2012-06-30 (Sat)✎
『私の訪ねた路線』 第99回 青函航路 〔北海道・青森県〕
よく夜行便に使われた檜山丸
オレンジカードより
《路線データ》
営業区間と営業キロ 廃止年月日 転換処置
青森(桟橋)~函館(桟橋) 113.0km ’88/ 9/19 JR津軽海峡線
輸送密度(’83) 転換時就航本数
貨物密度(’83) / 営業係数(’83) ’88/ 3/12(津軽海峡線開業日)
1692 下り8便、上り7便
941 / 340 多客時は2往復の臨時増便あり
《路線史》
津軽海峡を渡って、本州側の青森と北海道側の函館を結んでいた鉄道連絡船である。
鉄道連絡船という形式上、旅客扱いと共に鉄道貨物をそのまま車輌ごと積み込んで津軽海峡を渡っていた。
航路の歴史では、1908年に帝国鉄道庁(国鉄の前身)が、当時の最新鋭である蒸気タービン船《比羅夫丸》を就航させたのが始まりである。 戦前は津軽海峡が国策重要拠点と位置付けされた為、旅客輸送よりも軍事物資輸送や国策的な運用が主とされる傾向にあった。
鉄道連絡船という形式上、旅客扱いと共に鉄道貨物をそのまま車輌ごと積み込んで津軽海峡を渡っていた。
航路の歴史では、1908年に帝国鉄道庁(国鉄の前身)が、当時の最新鋭である蒸気タービン船《比羅夫丸》を就航させたのが始まりである。 戦前は津軽海峡が国策重要拠点と位置付けされた為、旅客輸送よりも軍事物資輸送や国策的な運用が主とされる傾向にあった。
青函航路就航船・摩周丸の
乗船記念スタンプ
戦後になって、北海道地域が目覚しい発展を遂げた事により本州と北海道の往来が盛んになると、本州と北海道を結ぶメインの移動手段が鉄道であった事もあり、青函航路は貨客共に最盛期を迎える事となる。
東京・大阪からの青森発着の優等列車が日に10数本も運行され、また函館でもそれを迎える優等列車が青函連絡船に接続するダイヤが取られていた。
青函航路就航船・八甲田丸の
乗船記念スタンプ
【ゆうづる】、【はつかり】、【白鳥】、【八甲田】・・などの東京・大阪からの優等列車の名や、函館で接続する【北斗】、【北海】、【宗谷】、【ニセコ】などの列車名を思い描けば、この頃が鉄道が最も魅力的に輝いていた頃だと感じ入る事ができるだろう。
実際に到着列車から大きな荷物を抱えた乗客が、大挙して桟橋へ向かって駆け出す光景は日常茶飯時の事で、定員越えの為に旅客の積み残しが発生する事もあったという。当局ではこれらの積み残し事例の低減を図るべく、指定席利用の乗客優先の処置を取っていた。
船の肖像画と船名御当地の
絵図入りのスタンプ
摩周丸
摩周丸
だが、やがて本州~北海道の移動手段が鉄道から旅客機に転換され始めると、利用客の国鉄離れと相俟って利用が減少の一途を辿るようになる。 利用客の減少に歯止めがかからぬまま、世紀の国家建設プロジェクト・青函トンネルの開通を迎える事となる。
青函航路就航船・羊蹄丸の
乗船記念スタンプ
その開通は1988年の3月13日。 この日をもって鉄道連絡船としての使命を終え、発足2年目のJR北海道・津軽海峡線に輸送業務を引き継いだ。 最終便は青森発が《八甲田丸》、函館発が《羊蹄丸》であった。
船の肖像画と船名御当地の
絵図入りのスタンプ
八甲田丸
八甲田丸
その後、同年6月から9月にかけての『青函トンネル開通記念博覧会』(青函博)開催に伴い、この博覧会の開催期間中は、イベント運行ながら1日2便の就航が行なわれた。 このイベント就航は博覧会終了日まで行なわれた為、事実上の廃航日は博覧会終了日の翌日である1988年9月19日である。
かなり痛んでいるように見えるね
大雪丸
オレンジカードより
《青函航路の思い出》
青函航路の乗船記を記すると、船室で寝ていた事か食堂でメシを食っていた事しか思い浮かばない。
それと、深夜・早朝の接続列車の『イス取りゲーム』位しか語るものもない。
ワテの少年時代の北海道への来訪は、この青函連絡船と共にあるといって過言ではない。
だったら、その思い出を語るとしよう。 もう昔の事となり、やや記憶が断片化されつつあるのだが。
船の肖像画と船名御当地の
絵図入りのスタンプ
羊蹄丸
ワテの少年時代は、『新幹線』といったら東京と博多を結ぶ『ひかり』・『こだま』であって、今のように東北や上越、果ては九州まで延びる事自体が夢物語であったのだ。 そう、北海道や東北は、飛行機か寝台列車、そしてロングランの特急と青函連絡船の乗継で向かう所だったのだ。
大阪~青森を
14時間(末期は12時間半)の荒行で結んだ
ロングラン特急【白鳥】
車を持つまでの鉄道を追っかけていた少年時代は、北海道へ渡った6回全てが、大阪~青森のロングラン特急【白鳥】で14時間の荒行に耐え、そして夜の23時前後の青森駅の構内を桟橋まで荷物を担いで駆け抜け、雑魚寝の2等船室で4時間の仮眠を取り、早朝の4時に今度は函館駅で待つボロキハのキハ82の特急【北斗】か【北海】の自由席のイスを獲得すべく、また駆け出したのであった。
青函航路就航船・桧山丸の
乗船記念スタンプ
:
桧山丸は最も設備が簡素で
桧山丸は最も設備が簡素で
夜行便専用だった
