風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第119回 山鹿温泉鉄道

廃線鉄道  第119回  山鹿温泉鉄道 〔熊本県〕

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山鹿駅の駅名標
※『山鹿温泉鉄道 田尻弘行 著』より

山鹿温泉鉄道(やまがおんせんてつどう)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市)の植木と、同県山鹿市の山鹿の間を通っていた鉄道路線及び、その運営事業者である。 当初の名称は、山鹿町の郡名の『鹿本郡』から鹿本鉄道(かもとてつどう)と称していた。

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歴史のある湯治場として
知られる山鹿温泉
※『山鹿温泉観光組合』より

温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌の影響を受け、更に山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設された事もあって、営業面では終始振るわなかった。

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熊本から南九州を支配地域とする
九州産交バス
今は高速バスの派手な塗装だが
ワテの知ってる九州産交バスは
青と白の地味な塗装だね
※ ウィキペディア画像を拝借

このため競合バス会社の買収等の手段で山鹿~熊本でバス路線を開設し、鉄道は貨物輸送に重点を置いて旅客輸送を減量するなどの手段で収支の安定化を図ったが、バス部門は戦時中の交通統合によって、九州産業交通への譲渡を余儀なくされた。

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植木~植木町に残っている
旧山鹿温泉鉄道の築堤
水害でこの築堤が崩れて熊本への
直通運転ができなくなった事が
この鉄道の命運を決した
※『田舎くらしdeほっ!』より

戦後の1950年12月に中型気動車を導入し、国鉄鹿児島本線への乗り入れ運行を開始して熊本への直通を実現したが、1957年に水害により植木~植木町間の築堤が崩壊し、直通運行が不可能になった。
植木町~山鹿は復旧したものの、植木~植木町は復旧を断念し、運行休止・バス代行輸送とした。

二度の水害による打撃もあった事に加え、熊本~山鹿のバス路線に比べて著しく利便性を欠いていた事で鉄道の利用は低下の一途を辿り、末期的な経営状態となった事から1960年に全区間が運行休止となり、そのまま1965年に路線廃止となった。

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地図としては長大なので
2枚に分けました

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山鹿温泉鉄道の予想路線図
廃線跡はほぼ全てサイクリング道に
転用されたのでサイクリング道をなぞって
地図を作成すると駅の位置以外は
割と合っているかも・・です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ): 植木~山鹿 20.3km、軌間:1067mm、
電化区間:ナシ(全線非電化)、複線区間:ナシ(全線単線)、閉塞方式:不明(恐らく通票閉塞)
駅数:17駅 植木・植木町・一ツ木・今古関・山本橋・今藤・肥後豊田・舟島・伊知坊・平島温泉・
      山城・宮原・奥永・分田・来民・肥後白石・肥後大道・山鹿

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車両不足から払い下げられた
ボンネットバスを直接軌条に乗せた
文字通りの『レールバス』を
導入する奇策に出ていた
※『田舎くらしdeほっ!』より

運行形態:1956年5月2日当時
     運行本数は日13往復(6時~21時台)、うち熊本発着の乗り入れ便4往復
     所要時間は植木~山鹿の自社線内全線で41分だった
輸送実績:旅客輸送の最大時は1945年で、1012538人(1日平均2774人)とこの年のみ
     年間100万人を突破している
     運行休止直前の末期は約450000人(1日平均1233人)と、最盛期の半分以下となっていた
     貨物輸送は1949年の76088トン(1日平均208.5トン)で、運行休止を控えた末期は、
     1957年7月の集中豪雨水害により、植木~植木町が運行不能となって、それに伴い国鉄へ
     の乗り入れも不能となって貨物営業が廃止されていた

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コッペル機関車が押す混合列車
※『なつかしの山鹿温泉鉄道』より

