風来梨のブログ

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私の訪ねた路線  第74回  播但線

『私の訪ねた路線』  第74回  播但線 〔兵庫県〕
 

播但線・飾磨駅の
「さよなら飾磨港線」スタンプ
 
《路線データ》
       営業区間と営業キロ        ’輸送密度 / 営業係数(’83)
             姫路~和田山 65.7km         4911  /  305
運行本数(’15
    〔電化区間〕 姫路~寺前   30~40分ヘッドの運行、姫路~福崎の区間運行も多数あり
    〔非電化区間〕寺前~和田山  下り15本・上り14本、路線経由の特急3往復
通称・飾磨港線
     廃止区間と営業キロ    廃止年月日    廃止時運行本数    転換処置 
    姫路~飾磨港 5.6km   ’86・11・ 1      2往復     姫路市営バス
 
  《路線史》
元々は山陽本線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡線であったが、姫路近郊への人口の集中化やそれに伴う姫路~寺前の電化完成(1998年)で、電化区間と非電化区間に運行系統が分断され、陰陽連絡線の意義は薄れてきている。

姫路~寺前の電化区間沿線は姫路市のベットタウンとして住宅地が数多く造成され、近郊輸送に供するべく、ラッシュ時は15分ヘッド、平時でも30~40分ヘッドの運行が確保されている。 一方、寺前以降の非電化区間は地域輸送を主とするローカル線区で、1時間~1時間半に1本と列車本数も半減する。

また、元来の目的であった『陰陽連絡』は、新幹線連絡の伯備線接続と智頭急行線経由の直通列車に取って代わられ、今や線内通過の特急列車も『陰陽連絡列車』は鳥取行の1往復のみとなっている。
他の2往復は香住・浜坂で運行が打ち切られるなど、播但線経由の特急列車は山陰海岸への観光列車の側面が大きくなっている。

路線建設の歴史であるが、1984年に姫路~寺前が播但鉄道によって開業したのが始まりである。
翌年には生野までの延伸と、姫路~飾磨(後の飾磨港)が開通する。 その後も、1901年に新井までが延伸開業されている。

1903年に播但鉄道から山陽鉄道に経営譲渡され、その手で1906年に新井~和田山が延伸開業し現存区間が全通している。 なお、全通したその年の暮れに山陽鉄道の路線全体が国有化され、この路線も播但線と呼称されるようになる。

その後は『陰陽連絡線』の姫路経由ルートとして、特急【はまかぜ】が大阪~米子・松江を結んでいた。
また、浜坂や香住など山陰海岸地域への観光客輸送の責務は、急行【但馬】が受け持っていた。
往時は優等列車だけで片道8本の運行があった。

だが、1986年の餘部鉄橋の列車転落事故や高速道路の播但道の福崎~和田山の開通、智頭急行の開通(1994年)などで、速度・安全性や利便性の全てに劣る播但線経由の優等列車は淘汰され始め、現在のような運行形態となっている。
 

飾磨港・飾磨港駅の入場券と
「国鉄播但線 姫路・飾磨港間 さよなら乗車券」企画キップ

以上の事と並んで播但線を語る上でもう一つの出来事は、姫路~飾磨港の通称『飾磨港線』と呼ばれる区間が存在した事であろう。 この路線は姫路の主要港である飾磨港の貨物輸送に供する目的で建設された路線で、旅客輸送は1日に僅か2往復と完全に無視された形となっていた。

なお、『通称・飾磨港線』と呼ばれる所以は、戸籍上は姫路~和田山の本線区間と同一で、播但線は飾磨港~和田山となっていたからである。 だが、運行系統は山陽本線に分断される形で完全に独立していた。

だが、国鉄再建法の施行で、特定地方交通線(廃止ローカル線)問題の大方が決着した1986年の10月末をもってひっそりと廃止されている。 しかしこの区間は、山陽電鉄が頻繁運行する姫路市の市街地中心部で、取り組み次第ではかなりの輸送利用があったものと思われるのだが。

この項目では、その“ひっそりと消えていった”『通称・飾磨港線』にまつわる資料を展示したいと思う。
 

 

播但線・飾磨港駅の
「さよなら飾磨港線」スタンプ
 
  《乗車記》
この播但線の現存区間はハッキリ言うと、私にとってはあまり面白みのない路線である。 電化区間は単なる近郊路線だし、非電化区間も哀れなまでに不細工に改造されたキハが往来していて、カメラを向ける気にはなれない。
 
また、鉄の皆さんの注目を集めたキハ181も、なぜか撮る気が起きなかったのである。 そして乗車の記録も、昔々に乗った急行【但馬】での時だけである。 確か、その頃は小学生だったような・・。
従って、こんな乗車した内にもならない記憶をたぐるよりも、確かに意識して乗りに行った通称・飾磨港線の事を語ろうかと。
 
廃止対象には挙がらない幹線・亜幹線の盲腸区間の廃止は、第二次廃止対象路線のすう勢が固まってきた頃から手がけられたようだ。 この播但線区間も、1986年10月末をもって廃止となっている。
その廃止が本決まりになった頃に、取り敢えず乗っておこう・・と訪れた時の乗車記である。
 
従って、写真は撮ってないし、スタンプや切符も友人から借り受けたものである。 ちなみに、自分の押したスタンプは化学変化を起こして紅色の訳の解らんボヤケ文字になってたし、並ぶのが嫌で、「友人が買ったし、買わなくてもいいか・・」と買わず終いだったのである。
 
飾磨港線は、“姫路駅の離れ小島”と呼ばれていた姫路駅の『西6番線』から出ていた。 本線の新快速やらを利用していた乗客からは、その存在さえ認知されていなかった発着ホームである。 もし、何の知識もない者が、このホームから気動車が発車しているシーンを偶然見たならば、それは『宝くじ』の確率かもしれない。 何せ1日に2度しかないのだから。
 
その姫路駅『西6番線』を出た列車は、1日2本がウソ・デタラメだと言いたくなる様な住宅密集地の中を抜けていく。 その通り、ここは姫路市郊外の住宅街で、1時間に2本の運行が成されたなら、3~4000人の輸送密度は確保できそうな立地条件である。
 
やがて亀山駅に着く。 ホームのみの待合室もない棒線駅で、いくら住宅密集地にあれど1日2本では、線路際に住む高校生の通学のみの利用しかなかったようである。 その近くには、山陽電鉄の亀山駅があり、利便的には何ら問題はなかったようなのだが、あまりにもヤル気のなさだけが目につく情景であった。
 
次の飾磨駅は廃止まで有人駅であった。 もちろん、切符も売っていた。 筆者が訪れた廃止間際には記念切符販売で賑わっていたが、普段は1日2往復と新日鉄広畑製鉄所の専用路線から運ばれてくる鉄鋼と石灰石輸送の取扱作業のみの駅であった。 なお街の中心は、この駅から1km程離れた山陽電鉄の飾磨駅であったようである。
 
そして、終点の飾磨港。 まるで大正時代にでもタイムスリップしたような感覚の駅舎があった。
それは、何本も並ぶ線路の終端の先に横たわる木造駅舎の構図は、鉄道貨物全盛時代の“古き良き時代”のものであった。 でも、筆者が訪れた廃止間際の情景は、線路は錆付き、使われなくなった貨物側線にはペンペン草が生え放題に生えていた。
 
それは、まるで平家物語のあの一節を情景で示しているようだった。 『祗園精舎の鐘の声』、『所業無常の響きあり』というあの一説を・・。

   ※ 詳細は、『魅惑の鉄道写真集』より『播但線』を御覧下さい。
 
 
 

 
 
 
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