2013-01-16 (Wed)✎
『私の訪ねた路線』 第118回 池北(ちほく高原鉄道)線 〔北海道〕
旧国鉄(JR)の乗車券・入場券
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数 (’83)
池田~北見 140.0km 825 / 946
移管年月日 移管処置
’89/ 6/ 4 北海道ちほく高原鉄道
移管時運行本数
池田~北見 5往復、池田~足寄 上り1本、池田~陸別 下り3本・上り2本
置戸~北見 4往復、訓子府~北見 1往復
《北海道ちほく高原鉄道・路線データ》
廃止年月日 廃止転換処置 移管先廃止時運行本数
’06/ 4/21 北見バス・十勝バス 池田~北見 下り5本・上り4本〔1往復快速〕
池田~足寄 1往復、池田~陸別 2往復
池田~置戸 上り1本、陸別~置戸 下り1本
陸別~北見 上り1本、置戸~北見 下り7本・上り6本
清流を撮ったのか
列車を撮ったのか判らんね
小利別~置戸
《路線史》
元々は、道央と網走を結ぶ幹線鉄道として建設された路線。 1911年には池田~北見を全通させて、“網走本線”と呼称される。 だが、1932年に難工事の石北峠を克服して現在の石北本線が開通すると、網走へのメインルートは距離の短いこのルートに取って代られて、支線扱いに転落してしまう事になる。
この路線も、“線名の悲劇”に泣いた線区の一つであろう。
池北線は、両端で帯広に近い池田と北見という街を擁するものの、十勝と北見の国境付近は北海道でも有数の人口稀薄地帯で、『本線』の冠が外され都市間輸送が皆無となると輸送量的にはジリ貧となる。
池北線は、両端で帯広に近い池田と北見という街を擁するものの、十勝と北見の国境付近は北海道でも有数の人口稀薄地帯で、『本線』の冠が外され都市間輸送が皆無となると輸送量的にはジリ貧となる。
そうして、国鉄再建法により第二次の廃止転換対象路線に指定されるが、営業キロが100kmを越える事から名寄本線や天北線などと同じく『冬季の代替輸送の確保の困難』が定義されて、一時的に廃止承認を保留されていた。 だが、『乗客増加が見込めず赤字が増大する』として追加承認される事となる。
さよなら池北線
足寄駅記念スタンプ
この廃止を留保された4路線の中で、第三セクター方式での存続を目論める程に取り立てて良い利用状況にはなかったが、何故か第三セクター路線の『ちほく高原鉄道』として1989年の6月に経営移管され存続が決まる。 開業当時は、「存続に至ったのは、足寄町出身の国会議員の後押しがあったからだ」との噂が流れていたとの事である。
だが、高速道路の『道東自動車道』が足寄まで開通すると利用客は自家用車に流れ、利用者数は転換時の半数まで減少するに至った。 これを受けて運営が行き詰まり、鉄道存続の為の運営資金の供出を地元自治体に要請したが、鉄道以外に公共交通機関のない陸別町以外は資金供出を拒否をし、自治体の長で構成する『ちほく高原鉄道』の取締役会でも、陸別町長以外の全てが廃線に挙手をして路線廃止が決定した経緯がある。 これを受けて、’06年4月20日限りで営業廃止となった。
運行に関しては、国鉄池北線時代に帯広~北見間を急行【池北】号が運行していた。 それを引き継いで、『ちほく高原鉄道』の時も快速【銀河】として運行されていた。 先程も述べたように、両端では都市を擁するが国境付近は人口稀薄地帯であった為に、両端部では概ね1~2時間に1本の運行がなされたが、国境付近は1日5往復程度であった。
厳しい寒さを
イメージしたのだが・・
左の除雪車がグットタイミング
《乗車記》
池北線は、池田駅の島式ホームの切欠きホームである4番線から発車していた(帯広直通列車は3番線使用)。 池田駅には《ちほく高原鉄道》の営業職員は配置されず、駅務はJRに委託していた。
下車間際に渡される精算済証明書
池田駅の業務はJRまかせであった
始発駅・池田を出ると、様舞に着く。 待合室さえない板張りホームの停留所であるが、特筆するべき事としては「年間の利用者5人程度」と、かの旧士幌線のバス代行区間の途中駅・幌加に匹敵する閑散駅であったという事である。
次の高島は木造駅舎が残る交換可能駅。 だが、第3セクター移管後に無人化されたようだ。
次の大森は元は仮乗降場で、更に言えば道内時刻表にも掲載されなかったので、地元の人以外には知られていなかったとの事である。 もちろん、待合室さえないホームのみの駅であった。
次の勇足は以前は木造駅舎であったが、《ちほく高原鉄道》に経営移管後に合築駅舎に建替えられたようである。 そのデザインは、《ちほく高原鉄道》の路線愛称の『銀河線』からか、星の形を模られている。 次の南本別は大森と同じような棒線駅だが、正規の駅という事で待合室がホームの上に乗っかっている。 近くにある製糖工場への利便の為に設けられた駅のようだ。
