風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第108回  中央本線・武蔵野競技場線、下河原支線

廃線鉄道  第108回  中央本線・武蔵野競技場線、下河原支線 〔東京都〕

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武蔵野競技場線を示した地図
※『国土地理院・1956年』より

武蔵野競技場線(むさしのきょうぎじょうせん)は、かつて国鉄が運行していた中央本線の支線の通称である。 三鷹駅よりプロ野球球団の招致を目的に建設された『武蔵野グリーンパーク野球場』との1区間3.2kmを運行していた。

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収容5万人の本格的なスタジアムだったが
突貫工事だったがゆえに問題が露出し
僅か1シーズンで閉鎖された
『武蔵野グリーンスタジアム』
※ 武蔵野市提供の写真より

だが、同球場が立地の悪さから、プロ野球球団の招致に失敗して単なる競技場となった事から輸送の目的を失い、野球の試合の開催が終了した翌年の1952年の運行休止を経て、1959年11月1日に路線廃止となった。 なお、『武蔵野グリーンパーク野球場』は1956年に球場閉鎖となり、その年に解体されている。 解体された球場跡地は日本住宅公団に売却されて、現在は武蔵野緑町団地(現在の名称は武蔵野緑町パークタウン)が建っている。

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三鷹駅から分岐していく
武蔵野競技場線の線路跡
※『ひきこもり鉄のページ』より

第二次世界大戦後の1951年4月14日に、当時の国鉄中央本線の支線として三鷹~武蔵野競技場前3.2km を開業させた路線で、1950年5月に廃止された旧中島飛行機・武蔵野製作所の引込線跡を利用して敷設された。 この路線の開業目的は、1951年に開場した武蔵野グリーンパーク野球場への観客輸送の為で、同球場の試合開催日など日程を限定して運行されていた。

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新球場開場による野球観戦客輸送の為に
太平洋戦争時の戦闘機メーカーであった
中島飛行機の専用線を使って
突貫工事で開通させた路線であった
※『国土地理院・1956年』より

戦後まもなくの当時は野球ブームで、国鉄も1950年のプロ野球2リーグ制成立と同時に国鉄スワローズ(現在は東京ヤクルトスワローズ)を設立しており、同球場もプロ野球球団の招致によっての本拠地球場を目指していたという。

しかし、東京都心部からの遠さやスタジアム設備の悪さが問題とされ、当初目論んでいたプロ野球の本拠地招致に失敗した為、1951年度にプロ野球16試合(いずれも異なったチームの試合を2試合組んだダブルヘッダー方式で、球場の稼働は8日間)と東京大学野球球場19試合が行われただけで、開業初年限りで試合開催がなくなって単なる競技施設となった。 その為、翌年(1952年)からは列車が運行される事はなく、1956年の球場閉鎖及び解体を受けて、1959年11月1日に路線廃止となった。

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武蔵野競技場線の線路跡は
遊歩道として整備されている
※ ウィキペディア画像を拝借

武蔵野競技場線の線路跡は現在グリーンパーク遊歩道となっていて、玉川上水にかかる人道橋には廃線跡を示す為、線路のモニュメントがある。

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武蔵野競技場線・路線図
※『散歩の達人』より

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):三鷹~武蔵野競技場前 3.2km
  ※基本的に『武蔵野グリーンパーク野球場』の試合開催日と、球場使用日・球場整備日のみ
   の運行であった 
軌間:1067mm、電化区間:全線電化(直流1500V)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅数:2駅(起終点駅含む)〔三鷹〕・武蔵野競技場前
管轄(事業種別):日本国有鉄道、閉塞方式:1区間完全1閉塞

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収容5万人の本格的スタジアムだったのだが
突貫工事ゆえの問題が露出し
僅か1シーズンで閉鎖となった
武蔵野グリーンパーク野球場
※『多摩めぐり』より

武蔵野グリーンパーク野球場(むさしのグリーンパークやきゅうじょう)は、東京都武蔵野市西窪(現在の住所表記は緑町二丁目)にあった野球場である。 実働1シーズン限りで、完成から解体までわずか5年であり、日本で最も短命に終わった球場とされる。

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この場所に球場を造った理由は
元から中島飛行機の運動場があった事と
神宮球場が米進駐軍に摂取された状態にあり
後楽園球場しかプロ野球の試合を行えないなど
深刻な球場不足となっていたからである
『ナショナルスタジアムツアー』より

