風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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私の訪ねた路線 第5回  名寄本線 その1

『私の訪ねた路線』 第5回  名寄本線  その1 名寄~興部  〔北海道〕
 

「思い出お~い 名寄本線」の
オレンジカード
 
《路線データ》
        営業区間と営業キロ         輸送密度 / 営業係数(’83)     
   名寄~遠軽・中湧別~湧別 143.0km       597  /  1246

       廃止転換年月日               転換処置 
       ’89・ 5・ 1            名士バス・北紋バス

廃止時列車本数
   名寄~遠軽 下り7本・上り4本、名寄~興部 上り1本、名寄~紋別 上り3本
   名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
   中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 1往復


名寄本線は海そして山ともに
素晴らしい情景を魅せてくれた
沙留~豊野
 
   《路線史》
“本線”との名が示す通り、道央とオホーツク海沿岸地域を結ぶ幹線鉄道として建設された路線である。
この路線の建設理由としては、難工事が予想される現ルートの石北峠を避けて、道央とオホーツク沿岸の主要都市・網走を結ぶ事にあったのである。
 

『起』
闇を切り裂く光
六興(仮)~西興部

まず、湧別軽便線という民間の軽便鉄道を買収し、1915年に野付牛(後の北見)~社名淵(後の開盛)を開通させた事から始まる。 その後、湧別方面へ延伸を続ける。 また、名寄からも『名寄西線』として建設に着手、着実に延伸を続けて1921年に全通した。 だが、1932年に難工事が予想された北見峠を克服して現ルートが遠軽まで開通すると、野付牛(北見)~遠軽を現ルートに譲り、“本線”たるその使命を終えたのである。
 

『承』
カクテルライト輝く上興部駅へ
最終列車がやってくる

その後はローカル線として地域輸送に貢献したが、国鉄再建法により第2次の廃止転換対象路線の指定を受ける事になる。 長大路線という事と冬季の輸送の問題から一度は承認を保留されたが、沿線を並走する国道238号線や道央とオホーツク海沿岸を結ぶ国道273号線の整備が進んだ事から、正式に廃止対象候補として承認された。 

協議会では、輸送量の比較的多かった遠軽~紋別と名寄~下川を『第三セクター』にて運営する部分存続案も浮上したが、廃止区間となる興部町が強行に全線存続を主張した為に頓挫、そのまま全線が廃止となった経緯がある。 廃止年月日は1989年5月1日。 この日をもって、オホーツク沿岸の開拓に携わった人々が夢として抱いた『オホーツク縦貫鉄道構想』は潰えたのである。
 

『転』
この日の気温は-26℃
猛烈にシバレた夜であった
上興部駅にて

車窓風景からいえば、オホーツク沿岸を伝う路線だった事から、冬季にオホーツクの風物詩『流氷』を望む事ができた貴重な路線であった。 現在は釧網本線の一区間(北浜付近)のみ・・となったのであるが、そのスケールとパノラマはその比ではなかったと思う。 また、興部から名寄の原野をゆく“山線”も我が国随一の極寒地帯で、ダイヤモンドダストに魅せられた鉄道風景も捨て難いものがあった。

運行に関しては、かつては札幌~紋別の急行【紋別】や名寄~網走の【天都】などの優等列車もあった。 また、支線の湧別線は1日2往復と、当時は北海道で最小の運行本数であった事も鉄道ファンの注目を集めた。 そして、車窓から魅せられる流氷や凍てつく原野の風景・・。 ワテの個人的な感情を云えば、“最も復活して欲しい路線”の一つである。
 

『結』
闇にテールランプを
残して去ってゆき
六興(仮)~西興部



  《路線探訪記》  名寄~興部
 

思い出お~い名寄本線
名寄駅スタンプ
 
名寄駅を出た列車は、程なく名寄市街から外れて原野の中に出る。 6kmほど進むと中名寄。
この駅は北海道無人駅舎の規格化で建てられたもので、北海道各地の廃止ローカル線駅の駅舎建て直しの際はこの規格となっていたようだ。 なお、今はこの駅舎はバス停となり、建物内は待合室兼物置小屋になっているようだ。
 
次は上名寄だが、この間で下川町に入る。 この駅は交換設備があるが、駅のホーム長さは気動車2両分しかなく、路線設定の頃から長編成の運用は考慮されてなかった事が伺える。 一応、駅舎があった駅である。
 

日本一暑くて寒い町
下川駅の観光記念入場券
 
上名寄を出ると、岐阜橋・矢文と板張りのホームだけの小駅を過ぎ、下川町の中心地である下川に着く。 ここにはかつて下川銅山と呼ばれた鉱山があり、駅も貨物側線を多く持ち、鉱石輸送に供された名残をとどめていた。 今は、その広大な駅敷地跡を利用したバスセンター及び町の産業コミニュティセンターとなっているようだ。
 

