風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第101回  興浜北線・その2

廃線鉄道  第101回  興浜北線・その2 〔北海道〕

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オホーツクの風が荒れ狂う
厳寒の中をゆく単行列車
※『鉄道ジャーナル別冊・'85 日本の鉄道』より

興浜北線(こうひんほくせん)は、かつて国鉄が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。
北海道枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅で天北線から分岐し、オホーツク海沿岸を南下して枝幸郡枝幸町の北見枝幸に至る国鉄の路線で、浜頓別を終点とする興浜線の北側の先行部分として開業した路線で、南側部分の興浜南線より遅れる事10ヶ月の1936年7月10日に開業している。

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北見神威岬をめぐる
興浜北線列車

当線の先行開業後も、興浜線(興部~浜頓別)全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定されて延伸工事は凍結となり、既存区間も興浜南線より半月早い1985年7月1日に路線廃止となっている。

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興浜北線のの予想路線図
地図上の駅の位置などは
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):浜頓別~北見枝幸 30.4 km、軌間:1,067 mm、
電化区間:なし(全線非電化)、複線区間:なし(全線単線)
駅数:9駅(起終点駅含み正規駅 6・仮乗降場 3)
〔浜頓別〕・頓別仮乗降場・豊牛・豊浜仮乗降場・斜内・目梨泊・山臼仮乗降場・問牧・北見枝幸
  ※ 起点駅の浜頓別は興浜北線廃止後も存続したが、1985年第二次廃止対象の指定を受けた
    所属路線の天北線が、1989年5月1日に路線廃止となったのに伴って駅廃止となっ
    ている
  ※ 頓別・豊浜・山臼は、国鉄本社の承認を得ない局設定(路線を管理する旭川鉄道管理局)
    の仮乗降場であった
閉塞方式:票券〔タブレット〕閉塞式(全線1閉塞)
  ※ 過去に、目梨泊でも閉塞扱いを行っていた
運行本数:全列車が終着の北見枝幸折り返しで6往復運行されていた
路線廃止区間の1983年度の営業係数:2201、同輸送密度:111

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岬灯台直下をめぐる
風光明媚な路線だった興浜北線
このアングルも考えたが
雪で滑り落ちる危険と
道路が入る事で見送ったよ
今に思えば少し後悔・・
※『北海道鉄道百景』
監修・国鉄北海道総局より

  乗車記
興浜南線の雄武からの興浜未成線をゆくバスは、町の中心にある西條百貨店(現在は西條スーパー)の前に設けられたバス停に止まり、この先は駅には寄らずに町外れのバス営業所に向かっていた。

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今は地域スーパーとなっている
西條百貨店裏手の駐車場前が
雄武からのバスの停留所だった
ここから北見枝幸駅まで約300m歩かされた
コレは当時は国鉄と宗谷バスの関係が
宜しくない事が理由の『ワザと』との事だった
※ ウィキペディア画像を拝借

なので、西條百貨店から駅まで300mほど歩かされていたのである。 これは、宗谷バスと国鉄の仲があまり宜しくなく、町外れにあった北見枝幸駅での乗降扱いをしなかった為である。

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北見枝幸駅跡のかつて側線があった所には
宗谷バスのバスターミナルが建っている
この建物の2階部分は
いわく付きの興浜北線資料室があった

その『いわく』については
今回語るとしよう
※ ウィキペディア画像を拝借

この国鉄との仲が悪かったエピソードとして、駅舎と線路が撤去された北見枝幸駅跡に宗谷バスのバスターミナルが建てられて営業所を移転させたのであるが、ターミナルの2階に設置された興浜北線の資料館(当時は『交通記念館』と名乗っていた)を閉鎖して興浜線の資料を廃棄すると言い出したのである。

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枝幸町が建てた主に海洋生物を題材とする
海のミュージアム『オホーツクミュージアム枝幸
国鉄を嫌った宗谷バスの暴挙に慌てた
枝幸町が急遽この海のミュージアムに
興浜北線の資料・駅の備品を
保管する事となったのだ
※ 枝幸町のウェブページより

これに慌てた枝幸町が、国道238号のバイパス道路(このバイパス道路の完成で、国道238号線は枝幸町の市街を通らずに直行している)の完成後に建設した『オホーツクミュージアム枝幸』に資料を移設したが、このミュージアムが開業されるまでは、町の収蔵庫に保管する事で何とか廃棄を免れていたのである。

h101-mesasi (3)オホーツクミュージアム枝幸』の収納庫に保管された
興浜北線の資料を常設展示するスペースはなく
ごく一部の資料展示に留まっていて
年に2回の収蔵庫の公開日以外に公開されていない
オホーツクミュージアム枝幸』の
ツィッター写真より

