2013-03-18 (Mon)✎
『私の訪ねた路線』 第132回 標津線 その2 厚床線 〔北海道〕
何もない原野
を1日数本往来していた
開拓鉄道の名残
通称『厚床線』
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶~根室標津・厚床~中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス
廃止時運行本数
〔西春別線〕 標茶~根室標津 6往復
標茶~中標津 下り1本
中標津~根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床~中標津 4往復
《路線史》
根釧原野の抱く林野資源と鉱山資源の開発を目的とした、典型的な北海道開拓路線として建設された路線である。 当時、北海道庁により殖民軌道(主として動力は馬)が敷設されていたものの、その輸送力には限界があり、また馬の維持などの問題やそれに絡む離殖者の増加も問題に挙がり、開拓民によって鉄道建設が切望されていたのである。 従って、開拓民の利便を図るべく原野に軌道が敷かれる事となった訳である。
標津線の駅名入り
硬券乗車券
根室標津より先、知床半島の付け根を横断して斜里まで至る『根北線延伸構想』もあり、実際には斜里~越川間に『根北線』が一部営業運行をしていた時期もあった。 だが、時は既に遅く、北海道の開拓事業は戦前の事であり、また過疎化も進んだ事から、この『根北線』は営業不振により、開通から僅か13年で早々と廃止(廃止年月日は1970年11月末)となり消え去っていったのである。
そして、この標津線も先程に記述した通り、開拓民の利便を図るのを主目的に“何もない原野”に鉄路が敷かれた為、利用者はジリ貧の様相を呈していた。 こうして、国鉄再建法により第2次廃止転換対象路線に指定される。 この路線も、天北線や名寄本線などと同様に長大路線という事で一時承認が保留されたものの、並走する国道の整備などで問題はクリアされたとして廃止承認が正式になされ、1989年4月末に廃止された。
国後島を望むこの場所で
標津線列車を撮れなかったのが心残りだ
「標津線」オレンジカードより
標津線は“本線”格の標茶~中標津~根室標津と、“支線”格の中標津~別海~厚床の通称『厚床線』からなる“T字型”の路線である。 運行本数も標茶~根室標津の6往復強に対して、『厚床線』は僅かに4往復のみの運行となっていた。 だが、建設の目的からいうと、開拓路線として開拓民の強い要望を受けたのは“支線格”の『厚床線』であり、“本線”は釧路への短絡ルートを目しての建設という付随路線であったのである。
野付半島の風物詩
トドワラ
終点の根室標津は、国後島の望める『国境の街』である。 また、尾岱沼や野付半島への観光資源も豊富にある。 また、知床・羅臼への起点とも成りうる位置でもある。
昔、釧路から急行【しれとこ】が中標津まで運行していた時期もあったが、これらの豊富な観光資源を少しでも取り込んでの“観光鉄道”として成り立つ事ができなかったのかな・・という思いが募る路線でもある。
不毛の無人荒野に
空気を運ぶ列車が行き来する
《乗車記》
標津線は標茶から根室標津へ向かう本線格の〔西春別線〕と、中標津から分かれて別海町の原野地帯を横断して根室市の厚床に至る〔厚床線〕があった。 今回は、その〔厚床線〕の在りし日の《乗車記》を語ろうと思う。
路線敷設の目的は、前述した《路線史》にも記した通り原野開拓における開拓路線であり、入植者からの要望が強かったのは本線格の〔西春別線〕よりも、こちらの〔厚床線〕であったのである。
だが、開拓という一時代を担うという使命を終えると、「人煙稀な原野に敷かれた運ぶべきモノのない鉄路」という現実だけが残ったのである。 そして、廃線を控えた末期は、1日僅か4往復のみの運行の廃止対象路線の支線格となっていた。 それでは、その果てしない原野の中をゆく使命を終えた開拓路線の情景をみてみよう。
