風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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路線の思い出   第21回  宮原線・北里駅,肥後小国駅

『路線の思い出』    第21回  宮原線・北里駅,肥後小国駅 〔熊本県〕
 

我が青春のローカル線だった宮原線
 
《路線データ》
  営業区間と営業キロ  輸送密度(’79)/営業係数(’83) 廃止年月日   転換処置  
恵良~肥後小国 26.6km   109  /   1860         ’84/12/ 1    大分交通バス 
廃止時運行本数
        豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
        豊後森~宝泉寺   下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)


野積みの石造りにトタン屋根
ほとんど山小屋・・な麻生釣駅が定宿だった

肥後小国駅(ひごおぐにえき)は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字宮原にあった国鉄・宮原線の駅(廃駅)で、行き止まりの終着駅である。 廃止時点で単式ホーム1面1線を持つ有人駅で、本線のほか機回し線と側線があった。

駅跡は道の駅小国として整備され、施設内には往時の列車写真が掲げられている。
建物の周囲の歩道部分には枕木が敷かれ、さらに構内の片隅にはレール・駅名標・転轍機・腕木式信号機もひっそりと保存されている。

また当所のバス停留所名称は「小国ゆうステーション」でもあり、ここがかつて「鉄道の駅」であったことを証明している。 但し、本来のホームの場所は南方50mほどの場所であり、ホームへ上る階段が残されている。

北里駅(きたざとえき)は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字北里にあった国鉄宮原線の駅である。
宮原線の廃止に伴い、1984年11月30日限りで廃駅となった。 廃止時点で単式ホーム1面1線を持つ無人駅であったが、駅開設時は貨物・荷物取扱いもあった駅員配置の一般駅であった。
その名残として、駅舎からホームへの入口に改札ラッチの柵があった。

駅跡は当駅を偲べる形で整備され、農産物直販所となっている。 また、プラットホームが残る。
当時は地上より高い場所にホームがあり、入口からトンネルに潜って中の階段を上ったところにホームがあった。 現在もホームへのトンネル・階段が残っている。 だが、線路跡は国道387号線に転用され、モニュメントとなった駅跡の目の前を一般の車が高速ですっ飛ばす違和感の大きな光景を魅せている。

当駅付近一帯は医学博士北里柴三郎の出身地として知られていて、駅跡から徒歩数分の近くに博士の偉業と貴重な研究資料を展示する北里柴三郎記念館がある。



九州の雄!?・宮原線は、私の少年時代の主要な旅先であった。 廃止になるまで、夏秋冬(春はいつも北海道行きなので)に都合5回訪れている。 そして、夏秋冬の全てを山小屋駅の麻生釣で過ごしている。 過ごしている・・というのは、つまりSTB=駅寝である。 その麻生釣駅であるが、秋の訪問時にかなり愉快な出来事があったので秋に改めて表題に出す事にして、今回は北里と終点の肥後小国を取り挙げようと思う。
 
でも、この時のサバイバル根性は半端でなかった。 何が半端でないか?というと、怖いもの知らずの『アホ道』をバク進していたのである。 麻生釣で駅寝しての朝飯の場面から、その『アホ道』は全開となる。 それは、朝飯のカップ麺の湯を作る水がないから・・と、鯉が泳ぐ堀の水(駅近所の裕福な家が鯉を飼っていたようだ・・←その池の水を拝借するだけでも、軽犯罪だね)を汲んで、それを沸かして食っていた事から始まる。
 
今現在の腹の調子が思わしくない(軟便気味)のは、『エキノコックスなんて怖くねぇ~』と山の水を沸かしもせずにジュルジュルと飲みまくったのと、こういう口にするものさえ『何でもアリ』という筆者特有の『アホの権化』たる性質によるものだと思われる。
 

ローカル線の光と影
たぶん麻生釣の時も使い回すでしょう
 
さて、麻生釣で朝イチの上下列車を撮ってから、今や国の重要文化財になっている廣平のアーチ陸橋へ向かう。 朝イチの列車の肥後小国折り返しの8時台の列車と、土曜日のみの運行の臨6225D・6226Dを撮る為である。 もちろん、麻生釣から約3km離れた廣平陸橋まで、線路を歩いて・・である。
 

湧蓋山と宮原線
線内有数の撮影スポットに通いつめた私
 
なお、当時の筆者には、列車が3往復(土曜4往復)では“絶対に轢かれまい”との自信はあったが、今も昔も線路を歩くのは違法行為ですので筆者のマネはせぬように。 もちろん途中のトンネル通過は、カンテラまで用意する周到さを持って・・である。
 
