更なる破綻を呼んでいるから救いようのないアホなのである。

No title * by 風来茄子
金ヶ崎や島津一文字駆けを引き合いに出しては矛盾してしまいますよね。窮状打破のための撤退作戦で九死に一生を得たからこそ誉れであって失敗すれば愚将と貶められる。長篠での武田勢も敢えて討って出ざるを得ない状況に追い詰められてのことでしょう。武田勢というと騎馬術のアナクロ軍団で鉄砲を積極使用した織田勢に負けたのは必定というイメージがあるようですが、鉄砲掃射は当時既に定着した戦法であり武田家も雑賀衆等を通じて堺商人から大量に買い付けていた筈です。彼等がアナクロだから負けたのではなく既にその段階を過ぎていたからこそ滅びたということです。

山峡・地峡を固めるのも劣勢をカバーする窮余の策ですよね。明智勢が天王山・山崎に篭ったのはその典型例でしょう。しかし後ろを取られ挟撃されればひとたまりもない。武田勢は設楽原に吊り出され、最早一点突破に賭けるしかなかったのでしょう。

最近戦国武将もののゲームが隆盛で興味を持つのはいいのですがゲームそのままのファンタジーでは困りますよね。それをキッカケに色々探っていけば歴史も面白いのにね。。

No title * by 風来梨
殿下におわせられましては、再度の御成り恐悦至極にございます。

ゲームやスマホなどのバ-チャルな世界の拡大は、人に現実的な状況分析能力を奪いましたな。

だから、いい歳した者でさえ、辻妻の合わないお花畑な主張をするのですな。

このアホ男も右翼に傾倒しているようで、このアホ主張で、せっかく原発の再稼動など正しい事言ってるのに、アホを見透かされて台無しです。

右翼って、こんなのが多いわ。 まぁ、分析能力がないから、意のままにならぬ事に逆切れして、「(ワシに)反論するオマエは悪意の塊だ!」だもんね。

さて、台風もいった事だし、今日の夜より設楽原のちょっと上の方へ逝っちゃおうかと。

多分、来週中は筋肉痛で逝ってるので、たぶん更新不能です。

殿下におかれましては、不甲斐ないワテを陳謝致しまする。 たから、御手討ちにしないでね。

No title * by こかげ
こんにちは 面白そうな話なので・・・

大軍では、長篠から北東方面への撤退が、道路事情から難しいというのは無理があるのでは?
武田の場合、山の中から太平洋側へ出てくるための道筋がいくつかあります。
そして、山の中の一本道が平野部に出たところに

焼津方面では 諏訪原城、その先へ高天神城があり
浜松方面では 二俣城があり
豊橋方面では 長篠城があったわけです。

これらの城と本拠をつなぐ道は通常の道ではなく
国を守る/逆に他国を攻撃する ための軍用道路でもあったと考えるべきでは?
なので、軍や、兵糧の移動・輸送等に支障のないレベルにまで整備されていたと考えるべきでは?

No title * by こかげ
それと、織田*武田双方が闘う意思があったか否かについて

織田・家康軍が到着した時点で、武田軍は主力を設楽ヶ原向けたので、その時点では、やるき満々だったかどうかは兎も角として、双方とも、一応、戦う覚悟はあったように見えます。

問題は数日後、鳶ヶ巣山の砦を織田・徳川軍が手に入れてから以後・・・
これ以後は武田側は焦ったでしょうね!
前後から挟撃される状態になったわけですから。
2km程度の地域に閉じ込められてしまった。

これ以後、少数の武田側としては、設楽ヶ原側/長篠城側、 いずれかを突破するか、あるいは間道を通って各隊ごとにバラバラに逃げるか・・・ この程度しか選択肢が無いわけです。

結局、武田側は織田・徳川軍を包囲するような陣形で設楽ヶ原での戦いを選んだわけですが、どのような理由でこのような選択したのか?

