2023-04-12 (Wed)✎
廃線鉄道 第102回 花巻電鉄 〔岩手県〕
花巻電鉄の名物とも云われた
車幅1.6mの『ハーモニカ』電車
:
『馬面電車』とも言われたが
馬づらよりハーモニカでしょう
※『朝日新聞デジタル』より
花巻電鉄(はなまきでんてつ)は、かつて岩手県花巻市の国鉄東北本線花巻駅を中心に、花巻温泉郷へ向かう鉄道線と、花巻南温泉郷へ向かう軌道線・路線バスを運営していた会社である。 同社は1971年に岩手中央バスへ統合され、1972年に鉄道・軌道線を全廃し、1976年の再統合で岩手県交通となっている。
花巻電鉄の社紋
※ ウィキペディア画像を拝借
長い歴史において、買収や企業統合・商号変更などで運営する企業名が再三に渡って変わっているが、一般には戦後長期に渡って継続した『花巻電鉄』の名称で知られている。 現在は、かつての関連会社であった電鉄タクシーにその名を残すのみである。 これらの鉄軌道路線は、東北・岩手が生み出した我が国で傑出した詩人・童話作家の宮沢賢治や、当地で創作活動を行った歌人・画家・彫刻家の高村光太郎が利用した事でも知られている。
花巻温泉郷は清流沿いに
一軒宿の温泉が連なる
明治・大正の文化人も愛した
東北きっての名湯だ
※『花巻観光協会』より
同鉄道は軌道線から始まり、花巻西郊の豊沢川に沿った温泉地を結ぶ軌道電車路線として、1915年9月16日に西公園(後に西花巻まで延長)~湯口(松原)を開業したものである。 また、温泉軌道の前身は湯口村にあった鶯沢鉱山の鉱物を輸送する目的で建設した専用馬車軌道で、この専用馬車軌道を花巻電気が買収し子会社としたものである。
鴬沢鉱山
付近の温泉が鉛温泉という位に
亜鉛の産出があったという
※『花巻の鉱山』より
その沿革であるが、1916年に鶯沢鉱山の経営権を取得した当時の鉱山主は、1918年の初め頃に鉱山からの鉱石輸送に供するべく、西鉛~志戸平に専用馬車軌道を完成させた。 だが、不況によって鶯沢鉱山は閉山し、この軌道は放棄された。 この軌道に目をつけていたのが、以前から西鉛温泉への路線延長を計画していた花巻電気であった。
花巻温泉郷・名湯マップ
:
名湯が数多く湧く花巻温泉郷に
目をつけて同温泉郷をゆく
鉱山馬車軌道を買収したのが
路線建設の手始めだった
※『花巻観光協会』より
花巻電気は1918年7月に温泉軌道株式会社を設立(本社は花巻電気本社と同所、社長も花巻電気社長)し、翌8月に閉山により放棄されていた鉱山馬車軌道を買収して、馬車軌道による営業を開始する。
同社は1915年9月~1918年1月にかけて花巻中央~松倉に電化軌道線を開業運行させていて、書類認可の上では軌道線の終点と松倉と温泉軌道の終点の志戸平の間が接続されずに空白区間となっていた。
だが無認可営業や
後々に問題を引き起こす
電柱を間借りしての架線架設など
危うい経営手法だったようだ
※『花巻電鉄2』より
だが、実際には、松倉~志戸平の空白区間は鉄道省の未認可で運行(県が黙認)していたのであった。
それは、公式記録に記載されている1923年5月以前に、花巻電気が志戸平までの電化運行を成しており、乗客を志戸平で温泉軌道の馬車軌道に乗り換えさせる形ではあったが、電車軌道線の花巻中央から温泉軌道線の西鉛温泉までの全線開業が成されていたのである。
東北の私鉄路線は
なぜか認可にまつわるゴタゴタが
多かったみたいだ
:
未舗装道路に電柱架線に不認可営業
他社のリゾート鉄道では
投機筋に会社資金を持ち逃げされるなど
唖然とする内容が噴出してたよね
※『花巻電鉄・1963年』より
それは公式の記録(鉄道統計資料等)よりも前の開業だった事で、不認可状態が継続されたのであるが、鉄道監督局の役員が岩手軽便鉄道を視察した折に志戸平温泉に立ち寄って偶然にこの馬車軌道を発見して、鉄道省の不認可で運行(県が黙認)している事が発覚してしまったのである。 その後の認可取り付け等の経緯については不明であるが、不認可発覚後に順次認可されている。
鉄道が陸の王者だった頃の西花巻駅