そう、本物の意志を持って駆け出す『乗換』という行為、即ち本物の旅をしていたのだ。 今のように新幹線でホームを跨ぐだけの無味無感想な乗換や、空港のように手ぶらで楽ではあるが、疑いを前のめりにするが如く、全ての荷物をセキュリティの赤外線に晒されて、旅の気分を阻害されて嫌な気分になる事はなかったのだ。
青函航路就航船・十和田丸の
乗船記念スタンプ
そうである。 ロングランの特急の乗車でいい加減クタびれているにも拘わらず、駅構内を桟橋まで荷物を抱えて駆けていく『旅の儀式』を終え、深夜0時過ぎの出航時になるドラの音を2等船室で雑魚寝しながら耳にすると、『北に渡るのだなぁ・・』と旅気分が大きく膨らんだものである。
船の肖像画と船名御当地の
絵図入りのスタンプ
檜山丸
檜山丸
そして、所要時間3時間50分という中途半端な乗船時間は、ほぼ眠る事が出来ずに波に揺られなからまどろむ自分がいた事はおぼろげに憶えている。 これは苦痛なのだが、『北へ渡る儀式』だと思えば、寝不足で頭が重かったとしても、結構嬉しい苦痛だったと思う。
帰りはいつも東北の鉄道線を絡めて帰っていったので、次の目的地への感慨を載せて青函航路に乗ったものだ。 そして、帰りはそんなに接続は気にならなかった(東北の周遊は主に『青春18キップ』を使ったので、特急の接続を考慮する必要がなかった)ので、ゆったりと食堂でラーメンなど食いながら渡ったものだ。
青函航路就航船・大雪丸の
乗船記念スタンプ
旧国鉄の動物図案は秀逸だね
だが、私の少年時代の終わりと同時にこの青函連絡船も姿を消し、そして少年時代を終えた私は『車』というアイテムを所有し、そしてカメラを向ける対象も、大方廃止に帰すうしたローカル鉄道から、花や山岳風景へと移行していった。 北へ渡る方法も、舞鶴や新潟からのカーフェリーへと転換していった。
そして、かつてのように放浪旅が利かない御時世となった今は、かつても今も「嫌だ、嫌だ」という飛行機を利用せねばならなくなってきている。 なぜなら、新幹線は飛行機に比べて、「遅くてバカ高い」からだ。 そして、高くても夢を運ぶ寝台列車も次々と運行が打ち止めになってきているからだ。
最も美しい船体を魅せた摩周丸
オレンジカードより
もし青函航路が復活したら、北に渡る時は無理してでも船に乗るだろう。 そう、本物の旅を最初から最後まで味わう為に。 もし、北陸・羽越周りのロングラン特急や寝台特急が復活したら、これもやはり無理をしてでも乗車するだろう。 北へ向かう・・という遠さを体感する為に。
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No title * by タケちゃん
こんにちは。
函館まで80系特急で行った際に、乗船名簿が配られたことや、車内放送で函館からの乗り換え案内が、「○○便、○○丸」と船名で案内されていたことを思い出します。
私自身は函館下車でしたが、「北斗」も本州連絡特急なんだなぁ~、と思ったと同時に、乗船名簿を記入して、その「○○丸」で青森に渡りたい、と強く思ったことを今でも覚えていますよ。
函館まで80系特急で行った際に、乗船名簿が配られたことや、車内放送で函館からの乗り換え案内が、「○○便、○○丸」と船名で案内されていたことを思い出します。
私自身は函館下車でしたが、「北斗」も本州連絡特急なんだなぁ~、と思ったと同時に、乗船名簿を記入して、その「○○丸」で青森に渡りたい、と強く思ったことを今でも覚えていますよ。
No title * by 風来梨
Der azurites Fuchsさん、こんばんは。
旅はできるだけ緩やかな時間の経過で味わいたいですよね。
仰る通り、これから始まる旅の夢は、鉄道・・しかも夜行列車でアプローチすると、期待感とワクワク感で堪らなくなりますね。
この感じを何度も味わいたくて鉄道の旅をしていたのだろうな・・と思います。
旅はできるだけ緩やかな時間の経過で味わいたいですよね。
仰る通り、これから始まる旅の夢は、鉄道・・しかも夜行列車でアプローチすると、期待感とワクワク感で堪らなくなりますね。
この感じを何度も味わいたくて鉄道の旅をしていたのだろうな・・と思います。
No title * by 風来梨
タケちゃんさん、こんばんは。
そういえばそうでしたね。 ありました・・乗客名簿。
そして、『○○便 ○○丸』のアナウンスは、急行【まりも】の車掌の『皆様・・、おばんでございます・・』と共に、アナウンスの代名詞でしたね。
青函連絡船があった頃の青森と函館には得も云えぬ旅情が漂っていました。 街もエキゾチックな街だし・・。
そういえばそうでしたね。 ありました・・乗客名簿。
そして、『○○便 ○○丸』のアナウンスは、急行【まりも】の車掌の『皆様・・、おばんでございます・・』と共に、アナウンスの代名詞でしたね。
青函連絡船があった頃の青森と函館には得も云えぬ旅情が漂っていました。 街もエキゾチックな街だし・・。
せっかく与えられた時間なので高揚感を存分に楽しみたいですね。
それが、青森駅、大阪・東京・上野・函館・札幌などの駅から
発車する長距離列車となればそれぞれのポイントでSWITCHが入り
目的地に着く頃には普段と違う自分にめぐり合え、帰路に至ってはそれまでの行程全てが無形遺産とから思い出でになると感じます。
140億年?かけてできた今を特に急いで生きる必要もないかな?
と思う今日この頃です。。。