2023-07-03 (Mon)✎
廃線鉄道 第107回 上田交通・真田傍陽線 〔長野県〕
真田駅で発車を待つ貨物混合列車
:
背後には菅平高原の盟主たる峰の
白銀の四阿山(あずまやさん)が望める
※『mamalog』より
真田傍陽線(さなだそえひせん)は、長野県上田市の電鉄上田と真田町(現・上田市)の真田及び、途中の本原から分岐して傍陽までを結んでいた上田電鉄(上田交通の子会社)の鉄道路線である。
1927年に電鉄上田~伊勢山が開通したのを始めとして、1928年に既存していた全線が開通したが、主要貨物であった高原野菜や長野県特産のリンゴなどの農産物輸送がトラック輸送に移行された為に赤字路線に転落して、1972年2月20日に廃止された。
本原で真田行きの本線と
傍陽行きの支線とに分岐していた
※『駅前食堂』より
信越本線(現在はしなの鉄道線に移管)上田駅に近接する電鉄上田駅を起点とし、市街地を時計回りの方向に進み、市街地の北東部にあった川原柳から国道144号線に沿う形で本原に達し、更に本原から分岐してそのまま国道144号線に沿って真田までと、現在の長野県道35号線に沿って傍陽までとを結んでいた。
上田~真田のサホと
上田電鉄の社紋
※『1970年夏・真田傍陽線』より
真田傍陽線は『温電』と呼ばれた上田温泉電軌によって、同社の北東線として1927年に開業し、1928年に既存区間全線が開通した。 建設当初は上田温泉電軌は経営難という事情から、上田市から北東の方面に鉄道を建設する事に難色を示していたが、上田市と北東5ヶ村(神科村・殿城村・本原村・長村・傍陽村で、いずれも現在は上田市に編入)が鉄道敷設運動を起こすなど強く働きかけた為、それに押される形で建設に踏み切る事となった。
貨物輸送がトラックに切り替えられ
晩年は長い貨物側線は
客車の留置場となっていた
※『地方私鉄1960年代の回想』より
敷設に積極的ではなかった真田傍陽線だが、この開通により菅平の観光開発が進み、結果的にその敷設は有意義なものとなった。 真田傍陽線は菅平高原や群馬県への交通手段として、更に上田市と真田町で収穫された高原野菜・リンゴなどの農産物を輸送する為の路線としても盛んに利用されたが、上田から直接菅平高原や群馬県へ行くバスが増発されたり、農産物の輸送がトラックに移行した為に1960年代後半から赤字路線に転落し、1972年2月20日に廃止となった。
真田傍陽線を始めとした
保有路線の相次ぐ廃止で
別所線のみとなった上田電鉄
※『みんカラ』より
真田傍陽線には傍陽から先の延伸計画として、地蔵峠を越えて河東鉄道線(後の長野電鉄屋代線)の松代を結ぶという壮大な路線の計画があり、本原~傍陽が本線として予定されていた。だが、長大なトンネル工事が、延伸計画上の困難な問題となって持ち上がった為に計画のみに終わった。
最後まで菅平や鹿沢温泉への延伸はなかった
※『鉄道ファン 1972年5月号』より
また、真田傍陽線の終点真田から北へ、当時は小県郡長村(現在は上田市)の大字であった大日向地区への延伸計画もあって路線を延長する工事が計画されていたが、こちらは実際に免許も取得したが、昭和金融恐慌の煽りをもろに受けて起工に至らず未工線として終わっている。 一方、菅平高原や鹿沢温泉までの延長計画は、最後まで立てられなかった。
上田交通・真田傍陽線 予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):電鉄上田~真田 12.8km、本原~傍陽 3.1km の合計 15.9km
※ 本原で分岐し、真田までが本線で傍陽までは支線であったが、建設当初は電鉄上田~傍陽が
本線で、傍陽から群馬県に抜ける延伸計画もあった
※ 真田より先も、小県郡長村の大字であった大日向地区への延伸計画があった
軌間:1067mm、電化区間:全線電化(直流1500V)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅数:19駅(起終点駅含む)
(真田本線):〔電鉄上田〕・公園前・北大手・上田花園・北上田・川原柳・神科・樋之沢・伊勢山・
殿城口・下原下・本原・北本原・石舟・長村・真田
(傍陽支線):〔本原〕・横尾・曲尾・傍陽
菅平の白峰を背にトコトコ走る
真田傍陽線の単行電車
※『mamalog』より
上田交通・真田傍陽線 年表
1923年(大正12年) :上田市と東北5ヶ村(神科村・殿城村・本原村・長村・傍陽村・
現在は全ての村が上田市に編入)が、上田温泉電軌に鉄道敷設の
働きかけを行う
1924年(大正13年)11月 :北東線の鉄道敷設認可を申請
1925年(大正14年) 3月31日:鉄道免許状下付され、11月より着工
1926年(大正15年)11月20日:北東線・真田~大日向の路線延長の鉄道免許状下付
(1935年9月12日起業廃止許可)
1926年(昭和 2年)11月20日:北東線・上田~伊勢山が開業
上田・公会堂下・北大手・上田花園・北上田・川原柳・神科・
樋之沢・伊勢山の各駅開業
県境を越える壮大な計画があり
立派な駅舎を有していた
支線の終着駅・傍陽
※『みんカラ』より
1928年(昭和 3年) 1月10日:伊勢山トンネルと川久保鉄橋が完成し、伊勢山~本原が開通
