2012-06-21 (Thu)✎
『私の訪ねた路線』 第98回 倉吉線 〔鳥取県〕
西倉吉からの乗車券
未乗・未撮影線区ゆえに
未乗・未撮影線区ゆえに
これ以外に展示物なし・・です
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
倉吉~山守 20.0km 737 / 1466
廃止年月日 転換処置
’85/ 4/ 1 日本交通バス
廃止時運行本数
倉吉~山守 6往復
倉吉~関金 下り4本・上り3本
倉吉~西倉吉 2往復
《路線史》
倉吉市の市街地より離れた所に位置し『上井駅』と呼称されていた山陰本線の現倉吉駅から、倉吉市の市街地である打吹を結ぶ為に、軽便線規格で1912年に開業した路線。 この路線は『倉吉軽便線』と呼ばれ、開業時に終点だった打吹駅は当初は『倉吉駅』を名乗っていた。 なお、打吹駅と改称されたのは1972年の事で、約半世紀の間に渡って『倉吉駅』はこの駅が名乗っていたのである。
その後、1941年には陸軍の演習地への兵員輸送の目的で関金まで延伸、1958年には既存の山守まで延伸開業する。 この山守までの延伸は、改正鉄道敷設法に定められた岡山県の中国勝山への延伸計画の『南勝線』構想による延伸である。
従って、山守駅は暫定的な終着駅の様相を呈し、田畑に囲まれた中に途中駅然の何もない棒線ホームが設けられたのみであった。 このような訳もあってからか、山守駅は“何もない終着駅”として有名だったという。
だが、この途中駅然の終着駅からの更なる延伸は、倉吉線の既存区間自体が『廃止勧告83路線』に挙がった事もあって計画が頓挫している。 この83線の廃止計画は廃止転換計画の推進が曖昧であった為に、ほとんどの路線が生き残る“計画倒れ”の結末となったのだが、その後も並行道路の整備によるバスの増便やマイカーなどに乗客を奪われて、ますます運営状況が悪化する。
そして、不退転の決意の元に施行された『国鉄再建法』では、「最初に廃止転換されるべき路線」として第一次の特定地方交通線に指定される。 そうなると、町外れにあった幹線の駅と市の中心街を結ぶ為だけの路線に廃止に抗する力はなく、またその市街地へ結ぶ役目も、整備された道路を走るバスやマイカーで事足りる状況になっていた。
こうして八方塞りのままに、1985年3月末をもって第一次廃止対象路線の中でも早期に廃止バス転換されてしまう。
運行においては、途中駅の関金までは貨物混合列車が設定されていた事もあって、客車列車の便もあった。 しかし、関金より以遠は終着駅の山守が途中駅然の棒線ホーム故に機関車の転回ができず、全て気動車による運行設定であった。
最後に終点の山守と手前の泰久寺の駅名板は、駅名の文字の部分が刳り貫かれたアクリル製の珍しいもので、関金町の資料館で町指定の文化財として保存・展示されている。
その後、1941年には陸軍の演習地への兵員輸送の目的で関金まで延伸、1958年には既存の山守まで延伸開業する。 この山守までの延伸は、改正鉄道敷設法に定められた岡山県の中国勝山への延伸計画の『南勝線』構想による延伸である。
従って、山守駅は暫定的な終着駅の様相を呈し、田畑に囲まれた中に途中駅然の何もない棒線ホームが設けられたのみであった。 このような訳もあってからか、山守駅は“何もない終着駅”として有名だったという。
だが、この途中駅然の終着駅からの更なる延伸は、倉吉線の既存区間自体が『廃止勧告83路線』に挙がった事もあって計画が頓挫している。 この83線の廃止計画は廃止転換計画の推進が曖昧であった為に、ほとんどの路線が生き残る“計画倒れ”の結末となったのだが、その後も並行道路の整備によるバスの増便やマイカーなどに乗客を奪われて、ますます運営状況が悪化する。
そして、不退転の決意の元に施行された『国鉄再建法』では、「最初に廃止転換されるべき路線」として第一次の特定地方交通線に指定される。 そうなると、町外れにあった幹線の駅と市の中心街を結ぶ為だけの路線に廃止に抗する力はなく、またその市街地へ結ぶ役目も、整備された道路を走るバスやマイカーで事足りる状況になっていた。
こうして八方塞りのままに、1985年3月末をもって第一次廃止対象路線の中でも早期に廃止バス転換されてしまう。
