2013-03-10 (Sun)✎
『私の訪ねた路線』 第131回 標津線 その1 西春別線 〔北海道〕
原野の長大なアップダウンをゆく
泉川~光進
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶~根室標津・厚床~中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス
廃止時運行本数
〔西春別線〕 標茶~根室標津 6往復
標茶~中標津 下り1本
中標津~根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床~中標津 4往復
《路線史》
根釧原野の抱く林野資源と鉱山資源の開発を目的とした、典型的な北海道開拓路線として建設された路線である。 当時、北海道庁により殖民軌道(主として動力は馬)が敷設されていたものの、その輸送力には限界があり、また馬の維持などの問題やそれに絡む離殖者の増加も問題に挙がり、開拓民によって鉄道建設が切望されていたのである。 従って、開拓民の利便を図るべく原野に軌道が敷かれる事となった訳である。
標津線各駅の入場券
根室標津より先、知床半島の付け根を横断して斜里まで至る『根北線延伸構想』もあり、実際には斜里~越川間に『根北線』が一部営業運行をしていた時期もあった。 だが、時は既に遅く、北海道の開拓事業は戦前の事であり、また過疎化も進んだ事から、この『根北線』は営業不振により、開通から僅か13年で早々と廃止(廃止年月日は1970年11月末)となり消え去っていったのである。
根室標津駅
「さよなら標津線」スタンプ
そして、この標津線も先程に記述した通り、開拓民の利便を図るのを主目的に“何もない原野”に鉄路が敷かれた為、利用者はジリ貧の様相を呈していた。 こうして、国鉄再建法により第2次廃止転換対象路線に指定される。 この路線も、天北線や名寄本線などと同様に長大路線という事で一時承認が保留されたものの、並走する国道の整備などで問題はクリアされたとして廃止承認が正式になされ、1989年4月末に廃止された。
鉄道百景にも推挙された原野のアップダウン
「さよなら標津線」オレンジカード
標津線は“本線”格の標茶~中標津~根室標津と、“支線”格の中標津~別海~厚床の通称『厚床線』からなる“T字型”の路線である。 運行本数も標茶~根室標津の6往復強に対して、『厚床線』は僅かに4往復のみの運行となっていた。 だが、建設の目的からいうと、開拓路線として開拓民の強い要望を受けたのは“支線格”の『厚床線』であり、“本線”は釧路への短絡ルートを目しての建設という付随路線であったのである。
流氷を図案化した
ディスカバー・ジャパンの
根室標津駅スタンプ
終点の根室標津は、国後島の望める『国境の街』である。 また、尾岱沼や野付半島への観光資源も豊富にある。 また、知床・羅臼への起点とも成りうる位置でもある。
沖に浮かぶ流氷と
水辺の王子・オオハクチョウがお出迎え
尾岱沼にて
昔、釧路から急行【しれとこ】が中標津まで運行していた時期もあったが、これらの豊富な観光資源を少しでも取り込んでの“観光鉄道”として成り立つ事ができなかったのかな・・という思いが募る路線でもある。
原野のアップダウンをゆく
泉川~光進にて
《乗車記》
本線と云ってもローカル線然している釧網本線の標茶が標津線の分岐駅であった。 かつては急行【しれとこ】が、この標茶で分割されて根室標津まで急行運転で直行していた時もあったが、末期は本線接続のみで運行は線内のみであった。
その標津線の発車ホームは母屋より最も離れた3番線で、そのホームに停車している気動車に乗り込む。 標茶を出た列車は、釧網本線と平行して進む。 2kmほど並走して、原野の牧草地が広がる何もない所で釧網本線と分岐する。 分岐してすぐに乗降場の多和に着く。 ホームは枠から支柱から全て木製の板バリホームで、「これぞ乗降場」という造りであった。
標津線往時の多和の周辺は、本当に何もない牧草地が広がる原野であったが、今は『地平線が見える広大な北海道らしい丘・多和平』として、大いに観光アピールされている。 まぁ、その観光地の多和平展望台はこの乗降場から15km程離れていて、車や観光地で周る観光地なのだが。
多和を出ると、根釧国境に接する原野帯に入っていく。 この辺りは全く民家はなく、原生林が林立する峠を上っていく。 根釧国境の峠を越えると、林業に従事する入植者への利便と、根釧国境を越える長い区間に対しての交換設備の為に設けられた泉川に着く。