川久保・下原下・本原の各駅開業
4月 2日:本原~傍陽が開通し、横尾・曲尾・傍陽(仮)の各駅開業
5月 1日:本原~真田が開通し、北東線全通
北本原・石舟・長村・真田の各駅開業
傍陽(仮)を廃止して、傍陽を駅として開業
1939年(昭和14年) 8月30日:上田電鉄に社名変更、線名を菅平鹿沢線と改称
1943年(昭和18年)10月21日:上田電鉄と丸子鉄道が合併して上田丸子電鉄になり、同社の菅平
鹿沢線となる
1948年(昭和23年) :公会堂下を公園前と駅名変更
1953年(昭和28年) :川久保を殿城口と駅名変更
丸屋根ドーム型の車庫兼起点駅の
構造だった真田傍陽線の電鉄上田駅
1955年(昭和30年) 8月 :電鉄上田の駅舎完成
1960年(昭和35年) 4月 1日:線名を真田傍陽線と改称
1969年(昭和44年) 6月 1日:上田丸子電鉄が上田交通と改称
1970年(昭和45年) 8月 :上田交通により、真田傍陽線の廃止を運輸省に申請
1972年(昭和47年) 2月20日:上田~本原・本原~傍陽・本原~真田の真田傍陽線全線廃止
相模鉄道から譲渡された
クハ270形電車
使用車両
真田傍陽線は上田駅で別所線と接続していたものの、別所線は当時750V・真田傍陽線は1,500Vと架線電圧が異なっていた。 また、別所線・真田傍陽線の両路線共に丸子線と接続していなかった事から、三線相互間の車輛移動は少なかった。 その結果、三線共に車輛配置がほぼ固定化されていた。
なお、真田傍陽線では、主に下記の電車が使われていた。
電鉄上田駅に到着するモハニ4251
※『上田丸子電鉄(1959年)』より
モハニ4250形 (4251~4254)
上田温泉電軌が1927年の北東線開業時に新造した荷物合造車デナ100形で、荷物室にある丸窓(楕円形の戸袋窓)・トラス棒台枠という、翌年に川西線(後の別所線)用に増備されたデナ200形(後のモハ5250形)に通じる特徴を持っていたが、丸窓は後に通常の窓に改造された。4輛とも真田傍陽線の廃止時に廃車となっている。
元国電車両のモハ4255
※『1970年夏・真田傍陽線』より
モハ4250形 (4255・4256)
鶴見臨港鉄道の買収国電モハ1501・1504の払い下げ車で、乗客増に対応する為に1958年に購入した。 入線時に、制御器を別所線のモハ5260形5262・5263(後のモハ5370形)と交換している。
廃線後は4256が弘南鉄道に譲渡され、電装を外されて大鰐線のクハ205となった。
クハ250形→モハ4250形 (251→4257)
1955年に富士山麓鉄道モハ501の車体を購入したもの。 国鉄長野工場から購入した台車と組み合わせて、クハ250形251として別所線で使用されたが、1962年に手持ち機器を利用して電動車化されてモハ4250形4257となった。
電動車化時に750V・1,500Vの複電圧機器を装着した為に、架線電圧の異なる別所線・真田傍陽線の両線で使用され、廃線後は別所線用となった。 1983年に廃車。
モハ5360形→モハ4260形 (5361→4261)
1947年に東武から譲受された車輛で、元は総武鉄道のモハ1003。 番号はモハ1001から、1950年の改番でモハ5361となったが、制御器・モーターの交換に伴いモハ4261となった。 廃線後は弘南鉄道に譲渡され、大鰐線のモハ110となった。
クハ270形 (273)
1960年に相模鉄道から購入した制御車で、272・273のうち273が真田傍陽線に配置された。廃線後は別所線に移籍となり、1984年に廃車されている。
サハ10形 (11~14)
1939年に九州肥筑鉄道から購入した木造4輪客車代用で、真田傍陽線と別所線に2両づつ配置されて使用されていた。 当初ハフ1形と称していたが、1950年の改番でサハ10形となった。客車代用である為にブレーキはおろか室内灯もなく、安全面に問題がある為に後述のサハ20形が購入されると使われなくなり、1955年に廃車された。
ガソリンカーのエンジンを
下した車両を客車として使用していた
※『1970年夏・真田傍陽線』より
サハ20形 (21~24)
飯山鉄道の買収ガソリンカーの払い下げ車で1949年・1951年に購入され、主にラッシュ時の増結用として使われていた。 22は1967年事故廃車。 真田傍陽線の廃線後は21・23が即廃車され、24のみが別所線に移籍し、1980年の廃車まで使用されていた。
晩年の車両は
まともな造りだったようだ
※『1970年夏・真田傍陽線』より
サハ60形 (61)
当初別所線用として使用されたが、61が一時期廃線まで真田傍陽線用として使用されていた。
真田傍陽線の廃線後は再び別所線に戻り、1980年に廃車された。
その他、貨物列車用にデロ300形電気機関車が新造されたが、貨物の需要が低い事やトラブルが相次いだ事から三河鉄道に譲渡され、以後の貨物列車は電車牽引の混合列車となった。
真田傍陽線とバス
真田傍陽線は、バスと切っても切り離せない歴史を持つ。 なぜなら、主要観光地である菅平高原までの路線の延伸ができなかったからで、終点駅よりバスに乗り換えての観光輸送だったのである。