思い出お~い名寄本線
下川駅スタンプ
 
さて、下川駅は町の中心駅であるが、地籍表記は上名寄駅から下川駅までの4駅の間、「字上名寄原野」という原野を名乗っていたとの事である。
 

ヨドコウの物置が待合室の
幸成仮乗降場
乗降場だが待合室がある分
岐阜橋や矢文より格上
 
下川を出ると、二ノ橋という中名寄と同じ無人規格駅舎と『ヨドコウの物置』が駅舎の幸成仮乗降所を過ぎ、上名寄と同じ規格の交換設備を持った一ノ橋に着く。 ここは上名寄と違って、駅員が配置されていた。
 
一ノ橋から天北峠のサミットを越えて、興部川の領域に入る。 サミットといっても老齢記の山塊の為に標高は300mほどしかなく、峠越えではあるものの、全くトンネルのない珍しい峠越えとなっていた。
サミットを超えると上興部。 交換設備を有し、またミニ機関庫といえる停留側線を持っていた。
 

上興部駅スタンプと入場券
 
次の西興部は、西興部村の中心ではあったが廃止前には無人化され、交換設備も使用停止となり寂れていた。 ちなみに、上興部駅跡は鉄道資料館として駅舎は保存されているが、西興部駅は撤去されて『道の駅』となっている。 なお、TVなどで取り上げられた『氷のトンネル』はここが最寄り駅であったが、駅から22kmも離れている。 『氷のトンネル』とウエンシリ岳についてはコチラをどうぞ。
 

思い出お~い名寄本線
中興部駅スタンプ
 
西興部から六興仮乗降場、運転要員が配置された中興部、そして村落人口の流失でゴーストタウンとなった班渓仮乗降場と、名寄本線きっての無人地帯を通って興部町内最初の駅の宇津に着く。
村から町に変っただけあって、今までの原野からいくつかの集落を見るように情景が変化してきている。
 

秘境度ではかなり
上位に挙がると思うんだけど・・
: 
この乗降場より4km山奥に
“パンケ”という酪農地があったらしい
 
後は板張りの駅・北興を過ぎて、オホーツク沿岸の町・興部町の中心駅・興部に着く。 ここは興浜南線の分岐駅で、今は『道の駅』となっているようだ。 
 

思い出お~い名寄本線
興部駅スタンプ
 
これよりは、オホーツク海に沿って風光明媚な車窓風景が続いていく。 なお、続きは次回に回す事にしよう。 それと、興浜南線については、『オホーツク縦貫鉄道の夢』を御期待下さい。

  ※ 詳しくは、メインサイトより『魅惑の鉄道写真集』を御覧下さい。
 
 


 
 
  
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No title * by オータ
ウワーッ、写真に残しておられたのですね。
私は全線通し乗車は一回だけだったような…その分、13年前には下川町に住んで、沿線のあちこちへも行きました。
「幸成乗降場」のオレカは持っています。あとわずかなスタンプだけが記念です。

No title * by 風来梨
オータ様、こんばんは。

名寄本線の廃止直前の’88~89年は、私か最も行動できた時でした。 そしてこの時は、何としてでも流氷と列車を撮りたいなぁ・・と考えていました。

そして今では、これらの写真がかけがえのない私の宝物になっています。

それと、オレカで欲しかったのは、『名寄本線・秋』のキハ22と名寄本線の小駅と秋情景のモノです。 廃止したくてしょうがない初期JRの作とは思えない、情景豊かな写真のオレカでした。 欲しかったなぁ・・。

コメント






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No title

ウワーッ、写真に残しておられたのですね。
私は全線通し乗車は一回だけだったような…その分、13年前には下川町に住んで、沿線のあちこちへも行きました。
「幸成乗降場」のオレカは持っています。あとわずかなスタンプだけが記念です。
2011-03-02 * オータ [ 編集 ]

No title

オータ様、こんばんは。

名寄本線の廃止直前の’88~89年は、私か最も行動できた時でした。 そしてこの時は、何としてでも流氷と列車を撮りたいなぁ・・と考えていました。

そして今では、これらの写真がかけがえのない私の宝物になっています。

それと、オレカで欲しかったのは、『名寄本線・秋』のキハ22と名寄本線の小駅と秋情景のモノです。 廃止したくてしょうがない初期JRの作とは思えない、情景豊かな写真のオレカでした。 欲しかったなぁ・・。
2011-03-02 * 風来梨 [ 編集 ]