No title * by こかげ
私は、織田・徳川軍が、兵力を少なく見せて、武田軍をおびき寄せた(武田軍の判断を狂わせた)のではないかと思います。鳶ヶ巣山の砦の攻略に多くの兵力を回したかのように見せかけた?

設楽ヶ原は名前に<原>が付いていますが、実際は非常に起伏が多く、家が簡単に隠れるほどの高さの起伏が沢山あります。なので兵力を隠し、少なく見せていたのではないかと思います。

また、織田・徳川軍は、川を前にして、その後ろに陣を築き、一見すると防戦体制を整えたのも、実戦的な優位を狙っただけでなく、武田側を欺くための一つの手段だったのではないかと思います。
織田・徳川軍側は<本当は兵力が少ないから防御態勢を取っている>と思わせた?

そして戦いが始まってからしばらくは、防戦主体の戦いを続け、武田側を欺き続けていた。
十分に敵を引き付け、鉄砲主体で戦い、自軍は少ない被害で、敵の消耗を促すような戦いを続けていた。
やがて、敵の消耗が見えてきた段階からは、全軍投入して、一気に攻撃に転じた。

こんなのは どうでしょうかね?

No title * by 風来梨
緑の木陰さん、こんばんは。

逃げ道に関しては、もし他方向に大軍勢が容易に通れる道があるとするなら、なぜに織田・徳川勢がそこから攻めて来なかったのでしょうか?

それが武田の秘密の軍事路であったとしても、奥平が徳川に寝返った事で筒抜けです。 それなら、わざわざ酒井隊に山を回らせて背後を奇襲する必要も無かったのでは?

38000の内の7~800割いてそこから攻めれば、簡単に挟み討ちの完成です。

それに、あの当時の城は、「守るに易し、攻めるに難し」の思想で築城されています。 つまり、三方山で囲まれて、容易に大軍が押し寄せる事ができないようになっています。

ですので、いくら町に近く街道筋が近いといっても、貴方のお考えは当時の軍事戦術上で否定せざるを得ません。

やる気の問題も、三方山に囲まれて「攻めて来る訳がない」と思って油断していた所に背後から奇襲を受けて大混乱の状態なら、無理と言うものでしょう。

大将の勝頼を逃がすのが精一杯なのでは? 現に、勝頼以下僅か数百が命からがら逃げ延びて、重臣達は多く討ち死にしてます。 敵を囲むように攻めたのは、この為でしょう

No title * by 風来梨
逃げ道の事ですが、平時に一部隊づつの通行なら山越えも可能かもしれませんが、奇襲を受けて大混乱で総崩れに陥った状況では無理と言うものです。 最も、逃散した足軽衆なら山へ逃げ込むでしょうけど。

貴方のお考えは、当時の状況や軍事技術、両軍の作戦のどれを鑑みても、否定せざるを得ませんね。

私の考える武田の戦法は、城を落とす事が全てです。 城を落とせば、まず織田・徳川は兵を引くので戦わずして勝つ事ができるのです。 それに、もし織田・徳川勢が攻めてきたとしても、袋小路となった城前に大軍をよこしても、隊列が細長くなり、しかも鉄砲隊も余り戦力になりません。 そこを前から一つづつ叩けばいいのです。 従って、武田勢はどんな事があっても城を落とさねばならないし、城の包囲を解いて設楽原に討ってでるなど「もっての外」なのですよ。

要するに、敵の待ち構える中に突っ込むのは愚の骨頂。 そんなの、やる気などではありませんよ。

だから、百戦錬磨の武田勢が愚の骨頂をしでかしたのは、織田信長の策にハマって釣り出されたと考えるのが現実的なのですよ。

No title * by 風来梨
あっ、7~8000を7~800と書いてしまった。

でも、近くに道があるから通れる・・なんて、ゲーム脳もいいとこなのでは? もし、そんな道が存在したら、織田・徳川勢がその道を使って攻めてくるとは想定出来ないようですね。

自軍が使える道は敵軍も使えるのは道理です。

また、武田方も少ないながらも鉄砲を持っていたし、諜報活動も活発に行われてたので、鉄砲の威力を過小評価したり、織田・徳川の戦力を大幅に思い違いさせる・・という意見こそ無理が有り過ぎますね。