現在で言えば、松本電気鉄道の新島々より上高地へバス輸送するケースと同じだが、松本電気鉄道の上高地の場合は地形的に鉄道を通すのは無理で、マイカーが主流となった現在も山岳・高原の観光地は、環境保護の為に各地でマイカー規制が行われている。
前身の上田温泉電軌であるが、真田傍陽線が建設される以前から経営が不安定で、電車路線だけでは経営が成り立たないと会社自身で自覚していた。 その為に建設直前に電車とバスの併営を決断し、鉄道省(後に運輸通信省から運輸省を経て、現在は国土交通省となっている)に併営を申請し、認可されるとバス路線を充実させていった。
真田傍陽線の歴史はバス路線充実の歴史でもあり、全通時には真田から自社直営の菅平ホテル前までの自社バス路線が設定され、1935年には省営自動車(後の国鉄バスで現在はJRバス)が真田~渋川の長野・群馬の県境を越えるバスを設定した。 この拡充したバス路線であるが、戦時中の燃料統制でバス路線を千曲自動車(現・千曲バス)に売却して姿を消すが、1951年に千曲自動車から菅平線を返還されるとバス営業を再開する。
真田から菅平高原・峰ノ原高原行きの自社バス、国鉄吾妻線の長野原行きの国鉄バスが発着するようになり、上田から菅平高原・峰ノ原高原行きの自社直通バスや、草津温泉行きの特急バス(当初は自社・国鉄共同で後に国鉄バスが撤退して自社のみとなる)も運行されるようになった。 また、傍陽からも、地蔵峠内の集落である松井新田行きや大倉行きのバスが発着していた。
真田傍陽線の廃止後は、真田行き・菅平高原行き・渋沢温泉行き・傍陽→入軽井沢行き・傍陽→横道・大倉行きのバス路線が残っている。 菅平線が売却された当時、上田から青木・室賀行きも運行していたが、こちらは売却されたままで現在の千曲バスの青木線と室賀線となっている。
また、上田丸子電鉄丸子線が廃止された時、自社バスの丸子線が設定されたが、合理化により千曲バスに売却した為に姿を消している。 但し、上田丸子電鉄バス(現在は上田交通バス)の西丸子線は、鉄道時代末期に列車ダイヤの半分を代替バスの運行としていた為、廃止後も増便されて上で運行され続けている。
路線廃止後も撤去されず
名目はバス待合所として
永らく放置されていた傍陽駅舎
:
『上田方面のりば』の吊り札もそのまま放置
※『みんカラ』より
廃線跡
廃線跡はかなりの部分で確認できるが、上田交通管理・経営の月極駐車場の他、道路・農道や宅地等に転用されている場所も多い。 公園前駅跡は旧ホームなどの遺構が保存されている他、付近の線路敷の跡は遊歩道となっている。 樋之沢駅の旧ホームは放置されており、残存している。
上田市とエプソンアヴァシスが、2021年11月から2022年1月にかけて上田城跡公園東側の公園前駅跡でスマートフォンをかざすと、電車が実際に走っているような動画が見られるAR(拡張現実)の実証実験を実施している。
現在は上田電鉄が唯一
保有する路線・別所線の
始発駅となっている上田駅
※ ウィキペディア画像を拝借
電鉄上田駅(でんてつうえだえき)長野県上田市天神一丁目にある上田電鉄の駅である。
JR東日本及び、元信越本線の第三セクターしなの鉄道との共同駅である。 JR東日本の北陸新幹線・しなの鉄道のしなの鉄道線・上田電鉄の別所線の3路線が乗り入れ、その内の上田電鉄・別所線は当駅が起点となっている。 かつては、路線廃止となった真田傍陽線のホームもあった。
上田駅は上田電鉄の代表駅で
出札窓口・自動券売機・待合室など
駅機能が備わっている
※ ウィキペディア画像を拝借
発着ホームは1面1線の
折り返し構造となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
上田電鉄の現在の保有路線は別所線のみで、現在の電鉄上田駅は単式ホーム1面1線の別所線専用ホームで、北陸新幹線開業後の1998年3月に高架駅となった。 駅員配置駅で、出札窓口・自動券売機・待合室がある。
国鉄(現 しなの鉄道)上田駅ホームから
上田電鉄の駅ホームを望む
※『地方私鉄1960年代の回想』より
高架化以前はJR(現:しなの鉄道)のホームと同位置にホームがあり、連絡橋を渡る形で乗り換えができたが、1998年3月の高架駅化に伴いホームは長野側(別所線下り側)に移動している。
また、構内には別所線の車両基地・留置線もあったが、高架化に伴い車両基地機能は下之郷駅構内に統合されている。 高架化後は留置線・側線を持たない棒線駅となっており、車両の留置はできない。
高架化以前の旧駅敷地は、上田交通経営の駐車場となっている。
丸屋根の車庫兼駅舎となっていた
上田駅の真田傍陽線発着ホーム
※『1970年・夏 真田傍陽線』より
真田傍陽線の駅跡は、現在の上田駅高架下のタリーズコーヒーやからあげセンターが出店している付近に駅が設置されていた。 丸屋根の車庫を備え、2面のうち1面を留置専用、もう1面を乗降車用としたホームを持っていた。 更にホームの先には留置線が配置され、電車区と貨物駅を兼ねた構造だった。
信越本線と別所線との連絡は、東京方面が降車後そのまま歩いて連絡し、長野・松本・直江津・別所温泉・青木・西丸子方面は連絡橋で対向ホームに渡る形となっていた。
手前のホームが乗降ホームで
対向側はホームはなく車庫だった
真田傍陽線の上田駅発着ホーム