:
この時代の鉄道には
活気があり人もたくさんいた
※『まきまき花巻』より
この不認可状態を解消したのが、花巻電気を合併吸収した盛岡電気工業であった。 不認可発覚騒動直後の1921年12月に花巻電気を合併した盛岡電気工業が、翌1922年6月にこの温泉軌道も合併して同軌道線に組み込んだ為に、温泉軌道の名前は消えている。 だが、盛岡電気工業への合併を経て不認可状態を解消したとはいえ、依然として大沢温泉以西(志戸平より大沢温泉まで軌道線の電化を延長したようである)は馬車鉄道として運営していた。
今なら路面電車に乗って
山奥の一軒宿に湯治なんて
考えつかない事だろうね
※『花巻電鉄2』より
なお、公式記録では、1923年5月にこの軌道線を志戸平温泉(延長開業と共に駅名改称)まで延長開業させて、同時に元温泉軌道の終点である大沢温泉まで線路をつなげて、自社の終着駅である志戸平温泉より馬車鉄道への乗り換えではあったものの、花巻中央~西鉛温泉の軌道線による全通開業に漕ぎつけたとされている。
花巻温泉への新線を建設する位に
勢いのあった大正末期
不認可騒ぎを解消させた盛岡電気工業はこの時が全盛期で、この時期に新たなリゾート地として花巻温泉を開発し、そのリゾート化した花巻温泉と花巻の市街地結ぶ鉄道線構想を打ち出して、1925年8月1日に西花巻~花巻温泉を開業させている。 そして、開業から2か月後の10月3日に電車運行を開始している。
リゾート開発を手掛ける花巻温泉への
延伸を達成したものの電車竣工の遅れで
車両がなく2ヶ月間車両を他社から間借り
するなどお騒がな路線開業だった
※『花巻温泉駅1970年5月19日』より
なお、開業日の8月1日から、電車運行開始日の10月3日までの2ヶ月間の隔たりについては、電気工事や電車の竣工の遅れにより開業時に電車運行をする事ができず、762mmの同じ軌間であった岩手軽便鉄道(現在のJR釜石線の前身)より、C型蒸気機関車2両・客車3両・荷物車1両・貨車4両を借用して、電化開業に漕ぎつけた10月3日までの急場を凌いでいたという事である。
未認可騒動など紆余曲折はあったが
大正末期に全保有路線の電化営業
まで漕ぎ着ける事ができた
※『まきまき花巻』より
また、花巻温泉までの鉄道線の開業と共に、既に電化開業していた花巻中央~志戸平温泉の電車軌道線と志戸平(後に大沢温泉まで電化を延長させて乗換駅が大沢温泉となっていた)で乗り換えを余儀なくされていた馬車軌道であった温泉鉄道の電化直通運行工事も並行して行われ、鉄道線の運行開始より遅れる事1ヶ月後の11月1日に、軌道線の馬車鉄道区間であった大沢温泉~西鉛温泉も電化完成させて、軌道線も全線電化開業を達成している。
不認可騒動や電化工事の遅れで
開業に車両の竣工が間に合わなかったなど
ゴタゴタが続いたが路線工事を手掛けてから
10年で全線電化開業に漕ぎつけた花巻電鉄
※『花巻電鉄2』より
全保有路線の電化開業を成し得ると、盛岡電気工業は新たに設立した花巻温泉電気鉄道へ路線譲渡し、幾度かの小さな社名変更(詳細は花巻電鉄・年表を参照の事)を経た後、1953年6月に温泉リゾート事業を分離して花巻電鉄となった。
モータリゼーションの進行で
道の主が人から車に変わって
路面を行く鉄道は車の通行を妨げる
不要なモノと指摘され始めたのである
※『まきまき花巻』より
だが、モータリーゼーションの進行で花巻市街地での利用客が減少したのに加え、道路の真ん中に敷設された軌道線が自動車通行の妨げとなる問題が持ち上がり、またモータリーゼーションの進行に伴って、花巻電鉄も経営主体を鉄道からバス事業に切り替え、鉄道路線の整理・淘汰を手掛け始めたのである。
今なら市の中心駅の駅前に路面電車の
車庫があって車が通れないなんて
撤去を求める苦情の嵐だろうね
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