根室市の“字”集落である
厚床が始発駅だ
原野をゆく開拓鉄道〔厚床線〕の始発駅は、根室市の“字”厚床という原野の中の小集落であった。
その厚床駅の真ん中のホーム・2番線が、〔厚床線〕の発着ホームであった。 このホームから1日僅か4便の列車が発車していたが、〔厚床線〕の列車の全てが根室本線の列車に接続しており、〔厚床線〕列車の発着時は静まり返った原野の中の駅が生気を取り戻す瞬間でもあった。
厚床駅の“2番線”は
1日4本の列車のための
専用ホームだった
このように、原野の中の駅が息を吹き返した瞬間が、〔厚床線〕列車の発車時刻である。 その2番線で車体を振るわせている列車に乗り込む。 厚床駅を発車すると、程なく根室本線より離れ原野の中に飛び込む。 根釧原野の湿地帯がおりなす本当に何もない不毛の原野をゆくのだ。 これ程までに何もないと、何を基準に語っていいか戸惑ってしまう。
厚床より11.5km、時間にして16~17分の間、人煙どころか全く建物のない原野湿地帯を行くと、ポツリポツリと開拓農家と酪農に供されるサイロが見えてくる。 程なく奥行臼だ。 周囲は酪農を生業とする農家だけで、お隣さんまで数キロ離れているというような所だ。
入場券も売っていた
奥行臼入場券
だが、そんな利用客が期待できない原野の小集落の駅でも、廃止が諮問される1980年代の中盤まで委託であるが駅員がおり、入場券も販売していたのである。 そして、外から見れば廃屋と思しき木造のバラック駅舎であったが、中は清掃が行き届いて塵一つ落ちていなかったのが印象的であった。
ほとんど廃屋・・だった
奥行臼駅
その駅の向いに《奥行臼駅逓》という史跡があり、鉄道在りし時の“現駅”であった奥行臼駅舎の朽ち具合に対し、史跡である《奥行臼駅逓》の立派さがヤケに対比的であった。
駅の真正面にある北海道重要文化財
『奥行臼駅逓所』
奥行臼を出ると、再び原野の中に舞い戻る。 戻るといっても、奥行臼にしても数件の民家が存在しただけであるから、それがなくなっただけである。 再び12kmという長い区間、変化のない原野をゆくが、周囲の情景が不毛の湿地帯よりサイロの点在する広大な牧草地に変わる所に、重苦しさから開放された心地となる。
春遠からじ
何もない荒野にも
遅き春の訪れが
牧草地から小オアシスでも到着したが如く、町集落が見えてくると別海駅に着く。 駅は、以前最も人口密度が低い町として有名だった別海町の中心にあって、交換設備がある駅員常駐駅だった。 そして、両端駅を除く〔厚床線〕の利用客の大半が、この駅の乗降であったとの事である。
別海を出ると、更に開拓農家のパイロットファームのサイロが点在する眺めとなる。 牧草地帯で草を食む牛達を眺めながらゆくと、棒線ホームと物置のような朽ちた待合所のある平糸に着く。 駅は国道から小道に入った中にあり、廃駅後は草むらと化しているという。
平糸を出ると、また相変わらずの牧草地帯をゆく。 厚床からずっと原野地帯をゆくが、厚床から離れるに従って開拓農道が現れるなど、開拓が整然と行われていたのが判る。
広大な原野を運ぶべきモノのない
『空気輸送』の列車がゆく
これが開拓の使命を終えた
鉄路の末路なのか
程なく、別海町の小集落である春別に着く。 駅舎は味のある木造駅舎で、ホーム及び駅建物周辺が土場で広く、駅を扱うドラマのロケ地のような情景を持つ駅だった。 ちなみに、この駅も廃止が諮問される1980年代中盤まで駅員がいたとの事である。
春別からは、春別原野という湿地帯の開拓地をゆく。 だが、『別海』から『春別』に名称が変わっただけで原野である事には変わりなく、同じような眺めが続く。 程なく、サイロがポツリポツリある農場前に、板張りの乗降場然とした協和駅に着く。 この駅を見ると、この農場の専用駅のように思えるのである。
開陽台を紹介した中標津駅スタンプ
原野の中のパラレルワールドな町
