風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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私の訪ねた路線  第126回  天北線 その2 浜頓別~稚内

『私の訪ねた路線』  第126回  天北線 その2 浜頓別~稚内  〔北海道〕
 

夜明けの原野を一番列車がゆく
浅芽野~猿払
 
《路線データ》
      営業区間と営業キロ           輸送密度 / 営業係数(’83)  
    音威子府~南稚内 148.9km          418  /   884               
          廃止年月日              転換処置
           ’89/ 5/ 1                   宗谷バス
廃止時運行本数
          音威子府~稚内   下り7本・上り6本(内 急行1往復)
          音威子府~浜頓別  1往復
          声問~稚内       1往復《休日運休》
          曲淵~稚内     上り1本
 
   《路線史》
元々は、宗谷本線として建設された路線。 1922年に稚内まで全通。 だが、1926年に幌延ルートを通った天塩線が全通すると、距離の短い天塩線が宗谷本線の正規ルートに昇格し、それに伴って『北見線』という一支線に格下げとなった経歴を持つ。
 
なお、廃止時の名称の『天北線』は、1961年の北見市の市制の施行に伴って『北見線』から旧国名の天塩と北見を結ぶ線として改称されたものである。
 

思い出お~い天北線
乗車記念証

この天北線は、北海道の最北の人口稀薄地帯をゆく路線から利用客は至って少なく、国鉄再建法により第2次の廃止転換対象路線として挙げられる。 だが、廃止対象路線の中で最も長大な路線である事と、冬季の代替輸送の確保の困難さが提議されて、一時廃止承認が保留されていた。 だが、道路の改良などで問題がなくなったとして、1989年の4月末をもって廃止された。
 

天北線のあゆみ
 
だが、区間だけで比べてみると、現在の宗谷本線である幌延ルートよりも利用率が高かったのである。
また、稚内までこの路線経由の急行列車が運行されていたが、『線内“通し”の利用客はカウントされない』という規定にも泣いた路線でもある。 正に、『路線名称が命運を決した』という廃止線に有りがちな悲運を背負った路線でもあった。
 

キハ56時代の急行【天北】
小石~曲淵

先程も述べたが、この路線を経由する急行列車【天北】が札幌~稚内で1往復運行されていた。
また、乗降場ではあったが縁起駅として有名な“寿(ことぶき)”仮乗降場や、旧日本軍の飛行場があった事に由来する“飛行場前”仮乗降場などの趣深い駅名や、既存駅に雰囲気のある木造駅舎が数多くあり、沿線風景も広大な大陸的な情景を魅せて鉄道ファンの人気が高い路線であった。

現在は上頓別や松音知など一部の駅舎が保存され、線路跡の一部はサイクリングロードに改装されている。
 

 

クッチャロ湖・小沼の湖畔にて
 
     ※ 音威子府~浜頓別 は 前回の『第125回 天北線 その1』を御覧下さい。
 
   《乗車記》
浜頓別は、北オホーツク道立自然公園の景勝地への玄関口だ。 時間があれば、クッチャロ湖やベニヤ原生花園などに立ち寄って、旅を豊かにするのもいいだろう。 さて、その浜頓別だが、天北線の下り列車は島式ホームの3番線から発車する。
 

ヒオウギアヤメの濃い紫が
短い北の夏を謳う
ベニヤ原生花園にて
 
浜頓別を出た列車は、浜頓別の市街地を抜けるとクッチャロ湖の湖水が頓別川に注ぐ湖口を鉄橋で渡る。 夕方には夕日に照らされた列車がこの湖口を渡るので、野鳥の宝庫といわれるクッチャロ湖で羽を休める渡り鳥を添えての撮影ができた所だ。 筆者の当時は撮影のウデが無かった(今も無いけど)ので、残念ながらモノにする事は叶わなかったが。
 

クッチャロ湖畔を疾走する
急行【天北】号
 
クッチャロ湖の湖口を渡って、そのまま大沼に沿って行くと山軽に着く。 駅の位置的には、大沼と小沼を隔てるクビレの位置辺りである。 この駅は木材を湖で渡し、それを荷揚げして林業を営む入植者の為に設けられたのだが、国道の付替えを契機に居住者は全て国道沿いに移転し、駅前は無人地帯となったそうである。 無人地帯になってからは利用客は皆無で、年間駅利用者ゼロの金字塔を打ち立てた事もあるとの事だ。 駅は土盛りがあるだけの無人棒線駅で、小さな待合室が2つホーム上に建っていた。
 