戦後間もなくの首都圏では慢性的な球場不足で、プロ野球公式戦のほとんどは後楽園球場で開催されていた。 これは明治神宮野球場が1952年まで米進駐軍に接収されており、シーズンオフの学生野球以外は日本人が自由に使用する事ができなかったという事情が背景にある。

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右が武蔵野競技場線
左が中島飛行機の引き込み線の橋台跡
球場に観客を輸送する為に
中島飛行機の引き込み線跡を使って
球場への路線建設も併せて行われた
※『ひきこもり鉄のページ』より

『武蔵野グリーンパーク野球場』はこうした球場不足を解消し、プロ野球の運営をよりスムーズにすることを目的として、進駐軍より返還された国鉄(現・JR東日本)中央本線の三鷹駅北側の中島飛行機・武蔵製作所東工場(旧武蔵野製作所)跡地に建設された。  『グリーンパーク』という名称は、終戦直後よりこの一帯を接収していたアメリカ軍が用いていた地名に由来する。

当時の公認野球規則に準拠した広いグラウンドと、5万人を超える収容能力のスタンドを持つ本格的なスタジアムで、最大で1日3試合開催する事を想定して更衣室が広く取られた他、売店・喫茶店・ビアホールなども併設され、将来的には宿舎と練習場も建設される予定だったという。

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1951年5月5日に開催された
最初のプロ野球の試合
武蔵野グリーンパーク野球場の
こけら落としの試合だった
※『多摩めぐり』より

『武蔵野グリーンパーク野球場』は、1951年4月14日より2週間に渡って行われた東京六大学の春のリーグ戦で初めて使用された。 プロ野球のこけら落しは、同年5月5日に開催された国鉄スワローズ(現 東京ヤクルトスワロース)対名古屋ドラゴンズ(現 中日ドラゴンズ)戦であった。

しかし、工期の限られた突貫工事だった事に加えて、フィールドと外野スタンドの盛土は保水力の乏しいローム層の為に芝の生育が不完全な状態での開場となり、新球場のお披露目となる5月の試合では突風で砂塵が飛び交うなどコンディション面での決定的な悪印象を残してしまったのである。 更に都心から遠い郊外地という地理条件もあって、選手や観客からはあまりいい評価は得られなかった。

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球場跡地に建設された団地の前に掲示された
『武蔵野グリーンパーク球場』の歴史案内板には
球場名が『東京スタジアム』と記されている
『ナショナルスタジアムツアー』より

また、球場の名称も正式には『東京スタディアム』で愛称を『武蔵野グリーンパーク球場』にする事が提案されたが、新聞記事の記載文字数が多くなると却下され、場所柄からパ・リーグが『武蔵野球場』、セ・リーグが『三鷹球場』と異なっているなど、呼称についても不確定要素が多く、ファンの認知度も上がらなかった。

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僅か1年で使用されなくなり
航空写真にもハッキリ写る
無駄の権化となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

更に不運な事に、翌1952年には米・進駐軍による神宮球場の接収が解除され、川崎球場も開場し、1954年には駒沢球場が誕生するなど、首都圏の野球場不足が緩和されてしまって当球場の存在価値が揺るぐ事となる。

地域フランチャイズ制度が正式に導入され、運賃収入が期待できる事から国鉄スワローズが最有力候補とみられていたが、専用球場を持てば集客力の高い後楽園での興行権を失う為、都心のファンを捨ててまで地理的に分の悪い武蔵野に本拠地を移すメリットが球団側には無く、球場の周囲でも隣接する中島飛行機・武蔵製作所西工場跡地に米軍将校住宅の建設が開始されるなど、情勢が刻々と変化する戦後占領下の混乱期でもあり、運営会社そのものが既に野球場経営に対する熱意を失っていたのである。

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路線廃止後の線路跡は
遊歩道化されている
途中のぎんなん橋は
レールを埋めて線路跡を示す
モニュメントとなっている
※ ウィキペディア画像を拝借

こうした様々な不利な条件が重なった為、完成はしたもののほとんど使用される事なく放棄され、結局プロ野球では1951年の1シーズン16試合、東京六大学も同年に19試合が行われたのみで閉鎖される事となる。 三鷹駅から分岐していた国鉄中央本線の支線・武蔵野競技場線も翌1952年から休止状態となり、1959年11月1日に正式に廃止されている。

