風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

TOP >  路線の思い出 >  路線の思い出 1~50 >  路線の思い出   第15回  富内線・振内駅,日高町駅

路線の思い出   第15回  富内線・振内駅,日高町駅

路線の思い出   第15回  富内線・振内駅,日高町駅 〔北海道〕
 

スタンプがあった・・という事は
駅には降りたようだ
“乗っただけ”で往時の記憶が乏しい富内線
 
《路線データ》
  営業区間と営業キロ    輸送密度(’79) / 営業係数(’83)  廃止年月日    転換処置
 鵡川~日高町 82.5km      280  /  2021                ’86/11/ 1         道南バス
 
廃止時運行本数
鵡川~日高町 4往復   鵡川~富内、1往復    鵡川~振内 1往復

日高町駅(ひだかちょうえき)は、かつて北海道(日高支庁)沙流郡日高町字日高にあった国鉄・富内線の駅である。 富内線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 予定では当駅から延伸し、占冠駅を経由して根室本線金山駅附近に接続する事になっていたが、延伸部分の新線建設は工事凍結となり、そのまま廃線となった。

廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する駅で、富内線の終端駅であった。 駅舎側(東側)、外側(西側)共に番線表示なしの上下共用となっていて、ホーム端で収束していた。 その他、旅客の本線それぞれの外側に副本線を各1線ずつ有し、駅舎側の副本線の駅舎傍には貨物用の単式ホームを有していて、途中で分岐し本線に合流するほか、行き止まりの側線にもなっていた。 貨物列車は木材の搬出が主体であった。

職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置し、ホーム北側とを結ぶ構内踏切で連絡した。
駅舎は鉄骨ブロック建て平屋の、明るく広い近代的な建物であった。 駅前には左手側に公園が設置され、樹齢1,500年のイチイの巨木、池、日高町特産の銘石による庭石が配置されていた。 1981年の1日当たりの乗降客数は、94人との事である。

廃止後しばらくは駅舎が農協に再利用されていたが撤去され、1999年時点では草原の空き地となっており、敷地の一部が農協に利用されていた。 駅跡地には、「国鉄富内線の跡」と記載された石碑が建立されている。 日高町駅で供用されていた駅備品(時刻表や運賃表など)の一部は、沙流川温泉ひだか高原荘の別館ロビー近くに展示保存されている。


振内駅(ふれないえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町振内に設置されていた国鉄・富内線の駅である。 富内線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 1981年度(昭和56年度)の1日当たりの乗降客数は106人との事。 当駅を発着駅とする区間列車が1往復設定されていた。
駅名の由来は当駅の所在する地名からで、その地名はアイヌ語の「フレ・ナイ」(赤い川)に由来する。

廃止時点で、1面2線の島式ホームを有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
駅舎側が上り線、外側が下り線となっていた。 その他、上下本線それぞれの外側に安全側線を持った側線を各1線ずつ有し、上り線側の側線の駅舎傍には貨物用の短い単式ホームがあった。
職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置してホーム東側とを結ぶ構内踏切で連絡していた。

旧駅構内は1986年11月から、平取町によって「振内鉄道記念館」として整備されている。
駅舎は撤去されたが新たにバスの待合所兼用の建物が建築され、館内1階にC58形蒸気機関車の動輪や、当時使用していた閉塞器、備品、保線用具、駅スタンプ、写真パネルなどが保存・展示されている。

館外には当時の状態のままに側線を含むレールとホーム・腕木式信号機が保存され、旧上り線上には樺太から戻された国鉄D51形蒸気機関車が静態保存・展示されている。 また、旧下り線ホームに横付けする形で国鉄の旧型客車2両も静態保存・展示されている。 客車はライダーハウスとして利用されており、内装は宿泊施設用に変更されている。 ホームには当駅の他、幌毛志駅、仁世宇駅、岩知志駅の平取町内にあった駅の駅名標が移設保存されている。



今回取り上げる富内線は、鉄道路線としては“乗っただけ”の思い出の見当たらない路線であるが、廃止になってからは、『我が一人のパラダイス』へ向かう為の基点がこの辺りにあった為に、足しげく通った思い出がある。 そのついでに、廃線の遺構めぐりもしたのである。 今回は、それと『我が一人のパラダイス』を絡めて、無理クリに記事に仕立てようと思う。
 

『我が一人のパラダイス』
山上の楽園・七ッ沼カール
 
その『我が一人のパラダイス』とは、日高・幌尻岳と山上の楽園・七ッ沼カールの事である。
“この辺りにあった”といっても、振内駅のあった国道沿いより延々32kmも砂利ダートの林道を伝わねばならぬ山奥が、やっとこさ『登山口』なのだけれど。
 