それに、何が何でも戦わせたいみたいだけど、その根拠は戦法のみで、戦術や戦略が皆無です。
例えるなら、やられても何度でもやり直しの利くゲームの軍隊みたいです。

戦、則ち戦争は大小今昔問わず、戦略があり戦術を想定するもので、戦法なんてその取ってつけでしかない。 要するに、相手との「裏のかき合い」なのですね。 当然、裏をかかれて致命的な状況に陥った方は大敗します。

それを否定しても、残るのは矛盾につぐ矛盾です。 なぜなら、歴史の有り様そのものを否定(山城の否定がいい例)してるからですね。

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No title

殿下・・、この件に対して殿下の御裁定を欲しまする。
あの『阿下喜の誓い』の時よりの殿下の愛しき家臣・梨より。

ここまでトンチンカンな事を言って歴史を愚弄するこのバカを許せなかった衝動からこの記事を書いちゃいました。

モノ事の常道やセオリー、仕来たりや当時の人の思惑など、人の本分をここまで無茶苦茶に解釈できるこのアホは、頭が人間のレベルに達していないし。

言うなれば、こうすれば必ず滅びる、必ず負ける・・、絶対に有り得ない事柄を真顔で言っているし・・。
2014-07-06 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

おわぁ・・・圧倒的物量ですね。私などニワカ歴史好きなのでコメントして良いものやら分かりませんが私見を幾つか。武田勢は信玄の死で求心力を失い離反者続出で嘗ての最強騎馬軍団は機能出来なくなっていたとか。加えて鉄砲の性能向上で通説の三段撃ちではなく連射可能で連合軍の優勢は兵器面でも明らかだったらしいです。

佐久間信盛は忠節一途で裏切りの意図はなかったとする説もあるようです。信長は人事刷新・若返りを企図し老臣を冷遇したため信盛は割りを喰ったようですが・・・いずれ柴田勝家なども干されていたかも知れませんね。まあその冷酷な人事が臣下の不信不満を募らせ命取りとなったのでしょうけど。

歴史を詳細に検証するには兵站の進化、経済システムから処世術、宗教観まで広範に比較検証し当時の人々の実像に迫る必要があるのでしょうね。
2014-07-06 * 風来茄子 [ 編集 ]

No title

殿下、御裁定頂き恐悦でございます。

長篠の戦を考察する上でのコンセプトは、武田勢が何故に「考えられる最悪な事」をしたのか?いう不可解な行動の解明です。

そう、武田勢にとっての「最悪な事」は、織田・徳川勢の待ち構える設楽原に無策で全軍突撃する事です。 そんな事すれば蜂の巣に遭って全滅必至です。 でも、武田勢はその「最悪」を実行したのです。

普通は、私の説(というより、矛盾点が見受けられず定説になりつつある)の「織田の策(山を密かに回ってきた酒井勢による背後からの奇襲)にハマって設楽原に釣り出された」と「策にハマって、なす術なく突っ込んだ」と考えるでしょう。

それをあのアホは、武田勢は「一丁やってやろうか!」とやる気満々で突撃した・・というのです。

そして、武田勢がやる気満々だった証拠として、戦闘が8時間にも及んだ事と、重臣達がこぞって討ち死にした事・・と、目茶苦茶な事を宣っています。

これって、武田勢に対しての大いなる侮辱でないでしょうか? 則ち、武田勢は戦術を何も考えない無能集団と言ってるのと同じだからです。

長くなるので続く。
2014-07-07 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

続き

そして、そのアホ極まる説を固める為、更に有り得ない事で歴史そのものを侮辱しています。

例えば、「ただが二千程度が後ろから攻めてきたに過ぎず、退却というならそんなの簡単に蹴散らして、悠々と退却できる」と、奇襲戦法の否定と、武田勢をマンガかゲームに出てくるス-パー戦隊か何かに落としめています。