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球場跡地は日本住宅公団に売却され
『武蔵野緑町パークタウン』という
団地となっている

株式会社東京グリーンパークは、1953年(昭和28年)に解散し、野球場は1956年(昭和31年)に解体された。 跡地は日本住宅公団に売却されて武蔵野緑町団地(現・武蔵野緑町パークタウン)となり、現在では円弧状の外周道路に囲まれた敷地形状にわずかな痕跡を留めるのみである。



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在りし日の武蔵野競技場駅舎
球場閉鎖に伴う路線休業で
荒れ果てていたが出札窓口は多数あり
往時はイッキに押し寄せる
乗客を捌いていたのだろう
※『鉄道ピクトリアル』より

武蔵野競技場前駅(むさしのきょうぎじょうまええき)は、かつて東京都武蔵野市大字西窪にあった国鉄・中央本線の支線で通称・武蔵野競技場線と呼ばれていた路線の駅である。 武蔵野競技場線の終着駅だった。 『武蔵野グリーンパーク野球場』は開場1年限りで使用されなくなり、それに伴って路線の目的を失った同線も運転休止となり、1959年11月1日に正式に路線廃止となって、それに伴い当駅も駅廃止となった。

駅構造は延長180mの島式ホームに側線が2本あり、出札窓口が多数設けられていた。 当駅は武蔵野グリーンパーク野球場の最寄駅として設置された。 旅客のみを取り扱い、開閉期日はその都度、関係駅に掲示していた。

1953年度の乗車人員は11,436人(定期外のみ)、降車人員は11,392人との記録が残っている。
だが、武蔵野競技場線では開業した翌年には運行休止となっており、この数値が何に基づくかは不明である。



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貨物線との分岐を通過する101系電車
競馬開催日の多客時は当時最新鋭である
101系5~7連での運行がなされた
※『国鉄下河原線・廃線跡』より

下河原線(しもがわらせん)は、かつて国鉄が運行していた中央本線(後に武蔵野線)にあった支線の通称である。 東京都国分寺市の国分寺から東京都府中市の東京競馬場前までの旅客線と、東京競馬場前駅の少し国分寺寄りから分岐していた下河原(貨)駅(京王線の中河原駅南東に位置していた)までの貨物線からなっていた。

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4月より開業する新線・武蔵野線と
東京競馬場前駅への案内板
新線の武蔵野線が開業する事で
重複路線として廃止となった
中央本線の支線『下河原線』
※『在りし日の下河原線』より

『東京競馬場線』とも呼ばれていた。 1973年4月1日に開業した武蔵野線とルートが重複する為、その前日の3月31日を最後に旅客営業を終了し、貨物線も3年後の1976年9月20日に廃止された。

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多摩川の砂利運搬目的に敷設された路線で
旅客営業廃止後も3年間は
貨物専用線として存続していた
※『在りし日の下河原線』より

多摩川の砂利を運搬する目的で、東京砂利鉄道として1910年に開業した。 現在の東京都国分寺市と府中市を通っており、府中市にとっては最初の鉄道路線であった。 1920年に鉄道省が東京砂利鉄道を買収し、採取・運搬した砂利は神田~上野の鉄道高架建設に使用された。

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東京競馬場が開設されるまでは
国分寺駅の構内側線扱い
なった事もあった
※『在りし日の下河原線』より

1921年に一度営業廃止されて国分寺駅の構内扱いとなったが、1933年に東京競馬場が開設された事から、翌年に同競馬場アクセスの為に東京競馬場前駅を建設の上、旅客線として営業再開する。
その後、残部も貨物線として営業再開された。 終点の東京競馬場前駅は、南武線の府中本町駅の南方200m程の場所に位置していた。

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新線の武蔵野線開業の前日をもって
路線廃止が告知された東京競馬場前駅
※『在りし日の下河原線』より

武蔵野線を建設するにあたって、当線に沿って建設する事が決まり、武蔵野線にその機能を譲る形で、国分寺~東京競馬場前は武蔵野線開業日の1973年4月1日に廃止となった。 残りの貨物線(北府中~下河原(貨))は武蔵野線に編入されるが、3年後に廃止となった。

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中央本線支線の
通称・下河原線の路線図
※『乗りものニュース』より