その手始めに、自動車通行の妨げとなる問題が持ち上がっていた花巻中央~西花巻の市街地区間が1965年7月1日に廃止となり、花巻温泉郷への道路が整備されると利用客を自社バスに移行させるべく、1969年9月に花巻~西花巻~西鉛温泉の軌道線全線も路線廃止となった。
会社のバス専業化方針で
風前の灯火となった
花巻電鉄・鉄道線
※『花巻温泉駅1970年5月19日』より
軌道線廃止後の花巻電鉄はバス事業専業化を目指して、1971年2月に岩手中央バスと合併する。
岩手中央バスと合併した翌年の2月16日に花巻~花巻温泉の鉄道線も廃止して、創業以来保有した鉄道線が全廃となって鉄道事業から完全撤退した。 なお、岩手中央バスは道事業から完全撤退から4年後の1976年6月に、岩手県交通に経営統合されて現在に至る。
花巻電鉄の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):鉄道線 花巻~花巻温泉 7.4km
※ 軌道線の中央花巻~西花巻の廃止時に軌道線と共用の花巻駅が新設されて移転となって0.8km
延びて8.2kmとなる
軌間:762 mm(特殊狭軌線)、電化区間:全線(直流600V)、複線区間:なし(全区間単線)
駅数:7駅 西花巻・花巻(通称は電鉄花巻)・花巻グランド・瀬川・北金矢・松山寺前・花巻温泉
国鉄からの跨線橋からも判るように
屋根に『花巻温泉へ』の看板が
設置された電鉄花巻駅
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
※ 花巻は島式ホーム1面2線の駅で、国鉄の花巻駅から跨線橋で接続していた
跨線橋からホームへ降りた所に花巻電鉄の改札口があり、ホームの東側が軌道線・西側が鉄道線
の乗り場で共に機回し線を備えていた
また、構内には貨物ホームや車庫を併設しており、ホームの南方には3線が入る検修庫もあった
西花巻駅に進入してくる
ホール集電の軌道線の電車
※『花巻電鉄・1963年』より
西花巻駅の構内配線図
※『花巻電鉄・1963年』より
※ 西花巻は中央花巻からの路線が花巻温泉方面と鉛温泉方面に分岐する形態であり、花巻より
鉛温泉方面間の列車は西花巻で運転方向を変えていた
1面2線の交換設備を兼ねた低いホームと機回し線を持ち、中央花巻~西花巻間廃止後もしば
らくはそのままの形態であったが、後に配線を変更してスイッチバックが解消された
※ 瀬川は相対式にホーム2面2線の交換駅で貨物側線もあった
※ 花巻温泉の駅跡地は岩手県交通のバス乗り場となっており、北側にかつてのホームへの階段
が残っている
花巻温泉駅で発車を待つ電車
:
1日20往復で鉱山の露天掘りなど
貨物の需要もそれなりにあったのだが
時代の流れには抗する事ができなかったようだ
※『花巻温泉駅1970年5月19日』より
運行形態:花巻~花巻温泉 20往復・全区間の所要20分
幅の狭い未舗装県道で
電柱を間借りしての架線など
車両制限が重なりハーモニカのような
極細の車体とポール集電仕様の
車両が入線していた軌道線
※『花巻電鉄1』より
廃止区間と路線距離(営業キロ):軌道線 中央花巻~西鉛温泉 18.6km
※ 1965年7月1日に中央花巻~西花巻が廃止となり、鉄道線と共用の花巻駅を新設して移転
軌間:762 mm(特殊狭軌線)、電化区間:全線(直流600V)、複線区間:なし(全区間単線)
駅数:21駅 中央花巻・西花巻・ 西公園(旧花巻川口町)・石神・中根子・熊野・新田・歳の神・
一本杉・二ツ堰・神明前・松原・松倉・富士保前・志戸平温泉・渡り・
大沢温泉(旧湯口)・前田学校前・山の神・高倉山温泉・鉛温泉・西鉛温泉
※ 中央花巻はもともとは『花巻』(通称『軽鉄花巻』)という駅名であり、岩手軽便鉄道が
あった時代にはこれと線路がつながっており、線路と駅舎などの建造物を共同使用していた
後に国鉄及び岩手軽便の花巻駅から約300m南方に位置する単式ホーム1面1線と駅舎のみの
小駅となっていた
これは、釜石線の1067mmへの改軌の際に大堰川の南側に移転したものである
※ 西公園と熊野は併用軌道上の交換駅でホームはなく、沿道の商店や民家に並んで駅舎があった