山軽からも、クッチャロ湖の畔を完全に沿う形で並走する。 クッチャロ湖・小沼の北端まで進むと安別に着く。 この駅は元乗降場の昇格駅で板張りホームだが、手前の山軽よりは利用客もあったようで、まともな待合室が脇にあった。 安別の集落はクッチャロ湖・小沼の奥に位置し、駅より道路がつながっている。
 

失敗事例
湖の対岸から撮ってみたのですが
見えますでしょうか? 列車が
 
次の飛行場前も、乗降場からの昇格駅。 そして乗降場時代には、「飛行場がないのに飛行場前と名乗る駅」とTV放映された事もあり、鉄道ファンの認知度の高い乗降場であった。 その変わった駅名の経緯は、戦時中の旧日本軍浅茅野第一飛行場がこの地にあった事に由来する。
 
この飛行場は完成後1年で終戦を迎え、ほとんど使用される事なく設備撤去されたのだが、乗降場を設ける時にあまりにも原野で目標物がなく、「過去に飛行場があった」という経歴から飛行場前と名づけられたとの事である。 元乗降場という事で板バリホームだが、小さいが牧場のサイロのような屋根のまともな待合室があった。
 

浅茅野駅
“さよなら天北線”タトウより
 
浜頓別を出てからは乗降場形式の駅が続いたが、漸く駅舎のある駅に着く。 浅茅野である。
この駅では木材の搬出と、この山奥にあった石炭別鉱の石炭搬出が行われていた。 また、駅の周辺には、モケイト沼・カムイト沼という自然豊かな湖が点在している。
 

沼へ続く一筋の木道
モケウニ沼にて
 

モケウニ沼に咲く
ハマボウフウ
 
浅茅野を出ると、オホーツク国道の238号と離れてカムイト沼の近くの原生林に囲まれた湿地帯をゆく。
カムイト沼は『神(カムイ)』・『沼(トゥ)』と名づけられた神秘的な沼で、この地を訪れたなら是非とも訪ねたい景勝地の一つだ。
 

神々が宿る沼
カムイト沼
 

神秘なる沼を
マーガレットの花で飾ってみた
 
北オホーツクの広大な湿地帯を北上し続けると、オオハクチョウ飛来地で有名なポロ沼の畔に出る。
この辺りに猿払駅があった。
 

猿払駅
“さよなら天北線”タトウより
 

猿払駅入場券

猿払はアイヌ語で『葦の生い茂る河口』という意味で、周囲は葦の生い茂る湿地帯である。 駅名が自治体の名称を名乗っているので中心駅と思われがちだが、小集落の一つでしかない。 駅自体も小駅で、駅舎はあるものの交換設備は撤去されて末期は棒線無人駅となっていた。 なお、天北線廃止後は、浜頓別よりこの駅までの軌道跡が《北オホーツク・サイクリングロード》として整備されている。
 

芦野駅
“さよなら天北線”タトウより
 
次の芦野は、文字通り芦の生い茂る原野を切り開いて入植した地域のようだ。 付近には猿骨沼があり、野鳥が憩う静かな沼の情景が楽しめる。 次の鬼志別は、猿払村の中心集落にある駅だ。 交換設備を持つ急行停車の有人駅で、近くに村役場があった。
 

鬼志別駅
“さよなら天北線”タトウより
 
だが、交通の要衝は鉄道ではなく、海沿いを走るオホーツク国道であったようだ。 また、この駅より猿払村営バスが、村の最北集落を経て宗谷岬15km手前の東浦まで路線バスを走らせている。
 

思い出お~い天北線駅スタンプ
(鬼志別駅・曲淵駅・南稚内駅)
 
鬼志別を出ると、線路は内陸部に大きく入り込んでいく。 約6kmほど入ると小石に着く。 
この駅は駅舎のある棒線駅で、次の曲淵までの距離が17.7kmと長大な為に、国鉄時代は閉塞を扱う運転要員が配置されていた。
 

小石駅
“さよなら天北線”タトウより
 
そしてこの小石には、かつて藤田炭鉱・宗谷鉱があり、その炭鉱町として栄えた経緯がある。
炭鉱最盛期にはパチンコ屋や劇場もあったというが、今は寂れた小集落に回帰している。 現在の駅跡には交流センターが建ち、その脇に『望郷』と刻まれた駅跡の石碑があり、哀愁の雰囲気を漂わせている。
 