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):〔旅客線〕国分寺~東京競馬場前 5.6km
                〔貨物線〕北府中~下河原 3.8km の合計 9.4km
軌間:1067mm、電化区間:全線電化(直流1500V)、
駅数:4駅(起終点駅含む)
(旅客線〔国分寺〕・北府中・東京競馬場前、(貨物線)〔北府中〕・下河原(貨)

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平行しての新線建設で
重複路線として廃止となった下河原支線
※『あの日の府中・府中市』より

  国鉄中央本線・下河原支線 年表
1910年(明治43年)  2月 24日:専用鉄道免許状下付
            月日不詳東京砂利鉄道の専用鉄道線として、国分寺~下河原を開業
1925年(大正  9年)  5月 25日:国有鉄道(鉄道省)が東京砂利鉄道を買収し、翌日の5月26日より
                 中央本線貨物支線として国分寺~下河原(貨)の(6.8km)
                 が開業                
1921年(大正10年) 12月  1日国分寺~下河原を廃止し、国分寺駅構内側線扱いとなる

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切符販売のみの小さな駅舎があった
東京競馬場前駅
※『在りし日の下河原線』より

1934年(昭和  9年)   4月  2日国分寺~東京競馬場前(5.6km)が開業
                 競馬開催日に限り旅客輸送
          11月  6日国分寺~東京競馬場前に富士見仮信号場を開設
1944年(昭和19年) 10月  1日国分寺駅構内扱いとなり営業休止
                 この頃から富士見仮信号場内の乗降場(俗称・東芝前)に工員
                 専用電車が運転される(東芝の府中事業所が下河原線すぐ西側に
                 ある為)
1947年(昭和22年)  4月 24日営業再開(工員専用列車の扱いを取りやめ、一般の利用客も乗車可
                 の旅客営業の再開)

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戦後に入って競馬場開催日だけでなく
通年営業となった下河原線
※『終着駅は始発駅』より

1949年(昭和24年)  1月 21日国分寺~東京競馬場前駅に富士見仮乗降場開業
            月日不詳国分寺~東京競馬場前での通年営業を開始
1952年(昭和27年)  7月   1日富士見仮乗降場を廃止し、北府中信号場に変更
                 貨物支線として国分寺~下河原(7.1km)が開業
                 国分寺~北府中は重複区間となる

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まだまだ府中市は
東京のベットタウンとなる前で
日中の閑散時は
旧型電車の単行運転だった
※『在りし日の下河原線』より

1956年(昭和31年)  9月   1日北府中信号場を駅に変更して、北府中駅開業
                 下河原方面の貨物支線の起点を国分寺から北府中に変更
                 国分寺~北府中(3.1km)は旅客及び貨物営業となる
                 なお、実際の分岐点は更に1.5kmほど先であったが、この区間は
                 北府中駅の構内扱いだった
1959年(昭和34年)     多摩川の砂利採取終了

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閑散路線としてではなく
路線重複で廃止となった為
概ね毎時2本の列車があった
※『在りし日の下河原線』より

1973年(昭和48年)  4月   1日武蔵野線・府中本町~新松戸開業に伴い、国分寺~北府中~
                 東京競馬場前(5.6km)廃止
                 北府中~下河原は貨物支線として武蔵野線に編入
1976年(昭和51年)  9月 20日武蔵野線の貨物支線となっていた北府中~下河原(貨)(3.8km)
                 廃止

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競馬場開催日やラッシュ時以外は
旧型国電のクモハ40が
単行で運用されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

  使用車両
廃止直前時点において、閑散時は豊田電車区所属のクモハ40の071・074のどちらかが単行で運用されていた。

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ラッシュ時および競馬開催日の多客時は
当時最新鋭の101系が5連~7連で入っていた
※『在りし日の下河原線』より

ラッシュ時及び競馬開催時には、101系の5両編成で運行されていた。 なお、101系の検査時には、中原電車区より72系の5両編成を借り入れて運行していた。

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101系の検査時には他の電車区から
72系が間借り運用されていた

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競馬のGIレースの開催日などは
東京からの直通列車も運行されていた
※『在りし日の下河原線』より

また、競馬開催日には、東京や総武線からの直通列車が101系7両編成で運転された事もあった。
貨物列車は、八王子機関区のDD13形ディーゼル機関車が受け持っていた。

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線路跡は『下河原緑道』と呼ばれる
遊歩道となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