   山鹿温泉鉄道 年表
1915年(大正  4年)11月18日鹿本軌道の名で会社設立
1916年(大正  5年)  3月24日:大日本軌道より軌道特許(熊本市西唐人町~鹿本郡山鹿町)譲受
             12月10日:軽便鉄道法に準拠して、鹿本鉄道に社名変更
             12月14日鉄道免許状下付(鹿本郡桜井町~同郡山鹿町)
1917年(大正  6年)    3月 8日軌道特許失効
            12月22日植木~肥後豊田が開業
1918年(大正  7年) 12月26日肥後豊田~宮原が延伸開業
1921年(大正10年) 12月  2日宮原~来民が延伸開業
1922年(大正11年)   5月10日鉄道免許状下付(鹿本郡山鹿町~同郡三岳村)

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車両不足で国鉄から譲り受けた
3401形蒸気機関車
※『田舎くらしdeほっ!』より

1923年(大正12年) 12月31日来民~山鹿が延伸開業し、全通する
1927年(昭和  2年) 12月23日ガソリン動力併用認可の認可が下り、翌年より気動車を導入
1928年(昭和  3年)      長浦(後の植木町)~熊本の連絡バスの運行を開始
            8月15日肥後大本・肥後大道の2駅を開業
1930年(昭和  5年)  7月18日 鉄道免許失効(1922年5月10日下付された免許の鹿本郡山鹿町~
                 同郡三岳村間)理由は『指定ノ期限マテニ工事ニ着手セサルタメ』
1932年(昭和  7年)      バス事業を一時廃止
1933年(昭和  8年)  7月24日バス事業を再開
                バス事業再開にあたってシボレーバス20台を導入し、沿線各地
                から熊本市内直通便を運行
            8月  肥後大本の駅休止
1935年(昭和10年)      郵便専用自動車を導入し、郵便物の輸送を鉄道から自動車に転換
1936年(昭和11年)      熊本市中心部の花畑町にバス待合所を設置
1937年(昭和12年) 4月    肥後大道と休止中の肥後大本の駅廃止
1940年(昭和15年)      郵便物の輸送を再び自動車から鉄道に転換し、保有する有蓋緩急車
                2両に郵便室を設置
1943年(昭和18年)10月26日:交通統制に伴い、バス事業を九州産業交通に譲渡
1949年(昭和24年)  7月30日平島を平島温泉に駅名改称
1950年(昭和25年)12月   ディーゼル動車2両を導入し、熊本への直通運転を開始
1952年(昭和27年)  6月  4日社名を山鹿温泉鉄道に改称
           8月   肥後大道を駅復活
1953年(昭和28年)  6月26日集中豪雨(熊本6.26大水害)により被害を受け、約4ヶ月間不通
                となる
1954年(昭和29年)  6月  1日肥後大本を今藤として駅復活
1955年(昭和30年)  4月  1日一ツ木・舟島・伊知坊・奥永・白石を開業

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積極的な経営策を取ったものの
交通統制で収益源だった
バス部門を切り取られ
2度も水害に遭うなど矢尽き刀折れる
形で廃止となった山鹿温泉鉄道
※『山鹿温泉鉄道 田尻弘行 著』より

1957年(昭和32年)  7月26日集中豪雨により被害を受け、植木~植木町で築堤が崩壊して復旧
               不能となり休止(植木町~山鹿は約1か月後に復旧)
               この被害により熊本への直通運転が絶たれて、貨物輸送が不能と
               なっなって貨物営業休止
1960年(昭和35年)12月 1日全線休止
1965年(昭和40年)  2月 4日全線廃止

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ガソリンカーならぬ蒸気動車
客車内に小型蒸気機関車を入れて
トレーラーの如く引き回していたらしい
車両の準備に差し障るほどに
資金繰りに苦難した山鹿温泉鉄道では
奇抜過ぎる車両が次々と運用に就いていた
※『田舎くらしdeほっ!』より

    車両
開業時に用意された車両は、蒸気機関車(大日本軌道鉄工部製のタンク機関車)2両と客車(岡部鉄工所(福岡)製のボギー客車)3両であった。 1928年にバスの台頭に対抗して合理化・列車増発の為に気動車の導入を決定し、丸山車輌と梅鉢鐵工所(後の帝国車輌)で合計3両のガソリンカーを新造している。

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ターンテーブルで方向転換する
単端式ガソリンカー
最初に導入されたガソリンカーは
単端式のガソリンカーだった
※『田舎くらしdeほっ!』より