※『地方私鉄1960年代の回想』より
1953年に上田丸子電鉄の本社ビルが完成すると、本社側にもホームが完成し2面2線となり、1955年8月には電鉄上田駅としてリニューアルした。 別所線・西丸子線の切符も販売し、改札も自社独自となった。 また、本社前には東急バスの渋谷駅行き特急バスが停車し、結構にぎわっていたという。
地上駅跡には旧駅舎の
支柱跡が残っている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅の廃止後は広い構内に東急インが建設され、線路敷は駅レンタカーの営業所に転用されたが、新幹線の上田駅が建設されて現在の形となった。 現在でも架線柱の跡が残っており、当時を偲ばせる貴重な遺構となっている。
駅跡はホームが残され
上田城址公園内の
『けやき並木遊歩道』となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
公園前駅(こうえんまええき)は、かつて長野県上田市にあった上田交通・真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 待合室付きの単式ホームがあるだけの無人駅で、乗車する際には車掌が乗車券を発行していた。 1927年11月20日の開業時には、上田市公会堂の真下に駅が設置された為に公会堂下駅(こうかいどうしたえき)と称していたが、1948年に公園前駅と改称している。
駅の跡地は『けやき並木遊歩道』として整備されて市民の憩いの場所となっており、また真田傍陽線のホームなどの遺構が残る場所として、鉄道ファンにも親しまれている。 2021年11月から2022年1月にかけて、上田城跡公園東側の公園前駅跡でスマートフォンをかざすと、電車が実際に走っているような動画が見られるAR(拡張現実)の実証実験を実施している。
上田市街地にあった為
立派な駅舎を有し
駅員配置駅だった北大手駅
※『上田市情報センター』より
北大手駅(きたおおてえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 開業時に上田市市街地に設置された5駅のひとつである。駅が設置された当時の地名は、長野県上田市片平町(現在は同市大手一丁目)だった。
駅舎を備えた駅員配置駅であり、駅員が切符を販売していた。 ホームは線路の東側(真田・傍陽方面に向かって右側)に位置していた。 隣駅の公園前駅は上田城址公園の最寄り駅として知られているが、この駅も上田城址公園の北口に近い為、ここで降りて公園に行く乗客も多かった。 また、駅の近くには大きな病院が2つあり、通院利用の客もいた。 路線廃止後後に駅舎は取り壊され会社の事務所が建設されたが、現在は食料品店となっている。
駅名の『花園』は
遊郭の隠語だったりする
※『上田市情報センター』より
上田花園駅(うえだはなぞのえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 駅は国道18号線の踏切から右方向にカーブした所にあり、ホームはカーブに沿って右に湾曲し、線路の南東側(真田・傍陽方面に向かって右側)に位置した。 待合室があるだけの無人駅であった。
上田市市街地の北西部は明治時代は『新地』と呼ばれた遊廓地帯で、真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道・北東線が開業した昭和時代初期においても、田んぼの中に開けた遊郭地帯として知られていた。
その遊郭へ行く道の出発地点の脇に設置されたのがこの駅である。 戦後は国立療養所(現在は国立病院機構信州上田医療センター)が設立され、田圃は新興住宅地として市街地化されて、遊郭の面影は一切なくなっている。
教会のような三角屋根の
モダンな駅舎だった北上田駅
※『上田市情報センター』より
北上田駅(きたうえだえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 上田市市街地の北部に設置された為に、この駅名となった。
駅舎は開業時から三角屋根のモダンな作りであり、戦後に正面玄関口が改築されてホームが増築されている。 駅は貨物側線を持つ1面式のホームで、ホームは線路の南側(真田・傍陽方面に向かって右側)に位置した。 山口地区で取れたリンゴがこの駅を介して上田へ運ばれ、国鉄の貨物(現:JR貨物)を介して日本全国に輸送されたが、トラックによる輸送が主体となると貨物駅としては使用されなくなっていた。
駅の廃止後は、敷地が上田交通の月額駐車場として利用され今に至っている。 また、同駅は廃止後に上田交通→上電バスの停留所となったが、代替バス路線ではなく上田市内線のバス停である。
駅の周りに市街地が形成され
利用者も多く交換設備もあったが
道路がバイパス化されると
利用客が減少したという
※『上田市情報センター』より
川原柳駅(かわらやぎえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 上田市の北東部の上州街道の上田の入り口にある川原柳町の脇に設置された為、この駅名となっている。 市街地に設けられた駅で唯一交換設備を持ち、相対式2面2線のホームとハイヤーの事務所を兼ねた駅舎(事務所部分は戦後増築した)を持っていた。 駅舎は駅の南側(真田・傍陽方面に向かって右側)にあった。