また、「退却するなら敵の待つ設楽原でなくとも退路は幾らでも確保できるので、設楽原に突撃したのは決戦を挑んでの事だ 退路が幾らでも確保できるのに敵が集結する設楽原へ退却するのは常識はずれ」と、「三方山に囲まれた長篠城」いう山城を築城した戦国時代の歴史背景の否定です。

要するに自説を通したい余り、矛盾点だらけの無茶苦茶な事を宣ってるのです。

「山城に大軍を難無く通す道を造れば、山城の意味がない」と突っ込むと、今度は酒井隊の奇襲を「あれは奇襲などではなく、織田方の戦線拡大策だ」と、今度は織田信長も戦術を知らぬバカ扱いである。

そもそも、設楽原の下方で待ち構える織田・徳川勢が設楽原からより離れた城の後方に武田勢を足止めすべく戦線を拡大する訳がないのである。
2014-07-07 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

長くなってすんません。

更に、「武田勢が長篠城を囲んだのは織田・徳川勢と雌雄を決する為のものであり、城を落城寸前まで追い込んでも、落城させてはならない」「落城寸前まで追い込んで織田・徳川の後詰めをおびき出した・・までは武田方の思惑通り」と「精神病院に逝ってヨシ」な事を恥もなく言ってのけます。

もう織田・徳川と武田のガチンコ決戦という、このアホの願望そのものである自説を通す事に躍起であった。

でも、長篠の戦がなぜ起こったのか(徳川に寝返った長篠城主・奥平の成敗)という事と、武田に最良な終決は「城を落として裏切り者の奥平の首を撥ね、後詰めにきた織田・徳川に兵を引かせて領地を取り戻す事」などから、事実は長篠城は武田方にとって「絶対落とさねばならぬ城」なのである。

それを全く背景の違う備中高松城の事を上げて、後詰めを呼ぶ為に「城を落とさない」のは包囲戦の常道とばかりにキチガイ語録を宣っています。

他にも、三方ヶ原の戦を例にし、「武田信玄は後ろを取られたのに勝ったではないか!」ともう精神病患者化しています。

これにはもう言い返す気も失せて、現在に至っています。
2014-07-07 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

あと、浸透戦術とか知り得た言葉を考え無しに使っているが、やはりアホで言葉の意味を全く理解していない。

確かに浸透戦術は少数勢力による走力を利用した戦術だが、攻め手は敵前線の手薄な部分とはいえ穴を空ければならない為、一瞬にして一少隊規模の敵兵を掃討する武器を持たねば不可能なのである。

要するに、機銃掃射や手榴弾を投げながら突破する戦法であるが、騎馬隊は走力はあれど、敵を一瞬にして掃討する武器は持ち合わせていないのだ。

これで突っ込んで一人二人討った所ですぐに囲まれて討ち取られてしまう。

そんな事は百戦錬磨の武田騎馬隊なら分かってるるはずで、それを敢えてやったのは、大将の勝頼を逃がす為に敵を引き付ける事で逃げる隙間を開ける為の作為だと推測できるのである。 ここでも、意味を違えた言葉を使って、更なる破綻を呼んでいるから救いようのないアホなのである。
2014-07-08 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

金ヶ崎や島津一文字駆けを引き合いに出しては矛盾してしまいますよね。窮状打破のための撤退作戦で九死に一生を得たからこそ誉れであって失敗すれば愚将と貶められる。長篠での武田勢も敢えて討って出ざるを得ない状況に追い詰められてのことでしょう。武田勢というと騎馬術のアナクロ軍団で鉄砲を積極使用した織田勢に負けたのは必定というイメージがあるようですが、鉄砲掃射は当時既に定着した戦法であり武田家も雑賀衆等を通じて堺商人から大量に買い付けていた筈です。彼等がアナクロだから負けたのではなく既にその段階を過ぎていたからこそ滅びたということです。

山峡・地峡を固めるのも劣勢をカバーする窮余の策ですよね。明智勢が天王山・山崎に篭ったのはその典型例でしょう。しかし後ろを取られ挟撃されればひとたまりもない。武田勢は設楽原に吊り出され、最早一点突破に賭けるしかなかったのでしょう。