丸山製の2両は片運転台で一方のみ進行する単端式であり、日本の気動車としては初めて独立した郵袋置場を設置した車両であった。 梅鉢製の1両は当時最先端の両運転台車だったが、フリクション変速機による動力伝達等に欠陥があり、早期に改修された。

気動車導入により列車増発が図られたが、これら3両はいずれも簡易な木造車であった上、日本の気動車史でも黎明期の車両ゆえに故障も多く、数年間のうちに全体の老朽化が進行して長期の使用に耐えられなくなっていった。 この事を受けて旅客輸送はバス重視とする方針に転換し、1934年12月には気動車列車が廃止され、旅客列車は蒸気機関車牽引列車4往復のみという大幅減便が実施された。

不要となった気動車3両は1935年に佐賀電気軌道に売却し、前後して客車3両も熊延鉄道や南薩鉄道に売却するなど、鉄道財産のほとんどを売却するまでして経営立て直しを図っていた。 なお、同年5月には、当局からガソリン動力廃止認可を受けている。

戦後、再び内燃動力併用認可を得て国鉄キハ41500形類似の気動車2両を導入し、熊本乗り入れに充当していた。 並行する九州産交バスとの対抗上、極力運行本数を多くする必要があって、エンジン・車軸などに予備品を備えた上で常時2両使用の予備車なしという、異例の状態での国鉄直通運転が行われていた。

続いて、帝国車輌に当時のトレンドである正面2枚窓の湘南型スタイルを持つ大型気動車を発注したが、導入を前にして昭和28年西日本水害による甚大な被害を受け、導入をキャンセルする事態となっていた。 なお、注文流れとなった湘南型気動車は他の鉄道に引き取られ、有田鉄道キハ250及び茨城交通ケハ401となっている

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阿佐海岸鉄道のDMVの元祖は
本物のバス車体を軌条に乗せた
山鹿温泉鉄道のレールバスだった
※『田舎くらしdeほっ!』より

切羽詰まった山鹿温泉鉄道は、1955年に大阪市交通局から中古ボンネットバスの払い下げを受け、これを改造した単端式気動車2両を導入するという奇策に出た。 このバスは元々戦後の車両不足を補うため、進駐軍から放出されたGMCウェポンキャリア(軍用トラック)のシャーシにバスボディを架装した代物で、そのタイヤを鉄道用車輪に取り替えて文字通りのレールバスとしたものである(車両の側面窓下にも『レールバス』という表記がなされていた)。

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レールバスの出力増強版には
アメリカの軍用トラックを改造した
※『田舎くらしdeほっ!』より

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キハ102が導入された
※『田舎くらしdeほっ!』より

日本で自動車を一般旅客輸送用の気動車に改造した前例は、大正時代の試作車両や軽便鉄道などに少数例があったが、戦後ではデュアル・モード・ビークル(DMV)を除くと山鹿温泉鉄道がほぼ唯一の事例であり、末期の同社がいかに経営的に窮迫していたかを物語る事例とされる。 しかし、1957年7月の水害で熊本への連絡が絶たれ、植木町~山鹿のみの運行では2両で十分となり、わずか2年で使用休止となってしまった。

同線で使用されていたコッペル製の蒸気機関車が現在、千葉県習志野市の袖ヶ浦東小学校に保存されている。 同機は茨城交通茨城線で使用されていたのを一時期借用していたもので、車号は茨城鉄道時代が『3』、茨城交通時代が『14』だった。 1951年に川崎製鉄に移籍して『NUS2』となっている。
川鉄時代には蘇我から川崎製鉄千葉製鉄所の千葉専用線で資材を運ぶ為に使用されていたが、ディーゼル機関車に置き換えられて廃車となっている。

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機関車の主力となっていた
1922年独・コッペル製のタンク機関車
※『田舎くらしdeほっ!』より

  蒸気機関車
延べ8両が在籍し、主力は3・4の1922年ドイツ・コッペル製のタンク機関車で、運転整備重量は28.5t・弁装置ワルシャート式・軸配置はC型で動輪直径1000mmである。 4は同鉄道で最後まで残った蒸気機関車であった。