駅は、クハ250形251号を電車化しモハ4250形4257号として就役させた企業である三葉製作所の工場の近くにあった。 駅は国道144号線と平行していたが、1967年に同線のバイパス(現在は本線)が完成すると鉄道利用者が減少した。 現在は、上田交通→上電バスのバス停留所となっている。
神科駅(かみしなえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 川原柳駅から一部の地域を除き真田駅まで国道144号線、別名上州街道と並行して走っていたが、川原柳駅から当駅までは国道144号線とほとんど寄り添う形で走っていた。神科駅は寄り添う区間の終点地点に設置された駅である。
駅は上州街道と隣り合っていて、駅を降りればすぐ道路という位置にあった。 そのような立地条件下にあった為に、単線ホーム1面1線の駅でありながら駅舎を備え駅員も配置されており、朝夕の乗降客の多い駅であった。
駅舎は北上田駅・傍陽駅と同じ造りであるが、出入口が違っている。 ホームは線路の北側(真田・傍陽方面に向かって左側)に位置した。 駅跡は上田交通→上電バスのバス停留所となっているが、真田傍陽線の代替バスではなく、違う路線バス(豊殿線)の停留所である。
上田市の市街地の最奥域に
設けられた駅で通勤利用が多く
交換設備をもつ有人駅だった
※『上田市情報センター』より
樋之沢駅(ひのさわえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。
真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 小県郡神科村大字樋之沢地区に設置された為、この駅名となった。 2面2線の相対式ホームを持つ交換駅であったが、真田傍陽線の開業時は唯一の交換可能駅であった。
駅跡にはホームが
草に埋もれて現存している
※『上田市情報センター』より
駅は田んぼの中にあったが、配置された駅員が駅舎で切符を販売していた。 駅舎は駅の東側(真田・傍陽方面に向かって右側)にあった。 豊里村(後の豊殿村で現在は上田市)の住民が、上田市市街地へ通勤するのに利用していた為に乗降客は多かった。 駅跡には草木が生い茂るものの、ホーム跡が現存している。 駅の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停留所となっている。
伊勢山トンネルの難工事ゆえに
開業時には暫定的に
終着駅となった伊勢山駅
※『上田市情報センター』より
伊勢山駅(いせやまえき)は、かつて長野県上田市に存在した上田交通真田傍陽線の駅である
。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 この駅は、真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道北東線が開業した際の終着駅であった。 ここが終点になったのは、真田傍陽線建設のきっかけとなった上田市外小県郡東北五ヶ村(神科村・殿城村・本原村・傍陽村・長村で、いずれも現在は上田市)による鉄道敷設運動から殿城村が離脱したという事情からである。
この先に控える伊勢山トンネルと
神川第一橋梁の難工事ゆえに
路線開業時は掘っ建て小屋の待合所のみで
駅舎もない駅が暫定的な終着駅だった
※『みんカラ』より
駅は小県郡神科村大字伊勢山(現在は上田市伊勢山)地区の脇に設置された。 単式ホーム1面と小さな待合室があるだけの無人駅で、ホームは線路の北側(真田・傍陽方面に向かって左側)に位置した。
本原・真田・傍陽方面に出て、すぐに伊勢山トンネルに突入するという位置にあった。
トンネルを渡った先が川の地形で
難工事だった伊勢山トンネルは
路線廃止後は永らく放置されていた
※『みんカラ』より
難工事だった伊勢山トンネルは
路線廃止後は菌類の
栽培に適している事から
食用ブナシメジの栽培場となった
※『上田市情報センター』より
路線廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所は神川を渡る道路橋川久保橋の近くにある。 また、駅跡は伊勢山トンネル跡がポイントとなっているが、敷地一杯にアパートが立ち並んでいて往時の面影は見られない。
路線廃止後しばらくは
屋根が落とされたホームが
残っていた殿城口
※『みんカラ』より
殿城口駅(とのしろぐちえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 駅はカーブの途中にあり(真田・傍陽方面に向かって左にカーブ)、単式ホーム1面でホームは線路の東側(真田・傍陽方面に向かって右側)に位置した。 駅舎を持ち駅員が配置され、駅員が切符を販売する駅であった。
伊勢山トンネルを出てすぐに架橋の
難工事ゆえに異なったガーターの
橋桁と架線柱を橋台から継ぎ足しで
立てる独特な橋構造の神川第一橋梁
※『上田市情報センター』より