この駅は前述の理由から交換設備が稼動していて、入植者の離農・離村などで集落が衰退する廃止直前まで列車交換の職員が配置されていた。 駅舎にはポイント切替のコテが並ぶなど、鉄道の原風景がそこにあった。
泉川を出ると、標津線の醍醐味である原野のアップダウンが始まる。 広大な原野の起伏が成す50mの高低差を駅間を通じてゆっくりと上下していく情景は、鉄道百景の一つとして挙げられているという。
この原野の起伏を登りきると光進に着く。
広大な平原をとにかく真っ直ぐ
地形の変化に逆らう事なく
地形の変化に逆らう事なく
アップダウンで乗り越える
光進は元乗降場から昇格した駅で、ホームは乗降場規格の棒線ホームだが、木造プレハブの駅舎は待合室のみだが広くトイレもあった。 光進を出ると、広大な牧草地帯をゆく。
やがて国道243号と共に集落が見えてきて、西春別に着く。 西春別には、広大な面積の別海町の支所があり、別海町では2番目の集落規模となっている。 もちろん駅も、廃止時まで交換設備を有する有人駅であった。
西春別を出ると集落はすぐに過ぎ去り、再び原野の中を行くようになる。 原野に広がる牧草地帯に酪農民家と思しき数件の集落を見ると、上春別に着く。 駅は棒線ホームで、ホーム脇に小さな待合室があるだけの停車場規格の駅だ。
標津線利用でバスに乗換えて
駅より10km以上離れた養老牛温泉へ
湯治に行くお客さんいたのだろうか
上春別を出て暫く進むと、この地域の主要道道13号線が寄り添ってきて、並走しながら計根別に着く。
この駅周辺もまとまった集落があり、廃止時まで列車交換設備の稼動した有人駅であった。
なお、スタンプ図案の養老牛温泉は、最寄駅とは云うものの10km以上離れていた。
次の開栄は、開拓地らしい地名の乗降場だ。 牧草地広がる原野の丘陵地帯に、棒線ホームと脇に小さなトタンの待合室が設けられていた。 次の当幌は主要道道13号線上の小集落で、駅前の十字路に固まって民家があった。 古い木造駅舎の簡易委託駅であった。
そして、沿線最大の駅・中標津に至るが、今まで目にした広大な原野・牧草地から、百貨店やスーパー、ホテルなどの商業施設が並ぶ『街』に突入する。 その情景は『原野の中のオアシス』そのもので、原野に見慣れた目には、『パラレルワールド』に紛れ込んだような錯覚を覚える情景の変化だ。
中標津の駅舎はコンクリート平屋建ての大きな駅舎で、ホームも本線格の〔西春別線〕の上下線と〔厚床線〕と、方向行先別に全て専用ホームがあった。 その街風景も駅を出て程なく過ぎ去り、再び原野の丘陵帯に入っていく。 その光景は、真に夢幻の如しである。
空を見やると茜に染まった
筋雲がたなびいていた
どうやら明日は地吹雪となるかも
原野の中をゆくが、再び広大な丘の起伏をアップダウンしながら越えていく。 左手に武佐岳を見ると、上武佐に着く。 雰囲気のいい木造駅舎で、映画のロケ地にも使われたとの事である。
標津線での思い出が
いっぱいつまった駅
上武佐駅
キハ24がカーブに
身をよじりながらやってきた
上武佐を過ぎると再び丘陵地帯の起伏をアップダウンで越えて、標津原野の基線道路に広がる集落に設けられた駅・川北に着く。 ここは標津町の派生した市街地が形成されており、そこそこまとまった利用客がいたようである。
そして、標津原野の湿地帯を避けるように周り込んでオホーツクの海辺に出る。 国境の町・標津だ。
オホーツク海沿いに出ると、標津の町中をめぐって程なく根室標津に到着する。
駅舎は中標津と同様のコンクリートの平屋建てで、構内は広くターンターブルもあった。 だが、旅客ホームは片面1面だけで、ターンテーブルから駅構内を見ると、寂しき果ての駅の情感が湧いてくる。
また、この先に計画があった根北線や知床への夢も思い描く事ができる。
近くて遠い島を望む駅
根室標津駅スタンプ
そして、駅から数分で、国後島浮かぶ国境の海・オホーツクの海辺に出る事ができる。 冬には流氷が接岸し、流氷が国境の島までの間を埋め尽くしてくれる姿が望めるだろう。
明けの空に茫洋と浮かぶ
“近くて遠い島”・国後島
“近くて遠い島”・国後島
〔厚床線〕は、『第132回 標津線 その2 厚床線』を御覧下さい。
また、旅行記として『オホーツク縦貫鉄道の夢』もどうぞ。
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No title * by 風来梨
tomさん、こんばんは。
