2013-01-30 (Wed)✎
『日本百景』 冬 第47回 北長門海岸 〔山口県〕
北長門海岸 きたながとかいがん (北長門海岸国定公園)
須佐湾から西へ、長門市にある《青海島》まで約90kmに渡る海岸線は『北長門海岸』と呼ばれ、国定公園の指定を受けている景勝地である。 この『北長門海岸』の中で景観の優れた見どころといえば、《青海島》と《十六羅漢》が挙げられる。
《青海島》の北側に続く海岸は日本海の荒波によって浸食を受け、無数の奇岩・絶壁・洞門などを連続させている。 これらの奇岩が“仏様”を思わすように海にたたずんでいる事から、《十六羅漢》と呼ばれるようになったとの事である。 その他にも《龍宮ノ潮吹》や、寄せる波が岩をキャンバスとした“芸術”《ホルンフェルス大断層》など、景勝が数多くある。
《青海島》の北側に続く海岸は日本海の荒波によって浸食を受け、無数の奇岩・絶壁・洞門などを連続させている。 これらの奇岩が“仏様”を思わすように海にたたずんでいる事から、《十六羅漢》と呼ばれるようになったとの事である。 その他にも《龍宮ノ潮吹》や、寄せる波が岩をキャンバスとした“芸術”《ホルンフェルス大断層》など、景勝が数多くある。
北長門海岸景勝地 位置図
JR長門市駅より鉄道(0:05)→JR仙崎駅(0:05)→仙崎港・観光遊覧船による青海島めぐり
所要約1時間30分〔黄金洞・観音洞・十六羅漢・松島灯台などをめぐる〕仙崎港
(0:05)→JR仙崎駅(0:05)→JR長門市駅よりレンタカー利用(0:35)→龍宮ノ潮吹
(0:30)→川尻岬(0:50)→JR長門市駅
その他、長門市より35km東方の萩湾には《萩六島》が一望できる笠山の丘や、
70km東方の須佐湾にはホルンフェルス大断層など広範囲に景勝が続いている。
北長門の冬
波濤荒れ狂う海
この項目で取り上げる『北長門海岸』は西日本の端に近い所に位置し、その位置づけゆえに交通が不便な所である。 しかし、交通が不便な所ほど、魅力的な情景がひそんでいるものである。
この『北長門海岸』も潮と風が永きに刻み込んだ“芸術”があちらこちらに現れて、旅人の目を満足させてその心を癒してくれる。 それでは、海と潮の香りに疲れた心と身体を癒しにいこう。
西日本の西北に位置する『北長門海岸』への玄関口は《長門市》である。 だが、この《長門市》まで向かうのが“ひと苦労”なのである。 関東はともかく、関西圏からの直通の便もない。 それどころか、隣県の島根や広島からも“使える”直通の便がないのである。 位置的にいうと、陸の孤島のような所である。
そして、『北長門海岸』の代表的な景勝地である《青海島》以外には、観光目的の交通便が皆無なのである。 この事から、マイカーやレンタカーといった自動車利用が必要不可欠となる。 レンタカーだと費用がかさむし、マイカーだとここまで運転してくるのが大変だ。 従って、《萩》や《津和野》・《秋吉台》といった観光名所のついでに寄られるのがいいとこで、ほぼ忘れられている所である。
そして、『北長門海岸』の代表的な景勝地である《青海島》以外には、観光目的の交通便が皆無なのである。 この事から、マイカーやレンタカーといった自動車利用が必要不可欠となる。 レンタカーだと費用がかさむし、マイカーだとここまで運転してくるのが大変だ。 従って、《萩》や《津和野》・《秋吉台》といった観光名所のついでに寄られるのがいいとこで、ほぼ忘れられている所である。
だが、私が『日本百景』の一つに選んだ所である。 先に挙げた観光名所を遙かに凌ぐ美しい情景を、訪れた先々で魅せてくれる事だろう。 苦労はしても、決して“徒労”には終わらない。 そんな情景を御紹介しよう。
荒れ狂う海が“冬”を語る
JR長門市駅から『仙崎行』の列車に乗り、次が終点の《仙崎》だ。 ここから歩いて5分で、島めぐりの観光船の港ターミナルに着く。 観光船は、《青海島》を一周するコースが基本である。
だが、外海がシケている時などは、内海に浮かぶ『大島めぐり』などのサブコースに変更される。
私の訪れた時は常時海が荒れ狂う冬季であったので、内海の『大島めぐり』コースとなった。
従って、《青海島》に関しては、次回の“宿題”を抱える結果となってしまった。 また《青海島》へは、《青海大橋》を渡って車でめぐる事もできる。 だが、景勝豊かな外海の海岸線へは道が続いているか定かでなく、これもまた次回の“宿題”となるだろう。 《青海島》めぐりが一段落したならば、荒波が旅情を誘う海岸べりに出てみよう。
引き波が岩に美しい筋絵を描く
車を西の海岸線へ向けて進めると、《千畳敷》や《二位ノ浜》などの海水浴場や景勝地に出る。
だが、目的地はここではない。 目的地は、もっと荒波が激しく旅情濃き岬の海岸線だ。
千畳敷への分岐を過ぎると道は細くなり、切り立った海岸線に沿ってクネクネと曲がりくねった道となる。 途中に幾つかの小さな漁港を過ぎると、お目当て景勝地《龍宮ノ潮吹》に着く。
だが、目的地はここではない。 目的地は、もっと荒波が激しく旅情濃き岬の海岸線だ。
