2013-02-10 (Sun)✎
『私の訪ねた路線』 第125回 天北線 その1 音威子府~浜頓別 〔北海道〕
天北原野を伝う孤独なランナー
浅芽野付近にて
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
音威子府~南稚内 148.9km 418 / 884
廃止年月日 転換処置
’89/ 5/ 1 宗谷バス
廃止時運行本数
音威子府~稚内 下り7本・上り6本(内 急行1往復)
音威子府~浜頓別 1往復
声問~稚内 1往復《休日運休》
曲淵~稚内 上り1本
《路線史》
元々は、宗谷本線として建設された路線。 1922年に稚内まで全通。 だが、1926年に幌延ルートを通った天塩線が全通すると、距離の短い天塩線が宗谷本線の正規ルートに昇格し、それに伴って『北見線』という一支線に格下げとなった経歴を持つ。
思い出お~い天北線
乗車記念証
なお、廃止時の名称の『天北線』は、1961年の北見市の市制の施行に伴って『北見線』から旧国名の天塩と北見を結ぶ線として改称されたものである。
この天北線は、北海道の最北の人口稀薄地帯をゆく路線から利用客は至って少なく、国鉄再建法により第2次の廃止転換対象路線として挙げられる。 だが、廃止対象路線の中で最も長大な路線である事と、冬季の代替輸送の確保の困難さが提議されて、一時廃止承認が保留されていた。 だが、道路の改良などで問題がなくなったとして、1989年の4月末をもって廃止された。
だが、区間だけで比べてみると、現在の宗谷本線である幌延ルートよりも利用率が高かったのである。
また、稚内までこの路線経由の急行列車が運行されていたが、『線内“通し”の利用客はカウントされない』という規定にも泣いた路線でもある。 正に、『路線名称が命運を決した』という廃止線に有りがちな悲運を背負った路線でもあった。
先程も述べたが、この路線を経由する急行列車【天北】が札幌~稚内で1往復運行されていた。
また、乗降場ではあったが縁起駅として有名な“寿(ことぶき)”仮乗降場や、旧日本軍の飛行場があった事に由来する“飛行場前”仮乗降場などの趣深い駅名や、既存駅に雰囲気のある木造駅舎が数多くあり、沿線風景も広大な大陸的な情景を魅せて鉄道ファンの人気が高い路線であった。
現在は上頓別や松音知など一部の駅舎が保存され、線路跡の一部はサイクリングロードに改装されている。
初冬のクッチャロ湖と
急行【天北】の図案の
「思い出お~い 天北線」オレンジカード
《乗車記》
天北線の始発点となる音威子府だが、何でも人口が1000人を切る村のようである。 かつては木材集配場として活況を呈し、宗谷本線と天北線を分岐する鉄道の要衝であったのだが、今は木材輸送はトラック陸送に変わり、道北の過疎著しい村の一つとなっている。 だが、並走する国道もこの地で分岐し、天北線が廃止になった現在でも、代換バスがこの駅より運行するなど、地域交通の要衝である事には変わりはない。
その音威子府は2面3線構造の駅で、天北線は概ね母屋より離れた島式ホームの3番線から発車していた。 そして、稚内直行の旅客を除く利用状況からいうと、宗谷本線の音威子府以遠よりも天北線の利用者の方が多かった事もあり、列車本数も天北線の方が多かった。 また、近年まで運行されていた札幌からの急行【利尻】に接続すべく、始発列車が4時台であった事も特筆できよう。
それでは天北線に乗って、大陸的な情景に魅せられよう。
思い出お~い天北線駅スタンプ
(音威子府駅・小頓別駅)
音威子府を出た天北線列車は、程なく宗谷本線と分かれて右手に反れていく。 国道275号線と並走しながら無人荒野の原野地帯に出ると、程なく上音威子府に着く。 この駅の周辺は居住者の全てが離村したようで、ゴーストタウンの様相を呈していて、国道以外は原野の真っ只中となっていた。
そして駅の末期には臨時駅扱いとなり、冬季閉鎖の開設時も下りの4時台の始発列車のみの停車と、廃駅同然の扱いとなっていた。 そして駅舎はあったものの屋根が重みでたわんでいて、いつ倒壊するか判らぬ代物であった。 廃止になってから訪ねたが、あの時に写真に撮らなかった事(バラックを撮るのは何かなぁ~と思い、撮らずに立ち去った)が悔やまれる。
上音威子府よりは、天塩北見国境を越える天北峠へ向けて無人原野を登っていく。 トンネルで峠を越えて下り基調となると、小集落が見えて小頓別に着く。 この駅はかつては木材集積場となっていて、列車交換可能な千鳥状の対面ホームに数本の側線を持っていた。 また、有人駅でもあった。
在りし日の小頓別駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
そして、ここは天北線経路よりも更に内陸にある歌登町への入口となっていて、駅前から列車に接続する路線バスが設定されていた。 また、急行【天北】の停車駅ともなっていた。 次の上頓別は、木造駅舎の残る棒線無人駅であった。 駅舎には石炭ストーブが置いてあり、近くに住む方が毎朝欠かさずホームの除雪と石炭ストーブの管理をされていた。
在りし日の上頓別駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
次の恵野は、元乗降場。 JRになって、他の乗降場と共に駅に昇格したようである。 もちろん、板張りのホームのみの駅だ。 どうにか待合室はあったようだ。 周囲は広大な原野で、一ヶ所に民家がかたまっている。