この大平原の起伏の地形に逆らわず、真っ直ぐに線路を敷いていましたね。 始めの方に掲載したオレンジカードの図案のように撮りたかったですが、当時の210mmのエクステンダー手持ちではコレが精一杯で・・。
この大平原の起伏の地形に逆らわず、真っ直ぐに線路を敷いていましたね。 始めの方に掲載したオレンジカードの図案のように撮りたかったですが、当時の210mmのエクステンダー手持ちではコレが精一杯で・・。
No title * by isao&よっちゃん
こんばんは。
廃止当日の様子が当時ビコムから発売されていたVHSに詳しく載っていましたね。
キハ24、懐かしいですね。
私は1987年生まれですが、幼い頃は函館でよく見ました^^
廃止当日の様子が当時ビコムから発売されていたVHSに詳しく載っていましたね。
キハ24、懐かしいですね。
私は1987年生まれですが、幼い頃は函館でよく見ました^^
No title * by タケちゃん
こんばんは。
標津線といえば、まずはあの不思議な線形・・・・T字型とでもいうのでしょうか・・・純真無垢な?少年は時刻表を見ながら、「乗ってみてぇなぁ~」と思っていましたが、その夢は結局叶わずでした。
結局、こちら方面を訪れたのは廃線後・・・中標津町の大きさと、商業施設の多さに驚いた事を覚えています・・・・「何も生活に不便がないじゃないか!」と。
確か町の入り口の公園にはC11が静態保存されていたなぁ・・・・。
計根別(この字を変換で出すのに苦労しました)、養老牛温泉、開陽展望台等々の素晴らしい景色や環境・・・もし路線が残っていたとしたら、結構な観光路線になっていたのではないでしょうかね?
中標津には空港もありますし・・・ま、夢を語るのは勝手ですからね。
標津線といえば、まずはあの不思議な線形・・・・T字型とでもいうのでしょうか・・・純真無垢な?少年は時刻表を見ながら、「乗ってみてぇなぁ~」と思っていましたが、その夢は結局叶わずでした。
結局、こちら方面を訪れたのは廃線後・・・中標津町の大きさと、商業施設の多さに驚いた事を覚えています・・・・「何も生活に不便がないじゃないか!」と。
確か町の入り口の公園にはC11が静態保存されていたなぁ・・・・。
計根別(この字を変換で出すのに苦労しました)、養老牛温泉、開陽展望台等々の素晴らしい景色や環境・・・もし路線が残っていたとしたら、結構な観光路線になっていたのではないでしょうかね?
中標津には空港もありますし・・・ま、夢を語るのは勝手ですからね。
No title * by 風来梨
よっちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅れてスミマセン。
キハ24は、かなりの稀少車種だったようですね。
皆さんに感嘆の声をあげられます。 私は標津線と深名線で撮影することが叶いました。 外観はキハ40(とまではいかないけど)型、車内ははキハ22という代物でしたね。
お返事が遅れてスミマセン。
キハ24は、かなりの稀少車種だったようですね。
皆さんに感嘆の声をあげられます。 私は標津線と深名線で撮影することが叶いました。 外観はキハ40(とまではいかないけど)型、車内ははキハ22という代物でしたね。
No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅れましてスミマセン。
そうですね。 厚床線から中標津に入る瞬間は、真にパラレルワールドにハマってしまったかの錯覚を覚えました。 さっきまで原野だったのが、東武・長崎屋の百貨店ですからね。
そして、挙げて頂いた観光地の他にも、標津沖のオホーツク流氷やトドワラ・野付半島・尾岱沼・アイヌのポー川遺跡・鮭の遡上など、釧網本線に匹敵する観光路線になりそうですね。
また根室標津は、我が憧れの根北線の幻の終着駅だったりして・・。
お返事が遅れましてスミマセン。
そうですね。 厚床線から中標津に入る瞬間は、真にパラレルワールドにハマってしまったかの錯覚を覚えました。 さっきまで原野だったのが、東武・長崎屋の百貨店ですからね。
そして、挙げて頂いた観光地の他にも、標津沖のオホーツク流氷やトドワラ・野付半島・尾岱沼・アイヌのポー川遺跡・鮭の遡上など、釧網本線に匹敵する観光路線になりそうですね。
また根室標津は、我が憧れの根北線の幻の終着駅だったりして・・。
そうそう。こんな感じですね。標津線。比較的、樹木が多く、そのわりには沿線には特徴的なもの(山、湖、川、建物)がなく、”低木の間を走るアップダウンの多い路線”というのがイメージですね。