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最後の新製車両となった
キハ2型ディーゼルカー
※『田舎くらしdeほっ!』より

   気動車
末期はキハ1・2が在籍していた。 1951年10月17日竣功の新潟鐵工所製気動車で、津軽鉄道キハ2402・2403とほぼ同型の車両である。 自重約20 t・定員100名(うち座席定員52名)・機関はDA55Aを搭載していた。 全線廃止まで在籍した後、1965年8月から津軽鉄道で使用する予定で新潟鐵工所へ送られてステップ1段化改造がなされたが、結局現地へは送られず入籍もしなかった。

  客車・貨車
客車は最大で5両で休止が迫った末期は2両・貨車は8~11両保有していたが、1957年の水害後は熊本への直通運行が絶たれて、貨物営業が不能となり放置されていた。

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路線廃止後は鉄道跡の
サイクリングロードへの転用を
促進する会社が設立された
※『田舎くらしdeほっ!』より

  鉄道廃止後の経過
鉄道廃止に伴って、1965年2月に社名を『鹿鉄バス株式会社』に改称し、貸切バス事業者となったが、その後の1971年に貸切バス事業を縁故会社の『鹿鉄停車場株式会社』に移管している。 貸切バス事業移管後は会社解散手続きに移行したが、後に中止して線路跡地への自転車道《熊本県道330号熊本山鹿自転車道》建設の為の用地保全を目的とする公益法人となり、1974年に山鹿自転車道株式会社に改称している。

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山鹿温泉鉄道の整理会社は
山鹿駅跡地と駅跡施設を使って
自動車教習所を運営していた
※『みんカラ』より

1992年の自転車道完成後は、駅跡の用地での駐輪場運営などを行っていたが、2017年6月27日に清算結了により法人が消滅している。 また、貸切バス事業を移管した『鹿鉄停車場株式会社』は、鉄道廃止・事業整理に伴って必要となった資金の調達などを行う事を目的に1960年11月に設立された法人で、鉄道廃止後は山鹿駅の用地を取得して自動車教習所を設置し、運営を行う事となった。

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取り壊される前の
山鹿温泉鉄道の鉄道記念碑
でも宅地造成の為に
鉄道の『お墓』を取り壊すなんて・・ね
※『みんカラ』より

1971年には『鹿鉄バス株式会社』から貸切バス事業の移管を受け、『鹿鉄交通株式会社』に改称している。 自動車教習所・貸切バス事業とも1992年の時点では健在であったが、その後にいずれの事業も廃止している。 なお、法人そのものは2017年7月に商号を『株式会社スプリングバック』に変更し、2021年現在も不動産管理会社として存続している。

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廃線跡はほぼ全線に渡って
サイクリングロートとして整備されている
※ ウィキペディア画像を拝借

  廃線跡の現況
廃線跡は県に譲渡され、自転車道熊本県道330号熊本山鹿自転車道》・サイクリングロード愛称名『ゆうかファミリーロード』として整備されている。 なお、2000年の時点で、植木町・肥後豊田と終点の山鹿の3駅の駅舎が残存していたが、2012年までに植木町・山鹿の両駅舎は解体されている。

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道の駅『水辺プラザかもと』に
移設されて残る
山鹿温泉鉄道・菊池川橋梁の1スパン
※『田舎くらしdeほっ!』より

また、分田~来民で菊池川に架かっていた菊池川鉄橋の一部が、道の駅『水辺プラザかもと』の近くに移設保存されている。

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この鉄道には久留米までの
壮大な路線延伸計画があった
※ ウィキペディア画像を拝借

  未成線計画
1921年4月に山鹿町~三岳村(約3哩=約11.8km)の延長敷設願いを提出している。
路線の延伸構想では久留米(約24哩=94.4km)までの延長であり、この届出区間はその一部であった。 1922年5月免許状が下付されたが、山鹿までの建設で余裕がなく再三工事延長願いを出していたが、1930年7月に失効となっている。

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後に第二次廃止対象線として
廃止となった国鉄佐賀線は
東肥鉄道が建設した路線である
※『佐賀市営バス』より