そして、夏の訪問時には、もう一つの『ミッション』があった。 それは御察知の通り、全駅の下車だ。
『夏休み』という旅の期間を長く取れる時期に『全駅訪問』をするのは、学生の身分としては当然の事であろう。 そ・れ・に・・よく訪れた秋は、土曜の臨6225D・6226Dを撮るべく『学習の秋』のド平日出発だしィ~。←もう、お解りのように、子供の頃から“ロ△デナシ”だったのですよ・・筆者は。
 

麻生釣では急坂を登った気動車が
息継ぎに2~3分停車していたので
こんなに離れて撮っても乗車できた
 
次の日は麻生釣に連泊して、いつも通り!?に始発列車を撮った後、肥後小国行の下り1番列車に乗り込む。 そして、北里へ。 ここで問題なのは、この日が『昨日の土曜日の翌日・日曜日』という事で、真剣に3往復しか列車がないのである。
 
北里に下りたはいいが、この後の肥後小国への列車は15時台までないのだ。
これより、壮大な時間潰しを敢行せねばならないのである。 まずは、創生期は有人駅であったという北里駅の探索だ。
 

廃城同然の北里駅
 
でも、この北里駅は、かなり凝った造りの駅である。 駅通路は日照を取り込むべくステンドグラスとなっていたが、無人化されて荒れ果てたようで、これらは敢え無く割れていた。 そして、高台をゆく線路と駅は城壁を思わせる石垣の上にあり、かなり豪華な駅だった事を彷彿させる。
 

北里駅の改札口
この駅の創生期は有人駅だったようだ
 
だが、この凝った造りの駅の探索も30分もあれば“終了”する。 お次の『時間潰し』先は、この地の名士・北里柴三郎博士の生家めぐりだ。 北里博士の生家は『北里記念館』となっており、今は門の所で入館料を徴収するようになっているようである。
 

北里記念館のスタンプは博士が男前
 

だが・・肥後小国駅においてあった
スタンプの博士は『残念』であった
 
だが、当時からコスい性格丸出しの小僧だった私が金を払ってまで入館した・・とは考えにくく、以前はタダだったのかもしれない。 建物内部の写真はないが、敷地内にある書斎跡の資料館『北里文庫』や生家の写真がある・・などの貴重な写真は撮っていたようである。
 

この地よりの偉人
北里柴三郎博士の生家
 

博士の文献が保管されている北里文庫
 
駅探索をして北里博士の生家を見学しても、まだ昼前だった事は覚えている。
そして、昼前だというのに北里駅周辺は店屋が1件しかなく、しかも『お盆休み』中のようであった。
つまり、夏の日差しがギンギンに照らす中、干上がってしまったのである。
 
『腹が減った』という事に対しての『この場での選択肢』であるが、15時台の列車までの3時間半を空腹をガマンしてひたすら待つか、炎天下の中を肥後小国まで歩くか・・である。 まだ若くブリバリだった私は、もちろん“歩く”を選択する。
 
歩くルートであるが、付け替え前の国道を歩くとなると山を巻くのでかなり長距離になるし、以前ヒッチハイクした時に荷台に乗せられて折からの雨に打たれた嫌な体験もあるので、国道歩きは即座にパスとなる。 そうなると、必然的に『線路歩き』となる。 そして、鉄道趣味の倫理に背く事になる。
だが、今や重要文化財となった幸野川のアーチ陸橋を現役時に渡った貴重な『体験』となったのである。
 
でも、野宿グッズ入りのザック(テントはなかったが、コンロのホェーブスは「ホェ~」と叫ぶ程に重かったし、燃料のWガソリン2リットル担いでた←列車に石油類を持ち込むのは違法なのでは?)+カメラ一式の銀箱で25㎏となった荷とギンギンに照りつける日差しで意識が呆けていて、橋上からの景色はほとんど憶えていない。
 

線内で最も有名な
幸野川橋梁を歩いて渡ったワテ
でも、再訪の秋に撮った写真はショボイ
 
・・で、肥後小国に着いた時は汗まみれで、お陰でこの地の名湯・奴留湯(ぬるゆ)の銭湯に入れたのである。 鉄道を追っかけていた時代は温泉などノーマークだったので、これはこれでタナボタながらいい温泉訪問となったのである。
 