なお、末期には、西公園の交換設備は撤去されていた
「併用軌道上の駅で
電柱に駅名が表示してある」
ってこんな感じだったのだろうね
※『花巻電鉄・1963年』より
※ 神明前は併用軌道上の駅で、電柱に駅名が表示してあるのみだった
※ 志戸平温泉は専用軌道の交換駅で、島式にホーム1面2線を有して貨物側線もあった。
※ 大沢温泉は併用軌道上に設けられた交換駅でホームはなく、沿道の商店や民家に並んで駅舎
や保線区の詰所があった
開業時は電車と馬車鉄道の乗換駅であった
※ 松原は併用軌道上の駅でホームが1本あるのみの駅だった
県道の改良工事で移転した際に
三角屋根の近代的な駅舎が
設けられた鉛温泉駅
※『花巻電鉄2』より
※ 鉛温泉駅は単式ホーム1面1線と駅舎のみの駅であったが、末期には新道の建設に伴って移転
し、機回し線がつけられ、駅舎が白い三角屋根の近代的なものに建て替えられていた
この新しい駅舎の跡地に、岩手県交通のバス待合所の建物がある。
※ 西鉛温泉はホーム1本と機回し線と貨物側線があったが、末期には移転した鉛温泉駅に
ターミナルの機能を譲って休止状態となっていた
駅のあった場所は、現在は竹薮となっている
末期の軌道線は運行本数の
半分がバス代行となり
しかもバスより20分も遅いなど
ジリ貧状態の運行状況だった
※『花巻電鉄2』より
運行形態:花巻 - 西鉛温泉間11往復(内1往復は鉛温泉止まり、並行してバス9往復運行)
所要時間は、全区間で1時間~1時間2分(バスは40分)
花巻電鉄も1両の電動車が
付随車と貨車を引く東北の中小私鉄
の運行スタイルであった
※『花巻電鉄・1963年』より
※ 1両のデハ(電動車-M)が1~2両のサハ(付随車-T)や貨車を牽引する列車で運転され、場合
によっては続行運転をしていた他、続行運転の列車を併結した2M2Tの4連などもあった
終点などでは、機回し線でデハを先頭に付け替えていた
※ 軌道線沿線に鉱山があった事もあり、時期にもよるが貨物輸送もそれなりに需要があった
花巻の車庫に収納された
ハーモニカ+スライスハム+ハーモニカ
のサンドイッチ
※『花巻電鉄・1963年』より
花巻電鉄 年表
1913年(大正 2年) 時期不詳:花巻電気軌道設立
8月30日:花巻川口町(西公園)~湯口(松原)間特許下付
9月11日:路線特許を花巻電気へ譲渡
1915年(大正 4年) 9月16日:花巻電気によって、花巻川口町(後の西公園)~湯口村(後の松原)
開業
1916年(大正 5年) 6月 9日:中央花巻~西公園及び、松原~大沢温泉の特許下付
9月26日:松原~松倉開業
1917年(大正 6年) 3月29日:鶯沢鉱山所有者個人の申請により、大沢温泉~西鉛温泉の特許
下付
1918年(大正 7年) 1月 1日:花巻(後の中央花巻)~西公園開業
1919年(大正 8年) 8月12日:西花巻~花巻温泉の地方鉄道免許下付(動力蒸気)
9月27日:温泉軌道の湯口(後の大沢温泉)~鉛温泉の馬車軌道開業認可
1920年(大正 9年) 4月27日:松倉 - 志戸平温泉間馬車軌道開業認可
1921年(大正10年) 6月25日:温泉軌道の鉛温泉~西鉛温泉開業
11月11日:温泉軌道の盛岡電気工業へ譲渡認可
12月25日:盛岡電気工業が花巻電気を合併
1922年(大正11年) 6月30日:盛岡電気工業が温泉軌道を合併
1923年(大正12年) 5月 4日:志戸平温泉~湯口(大沢温泉)開業
松倉~志戸平温泉の電車運転を開始
温泉リゾートの夢を抱いて
開業した鉄道線
:
駅の屋根にも温泉へと湯治客を誘う
『花巻温泉行電車のりば』の
看板が立てられていた
※『花巻電鉄2』より
1925年(大正14年) 8月 1日:鉄道線・西花巻~花巻温泉開業
10月 3日:鉄道線・西花巻~花巻温泉の電車運転開始
11月 1日:大沢温泉~西鉛温泉の電車運転開始で、保有全線の電化完了
1926年(大正15年)10月 1日:盛岡電気工業が、新設会社の花巻温泉電気鉄道へ路線譲渡