未成線は山鹿駅から肥後八幡(杉)駅(当時は八幡村で現在の山鹿市杉)を経て、寺島駅(当時の三岳村で現在の山鹿市寺島)に至る経路が計画されていた。 山鹿~肥後八幡の延伸計画区間では、矢部川から南関町を経て隈府町を結ぶ東肥鉄道線との交差が予定されており、1923年には両社で協定が結ばれたが、いずれの路線も未成線となっている。

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その東肥鉄道の最終の路線延伸先は
九州一の閑散路線だった

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旧国鉄・宮原線の終着駅である
肥後小国駅だった

寺島駅から先の具体的な駅の計画は見られないが、通過する地域として広見・高井川・小栗峠・上辺春・兼松・上妻・福島・広川・上津荒木・国分が挙げられており、現在の国道3号と似た区間を経て久留米に至る予定だったようである。



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熊本市郊外の駅・植木から
山鹿温泉鉄道は分岐していた
※ ウィキペディア画像を拝借

植木駅(うえきえき)は、熊本県熊本市北区植木町鐙田にあるJR九州・鹿児島本線の駅である。
熊本方面からの当駅止と折り返しの始発の電車が数本設定されている。 1965年までは山鹿温泉鉄道が乗り入れていた。

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植木駅にある切欠き跡のような部分は
山鹿温泉鉄道のホーム跡なのかも
※ ウィキペディア画像を拝借

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを持つ駅で、互いのホームは跨線橋で連絡している。 かつては当駅で普通列車が特急列車などの待避をする事があったが、九州新幹線の開業で優等列車が廃止されて、現在は待避列車はない。 廃止された山鹿温泉鉄道が分岐し、当駅から熊本まで山鹿温泉鉄道の気動車が乗入れていた。

2015年3月14日に一度無人駅となったが、約1年後に熊本駅管理の簡易委託駅に戻っている。 
簡易委託駅となってからは、元JR社員3名が交代で平日のみ近距離乗車券発売と集札を行っている。
駅舎には出札窓口のほか、自動券売機が設置されている。 2020年の1日平均乗車人員は546人との事。

駅名の由来は開業時の地名(山本郡植木町)で、古くは『森のある台地上の里』を表す『上村森(うえきもり)』と読まれ、古代からの交通の要所だったと言う。 その『上村(うえき)』がいつしか『植木』に転化したものが今の地名になったとの事である。



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路線の中心駅で
貨物側線もあった植木町駅
当駅~植木が水害により復旧不能と
なった事でこの鉄道の命運は決まった
※『山鹿温泉鉄道 田尻弘行 著』より

植木町駅(うえきまちえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)長浦にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1957年7月の水害で当駅と国鉄(現JR九州)鹿児島本線との間が寸断されて復旧不能となり、国鉄乗り入れと貨物営業が廃止された事が当鉄道が路線廃止に追い込まれる主要因となった。

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災害に遭う直前頃の植木町駅
貨物輸送を中心に稼働していたようだ
※『田舎くらしdeほっ!』より

2面2線のホームを有する駅で、植木側には貨物側線を有していた。 線内の交換駅のひとつで、駅舎を有していた。 駅舎は2000年頃までは残存して民家として使用されていたが、取り壊されて宅地となり、線路跡はサイクリングロートとなっている。



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一ツ木駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

一ツ木駅(ひとつぎえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町一ツ木(現・熊本市北区植木町一木)にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、レールバス用の小規模な停留所であった。 駅の遺構は残っておらず、線路跡はサイクリングロートに転用されている。



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今古閑駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

今古閑駅(いまこがえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)今古閑にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅て、簡素な雨よけ程度の待合所のある無人駅であった。 周囲は農家が数件の畑地で、駅跡地は空地となっている。 線路跡はサイクリングロートに転用されている。



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サイクリングロードの休憩所となっている
山本橋駅跡には旧ホームの石垣が残る
※『田舎くらしdeほっ!』より

山本橋駅(やまもとばしえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)植木町内にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、現在はサイクリングロードの休憩舎『山本橋駐輪場』が建てられている。



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今藤駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

今藤駅(いまふじえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)植木町今藤にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、現在はサイクリングロードに転用されている。



