風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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私の訪ねた路線  第123回  相生線

 『私の訪ねた路線』  第123回  相生線  〔北海道〕
 

北見相生駅名標
他は若き日の過ち(フイルム間違い)で全てボツ
 
《路線データ》
   営業区間と営業キロ            輸送密度 / 営業係数(’83)
      美幌~北見相生 36.8km              257  /  2105       
 
   廃止年月日          転換処置          廃止時運行本数
         ’85/ 4/ 1         北見バス・津別町営           6往復
 
  《路線史》
沿線の森林資源輸送を目的として建設された、典型的な北海道開拓路線の一つである。 開拓に携わる路線という事で、全通年も開拓全盛時代である大正14年(1925年)と古い。 また建設計画では、『釧美線』として釧北峠や阿寒湖畔を経て釧路まで延伸する構想もあった。 

それは、北見相生より峠を越えて阿寒の山奥にある雄別鉱山まで延伸させて、既に建設されている運炭鉄道とつなげて釧路を目指す・・というものである。 だが、釧路側を担っていた雄別炭礦鉄道は1970年の鉱山閉山と同時に廃止され、無謀とも思える同計画も文字通り頓挫した。 また、1931年の釧網本線の全通に伴って、同計画が無意味化していたのも事実であろう。
 

北見相生駅入場券

典型的な開拓路線として建設された為、開拓の終わった現代では運ぶ貨客のほとんどない閑散線であったが地元の開拓路線としての鉄道への信奉は強く、1980年の国鉄再建法で第一次の廃止路線候補に指定されると、1979年の貨物営業廃止時に取り交わした「廃止は地元の意向を踏まえて・・」という覚書を盾に反対運動は激化した。

そういった中で開催された第1回の転換問題協議会では、地元よりある程度利用の見込める線内中心駅の津別までを第三セクター、以奥はバス転換との案が出され、協議会は廃止合意直前まで暗礁に乗り上げていたそうである。 だが、支援の当てとしていた道庁が第三セクター案の正式断念を通告した為、第5回の協議会で廃止に合意し1985年3月末をもって廃止された。

ただでさえ山里の人口稀薄地帯をゆく閑散線であったが、やはりこの鉄道路線が人の流れに背いていたのが最大の要因であろう。 人の流れは美幌ではなく、北見であったのだ。 
そして、地域の中心も庁舎のある網走ではなく、北見なのである。

それを踏まえた上で、転換バスは美幌~津別の旧線区間と北見~津別~北見相生の2系統に分けられ、それぞれ北見バス・津別町営バスと振り分けられている。 とはいっても、津別~北見相生以外は従来から存在した路線であったとの事である。

北見相生駅スタンプ
デザイナーバージョン

雌雄の阿寒岳と
船上の人の図案が美しい

廃止後の現況であるが、終点の北見相生駅跡は現在『道の駅・あいおい』となり、北見方面からの阿寒湖への観光拠点となっている。 また、駅舎は鉄道資料館として鉄道関係の資料などが展示されており、ホームに敷設された線路にはライダーハウスとして供される客車と、往時の相生線を行来したキハ22系気動車が、ツートンの旧国鉄色にお色直しされ静態保存されている。
 


 

雪を蹴ってラストスパート
布川~北見相生
 
  《乗車記》
相生線は、最後だけは華々しい時を迎えつつある廃止ローカル線の中でも目立たぬ存在であった。
それは、他の廃止線の車窓から眺める流氷や石炭産業の廃墟などの廃止を思わせるモノに乏しく、前面に出る機会が乏しかったからかもしれない。 廃止の時も同じ道内の渚滑線を始め全国11路線と同じ日となるなど、最後まで目立たぬ路線であった。
 
だが、美しい原野林の中をゆく路線で、撮り様によれば在りし日の美しい姿を残せたかもしれない。
だから、あの時の幼さに一抹の悔いを抱くのである。 そう・・、あの時にもう少し追っかけていれば・・という悔いを。 それでは、その相生線を思い返してみよう。
 
