2012-03-21 (Wed)✎
『私の訪ねた路線』 第84回 宗谷本線 その2 音威子府~幌延 〔北海道〕
天塩川に沿って走る
急行【宗谷】
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15) 運行本数
旭川~稚内 259.4km 746 / 489 音威子府~幌延
特急 3往復
普通 3往復
《路線史(再掲)》
当時日本領であった樺太(現 ロシア領でサハリン)への連絡鉄道として建設された路線。
終点の稚内からは、大泊(現 コルサコフ)への鉄道連絡線である『稚泊航路』が就航していたが、終戦と共に廃止されている。
建設は古く、また国益上の重要路線でもあったので、工事は官設(北海道官設鉄道)によって行なわれたようである。 1898年の旭川~永山から始まり、1903年には名寄、1922年には稚内まで全通した。
終点の稚内からは、大泊(現 コルサコフ)への鉄道連絡線である『稚泊航路』が就航していたが、終戦と共に廃止されている。
建設は古く、また国益上の重要路線でもあったので、工事は官設(北海道官設鉄道)によって行なわれたようである。 1898年の旭川~永山から始まり、1903年には名寄、1922年には稚内まで全通した。
だが、この時の音威子府~稚内は、後に『天北線』となる浜頓別経由のルートであった。
現在の幌延経由のルートは、1922~26年に『天塩線』として建設されたもので、1930年に区間距離の短い『天塩線』が本線に編入され、浜頓別ルートは支線の『北見線』(後に北見市が誕生すると天北線に改称)として分離された。 この後の『天北線』は周知の通り、国鉄再建法で廃止対象路線に指定され、1989年に廃止されている。
現在の幌延経由のルートは、1922~26年に『天塩線』として建設されたもので、1930年に区間距離の短い『天塩線』が本線に編入され、浜頓別ルートは支線の『北見線』(後に北見市が誕生すると天北線に改称)として分離された。 この後の『天北線』は周知の通り、国鉄再建法で廃止対象路線に指定され、1989年に廃止されている。
天塩川をめぐる
雄大なカーブをゆく
急行【天北】
運行に関してだか、古くに建設された路線の為に線路規格が低く、また最後まで高速運転対応が遅れた為に、長らく優等列車は特急ではなく急行であった。 だが、比較的平坦な地形を走るので、石北本線など特急列車の走る路線よりも評定速度が速かったのであるが。 なお、2000年の路線改良が完了して高速車輌の走行が可能になると、急行列車は全て特急に格上げされた。
国鉄再建法の施行による路線廃止が相次ぐまでは、先に述べた『天北線』を始め、幌延からの『羽幌線』、美深からの枝線で“日本一の赤字線”で有名な『美幸線』、名寄からは『名寄本線』と『深名線』が分岐していたが、これらは1985年~93年に全て廃線となり、現在は“本線”と名乗るものの支線は一つもなく、路線地図で見るにも寂しい姿となっている。
路線は士別付近より天塩川に沿って走り、また音威子府より先は人口稀薄なほぼ原野といっていい所をゆく。 その眺めは雄大で、ローカル線のなくなった今では原野風景の望める数少ない路線といっていいだろう。 また、下りの夜行列車の車窓から見る『利尻富士』の勇姿は、最果ての旅ならではの感動を与えてくれる(残念な事に、夜行列車は臨時列車化されてしまったが)。
路線は士別付近より天塩川に沿って走り、また音威子府より先は人口稀薄なほぼ原野といっていい所をゆく。 その眺めは雄大で、ローカル線のなくなった今では原野風景の望める数少ない路線といっていいだろう。 また、下りの夜行列車の車窓から見る『利尻富士』の勇姿は、最果ての旅ならではの感動を与えてくれる(残念な事に、夜行列車は臨時列車化されてしまったが)。
《下車駅ガイド》
前回でも記した通り、宗谷本線は259.4kmと長い。 そして、ワテがうろついた撮影地は、割とかたまっているのである。 そして、撮影地周辺以外は、あまり車窓風景を憶えていないのだ。 そういう訳で前回(第83回 宗谷本線その1)に引き続き、今回も下車や宗谷本線の撮影でめぐった所を箇条書き形式で語ろうか・・と思う。 それでは、第2弾・天塩川に沿ってゆく区間・音威子府~幌延の下車駅ガイドおば・・。
雪景色で銀色撮ると
クスンじゃうね
筬島駅
天塩川と列車を撮る為に下車した駅である。 初めて下車したのは、もう20数年前になるだろうか。
でも、その頃から貨車駅であった。 我が駅めぐりのバイブル、宮脇俊三・原田勝正 著書の『北海道690駅』では木造駅舎の写真が載っていたので、私が訪れるちょっと前に木造駅舎は取り壊されたようである。 以前は木材積み出しの駅として、交換設備有の有人駅舎だったので、鉄道の没落を絵に描いた様に表現している駅である。
駅の周辺は離村が相次ぎ、今は廃校になった小学校校舎をアトリエに活動した彫刻家・故 砂澤ビッキ氏のミュージアム(エコミュージアム・おさしまセンター)があるのみである。 筬島駅と国道40号線は天塩川で隔たれていて、筬島大橋が生活橋として架けられている。 往時は木材集積と搬出の駅として賑わった事もあり、天塩川に架かるこの筬島大橋もしっかりした構造で造られ、次に出る神路のように地方風で崩落する事はなかったようである。 またこの天塩川は、鉄道撮影ではいい情景をかもし出してくれる。
神路信号所(仮乗降場)
今で言う秘境駅で、その秘境度は室蘭本線の小幌を遥かに凌ぐモノであった。 それは天塩川によって完全に隔離されて、線路を7km以上歩かなければ辿り着くのが不可能であったからだ。 もちろん、北海道随一の急流と言われる天塩川を船で渡すのは不可能で、事実上は到達不能なのである。
