2012-12-23 (Sun)✎
『私の訪ねた路線』 第116回 根室本線 その2 帯広~釧路 〔北海道〕
《路線データ》
根室本線
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15)
滝川~根室 446.8km 976 / 424
※ 新得~帯広を除いた数値
池田~釧路 運行本数(’16)
札幌~釧路 特急【おおぞら】6往復
池田~釧路 6往復
池田~浦幌 下り2本、上り1本
池田~厚内 上り1本
厚内~釧路 下り1本
音別・白糠・大楽毛~釧路 区間運転 上下5本づつ有
※ 2016年の台風災害により、現在は東鹿越~新得は不通となっている
現在は不通区間に代行バスを運行
《路線史》
旭川と釧路を結ぶ幹線鉄道として、北海道官設鉄道によって建設された路線である。 長大な路線ゆえに旭川・釧路の両端より建設が進められる。 旭川側が1899年に美瑛まで、釧路側が1901年に白糠までを開業させたのを皮切りに延伸を続け、1907年に難工事であった狩勝トンネルが完成した事で旭川と釧路を結ぶ幹線鉄道が完成した。
その後、1913年に滝川~富良野の新線が開通し、旭川~富良野を富良野線として分離させ、起点は滝川に変更される。 また、根室までの延伸も行なわれ、1917年には厚岸まで、1919年には厚床、そして1921年には念願の根室までの全通を果たしている。
この路線の一大転機といえば、間違いなく石勝線の開通による運行系統の大いなる変換であろう。
その後、1913年に滝川~富良野の新線が開通し、旭川~富良野を富良野線として分離させ、起点は滝川に変更される。 また、根室までの延伸も行なわれ、1917年には厚岸まで、1919年には厚床、そして1921年には念願の根室までの全通を果たしている。
この路線の一大転機といえば、間違いなく石勝線の開通による運行系統の大いなる変換であろう。
1981年に日勝国境を貫くルートで石勝線が完成すると、道東都市と道都・札幌とを結ぶ主要ルートは、滝川周りよりも50km近い石勝線ルートと変わったのである。
また、本州より北海道への旅客シェアが圧倒的な千歳空港が、札幌・函館に変わっての『道東への玄関口』となっていったのである。 石勝線は千歳付近の追分で道東に向けて分岐する事からこの対応にも好都合で、特急・急行などの主要列車のほとんどは石勝線経由と換えられていったのである。
1988年の新千歳空港完成以降は完全にこちらが幹線となり、新得~滝川はかつての急行【狩勝】が快速に格下げとなって滝川・富良野にそれぞれ1往復のみとなった完全なローカル線となってしまったのである。 それに伴い、TVドラマで知名度が挙がった富良野市以外の沿線都市は過疎化し、凋落が顕著になっていくのである。
また、道東・釧路の人口も減少気味で、東端の根室に至っては深刻な過疎化が進行しているとの事である。 もはや、帯広~札幌だけが都市間輸送の任を担っているといっても過言ではないだろう。
また、本州より北海道への旅客シェアが圧倒的な千歳空港が、札幌・函館に変わっての『道東への玄関口』となっていったのである。 石勝線は千歳付近の追分で道東に向けて分岐する事からこの対応にも好都合で、特急・急行などの主要列車のほとんどは石勝線経由と換えられていったのである。
1988年の新千歳空港完成以降は完全にこちらが幹線となり、新得~滝川はかつての急行【狩勝】が快速に格下げとなって滝川・富良野にそれぞれ1往復のみとなった完全なローカル線となってしまったのである。 それに伴い、TVドラマで知名度が挙がった富良野市以外の沿線都市は過疎化し、凋落が顕著になっていくのである。
また、道東・釧路の人口も減少気味で、東端の根室に至っては深刻な過疎化が進行しているとの事である。 もはや、帯広~札幌だけが都市間輸送の任を担っているといっても過言ではないだろう。
そうなると、極端ではあるが根室本線が幹線として稼動している区間は新得~帯広だけ・・との解釈もできるのである。
白糠町は軍馬生産地だったそうである
白糠駅スタンプ
この根室本線も、先程に記した宗谷本線同様に国鉄再建法によって支線が尽く廃止され、幹線だけの『本線』化しているのである。 道東・厚床からの標津線、白糠からの白糠線、第三セクターに移管の後に廃止となった旧池北線のちほく高原鉄道、帯広からの広尾線と士幌線と、実に総延長450kmにも及ぶ支線が廃止されているのである。