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肥後豊田跡地
右にホームがあり
左に駅舎があったとの事
※『田舎くらしdeほっ!』より

肥後豊田駅(ひごとよだえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)豊田にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 2面2線のホームを有する駅で、植木寄りには貨物側線を有していた。 線内で運転取扱を行う有人駅の一つで、駅舎を有していた。 現在はサイクリングロードの休憩舎『豊田駐輪場』が建てられている。



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舟島駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

舟島駅(ふなじまえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)植木町余内にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。 現在はサイクリングロードに転用されている。



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伊知坊駅跡
※『田舎くらしdeほっ!』より

伊知坊駅(いちぼうえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)植木町伊知坊にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。 現在は駅跡地には公民館が建ち、線路跡はサイクリングロードに転用されている。



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ホーム跡が残る平島温泉駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

平島温泉駅(ひらしまおんせんえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)植木町米塚にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。

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温泉情緒豊かな植木温泉
※『熊本県温泉サイト・くまもっと湯美人』より

現在はサイクリングロードの休憩舎『豊田駐輪場』が建てられている。 近くには、旧称を平島温泉と名乗っていた植木温泉がある。



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山城駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

山城駅(やましろえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町正清(現・熊本市北区植木町正清)付近にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームで、レールバス用の簡素な停留所であった。 現在はサイクリングロードに転用されている。



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宮原駅跡地
ホーム跡の石垣と駅舎の土台が残る
※『田舎くらしdeほっ!』より

宮原駅(みやばるえき)は、かつて熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)宮原(みやばる)にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 2面2線のホームを持つ駅で、小型の駅舎を有していた。 植木寄りには貨物側線を有していた。 駅の遺構は無いが駅舎の土台の痕が残り、『売地・宮原駅跡地』の看板が立った雑草が生え放題の荒れ地となっている。



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奥永駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

奥永駅(おくながえき)は、かつて熊本県鹿本郡鹿央町(現・山鹿市)奥永にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 同線では唯一の鹿央町にあった駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。



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分田駅跡地
※『田舎くらしdeほっ!』より

分田駅(ぶんだえき)は、かつて熊本県鹿本郡鹿本町(現・山鹿市)分田にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを有する駅で、駅舎はなく雨よけの待合所あるだけの簡素な駅だった。 駅跡地には駅舎の基盤だと思われる跡が残っており、駅名標を模した看板がある。



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来民駅跡地は交差点の向こう側で
市営住宅が建っている
※『田舎くらしdeほっ!』より

来民駅(くたみえき)は、かつて熊本県鹿本郡鹿本町(現・山鹿市)御宇田にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。

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2000年頃までは倒壊寸前の駅舎が
塀で覆われて残っていた
※ ウィキペディア画像を拝借

かつては来民村があり、村の中心として2面2線のホームと木造駅舎を有する駅だった。
貨物の取り扱いがあり、植木寄りには貨物側線を有していた。 2000年頃まで木造の駅舎が残っていたが、現在は市営住宅が建っている。



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肥後白石駅跡地には
JR九州様式駅名標が立てられている
※ ウィキペディア画像を拝借

肥後白石駅(ひごしらいしえき)は、かつて熊本県山鹿市白石にあった山鹿温泉鉄道の駅である。
山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。
線路跡はサイクリングロードに転用され、駅跡地には数年前に設置されたと思われるJR九州様式の小型の駅名標が立てられている。



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肥後大道駅跡地にも
肥後白石同様の
駅名標が立てられている
※『田舎くらしdeほっ!』より

肥後大道駅(ひごだいどうえき)は、かつて熊本県山鹿市古閑付近にあった山鹿温泉鉄道の駅である。
一度廃止されてその後復活した経緯があるが、山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って2度目の駅廃止となった。 1面1線のホームを持つ駅で、簡素な待合所のみの無人駅であった。 線路跡はサイクリングロードに転用され、駅跡地には肥後白石同様の駅名標が建っている。



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山鹿駅前にあった鉄道記念碑
ボロボロなのは
どうやら取り壊される直前らしい
記念碑を取り壊す理由は宅地造成の為との事
でも記念碑を取り壊すなんて事するか?
※ ウィキペディア画像を拝借

