2014-05-18 (Sun)✎
路線の思い出 第55回 因美線・美作河合駅 〔岡山県〕
あ~あ・・ 風光明媚な清流に
せっかくのキハ58急行【砂丘】なのに
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
東津山~鳥取 70.8km 1820 / 503
運行本数
智頭~津山
智頭~津山 7往復(内 2往復 快速)
智頭~那岐 1往復
美作加茂~津山 3往復(内 下り1本 快速)
美作河井駅(みまさかかわいえき)は、岡山県津山市加茂町山下にあるJR西日本・因美線の駅で、岡山県の最北端に位置する駅である。 快速は1日1往復のみ停車する。 1999年10月にCTC化されるまでは、当駅が岡山支社と米子支社の指令上の境界駅と位置づけられていた。 現在は津山駅が管理する無人駅である。 2017年の1日の平均乗車人員との事。
単式ホーム1面1線を有する駅で、かつては島式ホーム1面2線と留置線1本を有する合計1面3線の駅だったが、1997年に行き違い施設が撤去され停留所となった。 これらの線路の一部は撤去されている。
駅舎とホームは構内踏切で連絡しているが、踏切で跨ぐ線路は本線から分断されている為、今はただの通路となっている。
有人駅時代は通票閉塞(タブレットによる閉塞)の閉塞区間界駅であり、CTC化で無人化されるまで当駅には運転要員が常駐していた。 当駅はかつて線内を走行していた急行【砂丘】の通過駅で、通過する急行列車からのタブレットの「投げ入れ」がある事で知られていた。
駅の南西には、かつて除雪車の向きを変えるために使用されていた手動の転車台が存在する。
使用されなくなった以降は土中に埋まっていたが、2007年4月に掘り起こされた。 この転車台は、2009年2月に近代化産業遺産の認定を受けた。
この路線に訪れた時は、もう25年も前になるのか・・、ちょうど瀬戸大橋を渡るJR四国の本四備讃線(通称・瀬戸大橋線)が開通した日だった。 そう、初めはこの路線の開通式に行くつもりだったようである。 「だったら、何故に因美線?」との疑問が湧いてくる事だろう。 それは、ただ瀬戸大橋線の開通記念列車に乗るだけに行くのもつまらないので、山陰の鳥取砂丘と絡めてめぐる小旅行を企画したのである。
そしてこの頃は、夢中になっていた廃止ローカル線がほぼ全てに渡って廃止転換という決着が着いた事で、熱中する対象物を失ってそろそろに鉄道に対する情熱も薄れてきていたので、写真の撮れる風景地めぐりにシフトを変えつつあった頃であった。
・・で、前日に鳥取砂丘をめぐってその日の宿泊場所であるが、今までの旅中での行動の通り『無人駅で駅寝』で確定で、なおかつ明日の瀬戸大橋線の開通セレモニーを避けて程よい時間に訪れる事ができるようにするには、瀬戸大橋線の始発駅・岡山と前日の目的地・鳥取砂丘の鳥取とを結ぶ路線のこの因美線での『駅寝』がベストなのである。
駅寝をする駅であるが、今までのように駅寝する駅を吟味する・・なんて情熱は薄れ、シュラフだけ持ってきただけ・・という事で、最初に見つけた長椅子のある駅の河原駅と安易に決まった。
なので、駅寝をした河原駅についてはほとんど記憶がない。
・・で、翌朝に因美線の始発に乗って岡山方向へ向かうのだが、車中で何気なく持ってきていた携帯ラジオを聴いていると、本四備讃線の開通フィーバーの事が報じられていた。 何でも、一番乗りを伺う徹夜組が数日前から出張っているようで。
これを耳にして、イッキに気持ちが萎えたのである。 まぁ、この頃にしても今にしてもイベント関係とは無縁で、むしろそのような挙行のある場所は避けてきていたのである.。 当然、イベント企画に参加した事は皆無だし、イベントに関わったのは偶然に遭遇した『マイテ事件』の時だけなのである。
そういえば、『マイテ事件』はこの頃の出来事だったなぁ。
まぁ、『マイテ事件』で多少なり・・ではあるが嫌な思いをした事もあって、こういう人だかりの状況を耳にすると拒絶反応を起こしたようである。 それに加えて、和知から車窓に寄り添って流れる清流を目にして、いつでも乗る事が可能な瀬戸大橋線へ行く気持ちは完全に消えてしまったのである。
いい情景で上手くアングルが決めれ
ないとヤル気は萎んでいきます
・・となると、この清流沿いにある次の駅・美作河井で降りる事になった。 この駅に下車した目標は、ローカル線の廃線のケリが着いてから遠のいていた久々の撮り鉄である。 でも、ここで「継続は力なり」という言葉の意味を強く感じたよ。 清流のある風光明媚な風景が広がるのだが、何故か因美線列車と絡めてもスッキリとしたアングルが決めれない。 要するに、アングルの取り方が更に下手になっていたのである。
この事であまり上手く決めれない撮り鉄は程々にして、駅にある『名所案内』にあった矢筈城址に寄ってみる事にした。 この城は毛利氏配下の草刈氏の居城で、矢筈山(標高756m)の山頂に構築された典型的な山城址である。 詳しくはコチラのサイトさんをどうぞ。
何でも、麓にある美作河井駅から標高差にして400m以上あるとの事で、その嶮しさゆえに毛利攻めの秀吉の軍勢の猛攻にも耐えて一度も落城しなかった・・との事である。 駅から約2キロの軽いハイキングだ。 当時はまだ山には入っていなかったが、歳でまだ二十歳そこそこでまだ高校W・Vの『残り香』があった頃なので、これ位のハイキングは何でもなかったのである。 担ぎにくい銀箱を肩に掛けたまま城址まで登ったのだから、我ながら大したものである。
でも、リバーサルフイルムを惜しんで城探訪の道中で一枚も写真を撮らなかった失態もしでかしてしまったが・・(この当時は、メイン撮影はcanon AE1+P、その他はサブのpentax MEスーパーで撮るという偏屈な取り決めを堅持しており、この日はサブのpentaxを持ってきていなかった)。
そして、この城は秀吉の猛攻にも落ちなかった歴史的に意義のある城で、文字通り「逃した魚は果てしなく大きかった」のである。 まぁ、この頃から、偏屈故にしょうもない『自分ルール』を堅持して、行く先々で『オチャメ』と失態を繰り返していたようである。
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