2011-12-27 (Tue)✎
『私の訪ねた路線』 第73回 湧網線 その2 浜佐呂間~網走 〔北海道〕
最初で最後の花形列車
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
中湧別~網走 89.8km 177 / 2322
廃止年月日 転換処置
’87/ 3/20 網走バス・北見バス
廃止時運行本数
中湧別~網走 5往復
中湧別~佐呂間 上り1本
※ 第72回 湧網線 その1 〔中湧別~浜佐呂間〕 の続き
《撮影と乗車記》
ワンダーランドのサロマ湖で思いっきりアウトドアを楽しんだなら、次に進もう。 浜佐呂間を出るとサロマ湖から離れて、基線状の丘陵地帯をゆく。 基線といっても、札幌の『北○条東△線』といったものではなく、ただ農道が碁盤目状に延びているに過ぎないのではあるが。 その中に、北見富丘駅がある。
見た目は乗降場そのままであるが、扱いは正駅である。 そして周囲は、大農園の中に土地所有者の居宅が点在するだだっ広い原野である。
駅も正駅扱いでありながら、ブロック造の待合室に電灯一つ設置されぬ有様だったという。
宮脇修三著の『北海道630駅』によると、この駅には常時蛇が徘徊している・・とある。
電気もなく、人も寄り付かず、ジメジメとして涼しい環境は蛇にとっては打ってつけなのだろう。
次の乗降場・東富丘は“恐らく”ではあるが、湧網線の数ある乗降場の中でも、最も格下の乗降場であろうと思う。 周囲は完全無欠の原野で、民家らしき建物は皆無で、農家の農具庫らしき建物が1つあるだけだ。
列車本数も上下2本づつ・・と、最低レベルの運行状況であった。 当然、待合室すらない。
1日上下4本しか止まらない東富丘に
この日6両編成の列車が止まる
その列車の名は『さよなら湧網号』
その列車の名は『さよなら湧網号』
ワテは「ここならば、誰にも邪魔されずに『さよなら列車』を見送る事ができるかな」と、ここで降りて最後の撮影に赴いたのである。 最終日のこの日だけ、6両編成の臨時列車が停車する。 でも、下車はほとんど不能だ。 なぜなら、板張りのバラックのようなホームは、先頭の一番前の扉にしか掛からなかったのである。 当然、「降りる者などない」と見越しての停車だったのであろうとは思うが。
それでは、この場所でのワテのさよならの記録を一つまみ・・、ごろうじろ。
最後を飾る臨時列車
『さよなら湧網号』
:
これがこの路線の
“最初で最後の晴れ姿”なのか
次の北見共立は、“富丘シリーズ”を見てきた目で見ると、何とも立派な駅である。 駅前には数件の民家や雑貨店もあり、それなりの利用客の見込まれる駅であったようだ。 やはり、それなりの利用客の見込まれる駅では、知らず知らずの内に補修や清掃が行き届いてくるのである。
かなり立派な・・
北見共立駅舎
絵入り入場券
『さよなら湧網線スタンプ』
常呂駅
そして、次は漁港町の常呂だ。 オホーツク海は駅裏のすぐ近くまで接近し、冬ならば駅から流氷がひしめく絶景を見わたせるのである。 また、常呂町(現在は北見市に編入)の役場所在地駅で、駅前はバスターミナルにもなっていた。
さて、こんな素晴らしい情景の所を無視してそのまま進むのも勿体無いので、ちょっと寄道をしようと思う。 名もなき丘に登って流氷ひしめくオホーツクを望んでみようか。 それでは、その寄道がてら撮った写真をごろうじろ。
『一本の樹』
広大な丘に立つ一本の大樹は
いつも街を見護っている
でも、この場所は常呂の街のどこにあるのか? そしてどの道を行けばこの素晴らしい情景に出会えるのか・・は分からない。 なぜなら、民宿のツアーで連れて行ってもらっただけなのだから。
だが、地元の人に教えを乞うてでも、もう一度立ち寄りたい所である。
『湧網線列車と流氷』の
テレホンカード
:
悲しいかな
湧網線で流氷を語るのは
このテレカのみ
さて、常呂の素晴らしき丘を楽しんだなら、先に進むとしよう。 常呂を出ると、オホーツクの海岸に沿って進む。 もし願いが叶うならば、この場所での撮影の夢を叶えたい。 なぜなら、ワテの悔いの一つが、この地で流氷列車を撮れなかったことなのだから。 線路は周り込むようにしてオホーツクより離れて、能取湖へ進んでいく。
グルリと食い込むようにカーブして能取湖に取り付くと能取駅だ。 駅はカプセル型の新しい待合室が建てられていた。 次の北見平和は、寿の駅名だが掘っ立て小屋の待合室があるのみの無人駅。
『寿の駅の切符』は常呂駅で販売していたようである。 こちらは、能取駅より能取湖畔に近い。