相生線は線路の延びる方向から、母屋寄りの1番線が充てがわれていた。 その1番線は今は線路が撤去されて花壇となっているとの事である。
 
美幌駅を出ると網走方向に向かって走り、すぐに石北本線と分かれて右へ反れていく。 列車は美幌の市街地に入り、屈斜路湖に向かう国道243号の高架をくぐると旭通仮乗降場に着く。 駅のロケーションとしては美幌駅よりも市街地の中心に位置するが、僅か1日6往復では利用客も市内循環バスを利用してしまう事だろう。 なお、この乗降場では、近くの商店で簡易委託発行ながら硬券の乗車券が販売されていた。
 

旭通仮乗降場で売っていた
津別ゆき乗車硬券
 
旭通を出ると程なく市街地は終わり、閑散した田舎町の情景となる。 暫く阿寒国道の国道240号と併走して上美幌に着く。 この駅は正規駅だが駅舎は撤去されて棒線ホームのみであった。 駅の設備としては、待合室が設置されているなど先程の旭通乗降場の方が数段上の様である。
 
上美幌を出ても国道240号と並走して豊幌仮乗降場に着く。 こちらは待合室もない板張りのホームのみの停留所で、周囲はジャガイモ畑が広がる中にこじんまりとした豊幌の集落が見えるのみである。
 

雪原の中を
単行気動車がたどる
 
更に国道240号線と並走しながらゆくと活汲に着く。 この駅名はアイヌらしい呼び名の駅だ。
意味は『柄杓』を意味するアイヌ語の“カックム”から来ている。 何故『柄杓』が充てがわれたのか・・というと、柄杓の材料となる白樺が多く自生していたからだという。 この駅は’79年の貨物営業の廃止まで木材貨物の取扱いがあり、木材受け渡し用の専用ホームと側線があった。 また、廃止時まで委託ながら駅員配置駅でもあった。
 
線路は国道240号と併走して、津別町の中心部に入っていく。 その市街地の入り際に達美仮乗降場が設けられていた。 こちらも豊幌と同じく待合室ナシの棒線板張りホームであった。
 
津別町の市街地に入ると、津別町市街地の中央をゆく国道240号と離れて市街地の東の端を伝っていく。 程なく津別着。 この駅は相生線最大の駅で、列車交換設備もある有人駅だ。 駅の裏手は貯木場となっていて、貯木場に沿うように側線が設けられていた。
 
津別を出ると、高校前仮乗降場に停車する。 この乗降場は、名称通り津別高校の傍にある。
利用者はほぼ全てが津別高校の通学生で、相生線の停車場の中では一定の乗降客がある成績の良い駅であった。
 
高校前を出ると再び閑散とした農村となり、一時離れていた国道240号が再び寄り添ってくる。
国道が寄り添うと、程なく恩根に着く。 この駅は当初乗降場設定だったものが駅に昇格したとの事で、『畑の中に待合室のない板張り棒線ホーム』と、設備は先出の乗降場と変わらない。
また、正規の駅にも拘わらず一部の列車が通過するなど、扱いも乗降場なみであった。
 

相生線は原野の中に敷かれた
開拓路線であった
 
恩根を出ると、津別町の字集落である本岐に着く。 裏手は広い貯木場で、駅母屋に向けて頭端式の切込み側線が設けられるなど、この駅も貨物取扱時は木材の受渡しが行われていたようだ。 また、駅員も委託ながら配置されていたようで、駅母屋に向かって線路が湾曲するなど、かつては交換設備があった事も伺える。
 
本岐を出ると大昭・開拓と乗降場2つを過ぎる。 だがこれらの乗降場は基線農道に設けられた停留所に過ぎず、畑や牧草地の中の農道の交差する地点に待合室なしの板張りホームが設けられていたのみであった。 停車する列車も1日2本程度と、乗降場の中でも格下の扱いであった。
 
次の布川も、先出の恩根同様に乗降場からの昇格駅で、同じく駅舎もない棒線駅。 先出の大昭・開拓に比べてこじんまりとした集落があった分、正規駅として扱われたようだ。 この駅も、恩根同様に通過列車の設定があった。 即ち、乗降場と同じ扱いである。
 