南本別と本別の間に岡女堂という、甘納豆の菓子工場の通勤専用駅があった。 何でも、駅へ行くには工場の敷地を通らねばならなかったらしい。 《ちほく高原鉄道》に経営移管後に、この工場の本社の出資で設けられた駅との事だ。 だが、路線廃止直前にこの菓子会社は倒産して、北海道の観光ホテルの資本に移ったらしい。
そして本別。 以前は威厳のある門構えの木造駅舎であったが、《ちほく高原鉄道》への経営移管後に、町の商用施設駅として大改装された。 駅には商店から郵便局までがテナントとして入り、鉄道在時はJR北海道の旅行センターも入っていた。 今は、そのまま『道の駅』として活用されている。
次の仙美里も、木造駅舎から星形のデザイン駅舎に建替えられたようだ。 こうして見ると、駅舎の建築費だけでも相当の費用を使ったようで、コレで路線廃止とは何とも勿体無く思えてくる。
そして次が、この地出身の大物歌手・松山千春の生家のある足寄だ。 以前は旧国鉄の標準タイプの木造駅舎であったが、こちらも都市の役所と見まがう近代的な建物に建替えられている。 そして路線廃止となってからは、本別と同じく『道の駅』となっている。
愛冠駅は図案のような
王冠型の駅舎だった
次の愛冠だが、『愛のカップル』という語呂合わせで入場券が売れた駅だ。 だがこちらは無人駅で、入場券は足寄で売っていた。 駅舎は駅名にあやかって、赤い王冠型となっていた。 更に“やり過ぎ”な感じさえ漂う、『愛の泉』という水飲み場も設けられたようである。 足寄・・、大目に見てこの愛冠を過ぎると、人里を離れて山野に分け入って行く。
“愛のカップ(冠)る”という
ベタな語呂合わせの切符
次の西一線は、乗降場規格の板張り駅。 脇に、木造の掘ったて小屋もとい待合室とバラックもとい便所が併設されていた。 次の塩幌も西一線と同じ規格の駅だが、こちらの掘っ立て小屋いえ待合室の方が貫禄があるように見える。 だが、周囲には民家らしきものは見当たらない。
さよなら池北線
上利別駅記念スタンプ
次の上利別は、第3セクター移管後も木造駅舎が残る交換設備のある無人駅であった。 駅舎は路線廃止後も現存している。 駅前には製材所もあり、地方の小駅の雰囲気を醸し出していた。
次の笹森は、先出の大森同様に道内時刻表にも載らなかった元乗降場駅である。 設備も待合室さえない板張り駅であった。 また、こちらは周囲に人家は見当たらず、完全な無人原野のようである。
次の大誉地は、木造モルタル駅舎が建替えられずに残っていた。 路線廃止後も駅舎は残っている。
次の薫別は乗降場規格の板張り駅。 ホームの近くに、名物の手作りの木製ベンチのある待合室がある。
この辺りは国営の開拓事業が施行された所だが、厳しい気候からか離農者が相次ぎ頓挫したようである。 こちらの駅も年間利用者が5名ほど・・と、士幌線の幌加を彷彿させる利用状況であった。
次の陸別は、池北線の運用の拠点駅だ。 この駅を境に、十勝と北見に人の流れが分断される。
また、池北線沿線の町で最も奥まった所にあり、この池北線が生活路線の様相を呈している。
それゆえに《ちほく高原鉄道》の廃止の諮問がなされた時、唯一反対に挙手したのも頷ける。
以前は平屋建ての大きな木造駅舎であったが、今は宿泊施設も併設された合築駅舎となっている。
また、路線廃止後は『道の駅』となり、鉄道施設は1kmほど残されていて、観光向けに列車の運行が行われている。 陸別を出ると、列車は半減し1日5往復となる。 いよいよ国境越えの無人地帯をゆくのである。 分線は薫別同様の駅舎さえない板張り駅。 だが、駅の遠くに集落が見えて秘境感は薄い。
秘境度満点なのは次の川上だろう。 駅舎は開業時からの木造駅舎が残っているが、周囲に人家は全くなく、建物は鉄道官舎の廃墟が1件あるのみである。 だが、かつては木材を流送する川筏の水揚げ場があったらしく、林業関係者の利用がそれなりにあったらしい。 だが、トラック陸送に変わってからは離村が相次ぎ、無人原野となってしまったようである。
次の小利別は、北見・十勝国境の十勝側最奥の集落にある駅だ。 駅舎は木造駅舎から、洋風の城を模った合築駅舎に建替えられた。 小利別を出ると、長い国境越えの区間となる。
池北峠越えに挑む
小利別~置戸
池北峠のサミットまでの急勾配となっていて、非力な国鉄時代の気動車は、冬季はスリップ防止の為に必ず2両で運用していたようである。
“思い出お~い”池北線
置戸駅スタンプ
峠を越えて大きく右に周り込んで高度を下げると、北見側の最奥の町の駅・置戸に着く。 コチラの駅も、木造駅舎からまるで役所の建物のような合築駅舎に建替えられた。 ここから列車の本数は、ほぼ倍増する。 次の豊住は、板張りの棒線駅と待合室という、典型的な無人駅だ。 周囲は広大な畑が広がる。
境野駅舎
次の境野は、駅に喫茶店が入っていたが、廃線間際に引き払ったようである。 ここは、駅舎もしっかりしていて集落もあり商店もあったので、鉄道撮影するには好都合であった。 で、ここで撮影したので、その成果をごろうじろ。
カーブは曲がりぱなっを叩く!