街外れに1日3本しか発着しない路線の
立派な終着駅があった
 

九州の駅名標はシブイ
 

駅員がいて屋内には旅情を誘うポスターが掲げられてはいるが
1日3本の発着では肝心の乗客はほとんどやってこない
 
後は、肥後小国駅で『鉄』(筆者はナンチャッテの『○鉄』だけど・・)としての行動を取り、先程に歩いてきた線路からやってくる列車を“思い入れ深く”撮って(やっぱり歩いた区間には“思い入れ”が入りますね)、5分折り返しの16時台の“早すぎる”最終列車に乗り込み、宮原線を後にする。
 

肥後小国駅に列車が入線する
折り返して最終列車というには
早すぎる16:43発の列車となる
 
そして、廃線となって久しくなってから訪れた肥後小国駅は、『鉄道があった事』をお飾りのように残していた。 これを目にして強く無常感を抱いた自分がいた事が、かつてこの路線に夢中になった証だと思う。
 

現在の肥後小国駅跡
『道の駅・小国』のペーシより画像を拝借

肥後小国駅の思い出
かつての駅通りは集落街の外れにポツネンとあって、町に住む人で
さえ『みやはらせん』と誤読する程に忘れ去られた存在だったのに、
今や駅跡は道の駅となり、国道が交差する街の中心となっていた

駐車許容台数以上にやってくる車、
ガラス張りのギラギラしたドーム型の道の駅施設、
御土産物屋に名産品売り場や人気のアイスクリーム、
その脇にほんの僅かに駅跡だった事を示すモニュメント・・
過ぎ行く時の無常を、ここでも違う形で見せつけられた
 
 
   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『宮原線』を御覧下さい。
     また、メインサイトの『高原鉄道・旧国鉄宮原線』もどうぞ。
 
 
 
 
 
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No title * by tom
こんばんは
昭和末期、九州で最も気になっていた路線は宮原線です。結局、いけぬまま廃線となってしまいました。5回も訪れた貴殿は実にうらやましいです。4枚目のアーチ橋の画像は絶品ですね。

13年前、”道の駅?”に化した肥後小国駅を訪れました。信号と駅名票だけがかろうじて当時の面影を残していました。

No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。

私の住む関西圏からは、割と容易(・・といっても、新幹線を使わないので、2日がかり)にいけた所でした。 北海道は、流氷の事もあって2月3月限定にしていましたが、遠かったですね・・関西から北海道は。

廣平と湧蓋山の写真は、最初行った時はアーチ橋に意識を取られて、下から見上げるアングルばかり撮ってました。 2度目、3度目は雨で山が見えず・・、4度目でようやく撮れましたが、この時もメインのカメラが壊れて(C社AE-1+P 過去にも先にも壊れたのはコレ一度きり)サブのペンタックスMEスーパーで撮ったものです。
だから、これだけネガフイルムです。 結構、めぐり合わせは悪かったみたいですね。 でも、今はこれはお宝写真となっています。

『道の駅・おぐに』は、完全に別の世界でした。
この光景に、強い無常感を抱いた自分がいました。
けど、しっかりアイスクリームは堪能していましたが・・

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No title

こんばんは
昭和末期、九州で最も気になっていた路線は宮原線です。結局、いけぬまま廃線となってしまいました。5回も訪れた貴殿は実にうらやましいです。4枚目のアーチ橋の画像は絶品ですね。

13年前、”道の駅?”に化した肥後小国駅を訪れました。信号と駅名票だけがかろうじて当時の面影を残していました。
2013-08-16 * tom [ 編集 ]

No title

tomさん、こんばんは。

私の住む関西圏からは、割と容易(・・といっても、新幹線を使わないので、2日がかり)にいけた所でした。 北海道は、流氷の事もあって2月3月限定にしていましたが、遠かったですね・・関西から北海道は。

廣平と湧蓋山の写真は、最初行った時はアーチ橋に意識を取られて、下から見上げるアングルばかり撮ってました。 2度目、3度目は雨で山が見えず・・、4度目でようやく撮れましたが、この時もメインのカメラが壊れて(C社AE-1+P 過去にも先にも壊れたのはコレ一度きり)サブのペンタックスMEスーパーで撮ったものです。
だから、これだけネガフイルムです。 結構、めぐり合わせは悪かったみたいですね。 でも、今はこれはお宝写真となっています。

『道の駅・おぐに』は、完全に別の世界でした。
この光景に、強い無常感を抱いた自分がいました。
けど、しっかりアイスクリームは堪能していましたが・・
2013-08-16 * 風来梨 [ 編集 ]