だが、かつてこの地に集落が存在した事もあったのだ。 住民念願の天塩川を渡す吊橋が1963年3月に架けられたものの、前述で記した様に僅か9ヵ月後に地方風により崩落してしまったらしい。
橋が崩落するような所では居住生活も成り立たず、その後は全戸が移転して廃村となった歴史がある。
ちなみに、この乗降場は列車の窓から見た事がある。 だが、写真は撮らずじまい。 信号所として廃止されてからも通過列車の中から見た事があるが、保線作業員の詰所として駅舎の駅務部分が、廃屋のような面持ちで残されているのみであった。 それも、当地を詣でるべく線路を歩く『詣で鉄』を防ぐべく、完全撤去されたようである。
佐久に唯一停車した
上り急行【宗谷】
佐久~筬島にて
佐久駅
長野に佐久市という街があるが、長野の佐久市にある駅は佐久平とか佐久海ノ口とかと字名がついているので、以外や以外に天塩佐久とはならなかったようである。 そして、以外や以外、急行時代の【宗谷】の上り列車が停車していたのだ。 以前は木造駅舎だったが、今は公民館と合築のモダンな駅舎に建て替えられている。
天塩川に沿って
普通列車がゆく
糠南仮乗降所・上雄信内仮乗降場
ヨドコウの物置が駅舎の板張り乗降場。 付近には天塩川が横たわり、川岸を弧を描きながら列車が通過するので、天塩川と宗谷本線の撮影をするには格好の場所である。 この駅を下車する時は、次の上雄信内仮乗降場とどちらにしようか迷ったが、川が近いコチラにしたのだった。 今思えば、より秘境駅度の大きな上雄信内にしたら良かったかな・・とも思う。
雄信内駅
宗谷本線の音威子府~幌延の間で、無人化後に唯一木造駅舎が撤去されずに残っている駅。 糠南で撮影を終え、上り列車に乗り換える為に下車したのである。 唯一の原型をとどめた木造駅舎がある事から『駅詣で鉄』の重要拠点となっているようで、駅を語る書き込みが綴られた駅ノートが10冊近くあった。
以前は幌延駅から
波場路線が分岐していた
幌延駅
かつては羽幌線を分岐していた駅。 羽幌線の乗り換えで、札幌からの急行【利尻】を下車した事がある。
羽幌線は延長141.1kmと長く、留萌まで5時間近く、深川までなら7時間近くとかなり所要時間を食うので、路線に乗るだけで1日がかりとなり撮影できなかった苦い思い出がある。 初山別付近の日本海を見ながらの、カーブスロープを行く列車と日本海の写真は撮りたかったなぁ。
- 関連記事
スポンサーサイト
No title * by 風来梨
こんばんは。
北海道に初めて訪れたのは、1983年の夏です。 この時は痛恨のフイルム間違いで写真はほとんどありません。 その後は、白糠線の秋以外は、鉄道撮影時代は全て冬の渡道です。
そして、1984年までは第一次、1988年までは第二次の廃止線オンリーでしたので、宗谷線の撮影は1989年と遅かったです。
だから、智東などの秘境駅も偶然下りただけで、残念ながら写真は撮ってません。 神路も最初の夏(1983年)に運転停車中に見た記憶があるだけですね。
それで、今からオータさんの所に神路駅を見に行きたいな・・と。
北海道に初めて訪れたのは、1983年の夏です。 この時は痛恨のフイルム間違いで写真はほとんどありません。 その後は、白糠線の秋以外は、鉄道撮影時代は全て冬の渡道です。
そして、1984年までは第一次、1988年までは第二次の廃止線オンリーでしたので、宗谷線の撮影は1989年と遅かったです。
だから、智東などの秘境駅も偶然下りただけで、残念ながら写真は撮ってません。 神路も最初の夏(1983年)に運転停車中に見た記憶があるだけですね。
それで、今からオータさんの所に神路駅を見に行きたいな・・と。
No title * by オータ
こんばんは、トラックバックありがとうございます…
佐久駅での 急行天北の停車については、
blogs.yahoo.co.jp/orofure2001/8757958.html をご覧下さいね。
佐久駅での 急行天北の停車については、
blogs.yahoo.co.jp/orofure2001/8757958.html をご覧下さいね。
No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。
オータさんのお宝写真を見るにつれ、羨ましさが募ります。
興浜北線の山臼とか、胆振線の貴重な写真とか、あまり取り上げられている事がないレアモノの宝庫ですね。
更新ごとにお宝写真が現れるのでワクワクします。
こちらこそ、トラックバック宜しくお願い致します。
オータさんのお宝写真を見るにつれ、羨ましさが募ります。
興浜北線の山臼とか、胆振線の貴重な写真とか、あまり取り上げられている事がないレアモノの宝庫ですね。
更新ごとにお宝写真が現れるのでワクワクします。
こちらこそ、トラックバック宜しくお願い致します。
私はご存じの通り 1982年からですが…当時はまだかなりの駅で手荷物・小荷物・郵便の取り扱いをしていたからか、小さな駅にも駅員がいたのが印象的でした。そして、かつては大好きなC55が牽引していた名残の客レが一往復残っていて、客車旅も堪能できましたが… その324レが神路信号場に止まってくれて、駅名板を撮ることができました。塩狩のユースは1985年に泊まったことがあります。ひなびていたけどイイ雰囲気で、夕食はジンギスカンと決まっていた(連泊すると別メニュー)宿でした。
急行天北の客レ時代も知っています。偶然にも佐久で交換する写真を撮っていました… いずれもブログのどこかにありますヨ… 傑作!