2013-03-23 (Sat)✎
『私の訪ねた路線』 第133回 大隅線 〔鹿児島県〕
桜島と大隅線列車
もう二度と狙えぬ情景となった今
あの時の下手さが悔やまれる
大隅麓付近にて
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
志布志~国分 98.3km 702 / 1082
廃止年月日 転換処置
’87/ 3/14 鹿児島交通バス
廃止時運行本数
志布志~国分 5往復【内 下り1本 鹿屋~国分、上り1本 全区間 快速】
志布志~大隅境 上り1本
志布志~垂水 下り2本・上り1本
志布志~垂水 下り2本・上り1本
志布志~古江 1往復
志布志~鹿屋 下り2本・上り4本【内 快速1往復】
垂水~国分 下り1本
垂水~国分 下り1本
大隅境~国分 上り1本
《路線史》
大隅線の歴史は、軽便鉄道を始まりとしていて少々複雑だ。 まず、1915年に路線の中央部である鹿屋~高須が、『南隅軽便鉄道』によって開通した。 軽便鉄道という事で、軌間は762mmであった。
その翌年、『大隅鉄道』に社名を変更し、1923年までに鹿屋から先は串良まで、高須の先は古江まで延伸する。
そして、1935年に762mm軌間のまま国有化され、『古江線』と称された。 同時に、国鉄自らにより志布志~東串良を開通させ、翌年の1936年には串良まで延伸を果たし、形の上では志布志~古江が全通した。
その翌年、『大隅鉄道』に社名を変更し、1923年までに鹿屋から先は串良まで、高須の先は古江まで延伸する。
そして、1935年に762mm軌間のまま国有化され、『古江線』と称された。 同時に、国鉄自らにより志布志~東串良を開通させ、翌年の1936年には串良まで延伸を果たし、形の上では志布志~古江が全通した。
しかし、国鉄買収と同時に改軌工事に着手したのだが、その完成が1938年までかかり、この2年間は串良で乗換を余儀なくされる不便な運用となっていたようである。 従って、改軌完成までは志布志~串良までを『古江東線』、それ以西を『古江西線』と呼び分けていたようである。
以降は1961年に海潟まで、そして1972年にようやく国分までが全通した。 しかし、その頃は国鉄の赤字が慢性化の兆しを見せかけた時期で、『赤字83線の廃止バス転換勧告』によって路線が消え始めた時期と重なるのである。 そのような訳で1980年には、全通後10年と経たずに国鉄再建法により『廃止転換候補の第二次路線』に指定されてしまうのである。
九州地方の廃止路線に関しては、全体的に“諦めムード”が漂っていてあまり廃止反対運動は盛り上がらなかったようで、国鉄からJRに移行する直前の1987年3月に“JRに引き継がせない”という国鉄の目論む“予定通り”といっていい程のタイミングで廃止された経緯がある。 そして今は、転換を引き受けたバス会社も不採算を理由に撤退を表明しているとの事である(現在はJR九州バスは撤退し、鹿児島交通の系列会社である三州自動車バスが運行している)。
路線は南国のシンボル『桜島』を望みながら走る区間があり、この区間は誰もが“優れた鉄道情景”として推したとの事である。 そういう意味では、下の写真でも記したように、あの頃の腕の未熟さが悔やまれるのである。 また、桜島の噴火による降灰を受け、線路は常に灰に埋もれていた記憶がある。
以降は1961年に海潟まで、そして1972年にようやく国分までが全通した。 しかし、その頃は国鉄の赤字が慢性化の兆しを見せかけた時期で、『赤字83線の廃止バス転換勧告』によって路線が消え始めた時期と重なるのである。 そのような訳で1980年には、全通後10年と経たずに国鉄再建法により『廃止転換候補の第二次路線』に指定されてしまうのである。
九州地方の廃止路線に関しては、全体的に“諦めムード”が漂っていてあまり廃止反対運動は盛り上がらなかったようで、国鉄からJRに移行する直前の1987年3月に“JRに引き継がせない”という国鉄の目論む“予定通り”といっていい程のタイミングで廃止された経緯がある。 そして今は、転換を引き受けたバス会社も不採算を理由に撤退を表明しているとの事である(現在はJR九州バスは撤退し、鹿児島交通の系列会社である三州自動車バスが運行している)。