当初は殿城村を回るルートで計画され、神川鉄橋も現在の国道144号線川久保橋より下流の殿城村付近に建設される予定であったが、建設負担金が集まらないとの理由から殿城村が脱落した為、現在の川久保橋付近に鉄橋が建設されて、同時に伊勢山トンネルも建設されるルートに変更された。 ルート変更によって設けられた駅が殿城口駅である。 駅は神川鉄橋を渡ってすぐの場所に建設された。
路線廃止後に解体処分となり
転がり落とされた神川橋梁の橋桁
※『みんカラ』より
駅は設置時川久保橋の近くにあり、設置された場所の住所が小県郡本原村大字下原小字川久保(現在は上田市真田町下原)であったため川久保駅(かわくぼえき)と称していたが、殿城村の住民が歩いて利用していたという事情からか、1953年に殿城口駅に変更している。 路線廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所は川久保橋の近くにある。
下原下駅(しもはらしたえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 殿城口駅から本原駅までは北方面にまっすぐ線路が伸びていたが、当駅はその区間の中間地点である小県郡本原村大字下原(のち真田町、現在は上田市真田町下原)地区に設置された。
駅舎を有する単式ホーム1面を持つ駅員配置駅で、駅員が切符を販売していた。 ホームは線路の東側(真田・傍陽方面に向かって右側)に位置した。 朝夕の混雑が激しい駅であった。 駅間距離が僅か300mだった殿城口駅との間には当時建物などさえぎるものが無く、当駅から殿城口駅の様子がはっきり見えた。
真田傍陽線廃止後は、前駅の殿城口駅の途中から真田駅のあった場所までが国道144号線のバイパス(現在は本線)となり、当駅も跡地がバイパスとして利用されている。 駅は廃止後に上田交通→上電バスのバス停留所となったが、『下原停留所』と名称変更されている。
真田本線と傍陽支線の
分岐駅として賑わった本原駅
※『地方私鉄1960年代の回想』より
本原駅(もとはらえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田駅方面に行く本線と傍陽駅方面へ行く支線の分岐駅であった。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。
ジャンクション駅として
上下線の列車交換はもちろんの事
真田本線と傍陽支線の乗り継ぎの
任にも当たった本原駅
※『mamalog』より
廃止時点で、駅は2面2線の相対式ホームで交換設備を持っていた。 真田・傍陽方面には三本の線路があり、一番左に留置線、中央は傍陽方面へ行く線路、一番右に真田方面へ行く線路があり、傍陽方面の線路と真田方面の線路は駅に入る直前で合流していた。 本原駅には駅員が配置され、廃止まで駅員が切符を販売していた。
留置線となった初代ホームで
待機する区間電車
:
初代駅ホームが留置線となり
信号場だった所が
2代目駅となった経緯がある
※『上田交通・真田傍陽線』より
初代の駅は留置線付近にあり、開業時にはここに設けられたホームから電車が発着していた。開業時にはすでに第二期の工事が始まっており、初代の駅から少し下ったところに信号場が設けられ、この信号場で列車交換が行われていたが、1928年4月2日に傍陽駅まで開通する(真田駅まで開通したのは同年5月1日)と、下った所の信号場にホーム・駅舎が設けられ、初代の駅は留置線となり、区間運転の電車の待機用に使われるようになった。
路線廃止後はしばらく
放置されていた本原駅
※『みんカラ』より
駅の廃止後は上田交通(後の上電バス)の停留所となったが、線路跡用地の収用によって国道144号のバイパスが完成すると、バス停もバイパス道に移転している。
貨物取扱駅で荷を留置させるべく
大きめの駅舎と交換設備と
長いホームを備えていた北本原駅
※『上田市情報センター』より
北本原駅(きたもとはらえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に説置されていた上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。
路線廃止となって
線路が剥がされた北本原駅
※『みんカラ』より
駅は貨物の積み出しが多かった為に大きめな駅舎を持ち、ホームも長めに作られていた。
対向式2面2線のホームで交換もできたが、晩年は上下分離は継続されていたものの交換駅として利用はされていなかった。 駅舎は駅の南側(真田方面に向かって右側)にあった。 駅員が配置されており、駅員による切符販売が廃止まで行われた。
駅が完全撤去された後も
北本原駅前食堂は
同地で営業を続けている
※『上田市情報センター』より
駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となっているが、国道144号線のバイパス線が完成すると、旧国道144号は上田市道となり、バスも国道側と市道側の2ヶ所に設置されている。 駅往時から駅前食堂があり、現在も営業しているので駅跡の目印となっている。
棒線ホームと掘っ建て小屋の
待合所のみの石舟駅
