2014-01-26 (Sun)✎
路線の思い出 第41回 名寄本線・中興部駅、上興部駅 〔北海道〕
今回は『思い手お~い名寄本線』の
山線区間おば
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
名寄~遠軽・中湧別~湧別 143.0km 597 / 1246
廃止転換年月日 転換処置
’89・ 5・ 1 名士バス・北紋バス
廃止時列車本数
名寄~遠軽 下り7本・上り4本、名寄~興部 上り1本、名寄~紋別 上り3本
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 1往復
名寄~下川 下り1本《休日運休》、興部~遠軽 上り1本、紋別~遠軽 下り2本・上り5本
中湧別~遠軽 1往復、中湧別~湧別 1往復
上興部駅(かみおこっぺえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡西興部村字上興部にあったJR北海道・名寄本線の駅である。 名寄本線の廃線に伴い1989年5月1日に廃駅となった。
職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置し上り線ホーム中央部分に接していた。
1981年度の1日乗降客数は87人との事。
駅名の由来は当駅の所在する地名からで、地名は興部川の上流に位置した為に『興部』に『上』を冠した。 『わたしの旅スタンプ』が設置されていた。
廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡していた。
駅舎側単式ホーム(南側)が上りの1番線、待合所が設置された島式ホーム駅舎側が下り及び当駅折り返し用の2番線、島式ホームの外側が下り貨物列車専用の副本線である3番線となっていた。
その他、1983年時点では、1番線の名寄方から分岐し駅舎西側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線、3番線の外側に貨物用であった側線を2線、及びそこから分岐する行き止まりの側線を多数有していた。
旧駅構内は1994年5月1日から、西興部村により『上興部鉄道記念館』として整備されている。
開業当時からの木造駅舎を現役当時のままに保存すると共に、自由に見学出来る鉄道資料館とし、舎内には備品・蒸気機関車の動輪・軌道自転車・駅銘板・制服などが保存・展示され、専用鉄道の歴史も伝えられている。
レールとホームも保存され(但し2面3線から2面2線になっている)、旧2番線上に横付けする形でキハ27形気動車キハ27 109とDD14形除雪車DD14 302号機のロータリー式除雪機構部が連結された状態で静態保存・展示されている。 また腕木式信号機・踏切警報機も設置されている。 2011年時点でも同様で、ホームには本物の駅名標も保存されている。
中興部駅(なかおこっぺえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡西興部村字中興部にあったJR北海道・名寄本線の駅である。 名寄本線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。
廃止時点で相対式ホーム2面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と対向側ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡していた。 駅舎側(南西側)ホームが上り線、対向側ホームが下り線となっていた。 その他、下り線の遠軽方から対向側ホーム外側に分岐した行き止まりの側線を1線有していた。
駅舎は構内の南西側に位置し、上り線ホーム中央部分に接していた。 無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であったが、JR化後は入場券のみ発売を行っていた。 駅名の由来は当駅が所在する地名からで、地名は興部川の中流に位置した為、『興部』に『中』を冠した。
2000年時点で木造駅舎が完全な形で残存し、ホームと植え込みや構内の信号施設も残存していた。
現在も同様で、別棟のトイレの残存も確認出来ている。 ホーム側はレールは撤去されたが、ホーム上は現役当時の状態であった。 現在は個人所有となっており、駅舎内は非公開となっている。
名寄本線はオホーツク沿岸を行き交い、その車窓からは流氷が広がる素晴らしき眺めを堪能できる第一級魅力を秘めた路線であった・・と同時に、興部から内陸部の名寄に向かって進む山間部の区間は、冬ともなると氷点下20℃以下の猛烈な冷え込みとなり、雪と光が幻想的な風景を魅せてくれた。
今回は、その寂しきローカル線の哀愁の風情漂う山線区間を取り挙げよう。
だが、それを追っかけるとなると半端では成し得ない。 求める現地は、氷点下20度以下の世界であるのだ。 もう、“寒い”という感覚はなくなり、“痛い”という刺激が主となる世界だ。
その中で『寂しきローカル線の夜の闇と光』を撮りたい・・と欲するならば、寒い時の最も寒い時間帯に列車を待ち続けなければならないのだ。