路線は南国のシンボル『桜島』を望みながら走る区間があり、この区間は誰もが“優れた鉄道情景”として推したとの事である。 そういう意味では、下の写真でも記したように、あの頃の腕の未熟さが悔やまれるのである。 また、桜島の噴火による降灰を受け、線路は常に灰に埋もれていた記憶がある。
《乗車記》
大隅半島を周回していた大隅線は、今は周辺の町と合併して霧島市となっている旧国分市の国分駅から出ていた。 周辺の町を併合して県境の霧島山域までの行政区となった霧島市は、県都についで鹿児島県第二の都市となっているらしい。 そのせいか、駅も鉄筋コンクリート造の“町の代表駅”の風格のある駅である。
その国分駅の駅母屋側の宮崎方向に、『0番線』という切欠ホームがあり、そこが大隅線の専用ホームであった。 国分駅を出ると、宮崎側に進みだす。 程なく日豊本線と分れて90度右に折れて南下していく。 カーブを終えて進路が南になると、金剛寺に着く。 駅はホームのみの棒線駅で、形態は南国仕様の庇だけの待合ボックスであった。 駅名の由来は、薩摩藩の藩祖・島津義久の墓のある寺からきている。
続く銅田・敷根・大隅福山と、先程の金剛寺と同じく南国仕様のブロック塀に庇が乗るだけの棒線駅が続く。 しかも、駅名標の錆具合の酷さも“同じく”である。 特に大隅福山は、霧島市に合併前は福山町という行政区でその町の中心駅であったにも拘らず、この体たらくであった。
次の大廻はシラス台地上の高台にあり、先出の駅と同じくの南国仕様の棒線駅であった。 大廻を出ると垂水市に入り、大隅境に着く。 この駅は前後をトンネルで囲まれており、海沿いのシラス台地上に駅にも拘らず、山中の雰囲気を醸し出していた。 また、国分から垂水までの36.7kmの区間で唯一の交換可能駅でもあった。 だが、駅員がいない無人駅で、しかも駅舎はおろか南国仕様の待合所さえなく、雨避けの庇のみの島式ホーム1面だけの“浮島駅”であった。
この粗末な交換駅を出ると大隅二川・大隅辺田・大隅麓と、再び南国仕様の庇とブロック塀の待合所のある棒線駅に停まっていく。 駅だけを見ると全く変わり映えがなく、列車が全く進んでいない錯覚を覚えそうだ。 だが、シンボルの桜島が一駅毎に車窓に大きく浮かび出し、進んでいる事が確認できる。
今なお噴煙を
たなびかせる桜島
最も桜島に近づく大隅麓では、常時噴火する桜島の火山灰が線路を埋め尽くし、列車が通る毎に線路に積もる火山灰土を巻き上げていた。 大隅麓を出ると、少しづつ桜島より離れていく。 次の海潟温泉は駅名を聞けば温泉を控えた大きめ駅を想像しがちだが、先出の駅同様のシラス台地上の高台にある南国仕様の待合所の乗っかる棒線駅でしかなかった。
これまでの区間の駅と駅舎で見れば、ほぼ全てが同じで全くもってつまらないが、次の垂水は別格だ。
素朴で味のある木造駅舎で、南国の民家を見ている様である。 だが、垂水市の代表駅としては、かなり物足りない規模の駅でもある。
垂水を出ると、浜平・柊原・諏訪・新城と更に待合所が粗末な造りとなった南国仕様の棒線駅が続く。
車窓からの眺めは今までの桜島に変わって、錦江湾対岸の指宿の街と薩摩半島側のシンボル・開聞岳が霞んで見えてくる。 錦江湾沿いに国道220号線と並走しながらゆくと、鹿屋市に入って最初の駅の古江に着く。
古江駅は交換可能駅で、委託の駅員もいた。 762mm軌間の軽便鉄道として開通した路線の創世記は、この古江が終着駅であった。 そして、軽便鉄道の762mmからの改軌は、国鉄編入の1935年から1938年までと3年かかっている。 なお現在は、鉄道記念館として駅舎が保存されている。
古江から先は路線建設の違いからか、駅舎が各駅毎にバラエティに富むようになる。 次の荒平は海を望む高台に駅が設けられ、路線廃止後も隣接する菅原・荒平天神の参詣者休憩所として使用されていたが、近年取り壊されたという。