沿線風景では、1966年に新線にルート変更されて少し迫力は落ちたそうだが『日本三大車窓風景』にも選ばれた狩勝峠や、太平洋の波打ち際をゆく厚別~音別、そして雄大な原野風景を魅せる釧路以東をお薦めしたい。 中でも、道東・根室の落石岬周辺の風景は大陸的で、北海道の雄大なる大地を大いに満喫できるのである。
※ 滝川~帯広は、前回の『第115回 根室本線 その1』を御覧ください。
《乗車記》
根室本線のその2は、帯広から釧路の“最も根室本線らしい区間”を乗車していこう。 なぜ、“最も根室本線らしい”と云わしめたのは、この区間が“偉大なるローカル線”の冠詞が最も相応しいと感じるからである。 それは街と街の間が原野地帯で、言うなれば街はオアシスの状況を呈していて、区間だけを取り上げてみると廃止になったローカル線とさほど変わらない状況なのである。
根室本線のその2は、帯広から釧路の“最も根室本線らしい区間”を乗車していこう。 なぜ、“最も根室本線らしい”と云わしめたのは、この区間が“偉大なるローカル線”の冠詞が最も相応しいと感じるからである。 それは街と街の間が原野地帯で、言うなれば街はオアシスの状況を呈していて、区間だけを取り上げてみると廃止になったローカル線とさほど変わらない状況なのである。
帯広から分岐していた士幌線(’87年廃止)と
同じ任務・地域輸送も持つ“偉大なるローカル線”
それが根室本線だ
だが、その原野区間を優等列車が走り、貨物も走る主幹線でもあるのだ。 ともすれば、普通列車より特急列車の運行本数の方が多い位だ。 この長大路線・根室本線のこの区間は、幹線としての都市間輸送の任(特急列車)と、廃止ローカル線の主任務であった学生や年寄りなどの『交通弱者』を運ぶ地域輸送(普通列車)の2つの任務を併せ持つ“偉大なる(主幹線)たるローカル線”なのである。
それでは、帯広から先を普通列車に乗って訪ねてみよう。 十字クロスに分岐していた士幌線と広尾線が廃止され、今や帯広は途中駅然としてしまった。 駅舎も高架化された駅ビルとなり、かつての雰囲気は皆無である。
根室本線のこの区間は
荒涼とした波打ち際をゆく魅惑的な眺めが続く
帯広を出ると一時市街地を見下ろしながら行くが、次の駅に着く前に市街地が途切れてしまう。
これが、都会の街と地方の街の違いである。 市街地が途切れる頃に『十勝川』と呼び名が変わる直前の札内川を渡る。 ちなみに、この札内川は日本一の清流の川である。 もちろん、水源は日高山脈の札内岳である。 この川の水源地帯に興味ある方はコチラをクリック。
札内川を渡ると幕別町となり、札内に到着する。 この駅は幕別町に属するが、性格的には帯広のベットタウンで、この駅までは都市近郊輸送の概念が当てはまる。 ただ、周囲に建つのは都市にありがちなビルではなく、農業倉庫や酪農倉庫などの一次産業関連の建物である。
札内を出ると、完全なローカル線の情景となる。 次の稲士別は、かつては道内時刻表にも掲載されない幻の乗降場として“一部の者”に知れ渡っていた。 そう、“一部の者”とは、鉄の事である。 ちなみに筆者も若かりし頃に下車しているが、乗降場自体は国道のそばの板張り駅で、待合室はボロいがそれなりに居住性はあった(今は窓ガラスが割れて居住性最悪との事)。 待合室内には駅ノートもあり、絵の上手な駅鉄のイラストが満載である(冗談抜きに絵が上手い)。
次の幕別は札内から続く幕別町の中心駅で、かつては急行【狩勝】や【ぬさまい】が停車していた線内主要駅であったが、急行の特急への格上げにより普通列車のみの停車駅となってしまった。 だが、池田までの区間列車が釧路までの便の倍の本数があるので、まだ救いがある。 それは元主要駅であり、池田・帯広の間にある事からそれなりに乗降客は多いからであろう。
幕別を出ると、札内川から名を変えた十勝川を再び渡って池田町に入る。 次の利別は駅舎は立派だが、無人化されている。 駅の南側に国道38号が走り、集落はその周辺に固まっている。 駅の北側は畑が広がっている。
在りし日のちほく高原鉄道線
次の池田は、’06年までちほく高原鉄道(旧 国鉄池北線の第3セクター)が分岐していたが、既に廃止されている。 その名残が島式ホームの2・3番線の端にある切欠ホーム跡である。 また、この街は『ワインの街』として名を馳せていて、近くに建つワイン城などの観光資源もある。 従って、全ての特急も停車する線内有数の駅となっている。 また、駅の入線形態も『特急至上主義』の如く、上下を問わず特急の全てを母屋寄りの1番線からの発車としている。