これは少しオーバーかもしれないが、半分『命賭け』である。 なぜなら、ともすれば氷点下20度を下る程の極寒の夜に、列車を待って待機せねばならないからだ。 車でもあれば別だが、当時のワテは車の免許どころか原付免許がせいぜいの小僧だったのである。 だから、ワテ自身がこの地で『寂しきローカル線の夜の闇と光』を撮るとするなら、寒さに耐えつつ一晩をやり過ごす必要があるのである。
正直言って、アホ以外の何者でもない覚悟が必要なのだ。
だが、この当時のワテには、このアホを成就すべくの『武器』を持っていた。 この時の『武器』というのは、『情熱とバカは紙一重』の如く、形振りかまわぬ情熱を注ぐ事ができる程の『情熱大陸バカ』だった事と、山の知識が多少あった事によって氷点下でのビバーク知識を持ってた事と、氷点下での駅寝・野宿に何とか耐え得るグッズを持っていた事である。 それでは、その『情熱大陸バカ』の写真をごろうじろ。
厳寒の闇を切り裂く『起・承・転・結』
『起』・・ 闇を切り裂く光
『承』・・ カクテルライト輝く上興部駅へ最終列車がやってくる
『転』・・ この日の気温は-26℃ 猛烈にシバレた夜であった
『結』・・ 闇にテールランプを残して去ってゆき
この後は前述の如く、耐寒訓練(西興部て駅寝)となったのである。 そら当然だろう。
名寄方面行の最終列車の写真を撮っているのだから。 まぁ、山でも同じような事をしているし、駅は扉を閉めると吹きっさらしの山よりも生活環境は数段上なので・・。 しかも、この時はまだ10台と若かったしぃ~。
写真を撮ったのは上興部駅
そのスタンプと入場券
ちなみに、なぜ表題の上興部や中興部でなく西興部か・・というと、今では信じられない事だが、上興部も中興部も運転要員の詰めている有人駅だったからである。 厳寒の駅寝は生命の保全を問われる倫理的に認められた行為ではなく、有人駅では排除の対象(下手すりゃ、交番か運転詰所の仮眠室に連れてかれる)となったからである。 あり丁寧に言えば冬季の北海道の駅寝は生命の危険があり、到底認められない行為であったという事である。
でも、この時はテントはなく、武器は冬用シュラフ(冬といっても厳冬期には未対応)とコンロとシグボトルのみである。 そしてJRに代わった事もあり、経費削減で石炭暖炉ストーブも取っ払われてたりして。 要するに、シグボトルに熱湯入れた湯たんぽを抱いて凌ぐって寸法だ。
まぁ、現在冬山でテントの中でしてる行動をしてたって事ですな。 コリは、「ただが鉄道写真に」と言われると愚の音も出ませんな。 でもそこが、何かに熱くなれた『情熱大陸バカ』だった若き日のアオさの証明でもある。
さて、翌朝は天気も良く「せっかく厳寒の駅寝までしたのに」、寒さに気持ちがやられて「列車の中の暖房に当たりたい」と名寄行の始発列車に乗る。 仕方ないといえば仕方がないが、行為自体は傍から見れば『ただのアホ』である。 お蔭で、『思い出お~い』のオレンジカードのような写真が撮りたかったけど撮り逃してしまった。
名寄本線は上の記事の前にも数度訪れているが、確か廃止前年の'88年以外は暖冬傾向で、この時訪れる主の目的地であった『沙留の丘』は青かった。 つまり、お目当ての流氷がなかったのである。
・・ちなみに、上の上興部駅での写真は''88年のモノって事てすね。 文の構成上、後の出来事を先に書いちゃいました。
『沙留の丘』で何枚か青い海を背景に写真を撮ったが、流氷もなくてあまり熱も入らず途中で切り上げて、鉄道撮影の次に当時気を惹いていた乗降場に行く事にした。 狙いは駅名が奇異で、乗降場の中でも日に数本しか停車しない『格下』の班渓である。 でも午前中は遠軽方面への下りのみ停車で、上りは通過するので、次の中興部駅に降りて班渓まで歩いてゆく事にしたのだが、この中興部駅では大変美味しい思いをしたのである。
その『美味しいモノ』とは、鉄マニアでもなかなか持ってる者が少なく、コレクターならヨダレさえ出そうなモノが手に入ったのである。 運転要員のみ配置されていて駅業務のない中興部駅であるが、窓口は閉ざされず窓口のパンフレット差しに『お宝』が無造作に差してあったのである。
それは、『日本一の赤字線』の美幸線の乗車証明証やら、興浜南線の切符差しや乗車証明書である。
これを目にしたワテは、興奮して半分震えた声で詰所内でカップメンを食べてた駅員氏に、「このパンフレット差しにあるモノ、頂いて宜しいですか?」と訪ねる。
駅員氏は快く「どうぞ、お持ち帰りください」との返事で、この瞬間、現在開いているHPの閲覧数数万を稼ぐ『最上級大トロネタ』が手に入ったのである。 いゃぁ・・、真に『棚からボタ餅』である。
お陰で、中興部で写真撮るのすっかり忘れたよ。
棚からボタ餅・・ならぬ宝石
後は予定通り、班渓まで3kmほど歩いて、班渓の付近を散策するが、本当に何もない雑木林の中のゴースト地帯の駅だった。 駅設備も最低クラスで、1両分の板バリホームのみで待合室もなかった。
当然、写真を撮る目ぼしいモノもなく、ボケ~っと帰りに乗るべくの名寄行列車を待つ。
班渓乗降場
本当に何もなかった
帰りの名寄行列車では、車掌氏がこの乗降場ではいるはずのない乗客のワテの存在に少し驚いていた。
時はまだ駅降り鉄の趣味が広がっていない頃だったので、当然といえば当然である。