小石駅跡に建てられた
交流センター
 
先述の如く、小石より次の曲淵までは17.7kmと、津軽海峡線の開業までは信号所を含まない一駅区間としては最長区間であった。
 

キハ22は単行で峠越え
 

キハ56の迫力にオタついて
手ブレしちゃった
 

峠の雰囲気を出そうとしたけど
 

現在の宗谷丘陵の峠道
 
その最長区間の山越えで、猿払村より稚内市に入る。 稚内市に入ったとはいえ、広大な原野の隅に僅かながらの集落が点在する荒涼とした眺めは変わらない。 列車は30分近く走り、この最長区間を抜けて曲淵に出る。
 

曲淵駅
“さよなら天北線”タトウより
 

暮れに佇む曲淵駅舎
 

雪に埋もれたモニュメントに
斜光が当たって
曲淵駅跡
 
曲淵は稚内市最奥の集落で、かつては天北炭田で栄えた炭鉱町であるが、今は寂れた小集落に過ぎない。 だが、峠を越えて稚内市に入った事もあり、利用客は稚内市に向かう乗客を中心に多少増えてくる。
なお、この駅は交換設備を有する有人駅で、この駅止めの上り列車が1本仕立てられていた。
 

都会ではすし詰めとなる通勤時間帯でも
廃止ローカル線では利用客はごく僅か
 

この駅止まりの列車が
転線すべく作業に取り掛かり
 

沼川駅
“さよなら天北線”タトウより
 
次の沼川は駅名が示す通り元沼地の湿地帯で、冬季は湿地帯の水分が凍ってバリバリになるなど、厳しい風土にある。 木造駅舎も、その強烈なシバレを防ぐべく、全ての窓がビニールで覆われていた。
 

沼川ゆき乗車硬券
 
有人駅時代には木材や天北炭田からの石炭の搬出が行われたようで、駅裏に小さなヤードを有していた。現在は駅施設の全てが撤去され、委託の駅員氏が植樹した櫟の木と駅跡を示したパネルが置かれただけの寂しい眺めとなっていた。
 

沼川駅跡は
哀愁漂う情景だった
 

樺岡駅
“さよなら天北線”タトウより
 

バス停の横に移設された
樺岡駅標
 
次の樺岡は、樺の生い茂る原野の中の駅。 周囲は広大な酪農地が広がるが、離農が進み限界集落(居住者の半分以上が65歳以上で、維持が困難とされている村落)となっている。 駅跡は全て撤去されて原野となり、使われていた駅名表のみがバス停横に掲げられている。
 

恵北駅
“さよなら天北線”タトウより
 
次の恵北は、木造駅舎の残る無人棒線駅。 周囲は広大な宗谷丘陵の原野となっていて、この駅付近でオホーツク海へ向けて、原野を左へ大きく周回していく。 それは地平線をゆく鉄道の姿を望む、我が国では稀に見る貴重な情景であった。 それでは、その情景をごろうじろ。
 

 

 

雄大な恵北の大平原を伝う
急行【天北】号
 

果てしなく広がるこの地だからこそ
光の輪を魅る事ができたのかも
 

今は鉄道施設の全てが原野に戻り
雪の原野に沈みゆく太陽が
日輪を描いていた
 
恵北を出ると、前述の通り原野を左へ大きく周回し、オホーツク海沿いに出る。
オホーツク海に面した所が声問だ。
 

声問駅
“さよなら天北線”タトウより
 
ここは交換可能設備があり、運転要員が配置されていた。 末期は運転要員が硬券入場券を販売していた。 なお、宗谷岬へは、この駅から国道を右手に25km進むといい。
 

我が国の最北端へ
 
次の宇遠内は乗降場からの昇格駅。 駅舎もない板バリ駅ではあったが、稚内の市街地にあって付近には高校があり、通学生を中心に路線内では五指に入る利用客の多い駅であった。 宇遠内からそのまま市街地の中をゆくと、路線の終点である南稚内に着く。 到着ホームは路線の延びる方向から、母屋寄りの1番線となっていた。 後は、ゆっくりと市街地を通り抜けて、突端駅の我が国最北の終着駅・稚内へ向かう。
 