在りし日の敏音知駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
次の敏音知は、ピンネシリ岳の麓にそびえる小集落。 交換設備を有する有人駅で、綺麗に清掃された駅舎と夏は駅ホームの花壇に花咲くサルビアの花が印象的だった。 現在はこの地に湧き出る鉱泉を利用した温泉施設のある『道の駅・ピンネシリ温泉』となっている。
敏音知を出ると、再び原野の中をゆく。 天北峠周域にそびえるペンケ岳・パンケ岳からの沢が寄り添ってくると、周磨に着く。 この駅も恵野同様に、乗降場からの『JR時昇格駅』である。 当然板張りホームのみで、こちらは待合室も無かったようだ。 なお、この駅の呼び名だが、先に記述した沢の名前《シュウマロネップ川》から来ている。
在りし日の松音知駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
次の松音知は、駅舎が階段で上がる高床式の構造となっていて、国鉄時は石炭ストーブと利用者が自由にくべれるように石炭が置いてあった。 ワテにとってこの駅は思い出深い駅。 なぜなら、この駅で氷点下22℃の『耐寒訓練』をしたからである。 ちなみに、石炭ストーブと石炭は撤去されていた。
現在、駅舎は地元の方によって保存され、天北線の駅舎で唯一現存する駅跡となっている。
上駒(仮)乗降場
松音知では数件の民家があったが、次の上駒はまた原野となる。 「原野の中に集落があるかな?」というレベルに達すると、また乗降場に着く。 上駒である。 もちろん乗降場よりの昇格駅で、板張りホームの待合室ナシはお約束である。
在りし日の中頓別駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
次の中頓別は、天北線沿線では大きな自治体で、駅舎も鉄筋コンクリート造の駅舎であった。
有人駅で交換設備のある音威子府~浜頓別区間の中心駅であった。 駅から4kmには、北海道の天然記念物指定を受けた《中頓別鍾乳洞》がある。
思い出お~い天北線駅スタンプ
(敏音知駅・中頓別駅・浜頓別駅)
新弥生(仮)乗降場
これがあって
これがあって
なぜ『寿』がないのだろう?
原野の中のオアシスの如くの中頓別駅を出ると、再び原野となる。 次は縁起駅として有名となった寿である。 こちらも乗降場よりの昇格駅で、いつものお約束通りに板張り棒線ホームに待合室ナシである。
また周囲は民家が2件だけと、この民家の為に設けられた乗降場との事である。 その次の新弥生も、寿同様の乗降場昇格駅。 だがこちらは、板張りホームの棒線駅であったものの、待合室はあったようである。
在りし日の下頓別駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
次の下頓別は、木造駅舎の残る棒線無人駅。 周囲にはそれなりの集落が存在する。 それは、かつてこの地の東方にある宇曾丹川で採取された砂金による砂金ラッシュで街が形成され、その後も林業や酪農に移行が行われて集落が消滅しなかった事が要因だろう。
常磐(仮)乗降場
次の常盤も、乗降場よりの昇格駅。 こちらは先出の新弥生と同じく、板張りホームと待合室が設置されていた。 浜頓別町の端に位置する為、周囲にはポツポツであるが民家が点在していた。 この辺りよりクッチャロ湖などを擁する北オホーツクの頓別川流域の湿地帯に入っていく。
在りし日の浜頓別駅
地元郵便局発行の
“さよなら天北線”タトウより
湿地帯を蛇行する頓別川が離れて、市街地の中に入っていくと路線最大の駅・浜頓別に着く。
駅に入線する前に、奥に反対の海側に反れていく路盤跡があった。 これは、興浜北線の廃線跡である。 駅は2面3線で、中の島式ホーム2線が天北線の上下線である。 母屋寄りの1番線は、先出の興浜北線の列車が発着していた。
浜頓別から分岐していた
興浜北線
この駅はクッチャロ湖やベニヤ原生花園などを擁する北オホーツク道立自然公園の景勝地に近く、北オホーツク観光の玄関口となっている。 また、この広大な湿地帯はラムサール条約にも指定され、優雅な姿を魅せるオオハクチョウを始めとした渡り鳥の宝庫となっている。
浜頓別駅開業65周年記念乗車券より
続きは『第126回 天北線 その2』にて。
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No title * by 風来梨
オータさん、こんにちは。
歌登町営軌道をググッてみましたが、天北線(当時は宗谷本線)の当初の計画では小頓別~歌登~枝幸~浜頓別~稚内だったそうで。
もし、こうなっていれば沿線人口的にはマシだったかもしれないけれど、あの斜内桟道の急カーブを急行が走るならスピードダウンは必定・・などと、変な妄想をしている私です。
歌登町営軌道をググッてみましたが、天北線(当時は宗谷本線)の当初の計画では小頓別~歌登~枝幸~浜頓別~稚内だったそうで。
もし、こうなっていれば沿線人口的にはマシだったかもしれないけれど、あの斜内桟道の急カーブを急行が走るならスピードダウンは必定・・などと、変な妄想をしている私です。
松音知は 小学生の時、ローカル線の写真集(大森某 さんという方の)ので高床式の駅舎にとても興味を持ったものです…