そのミュージアムが完成すると、管内に保管していた興浜北線の資料館スペースを設けたのだが、この建物は元々はオホーツクの海を扱うミュージアムで、興浜北線の資料全てを常設展示するほどのスペースが与えられず、ごく一部の資料展示に留まっている。 残りの資料の多くは、以前と同じく収蔵庫に保管されて通常は公開されておらず、資料の全てを閲覧するには年に2回の収蔵庫公開の時を待たねばならない。

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北見枝幸駅自体は宗谷支庁(現在は振興局)で
稚内市に次ぐ第二の人口を擁する街なのだが
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

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1日僅か6本の運行では
地元の子が立ち入り禁止のハズの
駅構内で雪遊びするほどに
駅は閑散としていた
※『鉄道ジャーナル別冊・列車追跡』より

要するに、宗谷バスは不採算必至の興浜北線や天北線のバス代替を渋り、拒絶する態度を取っていたのである。 なので、ターミナルの2階に設置された『交通記念館』当時も、資料が整理もされずに乱雑に置かれていただけで、鉄道趣味団体から「貴重な資料の扱いがぞんざいだ」と抗議を受けた事もあったらしい。

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北見枝幸を発車する気動車に乗り込む
目指すは名勝・北見神威岬
※『みんカラ』より

さて、話は脱線したが、乗車記を記していこう。 雰囲気満点の駅前食堂で腹ごしらえでもしながら、列車の発車時間が来るのを待つ事にしよう。 《北見枝幸》駅を出ると、すぐに《ウスタイペ千畳岩》という景勝地が現れる。

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流氷展望の名所のウスタイペ千畳敷は
〔だが流氷が枝幸まで北上するのは数年に一度〕

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今でこそ観光案内板が立つなど
枝幸町の主要観光地となっているが
※ 上下2枚とも
オホーツクミュージアム枝幸』の
ツィッター写真より

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路線廃止後にワテが訪ねた時は
『ウスタイペ千畳岩』と刻まれた石碑が
目立たぬ場所に置かれているだけだった

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だが冬の荒れた
海の情景も捨てがたい

オホーツクの海岸に荒波に洗われた巨大な岩礁が広がり、その様相は一面に畳を敷きつめたかのようである。 そして、この自然の造形である広大な岩礁の上で、春夏秋冬で様々なイベントが行なわれる・・との事である。

中でも最大のイベントは、夏に行なわれる『カニ祭り』であろう。 開催は7月で季節的には『?』がつくが、とにかく獲れたてのカニの味覚三昧を楽しめる・・との事。 また、冬の流氷接岸時は、流氷と朝日を望む絶好の展望台となろう。

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ワテが訪れた1984年の
興浜北線往時に
流氷が来てくれていたならなぁ
前述の如く流氷が枝幸まで
北上するのは稀である
オホーツクミュージアム枝幸』の
ツィッター写真より

海からやや離れた所をゆく国道にピッタリと並走しつつ北上していくと、程なく《問牧》到着。
車窓のハイライトは、この駅を出てからである。 線路が少し高度を上げると、海際をゆく国道が窓下に隠れる事で視界から消えて、オホーツク海が車窓いっぱいに広がるようになる。 もし、季節が流氷接岸時だったなら、その美しさは言葉では表せない程だろう。

海際に迫り立つ切り立った岩の中段に刻まれた軌道をゆく鉄道の風景は、駅を降りて端から眺めるのもいい。 流氷に閉ざされたオホーツク海と果てなく続く切り立った断崖の海岸線・・、そこに単行の気動車が細々と伝う姿は崇高でさえあった。 その情景は日本的な鉄道風景とはかけ離れ、それでいて西洋かぶれした大味な風景でもない・・。 きっとこれは、心の奥底に忘れずにしまっている大切な風景なのだと思う。

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オホーツクの海を望む
板張りの『仮乗り場』・山臼
※『興浜北線・山臼仮乗降場』より