稚内港の北防波堤ドーム
かつてはここより
樺太への船が出港していた

 ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『天北線』を御覧下さい。
   また、旅行記として『オホーツク縦貫鉄道の夢』と『オホーツク・・のハズが・・』もどうぞ。
 
 
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No title * by タケちゃん
こんばんは。

元稚内市民といたしまして、感慨深く記事を拝見致しました。

そもそも、私が仕事の転勤で稚内へ赴いた時は、天北線の痕跡しか見られませんでしたが・・・・渓流釣り大好き人のワタクシ、曲渕、小石、鬼石別・・・・通っておりました。
で、どう見ても鉄橋の跡でしょう、という痕跡を川から見つけ、その川床には、かすかに「旭川鉄道管理局」と書かれた看板が横たわっておりました。

その時ばかりは、釣りを忘れてじっと見入っていましたよ。

No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅れてスミマセン。

天北線の最後の区間は、最も鉄道の遺構が残らず原野に回帰した区間ですね。 だからこそ、ちょっとした遺構が心に響きます。

沼川の委託の駅長さんが植えたという櫟の木が立つだけの眺めはモノ寂しげでした。 小石駅跡の『望郷』という石碑も、感慨深いものがあります。

願わくばもう一度・・、あの大平原を伝う列車を眺めてみたいですね。

No title * by kei
風来梨さん、こんばんは。一昨年北海道を周遊したとき、網走から稚内まで車を走らせました。ベニヤ原生花園や宗谷岬の写真を懐かしく拝見させていただきました。廃線前の貴重な写真をありがとうございます。m(__)m ポチ☆

No title * by 風来梨
keiさん、こんばんは。
お返事が遅れましてスミマセン。

私も一昨年の正月に、『オホーツク縦貫鉄道を訪ねて』との企画で、根室から稚内までレンタカーで伝いました。 この項目での廃線後の現況写真は、この時に撮ったものです。

この『オホーツク縦貫鉄道』の遺構めぐりは、今の私にはライフワーク的なものとなっています。

かつて、『オホーツク縦貫鉄道』を訪ね乗車できた幸運と、もっともっと撮っておくべきだった・・という後悔とが錯綜する路線ですので。

コメント






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No title

こんばんは。

元稚内市民といたしまして、感慨深く記事を拝見致しました。

そもそも、私が仕事の転勤で稚内へ赴いた時は、天北線の痕跡しか見られませんでしたが・・・・渓流釣り大好き人のワタクシ、曲渕、小石、鬼石別・・・・通っておりました。
で、どう見ても鉄橋の跡でしょう、という痕跡を川から見つけ、その川床には、かすかに「旭川鉄道管理局」と書かれた看板が横たわっておりました。

その時ばかりは、釣りを忘れてじっと見入っていましたよ。
2013-02-11 * タケちゃん [ 編集 ]

No title

タケちゃんさん、こんばんは。
お返事が遅れてスミマセン。

天北線の最後の区間は、最も鉄道の遺構が残らず原野に回帰した区間ですね。 だからこそ、ちょっとした遺構が心に響きます。

沼川の委託の駅長さんが植えたという櫟の木が立つだけの眺めはモノ寂しげでした。 小石駅跡の『望郷』という石碑も、感慨深いものがあります。

願わくばもう一度・・、あの大平原を伝う列車を眺めてみたいですね。
2013-02-16 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

風来梨さん、こんばんは。一昨年北海道を周遊したとき、網走から稚内まで車を走らせました。ベニヤ原生花園や宗谷岬の写真を懐かしく拝見させていただきました。廃線前の貴重な写真をありがとうございます。m(__)m ポチ☆
2013-02-25 * kei [ 編集 ]

No title

keiさん、こんばんは。
お返事が遅れましてスミマセン。

私も一昨年の正月に、『オホーツク縦貫鉄道を訪ねて』との企画で、根室から稚内までレンタカーで伝いました。 この項目での廃線後の現況写真は、この時に撮ったものです。

この『オホーツク縦貫鉄道』の遺構めぐりは、今の私にはライフワーク的なものとなっています。

かつて、『オホーツク縦貫鉄道』を訪ね乗車できた幸運と、もっともっと撮っておくべきだった・・という後悔とが錯綜する路線ですので。
2013-03-01 * 風来梨 [ 編集 ]