目的地の日高・幌尻岳や七ッ沼カールへは、車止めゲートをくぐって林道を6kmを歩き、林道終点の取水ダムより沢を渡り、沢中に建てられた山荘で1泊し、翌朝山頂へ向けて登る事4~5時間と、途轍もなく遠い所なのである。 まぁ、山の事を書き記すと『路線の思い出』とは成りえない(今でも十分なってませんが・・)ので、この頃に夢中になった景色を展示するだけに留めよう。
 

沼の周りは花の楽園だ
 

咲き競うチングルマ
 
さて、富内線に関わる事としては、日高に登る前と登った後に、必ず廃線遺構めぐりをしていたのである。 でも、写真を撮ったり足跡を残したり・・というような真剣なものではなく、探してはみたが一枚の写真も撮っていなかった。 つまり、駅跡に立ち寄ってホーム跡の上に立ったり、線路跡の路盤を歩いたりしていただけなのだ。
 
登山口の林道へ入る前の最後の集落である振内は駅跡が鉄道公園となっているようで、教会のような立派な鉄道記念館(ウィキペディア・振内駅よりリンク)が建てられている。 でも、正直いうと、「これって、富内線の記念館だよね?」と思う位に場違いな建物で、写真を撮る気にもならなかったのを憶えている。
 
また、蒸気機関車と旧型客車がミニチュア化された駅プラットホームに放置保存されていた。
でも、今も昔も『鉄道は大好きだがSLは大嫌い』という偏屈極まる感情を抱いているので、放置された蒸気機関車は完全に無視で視野にも入っておらず・・で、どんな形式かすら記憶にない。
 
一方客車の方は、車中にカーペットが敷かれたライダーハウス仕様となっていたようで、『山ノボラー』の最盛期だった当時の自らにとっては、「山登りの前の安い宿泊場所」で「足を伸ばして寝れるスペース」として、いつか利用しようと注視していた。 まぁ、タダなら良しだが、500円以上だと却下かな(結局、利用はしなかったが)。
 

“モノ”ならあるが写真は一枚もない
 
振内の次の仁世宇は、北海道では珍しい寒さに対して無防備の庇のみの『バス停型待合所』が、ホーム残骸の上にサッカーのゴールマウスのようにポッカリ口を開けた状態でたたずんでいた。
つまり、放置されていたのである。 その駅跡の手前に、真新しい『日本百名山・幌尻岳登山口』の案内板がデカデカと掲げられていたのを憶えている。
 
その先の区間も山を降りた後に遺構めぐりをしたが、振内から先の日高町までの区間は富内線の中でも最も閑散区間で、今なら年間通じて利用者ゼロも吝かでない駅だったろう・・と思う。
岩知志はブロック造の駅舎が残っていて、中に入って「ここなら駅寝できるな・・」などと思案していたアホな自分がいた記憶がある。
 
その他の日高岩内や日高三岡は仁世宇同様に放置された『ゴールマウス』がポッカリ口をあけてたたずんでいた。 そして、日高町。 ここは駅の面影が全くなかった。 奥まった所にあった駅設備は撤去されて、国道沿いのスペースは飲食テナントが建ち並び、道の駅のような様相を呈していた。
 

日高町駅の写真はコレ一つ
駅跡の変貌を目にした時
写真を撮らなかった事を後悔したよ
 
この日高町駅跡の情景を目にした時は、さすがに「あの時にもっと撮っておけばよかった・・」と後悔の思いが頭の中を彷徨ったのを憶えている。
 
 
     ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『富内線』を御覧下さい。
 
関連記事
スポンサーサイト



No title * by タワマンぶらり旅
私の青春時代のブラリ旅。
最初は、九州。
次は北海道。その次は 沖縄。
そして、ヨーロッパ~アメリカ~アジア。
青春のブラリ旅の香りがする ブログに ナイスポチ!