最近戦国武将もののゲームが隆盛で興味を持つのはいいのですがゲームそのままのファンタジーでは困りますよね。それをキッカケに色々探っていけば歴史も面白いのにね。。
2014-07-10 * 風来茄子 [ 編集 ]

No title

殿下におわせられましては、再度の御成り恐悦至極にございます。

ゲームやスマホなどのバ-チャルな世界の拡大は、人に現実的な状況分析能力を奪いましたな。

だから、いい歳した者でさえ、辻妻の合わないお花畑な主張をするのですな。

このアホ男も右翼に傾倒しているようで、このアホ主張で、せっかく原発の再稼動など正しい事言ってるのに、アホを見透かされて台無しです。

右翼って、こんなのが多いわ。 まぁ、分析能力がないから、意のままにならぬ事に逆切れして、「(ワシに)反論するオマエは悪意の塊だ!」だもんね。

さて、台風もいった事だし、今日の夜より設楽原のちょっと上の方へ逝っちゃおうかと。

多分、来週中は筋肉痛で逝ってるので、たぶん更新不能です。

殿下におかれましては、不甲斐ないワテを陳謝致しまする。 たから、御手討ちにしないでね。
2014-07-11 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんにちは 面白そうな話なので・・・

大軍では、長篠から北東方面への撤退が、道路事情から難しいというのは無理があるのでは?
武田の場合、山の中から太平洋側へ出てくるための道筋がいくつかあります。
そして、山の中の一本道が平野部に出たところに

焼津方面では 諏訪原城、その先へ高天神城があり
浜松方面では 二俣城があり
豊橋方面では 長篠城があったわけです。

これらの城と本拠をつなぐ道は通常の道ではなく
国を守る/逆に他国を攻撃する ための軍用道路でもあったと考えるべきでは?
なので、軍や、兵糧の移動・輸送等に支障のないレベルにまで整備されていたと考えるべきでは?
2014-07-12 * こかげ [ 編集 ]

No title

それと、織田*武田双方が闘う意思があったか否かについて

織田・家康軍が到着した時点で、武田軍は主力を設楽ヶ原向けたので、その時点では、やるき満々だったかどうかは兎も角として、双方とも、一応、戦う覚悟はあったように見えます。

問題は数日後、鳶ヶ巣山の砦を織田・徳川軍が手に入れてから以後・・・
これ以後は武田側は焦ったでしょうね!
前後から挟撃される状態になったわけですから。
2km程度の地域に閉じ込められてしまった。

これ以後、少数の武田側としては、設楽ヶ原側/長篠城側、 いずれかを突破するか、あるいは間道を通って各隊ごとにバラバラに逃げるか・・・ この程度しか選択肢が無いわけです。

結局、武田側は織田・徳川軍を包囲するような陣形で設楽ヶ原での戦いを選んだわけですが、どのような理由でこのような選択したのか?
2014-07-12 * こかげ [ 編集 ]

No title

私は、織田・徳川軍が、兵力を少なく見せて、武田軍をおびき寄せた(武田軍の判断を狂わせた)のではないかと思います。鳶ヶ巣山の砦の攻略に多くの兵力を回したかのように見せかけた?

設楽ヶ原は名前に<原>が付いていますが、実際は非常に起伏が多く、家が簡単に隠れるほどの高さの起伏が沢山あります。なので兵力を隠し、少なく見せていたのではないかと思います。

また、織田・徳川軍は、川を前にして、その後ろに陣を築き、一見すると防戦体制を整えたのも、実戦的な優位を狙っただけでなく、武田側を欺くための一つの手段だったのではないかと思います。
織田・徳川軍側は<本当は兵力が少ないから防御態勢を取っている>と思わせた?