の方がしっくりとくるのだが
協和を出ると、また元に戻って牧草地となった原野をゆくが、ある時突然・・という形容詞が当てはまるが如く、パラレルワールドの中にハマり込んだ感覚を見る事になる。 学校や商店に続き、東武や長崎屋という大都市資本の百貨店などの商業施設や、車が数百台駐車できる大店舗用駐車場を目にする事になるのだ。 それらパラレルワールドな情景にハマり込んだ戸惑いを抱きながら、終点の中標津に到着する。
中標津市街から
10km程離れた所に
“地球が丸く見える”という
“地球が丸く見える”という
景勝地・開陽台がある
その通り、飛行場もあるなど施設の整った中標津は、根室市を差しおいての根室支庁の実質的な中心であるのだ。 そして観光地としても、地平線が見える開陽台や国境の町・標津や摩周地域への空港拠点として重宝されている。
〔西春別線〕は、『第131回 標津線 その1 西春別線』を御覧下さい。
また、旅行記として『オホーツク縦貫鉄道の夢』もどうぞ。
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No title * by 風来梨
よっちゃんさん、こんにちは。
見て頂いて有難うございます。
確か、別海町の簡易軌道があった所ですね。
でも、標津線の往時はそれらの遺構は放置状態でして、全く目立たなかった記憶があります。 廃止になってから駅や過去の史跡が持てはやされているケースが、この奥行臼駅にも当てはまりますね。
春別に関しては、全く知りませんでした。 新たな情報を頂き有難うございます。
見て頂いて有難うございます。
確か、別海町の簡易軌道があった所ですね。
でも、標津線の往時はそれらの遺構は放置状態でして、全く目立たなかった記憶があります。 廃止になってから駅や過去の史跡が持てはやされているケースが、この奥行臼駅にも当てはまりますね。
春別に関しては、全く知りませんでした。 新たな情報を頂き有難うございます。
No title * by タケちゃん
こんばんは。
「開拓の使命を終えた鉄路の末路」という言葉が、実に胸に刺さりますね。
実際問題、廃止されてしまった路線は広大な大地の中を進む路線が多かったですね・・・・農地が整備され、道路も整い・・・・そうなると鉄道への依存度が低下するのは皮肉なものですよね。
開陽台・・・・20年以上行っていません。
養老牛温泉に一泊して、のんびりと周辺をブラブラしたい気分になってしまいました・・・・。
あっちの牛乳飲みたいなぁ。美味しいんですよね~。
「開拓の使命を終えた鉄路の末路」という言葉が、実に胸に刺さりますね。
実際問題、廃止されてしまった路線は広大な大地の中を進む路線が多かったですね・・・・農地が整備され、道路も整い・・・・そうなると鉄道への依存度が低下するのは皮肉なものですよね。
開陽台・・・・20年以上行っていません。
養老牛温泉に一泊して、のんびりと周辺をブラブラしたい気分になってしまいました・・・・。
あっちの牛乳飲みたいなぁ。美味しいんですよね~。
No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅れてスミマセン。
廃止線を見つめると、その多くに『栄枯盛衰』が漂っています。
華やかな頃と末期のギャップの大きさに溜息が出ます。
私が廃止線に触れた時は、その末期です。 もちろん、廃止線が華やかな頃は知りません。 でも、末期の哀愁漂う姿に虜になっちゃいました。
お返事が遅れてスミマセン。
廃止線を見つめると、その多くに『栄枯盛衰』が漂っています。
華やかな頃と末期のギャップの大きさに溜息が出ます。
私が廃止線に触れた時は、その末期です。 もちろん、廃止線が華やかな頃は知りません。 でも、末期の哀愁漂う姿に虜になっちゃいました。
奥行臼駅といえば例の最期まで残った簡易軌道があった場所ですよね^^
春別は今はサハリン帰りのD51が居るんでしたっけ?