2013-05-05 (Sun)✎
路線の思い出 第7回 胆振線・壮瞥駅 〔北海道〕
壮瞥駅入場券
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83) 廃止年月日 転換処置
伊達紋別~倶知安 83.0km 382 / 1820 ’86/11/ 1 道南バス
廃止時運行本数
伊達紋別~倶知安 4往復 、伊達紋別~久保内 1往復 、御園~倶知安 2往復
新大滝~倶知安 1往復 、伊達紋別~新大滝 2往復
壮瞥駅(そうべつえき)は、かつて北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字滝之町に設置されていた国鉄・胆振線の駅である。 胆振線の廃線に伴い、1986年11月1日に廃駅となった。 業務委託駅。
1980年10月まで運行されていた、急行【いぶり】の停車駅であった。
廃止時点で島式ホームの片面を使用する1面1線を有した駅で、ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。 かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅で、使われなくなった駅舎側の1線は交換設備運用廃止後も、倶知安方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っており、保線用モーターカーの留置に使用されていた。 駅舎は構内の北東側に位置し、ホームとは側線を渡る構内踏切で連絡していた。
駅名は当駅が所在した地名からで、地名はアイヌ語の「ソーペツ」(滝の川)に由来する。
この滝とは、洞爺湖から壮瞥川が流れ出す地点にかかる壮瞥滝の事である。 駅前広場には、オンコ(櫟)の木を囲んだロータリーがあった。 1981年度の1日当たりの乗降客数は215人との事。
路線廃止後は暫く2本のホームが残存しており、旧構内は除雪した雪の捨て場となっていた。
後にホームや線路跡は整地の上で道路に転用されて、敷地の一部が道南バスの『壮瞥役場前』バス停留所に利用されている。 なお駅舎は、1987年(昭和62年)3月に日本テレビで放送された『さよなら大放送 おもしろ国鉄スペシャル』においてオークションに掛けられ、奄美大島の奄美アイランドに移設された。
また、当駅跡から伊達紋別方に行った昭和新山の山麓近くに、上長和駅~当駅間の線路付け替えの名残として壮瞥川に架かっていた鉄橋の橋台が残存している。 1997年時点では現地までの道がなく、木々に囲まれており探訪が難しい状況であったが、後に『昭和新山鉄橋遺構公園』として整備された。
そのほか駅跡の伊達紋別方にある『紫明苑』バス停近くの国道沿いに、線路付け替え前の旧線跡を示す『国鉄胆振線跡』と記された案内塔が建立されている。
今回取り上げる胆振線の思い出は・・、『シクジリ』以外に見つからないのである。
なぜなら、この胆振線は廃止になるとしても最後の方だろうから、一番後回しにしても問題ない・・とタガを括った結果、想像以上に早く廃止となって、1ショットのヘタクソな写真1枚のみで撮り逃したのである。
写真を見る限りかなり慌てて撮ったようで、露出はドアンダーだし、この頃は廃止ローカル線に情熱を注いでいて、鉄道写真に関しては今よりも情熱的!?に撮っていたが、胆振線だけは味も色気もないデキしか残せなかった。 でも、何でここまでチンタラ撮りしたのだろう・・と、自分のした事とはいえ疑問に思うのであるが。
我がローカル線撮影史では最低なデキ
あの時もっとキチンと撮っていれば
それは最初に述べたように、意味も無く慌てていたようである。 それは、撮り終えて札幌方向に帰る急行【ニセコ】の倶知安駅での接続時間ばかり気にしていたようなのである。 なぜなら、札幌からの急行【大雪】の自由席に座れるか・・の瀬戸際なダイヤだったからであろう。
当時の周遊券で乗り放題だった夜行急行は体のいい宿代わりで、座席が取れるか否かは結構切実だったのである。 急行【ニセコ】が札幌に到着する20時過ぎには、早い奴なら発着ホームに荷物を置いて順番待ちをしていたのである。 まぁ、今思えば、もうちょっと豊かな旅をしていたらなぁ・・と思うが。
そして当時は、この線よりオホーツクの廃止路線に心が逝っていた事もある。
だが、後回しを目論んでいたこの線は2次線の廃止が始まってから早めに廃止されて、結局撮り逃す事となってしまったのである。 いわゆる、『後回しの悲劇』なのである。 この事から、『逃した魚は結構大きい』という十字架を背負う羽目になってしまった。 ローカル線が好きな限り、いつまでも後悔の思いが擡げる微妙に重い十字架である。
他の方のHPやブログで胆振線の映像を見るにつけ、この十字架が重く圧し掛かってくるのである。
それと、もう一つの疑問であるが、同じ撮るにしても何故に『昭和新山』だったのだろうか・・という事である。 胆振線関連の事にブチ当たると、「普通はまず羊蹄山でしょうが!」と云いたくなる自分がいつも存在するのである。
胆振線の話題が挙がる度に、「もっと羊蹄山を絡めて見ていたら良かった」、「アプローチを伊達紋別でなく倶知安からにすれば良かった」等と、後悔の思いが擡げる。 でも、何故に倶知安からアプローチしなかったのか?という事に関してだけは答えが解ったのである。
それは、札幌から倶知安までと、札幌から伊達紋別までとの利便の差であろう・・という事である。
たぶん、夜行で札幌に着いてすんなりと胆振線にアプローチできるのは、運行本数が圧倒的に多い室蘭線の伊達紋別側である。 恐らく、倶知安側だと駅寝でもしない限り撮影列車が確保できなかったのであろうと思う。 車もなく鉄道に乗って撮り鉄する小僧の年齢ならば、時間に縛られるのは仕方ない事だが。
“本家”の函館本線でも
大したの撮ってないですね
羊蹄山とは相性が合わないのかねぇ
だから・・、今も「できる事なら取り返したい」と強く思う路線が、この胆振線である。
叶わぬ事とはいえ、もう一度チャンスがあれば、何が何でも『羊蹄山と胆振線』の写真を収めていたと思うし・・。
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No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんにちは。
何事も後で必ず何かしらの後悔がありますよね。 上手くいった所でも「後数枚撮れたのでは?」とか、「もっと撮ってれば・・」というような。
そういう思いが、歳をとった今もあの頃の面影を今にあわせて追い求める原動力になっています。 私の場合は・・ですが。
更に歳を取った時、今の事を大きく後悔しないようにできる限り旅に出続けたいなぁ・・。 お金かかるけど・・。
何事も後で必ず何かしらの後悔がありますよね。 上手くいった所でも「後数枚撮れたのでは?」とか、「もっと撮ってれば・・」というような。
そういう思いが、歳をとった今もあの頃の面影を今にあわせて追い求める原動力になっています。 私の場合は・・ですが。
更に歳を取った時、今の事を大きく後悔しないようにできる限り旅に出続けたいなぁ・・。 お金かかるけど・・。
壮瞥駅も、一風変わった造りの駅だったように記憶しています。
昭和新山を絡めての写真、これは滅多にお目にかかれないものですね。
逆に私は、胆振線=羊蹄山という構図に固執していたことを、今さらながらに後悔しております・・・車両と昭和新山、一緒に撮りたかったなぁ~・・・・今にしてみると。