布川を出ると、国道240号線と並走しながら更に山奥に入っていく。 やがて、山奥に開かれた小集落が見えてきて、雌阿寒岳が見えるなど展望が開けてくると終点の北見相生に着く。 駅は有人駅で旅客扱いは1面1線の棒線駅たが、広いヤード状の貨物側線を有し、ターンテーブルや給水塔跡があるなど、機回し可能な構造となっていた。
 

北見相生駅に停車中の
相生線列車
左側のヤードは現在
『道の駅・あいおい』となっている
 
その広い駅構内は、廃止になった今は鉄道公園を兼ねた『道の駅・あいおい』となり、かつてこの原野を駆けたキハ22がツートンにお色直しを受けて静態保存され、客車の中を改造して寝泊りができるライダーハウスも設けられている。 鉄道在りし時は、観光地・阿寒への玄関口としての機能を全く果たせずにいたが、廃止になってから阿寒への主要な玄関口として整備されたのは皮肉な事である。
 

意味があるようで意味がない
『温泉マーク』がいい!
さりげなく『北見相生駅』を
アピールしてるのもいい!

   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『相生線』を御覧下さい。
 
 
 
 


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No title * by タワマンぶらり旅
いいですねえ、相生線。
30年前の2月に往復乗りました。
懐かしい。
私の青春、涙のポチです。。。。

No title * by 風来梨
タワマンぶらり旅さん、こんばんは。
見て頂いて有難うございます。

私にとっても青春ですね。 今でもこれらの路線を思い返しては心が熱くなります。

No title * by タケちゃん
こんにちは。
相生線は乗るどころか、全く見ないままに廃止となってしまいました。
以前、車で道東を旅行した際に相生の集落を通りまして・・・「おぉ~、ここがあの北見相生なんだなぁ」と妙に感慨深くなった事を覚えております。

私の中で「相生線」のイメージは、昔ぁ~しに、鉄道雑誌(確かキネマ旬報社「蒸気機関車」じゃなかったかな?)で見た「9600」が牽引する貨物列車をリポートしていた記事から止まっております・・・・。

活汲駅構内に積まれた材木の横に佇む96の写真が妙に心に残っていますね。

No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。

相生線は一次廃止の中でも注目度は低かったようですね。
写真も“アテ”になる目標が乏しく、何となく撮り辛い路線でした。

今は『道の駅・あいおい』ができて整然としておりますが、当時の北見相生は山間の一集落で、駅以外に何もなかった記憶があります。
本当に、木材輸送という資源輸送が全ての開拓路線だったと思います。

コメント






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いいですねえ、相生線。
30年前の2月に往復乗りました。
懐かしい。
私の青春、涙のポチです。。。。
2013-02-03 * タワマンぶらり旅 [ 編集 ]

No title

タワマンぶらり旅さん、こんばんは。
見て頂いて有難うございます。

私にとっても青春ですね。 今でもこれらの路線を思い返しては心が熱くなります。
2013-02-03 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんにちは。
相生線は乗るどころか、全く見ないままに廃止となってしまいました。
以前、車で道東を旅行した際に相生の集落を通りまして・・・「おぉ~、ここがあの北見相生なんだなぁ」と妙に感慨深くなった事を覚えております。

私の中で「相生線」のイメージは、昔ぁ~しに、鉄道雑誌(確かキネマ旬報社「蒸気機関車」じゃなかったかな?)で見た「9600」が牽引する貨物列車をリポートしていた記事から止まっております・・・・。

活汲駅構内に積まれた材木の横に佇む96の写真が妙に心に残っていますね。
2013-02-04 * タケちゃん [ 編集 ]

No title

タケちゃんさん、こんばんは。

相生線は一次廃止の中でも注目度は低かったようですね。
写真も“アテ”になる目標が乏しく、何となく撮り辛い路線でした。

今は『道の駅・あいおい』ができて整然としておりますが、当時の北見相生は山間の一集落で、駅以外に何もなかった記憶があります。
本当に、木材輸送という資源輸送が全ての開拓路線だったと思います。
2013-02-04 * 風来梨 [ 編集 ]