No title * by 風来梨
タワマンぶらり旅さん、こんばんは。
いつも見て頂いて有難うございます。

身体が最も動く最盛期の時、私は放浪旅をしていました。
10ヶ月働いて金貯めて、2ヶ月は放浪・・を繰り返していたのが我が青春時代です。

おかげで社会的な地位や安定した暮らしはダメでしたが、普通の生活をしている人には体験できない色々な体験(でも、そのほとんどがオチャメ系)ができましたので、今にして思えば“良かった”ですね。

イソップの『アリとキリギリス』のキリギリスを地でいく行き方だけど、一つだけ違います。 物語のキリギリスのように『老いてもその生き様を悔いる事はない』という事だけは・・。

アリの生き方では味わえなかった素晴らしい体験をした今までを誇らしく思ってます←自分の褒め過ぎ

No title * by tom
こんばんは
小生も昭和59年に富内線に乗っています。地味な路線だったようで、小生も途中の高い鉄橋とどこかの交換風景と日高町の駅舎とキハ40のスナップ程度しか画像は残っていません。

それにしても七つ沼カールは素敵ですね。こちらの画像の方がずっと良いかもしれません。

この後はJRバスで日勝峠を越えて最後は帯広で宿泊していますが、バスの画像がないのは一生の不覚でした。

No title * by タケちゃん
こんばんは。
富内線は、途中に架かっていた、いくつかのとにかく高ぁ~い鉄橋が印象的でしたね。
私は富内線の写真、振内付近のアーチ橋を渡るキハ22を暗い中やっとこさ撮っただけで終わってしまいました。

仁世宇には、年に2回くらいは坊主を連れて釣り堀に行っています。
幌尻岳登山口の看板、確かに目にしますね・・・振内の交通公園に置かれている(放置されている?)D51はロシア帰りなんですよね。
なので、SL好きの私なんですが、あまり興味が湧かない、ってのがホントのところです。

No title * by 風来梨
tomさん、こんにちは。
お返事が遅れましてスミマセン。

この頃の私が抱いていた『オホーツク路線優先主義』の為に撮れなかった路線です。 でも、撮った方々の写真を見ると、今更ながらに後悔が頭をもたげますね。 でも、「車もない小僧の行動力では、全てを追うのは無理」と理由付けして嘆いています(笑)。

七ッ沼カールは過去4度(カール底に降りたのは3度)行きましたが、最初の時はカメラのメーターが壊れるハプニング(使っているC社のF-1はよく壊れます)があったものの、一番良く撮れました。

測光不能でエイヤーで撮ったのが最もいいデキだなんて、皮肉だなぁ~と思います。

No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんにちは。
お返事が遅れましてスミマセン。

>私は富内線の写真、振内付近のアーチ橋を渡るキハ22を暗い中やっとこさ撮った

そのお写真を拝見して、「いいなぁ・・、羨ましいなぁ・・」とブツブツ呟く自分がいました(笑)。

あの時、もう少し機転を利かしていれば・・ 無理ですね。 訪れたのは高1の夏で取り敢えず乗る事優先だったし、それに私の最初の北海道はフイルムを間違えてタングステン持ってきた大失敗旅行だったし・・です。

この時撮ったのは、全て青みがかかって没です。 この時に撮ったサブカメラのネガしか使えません←今、目一杯使ってます・・

この旅は、私の青春の爽快なお笑い(オチャメ)ネタですね。

あの幌尻岳の看板は最初に行った時はなかったので、百名山ブームであの看板が設置された時は、正直ゲンナリしましたね。

それとあの鉄道公園・・、できれば駅舎の現物を残して欲しかったなぁ。
教会みたいの・・じゃなくて。

No title * by tom
しかし富内線は回数も少なかったですから、(走行写真の)撮影も大変だったと思われます。小生もオホーツク優先主義だったので何も言えません。

カメラの露出なんて経験と運だと思うのでISOだけ決まれば、露出計をあてにせず勘で撮った方が良いこともあるかもしれません。小生も電池切れで撮ったこともありますが、それほど悪くもありませんでしたよ。

No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。

そうですよね。 取り上げた区間は4往復しかなかったですから。
足がないと、駅撮り以外は無理っぽいですね。 でも、染まる秋の富内線情景(しかも、この区間)を何かの写真で見てからは、残念な思いが募る一方です。

C社のF-1のハイブリッド機構は、もの凄く脆弱です(笑)。 たぶん、山でホコリを被ったか・・水滴が着いたか・・ですが、これが会社を代表する機種か・・と思うと、C社に幻滅。 簡単にユーザーを切り捨てるし・・。

コメント






管理者にだけ表示を許可

No title

私の青春時代のブラリ旅。
最初は、九州。
次は北海道。その次は 沖縄。
そして、ヨーロッパ~アメリカ~アジア。
青春のブラリ旅の香りがする ブログに ナイスポチ!
2013-06-30 * タワマンぶらり旅 [ 編集 ]

No title

タワマンぶらり旅さん、こんばんは。
いつも見て頂いて有難うございます。

身体が最も動く最盛期の時、私は放浪旅をしていました。
10ヶ月働いて金貯めて、2ヶ月は放浪・・を繰り返していたのが我が青春時代です。

おかげで社会的な地位や安定した暮らしはダメでしたが、普通の生活をしている人には体験できない色々な体験(でも、そのほとんどがオチャメ系)ができましたので、今にして思えば“良かった”ですね。