池田を出ると、いよいよ原野の区間に突入していく。 次の十沸は、木造駅舎の残る小集落の駅。
駅舎に10㌦の駅と書かれた看板がデカデカと設置されている。 ちなみに、ここはもう豊頃町である。
次の豊頃は豊頃町の中心駅(だが、町の市街地は十勝川の対岸にある)で、かつては急行【狩勝】、【ぬさまい】も停車していたが、急行の特急格上げで普通列車のみの停車となっている。 また、駅の地位も格下げられて無人駅となっている。 駅舎は無人化と同時期に建替えられたようだ。
次の新吉野は交換設備はあるが、プレハブの待合室のみの無人駅。 だがかつては、有人駅で母屋のある木造駅舎を有していた。 次の浦幌は原野区間では最大の駅で、オアシスの如く街を形成している。
特急も1往復の停車がある。
次の上厚内は、一部の者(鉄関連の者)に人気がある駅だ。 それは、完全体の木造駅舎が残存しているからである。 だが周囲の情景は、原野の国道そば・・というあまり面白くない眺めだ。
引き潮が浜に思い思いの模様を描いて
景色を求めるなら、上厚内よりも次の厚内の方がいいだろう。 なぜなら、この厚内の少し先から海沿いを走るようになるからだ。 厚内は小さな波止場町で、小集落が形成されている。 かつては急行【ぬさまい】も停車した駅であるが、今は無人化されている。 ちなみに、この浜で撮影したので、拙いデキですがごろうじろ。
特急狙ったの24年ぶり
次の直別は、音別町が釧路市に編入された事で、釧路市の飛び地となっている。
駅は’03年の十勝沖地震で駅舎が倒壊した為に、ログハウス調のものに建替えられている。
次の尺別はこの地域最大の炭鉱であった雄別炭鉱の石炭積出駅として栄え、かつては数千人が居住した炭鉱町であったが、全て離村して集落は消滅しその面影は全くなく、今は鉄道マニアによる『秘境駅』の指定を受けている位に寂れている。
かつて炭鉱があって
数千人の人口があったという浜
今は名の知れた鉄道撮影地というだけ
次の音別は、釧路市との合併を受けた旧音別町の中心である。 これによって、釧路市の音別町部分は白糠町を挟んで飛び地となっている。 夜行の急行(後特急に格上げ)【まりも】が停車していた。
音別を出ると、海沿いの湿地帯をゆく。 付近はパシクル沼などの好撮影地が続く撮り鉄向けの区間となる。
一点だけ光る海原に合わせる事ができた
次の古瀬は、列車交換の信号場兼仮乗降場としての駅だ。 位置も国道から離れた防雪林に囲まれた中にあり、列車も列車交換の必要のある列車のみの停車設定となっている。 いわゆる『秘境駅』の一つである。
次の白糠は、釧路近郊の町である。 特急も池田までノンストップの1往復を除いて全てが停車する。
だが私にはそんな事より、この駅から分岐していた『白糠線』の事の方がウェイトが大きいのである。
在りし日の白糠線
白糠を出ると、西庶路・庶路と白糠町の字集落の駅に停まっていく。 白糠に入ると原野地帯を抜け出して、釧路の近郊市街を形成していくようになる。 そして、釧路市の市街地となってくると大楽毛に着く。 以前は王子製紙の工場へのチップ輸送を担っていたが、全て陸送に切り替えられている。
次の新大楽毛は新設駅。 釧路市が国道に沿っての郊外型の市街形成が成された事で、近郊駅として利用客は多いとの事。 駅舎はなく、停留所のような駅だ。 次の新富士は、富士製紙(現 日本製紙)より取られた駅名である。 また、駅周囲は釧路貨物駅のヤードとなっていて、跨線橋でホームと連絡している。
また、駅の上には製紙チップを運ぶベルトコンベアが敷設されている。
そして、次が終点釧路である。 根室本線は以降根室まで続くが、運行形態は釧路より先は完全に別線区として扱われている。 なお、釧路から先は、次回に続けるとしよう。
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No title * by 風来梨
銀色のシーズンさん、こんばんは。
いつも見て頂いて、有難うございます。
北の冬の旅は列車の旅もいいですね。 厳しい寒さを暖かい車内から車窓越しに望むのは列車旅の醍醐味です。 それに最も相応しいのが普通列車です。 でも、普通列車の本数が極端に少なくて・・。
いつも見て頂いて、有難うございます。