1941年(昭和16年)10月29日:花巻電気鉄道へ社名を改称
1947年(昭和22年) 6月 5日:花巻温泉電鉄へ社名を改称
1953年(昭和28年) 6月 1日:温泉事業を分離し、花巻電鉄へ社名を改称
花巻の中心市街地の駅だというのに
片面ホーム1面のみで
寂れ果ていた花巻中央駅
※『まきまき花巻』より
1965年(昭和40年) 7月 1日:花巻市街での併用軌道が交通の妨げとなる問題が浮上し、
中央花巻~西花巻が廃止となる
1969年(昭和44年) 9月 1日:社業のバス事業専業化により、花巻~西花巻~西鉛温泉の軌道線
全線を廃止し、自社路線バスに切り替え
1971年(昭和46年) 2月24日:花巻電鉄が岩手中央バスに合併吸収されて、既存の鉄道線は同社
保有路線となる
花巻温泉の温泉リゾート輸送の夢は
この鉄道線の廃止で
オイルショック前に終止符を打った
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
1972年(昭和47年) 2月16日:鉄道線・花巻~花巻温泉の廃止で鉄道路線が全廃となり、鉄道
事業から完全撤退
1976年(昭和51年) 6月 1日:岩手中央バスが岩手県交通に統合となる
いゃぁ・・スリムですねぇ
これでも車幅はリッター車
なみにあるんだってね
※『花巻電鉄・1963年』より
車両
軌道線と鉄道線は、それぞれ別々に形式が付けられていた為に同じ番号が存在していた。
但し、晩年は鉄道線車両も軌道線で使用されて、主に集電装置の違い(軌道線はポール・鉄道線はZパンタ)で区別されていた。 また、電車はサハ(動力を持たない車両)を含めて順次空気ブレーキ化され、貫通ブレーキを使用していたが、電車は総括制御には対応していなかった。
こんなのが走っていたのは
この国の七不思議とも言えるだろうね
※『花巻電鉄・1963年』より
軌道線
開業時以降に投入された木造単車
デハ1(→サハ1)・デハ2
開業時に用意されたダブルルーフ、オープンデッキの車両で定員は24人。 オープンデッキから客室へは仕切りがなく吹きさらしだった為、冬季や雨天時は目出し帽か装甲車の外装のようなカバーを取りつけて運転していた。 一般的な路面電車スタイルだが横幅が狭いのが特徴で、1931年車庫火災により廃車。
デハ2が増備される1918年までは、この1両以外の保有車両は無蓋車2両だけで、乗客の多い時は無蓋車にも客を乗せて運転していた。
花巻市によって静態保存された
『ハーモニカ』電車・デハ3
※ ウィキペディア画像を拝借
デハ3
ダブルルーフ(屋根の段差が少なく明かり取り窓はない)だが、密閉式の運転台・出入台を持っていた。 1931年車庫火災により廃車。
電動車に牽引される付随車も
ハーモニカだった
※『花巻電鉄1』より
サハ1(→デハ2)、サハ2・3
サハ1(→デハ2)は全長6096mmのダブルルーフの木造単車で、車体幅は1600mmであるが車輪径が610mmで後のボギー車より床面が低く、また、全長も短いのでさほど馬面には見えなかった。
戦後にはボギー台車でサハ化され、車体表記もサハ2となっていた。 サハ3はデハ4と同様の形態のシングルルーフ車。 サハ2・3は戦時中(サハ3は1943年)にボギー化され、その後1963年廃車されている。
軌道線の『ハーモニカ』より
ひと回り大きくなった鉄道線用のデハ4
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
鉄道線
開業時以降に投入された木造ボギー車
デハ1~4及びサハ1~5
雨宮製作所製の全長9449mm・全幅2134mm・自重10.35t・定員50人(座席26人)で、30馬力電動機2台を装着していた。 車体は正面3枚窓で側面窓上の半月状のアーチが特徴だった。 車内幅は1778mmと軌道線の車両より大きいとはいえ広くはない。 台車は軌道線のボギー電動車と同形態の板台枠のウイングバネ台車で、主電動機出力も同じ22.4kWだった。 当初は手ブレーキのみだったが、1928年に空気ブレーキを追加している。