結局、班渓も立ち寄っただけに終わってしまった。 まぁ、通過列車が半数以上で、待合室もない乗降場をベースに撮影するほど度胸ないし。 でも、もっと山線区間で撮っておけばなぁって、つくづく思うのである。
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No title * by タケちゃん
こんにちは。
「情熱大陸バカ」、おおいに万歳!じゃないですか。
写真からも「痛みを伴う寒さ」が充分に感じられますよ~。
時の情熱は氷点下ウン十度をも上回ります・・・「列車の暖房に当たりたい」・・・充分すぎるほど判ります。無理ないですって。
「情熱大陸バカ」、おおいに万歳!じゃないですか。
写真からも「痛みを伴う寒さ」が充分に感じられますよ~。
時の情熱は氷点下ウン十度をも上回ります・・・「列車の暖房に当たりたい」・・・充分すぎるほど判ります。無理ないですって。
No title * by 風来茄子
閣下!一気にお宝御開陳とはデカイ釣り針を(^^;)
グッズを見るだけで懐かしく楽しい思い出に浸れますね。私も手持ちのをコッソリ見てニンマリと・・・。班渓乗降場は本当に何もない場所でした。閣下とは逆に車掌に「えっ、降りるの?な~んもないよ」と言われたのはここだけでした。転換バスなら飛行場前で「えっ、降りるの?」がありましたが。
グッズを見るだけで懐かしく楽しい思い出に浸れますね。私も手持ちのをコッソリ見てニンマリと・・・。班渓乗降場は本当に何もない場所でした。閣下とは逆に車掌に「えっ、降りるの?な~んもないよ」と言われたのはここだけでした。転換バスなら飛行場前で「えっ、降りるの?」がありましたが。
No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。
お返事が遅れてスミマセン。
かつては、かなりブリバリだったんだなぁって思います。
時が経って、それが叶わぬ様になると思い出になるんだ・・と、今強く思います。 思い出が創れた事に感謝・・、この時にここで無茶できた事に感謝したいです。
お返事が遅れてスミマセン。
かつては、かなりブリバリだったんだなぁって思います。
時が経って、それが叶わぬ様になると思い出になるんだ・・と、今強く思います。 思い出が創れた事に感謝・・、この時にここで無茶できた事に感謝したいです。
No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅くなり、スミマセン。
ほんとに、大いに万歳ですね。 これが若い日の証みたいなものですから。 時の情熱は信じられない力を発揮しますね。
今はかつての夢のような情熱を追っかけて、たま~ぁに氷点下に繰り出してます。
お返事が遅くなり、スミマセン。
ほんとに、大いに万歳ですね。 これが若い日の証みたいなものですから。 時の情熱は信じられない力を発揮しますね。
今はかつての夢のような情熱を追っかけて、たま~ぁに氷点下に繰り出してます。
No title * by 風来梨
殿下・・お返事が遅れまして、平に~、お手打ちだけはご容赦を・・。
この餌は何度でも使いまわしますよ。 殿下でさえ釣れる・・、はゃぁ~、暴言平にィ~。
班渓は、何もないのに上下8本も止まってますね。
何でも、当時夏だけ酪農場になってたとか・・らしいですよ。
この餌は何度でも使いまわしますよ。 殿下でさえ釣れる・・、はゃぁ~、暴言平にィ~。
班渓は、何もないのに上下8本も止まってますね。
何でも、当時夏だけ酪農場になってたとか・・らしいですよ。
No title * by tom
こんばんは
貴重な画像の数々、ご苦労さまですとしかいいようがないですな。蒸気時代は山線は人気だったようですが、小生は沙留~豊野しか記憶にありません。しかし”降りるの?”という車掌に言わせるのもある意味痛快ではありますね。
貴重な画像の数々、ご苦労さまですとしかいいようがないですな。蒸気時代は山線は人気だったようですが、小生は沙留~豊野しか記憶にありません。しかし”降りるの?”という車掌に言わせるのもある意味痛快ではありますね。
No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。
お返事が遅くなってスミマセン。
まだこの当時は、『駅降り鉄』が鉄道趣味の一つとして確立してなかったので奇人扱いでしたね。 その意味では、確かに痛快でした。
それと、沙留の流氷はまた次の機会に・・。 ネタの小出しは、過去ネタを何度も引っ張る秘訣です。(笑)
お返事が遅くなってスミマセン。
まだこの当時は、『駅降り鉄』が鉄道趣味の一つとして確立してなかったので奇人扱いでしたね。 その意味では、確かに痛快でした。
それと、沙留の流氷はまた次の機会に・・。 ネタの小出しは、過去ネタを何度も引っ張る秘訣です。(笑)
北海道の冬の駅ネは、さすがにできませんでした。私も廃線前の乗りつぶしで三月末の新潟の無人駅に泊まったことはありましたが…寒かったです。 このあたりとは…想像を絶する世界です。
…でも、その甲斐あって? お宝をゲットされたようで、苦あれば楽あり…今では懐かしい思い出でしょうね。
私は隣町、下川で一年ばかり暮らしましたが…タイヘンな所ですね。