千畳敷への分岐を過ぎると道は細くなり、切り立った海岸線に沿ってクネクネと曲がりくねった道となる。 途中に幾つかの小さな漁港を過ぎると、お目当て景勝地《龍宮ノ潮吹》に着く。
冬の高波が高ければ高いほど
“潮吹き”は高く吹き上がる
波が荒れ狂う海の海岸線は、岩壁が荒波の浸食を受け無数の海食洞を形成するのであるが、下方の岩盤が堅い岸壁では上方への浸食を受けて筒状の海食洞が形成される。 そして、それが地上まで突き抜けた時、打ち寄せる波を高々と地上に吹き上げる迫力満点の景色を魅せてくれる。 季節は北風が吹き荒れて、荒波が押し寄せる冬がいい。
岩礁は波濤の格好の“餌食”だ
《青海島》めぐりでは外海が荒れて敬遠される冬場だが、海岸線に出ると荒波が様々な情景を岩礁というキャンバスに描き、打ち寄せる波濤が様々な現象を魅せている。 時に激しく、時に懐かしく、時に不思議な・・、心をわくわくさせる情景が岬まで延々と続いている。
岬の半島への付根にある大浜の海水浴場から一時内陸に入り、両側を木立が覆う岬ロードを行くようになる。 延々と海岸線を伝って岬へたどり着くのもいいが、樹間の道が開けると岬となり行き止まりとなる情景もまたいい。 どちらかといえぱ、後者の方が岬への期待に胸が高鳴るシチュエーションだろう。
樹間の道を進むと、閉鎖中の浜茶屋一軒が建つ岬の高台に出る。
車はここまでで、これより岬の灯台までは崖上につけられた遊歩道を伝っていく。
岬灯台を望む展望の丘までは崖上の草原の道で、海上からの風もそれ程受けずにやってこれる。
一般の観光客ならば、ここまでであろう。 『川尻岬』と刻まれた岬を示す石碑もここにある。
だが、岬というものは突端にある灯台まで行って、はじめて訪れたという感慨が湧くのである。
車はここまでで、これより岬の灯台までは崖上につけられた遊歩道を伝っていく。
岬灯台を望む展望の丘までは崖上の草原の道で、海上からの風もそれ程受けずにやってこれる。
一般の観光客ならば、ここまでであろう。 『川尻岬』と刻まれた岬を示す石碑もここにある。
だが、岬というものは突端にある灯台まで行って、はじめて訪れたという感慨が湧くのである。
強烈な冬の季節風に波が渦巻く この後、“怒涛”が押し寄せた
展望の丘よりは、灯台に向けて岩壁を急下降で降りていく。 そして、岬灯台の立つ小高い丘まで、両側を波に削られたナイフリッジ状のバイパス路を伝う。 ここには、もう風を防ぐ物など何もない。
海上からよろめく程の突風が吹き荒れ、波が岩礁にぶち当たって白く砕け散り、波が高巻きうねり、そして波濤が高く飛散する。 私が抱く冬の岬の情景が、視界狭しと広がるのだ。
波濤が“怒涛”に変わる瞬間
冬場に荒れ狂う海の見張り
としては貧粗な灯台だ
灯台の立つ小高い丘に取り付き、到底観光用とは思えない急な石段を50m程直登すると小さな灯台の前に出る。 灯台の周りは樹木が生い茂り、正面の僅かな隙間から海上が望めるだけだ。
海上を望むなら、灯台より奥に続く山道を5分程下った樹木の隙間からの方がいいだろう。 隙間から覗くという条件は同じであるが、ここからは白い灯台と灯台下の岩壁に打ち寄せる波なども一緒に望める。
岬の情感を思う存分味わったなら帰路に着こう。 《北長門海岸》の観光拠点である《長門市》までには《油谷湾》・《黄波戸こわど》と温泉が点在し、また内陸へ向かうと名湯・《長門湯元温泉》がある。
そして帰路に着き、高速道や山陽路に抜ける途中で著名な観光地である《秋吉台》を通って帰る事も可能だ。 有名な観光地ゆえに駐車場代や見物料を多々取られる傾向にあるが、《秋芳洞》を初めとする3つの鍾乳洞めぐりは一見の価値ありである。
秋吉台・三穴 景清洞
“母子観音”と銘される鍾乳石
大正洞にて
なお、鍾乳洞で写真を撮るなら、三脚を使っての長時間露光が必要となる。 ストロボを使ってパシャパシャと撮る観光客が多いが、これではストロボの光が被写体に届かず何も写っていないケースがほとんどなので念の為。 写真がダメで、絵葉書などの無駄な出費を強いられる事のないように・・。
秋芳洞の代表的景観
『百枚皿』
今回、『北長門海岸』の西半分を“旅”してみた。 しかし、まだ《ホルンフェルス大断層》など、東半分は“手付かず”となってしまった。 また、今回めぐった西半分でさえ、“見残し”の『宿題』を多く抱えてしまっている。 このように『北長門海岸』は、とにかく広い。 表題や行程表で挙げた景勝を全てめぐるとなると、日数と念密な行程計画が必要となってくるだろう。
だが今回のように、一人の“旅人”として心の赴くままに“旅”というものを楽しむのもいいだろう。
当然の事ながら、一回の旅ではその魅力の一部分しか追えないであろう。 しかし、その“心残り”が“また訪れたい”と旅心を揺さぶるのである。
だが今回のように、一人の“旅人”として心の赴くままに“旅”というものを楽しむのもいいだろう。
当然の事ながら、一回の旅ではその魅力の一部分しか追えないであろう。 しかし、その“心残り”が“また訪れたい”と旅心を揺さぶるのである。
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