  路線廃止後の遺構
路線廃止後の跡地の多くは『下河原緑道』と呼ばれる遊歩道に整備されたり、団地の敷地に利用されたりしており、一部では記念として線路が残されている所もある。

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遊歩道の途中には
駅を模した小公園や
※ ウィキペディア画像を拝借

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線路が残されている横断歩道などがある
※『散歩の達人』より

廃止後のしばらくの間は、中央本線から武蔵野線方面へと南進する線路跡の痕跡を確認する事ができた。 その後は西国分寺駅周辺の再開発に伴って痕跡はあらかた消滅したが、それでも付近の航空写真にて、僅かながら府中街道西側の建物の立ち方などに痕跡を見る事ができる。

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下河原支線の発着に使われた
他のホームより短い国分寺駅4番ホーム
※『在りし日の下河原線』より

駅施設では、国分寺にはしばらく短い島式ホームが残されていたが、1988年の駅ビル工事に伴い完全に撤去されている。 レールは中央本線の国分寺~西国分寺において側線のようにして残っていたが、2009年1月下旬に行われた架線柱工事において撤去され、最後の廃線跡も消滅している。 これは同線の廃止後も国鉄の教育施設である中央鉄道学園への引き込み線として利用されていた線路の一部で、学園の廃止後も中央本線に沿っていた部分が草に埋もれながらも残っていたものである。



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北府中駅の駅名標
※『在りし日の下河原線』より

北府中駅(きたふちゅうえき)は、東京都府中市晴見町二丁目にあるJR東日本・武蔵野線の駅である。 現在もJR東日本・武蔵野線の駅として稼働している為、詳細については割愛する。

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貨物線との分岐を通過する
旅客線の単行列車
(国分寺からだと)左に反れると東京競馬場前
直進すると貨物駅の下河原へ向かっていた
※『在りし日の下河原線』より

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遊歩道化された貨物線との分岐跡地
左が東京競馬場前への線路跡
右が貨物線の線路跡
※『散歩の達人』より

当駅の出自は信号所で、旅客線と貨物線の分岐を通る列車の管理が行われていた。 なお、分岐地点は当駅から1.5km東京競馬場前駅寄りで、距離的には東京競馬場駅の方が近かった。



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競馬場開催日以外は無人駅だった
東京競馬場前駅
※『在りし日の下河原線』より

東京競馬場前駅(とうきょうけいばじょうまええき)は、かつて東京都府中市矢崎町一丁目に存在した国鉄。中央本線の支線で通称・下河原線と呼ばれていた路線の駅である。 下河原線の旅客線の終着駅であり、南武線の府中本町駅の南方200m程の場所に位置していた。 だが、南武線の府中本町駅は乗換駅としては扱われていなかった。 戦時中に当駅の手前から南方の南武線への連絡線を敷設しようとした痕跡が、空中写真の記録により確認されている。

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線路の終端部に
切符販売のみの小さな駅舎があった
※『在りし日の下河原線』より

当駅は武蔵野線が開業した日に、下河原線(国分寺~北府中~東京競馬場前)の廃線に伴って駅廃止となった。 下河原線が武蔵野線に置き換えられたのと同様に、この駅の機能も府中本町駅に置き換えられている。 1970年度の年間乗車人員は536000人(1日平均1469人)との事である。

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東京競馬場前駅に到着した
5両編成の101系電車
ホームは島式1面2線で
競馬開催日の長大編成に対応する為
長いホームを有していた
※『在りし日の下河原線』より

廃止時は島式ホーム1面2線の駅で、競馬開催時の長大編成に対応する為に長いホームを有していた。
競馬場利用者の為の切符売り場があったが、競馬開催時以外には駅員は配置されなかった。

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競馬開催日以外は閑散としていた
東京競馬場前駅
※『在りし日の下河原線』より

東京競馬場の最寄り駅の一つで、競馬場の観客層は国分寺・新宿・東京方面からの観客は当駅、立川・川崎方面からの観客は府中本町駅、京王八王子・聖蹟桜ヶ丘・京王線新宿方面からの観客は京王電鉄の府中競馬正門前駅という具合に使い分けられていたようである。 なお、エピソードとして、当駅の駅名が国鉄で最も長い駅名であった時期があったという。

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駅跡地には一時福祉会館が建てられていたが
取り壊されて防災公園の緑化歩道となっている
また歩道の先には武蔵野線の府中本町駅がある
※『散歩の達人』より