山鹿駅(やまがえき)は、かつて熊本県山鹿市にあった山鹿温泉鉄道の駅である。 同線の終着駅であった。 山鹿温泉鉄道の営業休止に伴っての1960年12月1日よりの休止を経て、1960年2月4日の同鉄道の正式廃止に伴って駅廃止となった。 2線2面のホームを有する駅で、本社および車両基地を併設していた。

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かつては駅舎が自動車教習所の
事務所として使われていたが
教習所の閉校の後に取り壊されている
※ ウィキペディア画像を拝借

駅跡にはかつて山鹿自動車学校がおかれていたが、その自動車学校も廃校となった。 旧駅舎を転用した事務所や自動車学校の練習コース、鉄道記念碑などは2010年頃に解体撤去され、『山鹿水花月台』の名称で宅地造成が進められている。


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自分の意に沿わない大多数の日本人を愚民だの
テレビしか情報がない高齢者を情弱やら
自身の意見を無視する大多数というか
ほぼ全ての日本人を(救いようのない)『平和ボケ』と
貶しに貶しているネットウヨクのオッサン

いくら何でも同じ国に住む大多数の人間を
自身の考えと相容れない又は
理解してもらえないからって
クソミソに詰るのって
「ホントにこのオッサン日本人なの?」と思えてしまう

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主義主張はパヨクと真逆で
概ね正しくはあるものの
意に沿わぬ大多数の日本人に対する
詰り方がパヨク同様に
『在日チョンクオリティ』なのである

それにパヨクの悪逆非道ぶりを説いているが
開催の前後4ヶ月の計8ヶ月で200万の感染爆発を
引き起こし同期間内だけで18000人の日本国民を
コロナで殺した東京五輪に『感動した』と
ホザイたのはウヨクのオッサン・・オメェだろ?

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あれ程世界の研究機関が
「あの状況下で東京五輪を開催すれば
間違いなく感染爆発を引き起こし
万単位の死者を出しかねない」と
警告をしていたにも関わらず

東京五輪の開催に反対するのは
パヨクか非国民だと
感染爆発を危惧する大多数の国民を
罵ったこのオッサン

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そして誰もが口にはしないが
コロナ感染爆発の原因は間違いなく
東京五輪でやってきた外人である
解っているが

東京五輪を推進し感染爆発を引き起こして
国民を大量虐殺した事をひた隠す自民党と一緒で
開催を推進した事にダンマリを決め込んでいる

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感染爆発の後も何の批判も対策もせず事態が悪化
するままにシナ冬期五輪にも参加し利権の為に
外人の入国を緩和して感染爆発を更に悪化させて
都合8万人超の国民を殺して日本経済を
滅茶苦茶に潰そうとした東京五輪推進者共

言ってる事は概ね正しくても従わない又は
聞き入れない者に対しての罵倒などはパヨクと
全く一緒で同じ日本人を口汚く罵る様は口では
愛国と言いながら在日チョンが
日本人を罵倒する行為と全く同じなのだ

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それに東京五輪には賛同して何万人もの日本人を
殺害したのに全く同じような利権ありきの大阪万博は
政敵である維新の推進する事で『薄汚い利権屋』と
罵倒してるけど東京五輪に賛同したのなら全く同じく
日本に害を与える大阪万博にも賛同すべきだろうがよ

要するにパヨクの更に上をいく『ダブスタ』で
だから日本人のほとんどの人が奴らの主張に耳を
傾けやしないしそれは奴らウヨクが言う事は
在日チョンの日本人成りすましが
喚いている事と見破っているからだろうね

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人を無能呼ばわりするコンサルタントや関西弁を
頭が悪い奴の言葉という学者の時も言ったけど
テメエの意に沿わぬ大多数の他人を侮辱する奴って
最後は皆に見放されて自滅していくオチだしね

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案外日本人を罵倒しながら正しい事を主張する事で
日本人が無視するように仕向けてるのかも
だとしたらチョンにしては策士だね
まぁウヨクとパヨクは目的が同じ日本の乗っ取り
隷属化で裏ではつながっているって言うしね





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