北の冬の旅は列車の旅もいいですね。 厳しい寒さを暖かい車内から車窓越しに望むのは列車旅の醍醐味です。 それに最も相応しいのが普通列車です。 でも、普通列車の本数が極端に少なくて・・。
No title * by タケちゃん
おはようございます。
今を遡ること約25年前、帯広に5年も在住していたにもかかわらず殆どこの沿線の写真を撮っておりません。
今にしてみると、実に勿体ないことをしたと思います。
クルマでは帯広~釧路を、仕事などでも何度も往復していたのに。
「池北」「ぬさまい」・・・・懐かしすぎますね。
今を遡ること約25年前、帯広に5年も在住していたにもかかわらず殆どこの沿線の写真を撮っておりません。
今にしてみると、実に勿体ないことをしたと思います。
クルマでは帯広~釧路を、仕事などでも何度も往復していたのに。
「池北」「ぬさまい」・・・・懐かしすぎますね。
No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
>今を遡ること約25年前
運良くバリバリのローカル撮り鉄でしたので、掲載している士幌線や白糠線を訪ね撮る事ができました。 今思えば、車もなしに1日4往復から5往復程度の線をよく撮ったわ・・と自分自身で感心します。
でも、道南部分など、撮りこぼしも多数の路線でありますね。
【ぬさまい】+【池北】のキハ22・キハ40・キハ56の混結編成は、ヨダレモノにシブかった・・です。←広田尚敬さんの写真で見ただけですが・・
>今を遡ること約25年前
運良くバリバリのローカル撮り鉄でしたので、掲載している士幌線や白糠線を訪ね撮る事ができました。 今思えば、車もなしに1日4往復から5往復程度の線をよく撮ったわ・・と自分自身で感心します。
でも、道南部分など、撮りこぼしも多数の路線でありますね。
【ぬさまい】+【池北】のキハ22・キハ40・キハ56の混結編成は、ヨダレモノにシブかった・・です。←広田尚敬さんの写真で見ただけですが・・
No title * by オータ
こんばんは。 今や、全国一最長距離鈍行列車が走っていますが…
その昔は やはり 旧客でしたね… ユーチューブの撮影映像には客車三両に対して、郵便・荷物車が何両だったか? かなりたくさん付いた根室本線の列車かがありましたヨ!
その昔は やはり 旧客でしたね… ユーチューブの撮影映像には客車三両に対して、郵便・荷物車が何両だったか? かなりたくさん付いた根室本線の列車かがありましたヨ!
No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。
長距離鈍行は、旧型客車が定番でしたね。 私が鉄に目覚めた頃(約30年前)は、門司から山陰本線周りの福知山行が最長でした。 もちろん、旧客でDD51牽引でした。 その他、寝台付の【山陰】【はやたま】【ながさき】がありました。 【からまつ】はもう運行してませんでしたが。
夜行列車も多くが運行されていて、時刻表を見るだけでもワクワクしてましたね。
長距離鈍行は、旧型客車が定番でしたね。 私が鉄に目覚めた頃(約30年前)は、門司から山陰本線周りの福知山行が最長でした。 もちろん、旧客でDD51牽引でした。 その他、寝台付の【山陰】【はやたま】【ながさき】がありました。 【からまつ】はもう運行してませんでしたが。
夜行列車も多くが運行されていて、時刻表を見るだけでもワクワクしてましたね。
No title * by オータ
拝復、鉄道ジャーナル社「旅と鉄道」の1974年頃の号では、門司発福知山行き824レ は DF50が牽引していたそうです。最後はお書きの通りDD51だったと思いますが、山陰は珍しいDLの宝庫でもあったようですね。
No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。
DF50は私の年代からすると、ちょっと前の世代ですね。
現物は四国で貨物や、操車場での車両入替で使われてる末期のものしか見た事ないですね。
保津峡の旧線(今はトロッコ観光線)をゆくDD51と旧客は、それはもう美味しい被写体でした。
DF50は私の年代からすると、ちょっと前の世代ですね。
現物は四国で貨物や、操車場での車両入替で使われてる末期のものしか見た事ないですね。
保津峡の旧線(今はトロッコ観光線)をゆくDD51と旧客は、それはもう美味しい被写体でした。
高倉健さん主演の「鉄道員」を思い出します。