そして戦いが始まってからしばらくは、防戦主体の戦いを続け、武田側を欺き続けていた。
十分に敵を引き付け、鉄砲主体で戦い、自軍は少ない被害で、敵の消耗を促すような戦いを続けていた。
やがて、敵の消耗が見えてきた段階からは、全軍投入して、一気に攻撃に転じた。

こんなのは どうでしょうかね?
2014-07-12 * こかげ [ 編集 ]

No title

緑の木陰さん、こんばんは。

逃げ道に関しては、もし他方向に大軍勢が容易に通れる道があるとするなら、なぜに織田・徳川勢がそこから攻めて来なかったのでしょうか?

それが武田の秘密の軍事路であったとしても、奥平が徳川に寝返った事で筒抜けです。 それなら、わざわざ酒井隊に山を回らせて背後を奇襲する必要も無かったのでは?

38000の内の7~800割いてそこから攻めれば、簡単に挟み討ちの完成です。

それに、あの当時の城は、「守るに易し、攻めるに難し」の思想で築城されています。 つまり、三方山で囲まれて、容易に大軍が押し寄せる事ができないようになっています。

ですので、いくら町に近く街道筋が近いといっても、貴方のお考えは当時の軍事戦術上で否定せざるを得ません。

やる気の問題も、三方山に囲まれて「攻めて来る訳がない」と思って油断していた所に背後から奇襲を受けて大混乱の状態なら、無理と言うものでしょう。

大将の勝頼を逃がすのが精一杯なのでは? 現に、勝頼以下僅か数百が命からがら逃げ延びて、重臣達は多く討ち死にしてます。 敵を囲むように攻めたのは、この為でしょう
2014-07-13 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

逃げ道の事ですが、平時に一部隊づつの通行なら山越えも可能かもしれませんが、奇襲を受けて大混乱で総崩れに陥った状況では無理と言うものです。 最も、逃散した足軽衆なら山へ逃げ込むでしょうけど。

貴方のお考えは、当時の状況や軍事技術、両軍の作戦のどれを鑑みても、否定せざるを得ませんね。

私の考える武田の戦法は、城を落とす事が全てです。 城を落とせば、まず織田・徳川は兵を引くので戦わずして勝つ事ができるのです。 それに、もし織田・徳川勢が攻めてきたとしても、袋小路となった城前に大軍をよこしても、隊列が細長くなり、しかも鉄砲隊も余り戦力になりません。 そこを前から一つづつ叩けばいいのです。 従って、武田勢はどんな事があっても城を落とさねばならないし、城の包囲を解いて設楽原に討ってでるなど「もっての外」なのですよ。

要するに、敵の待ち構える中に突っ込むのは愚の骨頂。 そんなの、やる気などではありませんよ。

だから、百戦錬磨の武田勢が愚の骨頂をしでかしたのは、織田信長の策にハマって釣り出されたと考えるのが現実的なのですよ。
2014-07-13 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

あっ、7~8000を7~800と書いてしまった。

でも、近くに道があるから通れる・・なんて、ゲーム脳もいいとこなのでは? もし、そんな道が存在したら、織田・徳川勢がその道を使って攻めてくるとは想定出来ないようですね。

自軍が使える道は敵軍も使えるのは道理です。

また、武田方も少ないながらも鉄砲を持っていたし、諜報活動も活発に行われてたので、鉄砲の威力を過小評価したり、織田・徳川の戦力を大幅に思い違いさせる・・という意見こそ無理が有り過ぎますね。

それに、何が何でも戦わせたいみたいだけど、その根拠は戦法のみで、戦術や戦略が皆無です。
例えるなら、やられても何度でもやり直しの利くゲームの軍隊みたいです。

戦、則ち戦争は大小今昔問わず、戦略があり戦術を想定するもので、戦法なんてその取ってつけでしかない。 要するに、相手との「裏のかき合い」なのですね。 当然、裏をかかれて致命的な状況に陥った方は大敗します。

それを否定しても、残るのは矛盾につぐ矛盾です。 なぜなら、歴史の有り様そのものを否定(山城の否定がいい例)してるからですね。
2014-07-14 * 風来梨 [ 編集 ]