縁起のいい
北見“平和”ゆきの『寿』切符
線路は能取湖にピッタリと寄り添って半周していく。 湖畔の南岸の集落が卯原内だ。 周囲は網走近郊の集落地で、スーパーや飲食店などもある小市街地が形成された所である。 今現在は交通公園となり、駅跡に立派な建物が建てられ、またSLや木造客車などが静態保存されている。 また、ここから常呂までの湖岸沿いは、線路跡を利用したサイクリングコースとなっている。
黒潰れ一枚
この区間の写真がコレだけじゃ
悔いも残ろう・・ってなもんである
そして、もう一つの悔いが残る場所といえば、この辺りである。 それは、この能取湖は秋になると、サンゴ草で湖面が赤く染まるのである。 その赤く染まった湖面と湧網線をゆくキハ22を撮りたかったなぁという思いである。 まぁ、サンゴ草が満開となる9月10月は、エトランゼは訪れる事は到底無理な時期であるのだが。
卯原内付近の能取湖
実はこれしか
実はこれしか
能取湖の写真がなかったりして
長らく能取湖に寄り添ってきたが、卯原内で離れて網走湖へ取り付いていく。 その能取湖の離れ際に二見中央乗降場がある。 周囲は網走市近郊の農園地帯だ。 駅名標が『ふたみちゅうお』となっていた事がマニア内で知れ渡っていた駅である。
次の二見ヶ岡は、『能取湖と網走湖の2つの湖を望める高台』である所から名づけられた地名だ。
周囲は、かの有名な網走刑務所の管理農場が広がっている。 今でこそ『網走監獄』として観光名所となっているが、言い伝えられているように極寒の地の受刑者による過酷な農園作業が課せられた所なのである。
二見ヶ岡を出ると、暫く網走湖の北岸に沿って走り、網走湖を過ぎやると本線である石北本線と合流する。
その合流地点に大曲の乗降場がある。 もうここは網走市の市街地なのだが、なぜか停車する列車は上下2本づつと、東富丘レベルなのである。 もちろん、駅舎もないバラック板張りホームである。
ちなみに、ここは現在の網走刑務所に近い。 なお、現在の網走刑務所は、かつての監獄とは異なり、窃盗などの軽犯罪収監者専用との事である。 そして、石北本線と並走しながら、網走駅の湧網線専用の切欠ホーム0番線に入線する。
思い出いっぱい詰まった
一枚のタトウ
湧網線さよなら乗車記念証
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No title * by 風来梨
タケちゃん様、こんばんは。
無くなってから、事の偉大さをや重要さを知る・・。 これは、人間
全てに課せられた十字架なのかも・・ですね。
私も、日本全国に悔いや残念な思いを置きまくっています。
特に、気にかければ乗れたのに・・、撮れたのに・・っていうのも数多く逃しています。 富内線を取り上げて頂いた時に書きましたが、その事や東北の南部縦貫や九州の鹿児島交通など、思いつめれば頭を抱えてしまいたくなるほどに“もったいない事”をしてますね。
今は、DD51やキハ40がその番になってますね。
この正月の旅では、DD51はちょっと追っかけるのは難しい(貨物の時刻を全く知らない)ので、日高本線とかでキハ40を追い求めようかと・・。
無くなってから、事の偉大さをや重要さを知る・・。 これは、人間
全てに課せられた十字架なのかも・・ですね。
私も、日本全国に悔いや残念な思いを置きまくっています。
特に、気にかければ乗れたのに・・、撮れたのに・・っていうのも数多く逃しています。 富内線を取り上げて頂いた時に書きましたが、その事や東北の南部縦貫や九州の鹿児島交通など、思いつめれば頭を抱えてしまいたくなるほどに“もったいない事”をしてますね。
今は、DD51やキハ40がその番になってますね。
この正月の旅では、DD51はちょっと追っかけるのは難しい(貨物の時刻を全く知らない)ので、日高本線とかでキハ40を追い求めようかと・・。
湧網線の写真自体は、昭和57年にモノクロで網走の次にあった「大曲」という乗降場?に停まっているキハ22をチラと撮っただけです。
車の免許を取り、行動範囲が広がっても、この路線まで足を伸ばすには至りませんでした。
線路がなくなってしまって、仕事の転勤で帯広に転居してからですもの・・・サンゴ草やら能取湖、知床方面へ車で出かけるようになったのが。
そのたびに、まだはっきり残っていた線路跡を見て「・・・・」と思っていましたね。
それより数年前、まだ列車が走っていた頃に芭露駅へ立ち寄ったのも仕事でしたから、そんな訳にも行かず・・・考えれば考えるほど残念です。