廃止後の駅跡地には、『東京都府中勤労福祉会館』という温水プールなどの複合施設が建設されていた。 だが、この建物は、東京都の行革と建物の老朽化の為に2003年に取り壊されて、その跡地は府中市に譲渡されて府中市の防災公園となっている。 

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駅名標は府中市の『郷土の森博物館』に
非公開で保存されているとの事
※『終着駅は始発駅』より

また、北府中から延びていた廃線跡は、その一部が鉄道公園や緑道として整備されている。 
駅名標は府中市の『郷土の森博物館』に非公開で保存されている。



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貨物駅であった下河原駅の配線図
※『国鉄・下河原線廃線跡』より

下河原駅(しもがわらえき)は、かつて東京都府中市南町にあった国鉄・武蔵野線の貨物支線(通称・下河原線)の貨物駅である。 当駅は、多摩川で採取した砂利を国鉄・中央本線の国分寺駅へ運搬する為に設置された貨物専用駅であった。  当駅開業以前には、東京砂利鉄道が国分寺~下河原に砂利鉄道を敷設しており、その後は陸軍工兵隊が東京砂利鉄道を徴用して、軍用鉄道として使用していた。

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路線廃止後はしばらく放置されて
草むらと化していたようだ
※『国鉄・下河原線廃線跡』より

1959年に多摩川の砂利採取は終了したが、河原にあった石材業者がコンクリート製品を製造しており、砂利の受取駅となっていた。 当駅の構造は不明であるが、当駅よりスイッチバックして多摩川堤防付近の砂利積み込み場まで至る引き込み線及び、多摩川堤防から多摩川河川敷の砂利採石場へ繋がるトロッコ線があった。 砂利積み込み場には、砂利用のホッパーがあった。

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駅跡は現在技術専門学校や
福祉センターの建物が建っている
※『廃線跡探索・下河原線』より

1970年度の発送貨物量は28947トン(1日平均79.3トン)、到着貨物量は29064トン(1日平均79.6トン)との事である。 当駅跡地は、東京都立多摩職業能力開発センター府中校(旧・府中技術専門校)及び、府中市立心身障害者福祉センターとなっている。


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日本という国は力があるのに
何故に政治がここまでダメなんだろうか?

政治がもう少しでもまともだったなら
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今も物価高不況に片足を突っ込んでいるのに
増税の事ばかり企てているし・・

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また外交も『日本人の暮らしの保護』より
『チョン上げ』でチョンのホワイト国復帰やら
スワップ再開やらと国民の税金を
チョン救済の為に横流ししようとしている

それでいて日本の国民には増税とは・・
例の無職のオッサンのように
国民の払った税から給付を受けて
クダを巻く恥知らずではないが
暴動でも起こりかねんぞと思うようになったよ

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そして政治がダメな理由も解っている
戦後にチョンの背乗り天皇ヒロヒトを
戦犯として処刑する処罰から逃げた為に
チョンが日本に居座ってタカり始めたからだ

あの時チョンの背乗り天皇ヒロヒトを
絞首刑に処してさえいれば
「日王ヒロヒトガ~」とタカリに来たチョンを
「おまエラのいう日王はキチンと処罰した」として
全てチョンに追い払う事ができたのだ

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それから逃げて居座られタカられ続けるままに
在日特権などの権限を与えてしまったから
今の政治乗っ取りにつながっているのである

そう・・政治屋の1/3はチョンの
成りすましだというし
チョンの日本人成りすましでもなければ
あからさまなチョンの優遇処置は元より

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経済苦境・・それも政治屋自身が引き起こした
感染爆発災禍による経済苦境に対して
増税したりLGBTなどの
反社会的な変態に特権を与えたり

ましてや世界中が「感染爆発を引き起こす」と警告した
東京五輪の開催で日本人を殺害したりしないのだ
「もう選挙で何とかなる」のレベルではなく
この国の国会自体がチョンに乗っ取られているのだ
パヨクにしろウヨクにしろ全てチョンなのだ

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だから方策としてはただ一つ
この原因となったチョンの背乗り天皇を
チョンと看破してチョンに追放する事だけだわ

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そしてそれを口実に「日本を乗っ取ろうとした
憎き仇敵・チョン」として在日チョンの
一斉追放の口実を得るしかないのである
チョンさえ根こそぎ追い払えたなら
この苦境で増税するような悪政は阻止できるから





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