細いけど軌間幅762mmの
倍以上の1778mmあるらしく
比率で言うと標準ゲージ1435mmで
車幅2800mmの近鉄電車より
比率が高かったりする
※『花巻電鉄1』より
デハ3・4は1931年の車庫火災で焼失、同年(認可上は翌1932年)に木造時と同様の形態の半鋼製車体で復旧している。 木造のまま残ったデハ1・2は後年軌道線でも使用された後に、鋼体化されてデハ21・22となった。
湘南スタイルの前面2枚窓だが
中央に運転席があって
2枚窓の窓枠が運転中の視認の妨げとなる
見事な欠陥構造のデハ57
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
戦後の新造車両
デハ56~58及びサハ101~104
デハ56・57が12m級電車で正面3枚で、デハ58がノーシル・ノーヘッダーで少し大型化されていた。
集電装置がビューゲル・パンタグラフ・Zパンタと車両により異なっていたが、Zパンタに統一された。
デハ57の構造欠陥・その2
扉下部のステップ部に
戸板がなく冬は風雪が大いに
吹き込む冷凍列車となっていた
※『モハメイドペーパーの何が出るかな?』より
また、デハ58は、中央運転台で正面2枚窓と運転士の視認を妨げる構造だったり、乗降口がステップ付きの引き戸ながら戸袋が上半分しかなく、扉が開いている時には扉の下部がはみ出るなど、欠陥と思える構造が至る所で見られた。
花巻電鉄の最後の
新造車両だったモハ28
※『花巻温泉駅1970年5月19日』より
モハ28及びサハ105・106
花巻電鉄最後の新造電車で、鉄道線の所属ではあるが実際には軌道線で使用されていた。
自動扉・蛍光灯付きの近代的仕様ながら、軌道線は電柱を架線柱に兼用していた為に柱間隔が長く、架線のたるみが大きかった関係でトロリーポール装備で制作された。 張上屋根・ノーシル・ノーヘッダーの当時の路面電車と同様の形態であった。 軌道線廃止後は鉄道線に転じて、集電装置がZパンタに換装された。 全長11860mm、全幅2130mm、自重13.6t、定員60人(座席30人)、主電動機出力22.4kW。
変電所の負担軽減の為に
予備車として廃止された路線から
譲り受けた気動車車両だが
ほとんど使用される事は無かったとの事
※『花巻電鉄』より
他にも、変電所の負荷を軽減する為に、路線廃止となった遠州鉄道奥山線のキハ1804(気動車)を譲り受けて予備車としていたが、ほとんど使用されず、軌道線が全線廃止された1969年に廃車となっている。
EB61形の6t電気機関車
戦前から保有していた機関車
※『花巻電鉄1』より
EB62形の6.5t電気機関車
東武鬼怒川線の前身・下野電気鉄道で
鬼怒川の砂利運搬をしていた
機関車を譲り受けたもの
※『花巻電鉄』より
また、貨物牽引の用途に、EB型の6t電気機関車を2両保有していた。
花巻温泉駅
大正末期~明治初期の雰囲気を
漂わせた立派な駅舎だった
※『花巻温泉駅1970年5月19日』より
その他・エピソード
鉄道線については、当初さらに奥の台温泉までの敷設が計画されていたが、地形の関係で見送られている。
廃車体となって放置されていた
車幅1.6mの『ハーモニカ電車』
※『花巻電鉄』より
軌道線で使用されていたデハ1形などの車両は車体幅が約1.6mと極端に狭く、車端部では更に幅員の狭まった奇異な形態で、その特徴ある前面の姿から『馬面電車』、あるいは全体の形が似ている事から『ハーモニカ電車』などと呼ばれていた。
花巻市の材木町公園に保存されている
デハ3型『ハーモニカ』電車
※『まきまき花巻』より
これは狭い街道をゆく軌道線の車両限界が制約されていた事によるものであるが、戦後に軌道線区間の車両限界が拡大されて鉄道線車両や広幅の新造車が入線可能となった為、主力車両の地位から退いている。
現在、デハ3形が花巻駅南西側の材木町公園に保存されている。