線路は次の大隅高須まで海沿いをゆく。 大隅高須は倉庫のような建付けの駅舎と駅舎から離れた所にあるホームと、かつて交換設備があった様相のある棒線駅である。 大隅高須を出ると、線路は大きく左へ折れて大隅半島を横断していく。
次の大隅野里は、旧日本海軍の鹿屋飛行場の海上自衛隊鹿屋基地が近くにある。 駅の開設理由も鹿屋飛行場への物資輸送にあったといい、以前は飛行場までの専用の引込線があったという。 駅はコンクリートブロック造の箱型駅舎で、現在はサイクリングロードの休憩所として使われている。
大隅野里の次は、線内最大の駅の鹿屋に着く。 駅に入る前に線路は大きく湾曲して、列車が走行できるギリギリのΩカーブをついて鹿屋駅に入線する。 これは元々この駅がスイッチバック駅だった名残で、それを解消するべく路線を付替えた結果が湾曲とΩカーブである。
この駅は路線最大の駅という事で、国鉄直営の駅員配置駅で列車交換設備も有していた。 また、駅舎も2階建てで、駅舎より高台にあるホームに隣接して貨物ヤードも有していた。 なお駅跡には、鹿屋市役所が移転しているとの事である。
鹿屋を出ると大隈川西・永野田と南国仕様の待合所のみの棒線駅が続く。 だが、待合所は細長くなり、路線建設をした大隅鉄道という軽便鉄道の志向が出ている。 永野田を出ると、旧吾平町(現 鹿屋市)の中心である吾平に着く。 交換設備のある国鉄直営の有人駅であった。
次の論地は棒線無人駅であるが、待合室は『南国仕様の庇だけ』ではなく、囲いのあるモノであった。
続く大隅高山は戦時は軍事物資、戦後は戦後復興産業の物資貨物が大々的に取り扱われた駅であったという。 もちろん交換設備も有し、旅客の他に側線が数本敷かれ、前述の貨物受渡しの貨物専用ホームもあった。 また、内之浦の宇宙観測所のロケット打ち上げ時には、ステーション建設やロケットの資材がこの駅を通じて運ばれたという。
次の下小原は棒線無人駅だが、先出の論地同様に囲いのある待合室を有していた。 鹿屋を出てからの大隅線は吾平町や高山町(現 肝付町)を迂回していたが、鹿屋から直線的に大隅半島を短絡する国道220号線と合流して串良に着く。 この駅は旧串良町(現 鹿屋市)の中心駅だが、木造の駅舎はかなり朽ちていて、廃倉庫のようであった
この串良は、大隅線の建設を担った軽便鉄道の大隅鉄道の終着駅で、1938年の改軌工事完了までは762mm軌間であった。 また、この駅以遠は国鉄に路線開設が成された為に軌間が1067mmで、この駅が軌間幅の違う路線の中継駅となっていた。
前述の如く、串良からは国鉄による開設区間となる。 次の東串良は志布志から国鉄が建設した区間の終着駅だった所で串良駅とは600mしか離れておらず、列車に乗り遅れても走って追っかければ間に合った・・という逸話があるという。 駅舎は木造モルタル造で交換設備と側線を有していたが、末期は交換設備や側線は放棄されて棒線駅と化していた。
次の三文字は妻面に入口のある木造駅舎を有する棒線駅だが、建物につっ支え棒が必要な程に傷んでいたようである。 次の大隅大崎は大崎町の中心駅だが、駅舎はかなり古い木造駅舎だった。 だが、交換設備を持つ国鉄直営の有人駅であったとの事である。
大隅半島を周回した長い路線も、次の菱田で漸く太平洋側の海際に出る。 菱田は交換設備のあった木造駅舎を有する駅だが、無人化と共に撤去されている。 菱田駅を出ると、海から昇る朝日を美しく望める菱田川の河口を渡り、左側より同じく廃止となった志布志線と合わさって志布志に着く。
以前の志布志駅は機関区や保線区を有し、貨物操車場も稼動していた鉄道の要衝であったが、この大隅線と志布志線の廃止によって日南線のみの棒線突端駅となってしまった。 そして機関区や保線区、貨物ヤードは全て廃され、駅舎の向きは突端駅を示すが如く、線路に垂直の向きに移設され建て直されている。
その駅舎建て直しの際には無人化もされていて、機関区跡の広い空地と共に鉄道の地位低下が如実に示されていた。
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