運行においては、途中駅の関金までは貨物混合列車が設定されていた事もあって、客車列車の便もあった。 しかし、関金より以遠は終着駅の山守が途中駅然の棒線ホーム故に機関車の転回ができず、全て気動車による運行設定であった。
最後に終点の山守と手前の泰久寺の駅名板は、駅名の文字の部分が刳り貫かれたアクリル製の珍しいもので、関金町の資料館で町指定の文化財として保存・展示されている。
《乗車記》
この路線は残念ながら乗車した事がない。 従って、廃線後に訪ねた遺構(残念ながら、以前は廃線遺構にあまり興味はなかったので写真はナシ)を元に、空想の乗車記を書き記そうと思う。
高架駅に改築されて倉吉線の遺構は跡形も無く消え去った倉吉の駅だが、往時は鳥取側の端に設けられた切欠きホームから発車していた。 駅を出るとすぐに山陰本線とは分かれ、U字に周り込んで南下していく。 南西方向に進路を取りつつ、日本海に注ぐ天神川を渡ると上灘に着く。
現在の上灘駅跡は、自転車・歩行者用道路に転用された倉吉線跡の“中継地点”として、トイレと小公園が設けられている。 以前は、駅務室が削られて1/3化された屋根瓦の待合室があったようだ。
次の打吹こそ元々は倉吉を名乗っており、位置的にも倉吉市の中心部に位置した駅である。
そして、『上井』と名乗っていた山陰本線の倉吉駅と倉吉市の市街地であるこの駅とを結ぶ、この路線の建設目的でもあった駅である。 だが、市街地の道路の発達とフリークエンシーを誇るバス路線の為に、路線目的は霧散したのである。
『倉吉』を山陰本線の『上井』に譲り、駅名が『打吹』と改称された昭和47年の時点で、遅かれ早かれこうなる事が確定していたのであろう。 なお、旧駅は市を代表する立派な駅舎であった。
今は、倉吉線の遺構を展示する『倉吉線鉄道記念館』となっている。
次の西倉吉は倉吉市の旧市街地にあり、この駅までは利用客はそれなりにあったようである。
また、通勤通学客も多く、朝夕はこの駅発着の客車列車も運行されていた。 だが、この客車列車は、『国内列車ドン速 №1』の称号を得ていたらしい。
何でも、この西倉吉から倉吉までの6.8kmを27分もかかっており、評定速度は15.1km/hで、市民マラソンのランナーより遅いと揶揄されていたのである。 何故遅かったかというと、入線していた機関車の重量に路線規格がついていけず、通常運転するとレールが割れて脱線するからだそうである。
また、“廃止を諮問される路線”であった為、路線の高規格化工事も行われずに放置されていた事も原因の1つである。
次の小鴨は、公園の公衆トイレのような待合室がポツネンとある棒線駅。 そして現在は、西倉吉から上小鴨に続く自転車遊歩道の中継公園として整備されているようだ。 その上小鴨も、同じく自転車遊歩道の終点として公園整備されている。 往時は、駅舎もあり有人駅であったようだ。
次の関金は列車交換のできる設備を備えた最奥の駅で、朝の学生の通学ラッシュの為に仕立てられる(超ドン速の)客車列車の始発着駅であった。 それより奥へはただ線路が敷かれているだけで機関車の機廻しも不可能な為、これより先は全て気動車列車による運行であった。 また、この関金は山陰の奥座敷である関金温泉の玄関口で、以前は当時客で賑わったという。
関金を出ると、先程記した通りに完全なる一閉塞区間となる。 つまり、終点までポイントの一つも存在せず、2本のレールが終点の先にある車止まで続いているだけなのである。
その『閉塞区間』の最初の駅・泰久寺は、駅の周りには田んぼしかない棒線駅で、待合室も公園の片隅で朽ちるに任せた掃除用具物置に匹敵する粗末な待合室であった。 だが、廃線後の遺構では、ホーム跡がしっかり残り、レプリカであるが駅名標が復活するなど、もっとも往時の遺構を残す駅となっている。
そして、終点の山守。 北の白糠線・北進駅と同様に、「何も無い終着駅」として有名だった駅である。
駅名の元集落は東に数百メートル離れ、周囲は田畑が広がるだけであった。 また、待合室も泰久寺よりはマシだが、バラックのよく言えば開放的な・・、悪く言えばスカスカの待合室であった。 現在は線路跡を転用した自転車用の舗装道が、荒地の中に一筋に延びる荒涼たる眺めとなっている。
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