※『上田市情報センター』より
石舟駅(いしふねえき)は、かつて小県郡真田町(現:上田市)にあった上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 真田町(現:上田市)の旧長村地区最初の駅である。 設置された場所が小県郡長村大字石舟(現:上田市真田町石舟)であった為、この駅名となった。
石舟地区の中心から外れた田園地帯の中にあった事から乗降客は少なく、単式ホーム1面と待合室があるだけの無人駅であった。 ホームは線路の南側(真田方面に向かって右側)に位置していた。
駅の廃止後は、上田交通→上電バス→上田バスのバス停留所となった。 上田駅方面行のバス待合所内に、駅跡を示す看板が掲げられていた。
交換設備は貨物側線となり
上りホームと線路は
撤去されずに放置されたままだった
※『地方私鉄1960年代の回想』より
長村駅(おさむらえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 小県郡長村(後の真田町で現在は上田市)から、更に先の大日向への延伸を見越して交換設備を有する駅員配置駅として開業した。
県境越えの計画を控えて
開業時は交換可能の有人駅だったが
延伸の夢破れて駅舎は解体され
掘っ建て小屋の待合所となった長村駅
※『上田市情報センター』より
当初は、駅舎を持ち駅員も配置されていたが、上田駅方面の上りホームが貨物側線となり、行違い設備は廃止されている。 更に駅員が合理化により無配置になり、上田交通になってからは駅舎も解体されている。 次駅が終点の真田駅であり、また大日向への延伸計画も実現しなかった事から、行違い設備を維持する必要がなくなった為の処置である。
単式ホーム化された下りホームと
交換節後が使用されずに
草が覆い始めた上りホーム
駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所名は『長小学校前停留所』と変更されている。
駅前より菅平高原を
始めとする観光地にバスが通い
菅平高原産の高原野菜の受け入れ
上田を介して都会の食卓に運んでいた
※『地方私鉄1960年代の回想』より
真田駅(さなだえき)は、長野県小県郡真田町(現:上田市)に存在した上田交通真田傍陽線の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 真田傍陽線の本線の終着駅であった。
また、大日向への延伸計画があったが、実現しないままに終わっている。
貨物の積み入れ用の側線と
長いホームを有していたが
貨物輸送はトラックに切り替えられ
晩年は単行電車が行き交うのみとなっていた
※『地方私鉄1960年代の回想』より
駅は長いホームをもった終着駅で、ホームは線路の南側に位置し、反対側の北側には2線以上の貨物側線を設けており、菅平高原で栽培されたキャベツ・レタスといった高原野菜が貨車に積まれて上田駅まで運ばれ、そこから東京・名古屋・大阪方面に輸送されていた。
駅舎はバス待合所兼自転車置き場として
路線廃止後もそのまま使われていた
※『吊りかけ電車をもとめて』より
駅舎はバスターミナル機能を持ち、地味な造りながら広く、菅平高原行きの自社バス・群馬県長野原駅・鹿沢温泉行きの国鉄バスが発着していたが、丸子町駅とは違い最初からバスの大型化に対応したものであった為、後年まで改築されずに使用されていた。
バスターミナルとして使われていた
というより撤去せずに放置していた
という感じだったが2003年頃倒壊の
危険アリとして撤去された
駅の廃止後はバスターミナルとして駅舎がそのまま利用されていたが、老朽化が進んだ為に2003年頃に解体された。 現在は国道144号の本線の脇にあるホームの名残が、駅跡を示すポイントとなっている。
駅廃止後は、上田交通→上電バス→上田バスのバス停留所・回転所となっている。
横尾駅(よこおえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に存在した上田交通真田傍陽線(傍陽支線)の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 単式ホーム1面と待合室があるだけの駅であり、ホームは線路の西側(傍陽方面に向かって左側)に位置していた。
開業当初は駅舎を持つ駅員配置駅として開業されたが、上田丸子電鉄になってから駅員無配置駅となった。
真田傍陽線は上田交通の前身の上田温泉電気軌道によって北東線として開業したが、構想の段階では本原駅ら傍陽へ向かう当路線が長野電鉄河東線(後の屋代線)の松代に接続する計画であり、こちらが本線として予定されていた。 しかし、傍陽駅から先がトンネル工事という点で問題があった為に断念され、真田駅へ向かう線が本線となり、当路線は支線に格下げとなった。 駅のあった所から徒歩圏内に、秘湯の一軒宿の千古温泉がある。
鄙の閑散駅にしては
大きな待合室を有していた曲尾駅
曲尾駅(まがりおえき)は、長野県小県郡真田町(現・上田市)に説置されていた上田交通真田傍陽線(傍陽支線)の駅である。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。 村落を行く道路(長野県道35号線)は、小県郡真田町大字曲尾(開業当時は小県郡傍陽村大字曲尾、現在は上田市真田町曲尾)で左に大きくカーブし、それが字名となった曲尾地区に設置された駅である。