イソップの『アリとキリギリス』のキリギリスを地でいく行き方だけど、一つだけ違います。 物語のキリギリスのように『老いてもその生き様を悔いる事はない』という事だけは・・。

アリの生き方では味わえなかった素晴らしい体験をした今までを誇らしく思ってます←自分の褒め過ぎ
2013-06-30 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんばんは
小生も昭和59年に富内線に乗っています。地味な路線だったようで、小生も途中の高い鉄橋とどこかの交換風景と日高町の駅舎とキハ40のスナップ程度しか画像は残っていません。

それにしても七つ沼カールは素敵ですね。こちらの画像の方がずっと良いかもしれません。

この後はJRバスで日勝峠を越えて最後は帯広で宿泊していますが、バスの画像がないのは一生の不覚でした。
2013-07-01 * tom [ 編集 ]

No title

こんばんは。
富内線は、途中に架かっていた、いくつかのとにかく高ぁ~い鉄橋が印象的でしたね。
私は富内線の写真、振内付近のアーチ橋を渡るキハ22を暗い中やっとこさ撮っただけで終わってしまいました。

仁世宇には、年に2回くらいは坊主を連れて釣り堀に行っています。
幌尻岳登山口の看板、確かに目にしますね・・・振内の交通公園に置かれている(放置されている?)D51はロシア帰りなんですよね。
なので、SL好きの私なんですが、あまり興味が湧かない、ってのがホントのところです。
2013-07-02 * タケちゃん [ 編集 ]

No title

tomさん、こんにちは。
お返事が遅れましてスミマセン。

この頃の私が抱いていた『オホーツク路線優先主義』の為に撮れなかった路線です。 でも、撮った方々の写真を見ると、今更ながらに後悔が頭をもたげますね。 でも、「車もない小僧の行動力では、全てを追うのは無理」と理由付けして嘆いています(笑)。

七ッ沼カールは過去4度(カール底に降りたのは3度)行きましたが、最初の時はカメラのメーターが壊れるハプニング(使っているC社のF-1はよく壊れます)があったものの、一番良く撮れました。

測光不能でエイヤーで撮ったのが最もいいデキだなんて、皮肉だなぁ~と思います。
2013-07-06 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

タケちゃんさん、こんにちは。
お返事が遅れましてスミマセン。

>私は富内線の写真、振内付近のアーチ橋を渡るキハ22を暗い中やっとこさ撮った

そのお写真を拝見して、「いいなぁ・・、羨ましいなぁ・・」とブツブツ呟く自分がいました(笑)。

あの時、もう少し機転を利かしていれば・・ 無理ですね。 訪れたのは高1の夏で取り敢えず乗る事優先だったし、それに私の最初の北海道はフイルムを間違えてタングステン持ってきた大失敗旅行だったし・・です。

この時撮ったのは、全て青みがかかって没です。 この時に撮ったサブカメラのネガしか使えません←今、目一杯使ってます・・

この旅は、私の青春の爽快なお笑い(オチャメ)ネタですね。

あの幌尻岳の看板は最初に行った時はなかったので、百名山ブームであの看板が設置された時は、正直ゲンナリしましたね。

それとあの鉄道公園・・、できれば駅舎の現物を残して欲しかったなぁ。
教会みたいの・・じゃなくて。
2013-07-06 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

しかし富内線は回数も少なかったですから、(走行写真の)撮影も大変だったと思われます。小生もオホーツク優先主義だったので何も言えません。

カメラの露出なんて経験と運だと思うのでISOだけ決まれば、露出計をあてにせず勘で撮った方が良いこともあるかもしれません。小生も電池切れで撮ったこともありますが、それほど悪くもありませんでしたよ。
2013-07-06 * tom [ 編集 ]

No title

tomさん、こんばんは。

そうですよね。 取り上げた区間は4往復しかなかったですから。
足がないと、駅撮り以外は無理っぽいですね。 でも、染まる秋の富内線情景(しかも、この区間)を何かの写真で見てからは、残念な思いが募る一方です。

C社のF-1のハイブリッド機構は、もの凄く脆弱です(笑)。 たぶん、山でホコリを被ったか・・水滴が着いたか・・ですが、これが会社を代表する機種か・・と思うと、C社に幻滅。 簡単にユーザーを切り捨てるし・・。
2013-07-06 * 風来梨 [ 編集 ]