これ基本
境野を出ると西訓子府・西富と板張り駅を過ぎ、訓子府に着く。 駅舎は、農協との合築駅舎に建替えられたようだ。 今も農協として使われているとの事。 次の穂波は、道脇の停留所然とした駅だ。
次の日の出は、味のある木造駅舎より都会の小公園を模した造りの駅舎に建替えられた。 現在は、その様相から公園として利用されているようである。 再び水田に囲まれた中の板張り駅・広郷を経て、上常呂に着く。 こちらも合築駅舎へと改築されている。
次の板張り駅・北光社を経て終点北見に入っていくが、その中間地点で常呂川を渡る。 そこは好天だと素晴らしい撮影地となるみたいで、ここで撮影しようと計画を練ったのだが、北光社駅が待合室すらない板張り駅であった為に、天候が崩れた際の逃げ場がなく自重した残念な思い出がある。
そして、終点の北見へ。 到着番線は母屋より離れた島式ホームに切欠きされた3番線である。
《ちほく高原鉄道》末期の北見駅の券売機は、野口英世の1000円札が使用不可(2004年に夏目漱石より野口英世に変わった)という、企業にあるまじき“トンデモ”な投げやり営業であった。
廃止が押し迫って、完全にヤル気が失せていたようだ。
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No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
いつも見て頂いて有難うございます。
実を言うと、私も士幌線優先戦略!?で、池北線の方は後回しでした。 初めて乗った時の松山千春の生家にガックリきて、路線のイメージもイマイチ化してしまったみたいです。 国鉄時代のを撮ったのは’89年の2月で、この年は大方の廃止線が片付いて、北海道では4大長大路線(名寄・天北・標津・池北)のみでした。 だから、前3路線に比べて、かなりおざなりなデキしか撮れませんでしたね。
その反省(口だけ)!?で、ちほく高原鉄道の廃止前は、ちょっと頑張って(氷点下11℃で2時間立ちんぼ)、我がPCの壁紙になるモノが撮れました。
いつも見て頂いて有難うございます。
実を言うと、私も士幌線優先戦略!?で、池北線の方は後回しでした。 初めて乗った時の松山千春の生家にガックリきて、路線のイメージもイマイチ化してしまったみたいです。 国鉄時代のを撮ったのは’89年の2月で、この年は大方の廃止線が片付いて、北海道では4大長大路線(名寄・天北・標津・池北)のみでした。 だから、前3路線に比べて、かなりおざなりなデキしか撮れませんでしたね。
その反省(口だけ)!?で、ちほく高原鉄道の廃止前は、ちょっと頑張って(氷点下11℃で2時間立ちんぼ)、我がPCの壁紙になるモノが撮れました。
「ふるさと銀河線」の帯広乗り入れ時は、結構もめていましたよね・・・・当時、帯広に住んでいたんですよ、私。転勤で。
やれ単独の乗り入れでは踏切が反応しないだの、なれば国鉄型車両との併結しかないだのと・・・・結果的には、何とかなっていたようですね。
私が札幌から帯広へ転勤したのが昭和62年の4月・・・・直前に士幌線と広尾線が廃止になっていたので、そっの方が残念でならなくて、どうしても「銀河鉄道」なる鉄道への写欲が失せてしまっていたのが、今にしてみると本当に残念でありません。
走っている姿は何度も見ているんですが。