村落を通る道が大きく
カーブしていく事から
『曲尾』の字名が着いたという
※『上田市情報センター』より
傍陽村に入って最初の駅で集落の脇にあり、単式ホーム1面の無人駅ながら立派な待合室を持ち、ホームは線路の西側(傍陽方面に向かって左側)に位置していた。 当駅の前後で線形は逆S字状のカーブになっており、ホームは傍陽方面に向かって左カーブになる途中にあった。 路線の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停留所となった。
支線扱いであったが
建設時は本線として建設された為
大きな駅舎と長いホームと
貨物側線を有していた傍陽駅
※『上田交通・真田傍陽線』より
傍陽駅(そえひえき)は、かつて長野県小県郡真田町(現・上田市)に設置されていた上田交通真田傍陽線(傍陽支線)の駅で、傍陽支線の終着駅であった。 真田傍陽線の廃止に伴い、1972年2月19日に廃止された。
広かった駅構内は
バスの転回場となっていたが
こちらに発着するバスは
生活路線バスがほとんどであった
当駅は小県郡傍陽村(のち同郡真田町傍陽地区、現在は上田市真田町傍陽)の中心部に設置されていたが、本線の終点駅であった真田とは違って大きな観光地が周辺に無かった為、上田から傍陽への直通列車は少なく、上田から傍陽へ行くには分岐駅であった本原で乗り換えるケースがほとんどだったといわれている。
路線廃止後は電鉄ハイヤーの
営業所兼車庫となっていた
支線に格下げとなったとはいえ、群馬県に至る延伸計画のあった本線として敷設された経緯から、当駅も真田駅と同様に終着駅にふさわしく大きな駅舎を持ち合わせていた。 駅舎はモダンな造りで、別所線の中塩田駅や別所温泉駅と似た造りの駅舎だった。 別所線の各駅舎は戦後改築されたものだが、傍陽駅の駅舎は戦前からの建築であったものに1953年に改築が行われている。 駅舎の隣に貨物用のホームを増設され、更に電鉄ハイヤーの傍陽営業所の事務所・車庫が併設された。
傍陽も真田と同様に貨物輸送が
トラックに切り替えられ
晩年は長いホームに単行電車が
折り返すのみとなっていた
※『上田交通・真田傍陽線』より
真田駅と同様に貨物の取扱いが多く、長い単式ホームと貨物側線を保有していた。 ホームと駅舎は曲尾側から進行して右側(北東寄り)にあった。 また、上田交通になった頃から地元の傍陽農協(現在はJA信州うえだ傍陽支所)の倉庫が当駅の隣に設置され、傍陽地区で取れた野菜が貨車に積まれて上田駅へ向い、そこから東京・大阪方面に輸送されていった。 しかし、モータリゼーションの発達によりトラック輸送が主体となり、貨物施設の必要性は失われていった。
駅舎解体後も残存する農協倉庫
※ ウィキペディア画像を拝借
駅の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停車所・停留所となった。駅舎はバスの待合所に転用されたが、老朽化が著しく2003年に解体され駅舎跡は更地になり、停留所の場所も長野県道35号線沿いに移転した。 だが、駅の隣にあった農協倉庫は現在も健在であり、駅跡を示すポイントとなっている。
前回の続き
:
日本では何の能力を持ってなくても
職について少ないながらも
生活ができる給料を得る事ができるが
欧米では能力不足で脱落者となったら
故郷に土地を持つ奴は
故郷に戻る逃げ道があるが
逃げ道のない貧困者は
スラムになるしかないんだよね
もう生きる為に麻薬や売春・・etc
などの犯罪のオンパレードで
言い換えれば犯罪に手を染めねば
生きていけないのである
正直いって日本人だった事は
世界で最も幸運な事だと思うよ
だからチョンが日本人に
成りすましてモグリ込んできたのだし
日本のITエンジニアの地位が低いのは
一朝一夕ではどうにもならないだろう
例のオッサンが言うように例え皆が逃散しても
更に日本のレベルが下がるだけでエンジニア自身の
息の根を自ら断っているに過ぎないのである
そのうち欧米の成果主義は
購買不振から大不況となりえるよ
なぜなら国民の過半数を
「使えない無能」と断じるのだから
裏を返せば過半数の使えない無能が
購買力ゼロとなる訳である
そしてそれに対する欧米の政策は
今さえ良ければの金利上げ上げで
コレを続けていればいずれ破綻するよ
日本のIT技術向上は国が金を出して
技術留学や専門家講師を呼んで集中教育など
(但し脱落者には全費用払わせる必要アリ)
10年スパンの年月をかけてエンジニアを育てて
「追いつけ追い越せ」をするしかないだろうね
その頃はワテは副業を拡充して本業に変えて
悠々自適な生活をしてる予定で
ITの事などどうでもいいけどね
計画としては定年までに4つ持って
今の勤めてる給料の倍以上の収入を得
て若き頃にした日本の各地の放浪
(但し月に1回は管理の為に大阪に戻る)
でもしようかと夢見ているよ
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