戦前、線路が接続していて同じ762mm軌間だった岩手軽便鉄道から車両を借入れた事があり、鉄道線の建設工事や開業当初、1931年の車庫火災の際などが代表的な事例であった。
1925年8月の鉄道線開業時は電気工事と電車の竣工が遅れ、C型蒸気機関車2両・客車3両・荷物車1両・貨車4両を借用して営業し、電車の使用開始は10月からとなった。 また、車庫火災で車両不足に陥った際には、蒸気機関車2両・客車4両を借り入れている。 岩手軽便鉄道が国有化されて1067mmへの改軌が行われると、不要となった762mm軌間の貨車を相当数譲り受けている。
未舗装の県道に電柱を架線支柱とするなど
道が整備され始めたなら
到底持たない鉄道運営をしていた
※『まきまき花巻』より
軌道線は元々電力会社が発電所の余剰電力の使用先として計画した鉄道という側面もあり、沿線居住者に電力を供給する為の送電柱を架線支持柱として代用しており、後に電力事業が東北電力となった後も、そのまま電柱を借用する形で存続していた。
冬季における軌道敷の除雪は、大型のスノープローを装着した先頭の電車に後押し用の電車を連結した電動車2両編成で行っていた。
鉄道線の線路跡は全線に渡って
サイクリングロートとなっている
※『花巻市の紹介』より
鉄道線の廃線跡は全線に渡ってサイクリングロード(自転車専用道)になっているほか、軌道線の西花巻~西公園間も自転車専用道の一部となっている。
バス会社との合併によって『花巻電鉄』という企業は現存しないが、電鉄時代に独立したタクシー部門は、今でも『電鉄タクシー』の名で花巻市内に存在しており、当時の社紋が現在も使われている。
宮沢賢治の詩には、花巻電鉄と思われる情景がたびたび登場している。 中でも小説『銀河鉄道の夜』で登場する鉄道は「蒸気機関車ではない」と書かれており、花巻電鉄(花巻電気軌道)の車両がモデルではないかと推察されている。
楽しい人生を送るなら楽な生き方をするなら
そして自由に使えるお金を稼ぐなら
仕事ができる奴よりできない奴の方が
何かと有利なのである
それはホントの仕事ができる有能な奴は
事業に成功して財を為している
例えばひろゆきさんやホリエモン(1回捕まったけど)
などの1代で巨額の富と名声を得た成功者で
それは有能と言われる奴の1%にも満たないのだ
残る有能は会社の中で仕事ができると
評価された『雇われ有能』なのである
確かに勤め先で仕事ができると評価されると
給料は上がり昇進も適う
だが同時に重い責任とノルマを課せられるのだ
そして会社や上層部から
「(有能なオマエなら)できるだろう?」と
無理難題とキツいノルマを命じられ
下からは仕事内容や扱いの不満を突き上げられる
上と下からの板挟みの『中間管理職』となるのだ
帰宅しても寝る間も惜しんで残務整理に追われ
休日も会社の仕事でほぼ潰される
そして高くなった給料のかなりの額を
取引先の接待費に費やさねばならないのだ
そして自身のミスは元より
部下のミスも取引先に全速力で駆けつけて
土下座同然に謝り倒さねばならない事も
日常茶飯事で有り得るのだ
それは給料が上がって肩書きがついたと
言っても全てを会社に捧げる会社人間
即ち会社に飼われた社畜同様となるのだ
平社員の1.3倍の給料で
人生の全てを会社に捧げてこんな目に遭って
しかも上がった給料のかなりの額を
取引先のエライさんなどに
自主的に貢ぎ物を送らねばならないのだ
それに歳食っていくと新しく入ってきた
若い奴に体力・気力的に敵わなくなり
下手すると給料だけ高い厄介者として
窓際配置からやめざるを得ない方向に
持っていかれる仕打ちを受ける事もあるしィ
例え給料が上がっても責任が重くのしかかり
休日も返上で会社に尽くし
上がった給料も自主的に取引先に
自費を費して貢がねばならないようなら
給料が上がる意味が無いじゃないよ
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次回に続く
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