やがて、岩崖の中腹に刻まれた鉄道軌道の小さなスペースに、車輌の半分強ほどの板張りの乗降場が現れる。 《山臼》仮乗降場である。 この乗降場は、未成線上に設置予定されていた正規駅の《北見山臼》を差し置いて、『北見』を冠さない正規駅より格上の“仮乗降場”であったりするのである。

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目梨泊岬の波止場の防波堤より
路線廃止後20年を経た冬の斜内山道を望む
あの天嶮の裾を
興浜北線の線路が伝っていた

《山臼》を出ると、《目梨泊岬》という小さな突起地形を忠実にめぐって《目梨泊》駅を過ぎた後、いよいよクライマックに差しかかる。 《北見枝幸》駅を出る時に鉄道走行の難所と記した《斜内山道》めぐりである。

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雪を被った天嶮・斜内山道に建つ
白黒帯の北見神威岬灯台

切り立った断崖がダイレクトに海へ突き出し、その崖の中腹に立つ真に“防人”たる白黒帯の灯台・・。 

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一度は流氷バックに撮ってみたかった
だが当時は年端もいかない小僧で
容易にこの地へ行く事は叶わなかった
※『鉄道ジャーナル別冊・列車追跡』より

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こうゆうのも撮ってみたかったけど
コレは当地に住んでいる以外はムリですね
※『北海道鉄道百景』
監修・国鉄北海道総局より

真下は夏ならはどこまでも蒼い海、冬ならば彼の地まで続くかのように敷きつめられた流氷の眩い白銀が広がる。 その灯台へ向けて、単行の気動車が孤独な任務を果たすべく行き交う。 何と叙情的な風景なのだろう。

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岬を周回する急カーブに
車輪を軋ませるその音は
自らが消えゆく運命である事を
奏でる鉄路の鎮魂歌だったのか・・

灯台下の岬をめぐる急カーブでは、車輪がキーン、キーンと悲鳴を上げる。 日暮れ時の最も寂しい時間帯ならば、その孤独感を癒すべくの悲痛な叫びのようにも聴こえてくる。 そして時を経た今はレールは剥がされ、その真下をめぐった国道238号線も斜内山道を直接貫く『北オホーツクトンネル』にその任を譲って“岬めぐりの遊歩道”と化し、より一層哀愁が漂う眺めとなっていた。 

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剥がされた線路跡の上に立って
岬灯台を見上げる

夏草揺れる中に建つ無人の灯台上に昇り、レールを剥がされた軌道跡と海を眺めつつ、あの時の車輪の軋み音を思い描くと、あの軋み音は鉄路の奏でる鎮魂歌(レクイエム)だったのか・・とも思える。

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岬灯台下を周回した気動車は
冬の荒れた海を見ながら
裏寂れた波止場へと伝っていく

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いつしか吹雪模様となっていた
そしてコレが興浜北線の
最後の写真となった

馬蹄形に岬をめぐり、断崖の中腹より少しづつ高度を下げて国道の位置と高さを合わせると《斜内》駅に着く。

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斜内駅に掲げられていた時刻表
興浜北線も当時のローカル線運行本数の
スタンダードであった1日6往復だった
※『道道資料』より

簡易カプセルの駅だがそれでも北国の駅らしく、中に誰でも使用できるようストーブが置いてあった。
夏でも15℃前後という厳しい気候の中では、このストーブは年中の働き者となる訳である。

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駅跡を訪れて『無常感』を感じたのが
この斜内駅跡だった

廃止になってからのカプセル駅舎は付近の民家に払い下げられたらしく、夏のある時に久方ぶりに訪ねてみるとホームには夏草が生い茂り、駅と国道とを結ぶ通路は草花が風にそよいでいた。

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斜内山道をブチ抜いた
『北オホーツクトンネル』の開通により
冬季閉鎖となって立ち寄れなくなった
北見神威岬灯台の遠望も
時の無常を強く感じる眺めであった

それは、斜内山をトンネルで貫くルートに付替えられた国道跡の道と共に、何とも無常感に苛まれる情景であった。

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後は原野を真っすぐに
浜頓別に向かっていた
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

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現在は電線の張られた位置に
発電用風車が建ち
線路跡は風車の保守・管理道路となっている
※『@ press』より

後は、《豊浜》仮乗降場、《斜内》と同じカプセル駅の《豊牛》を経て、夏ならばハマナスやエゾカンゾウが咲き乱れる頓別川の湿原帯を横切って、《頓別》という車輌長の半分位の板張りの乗降場を過ぎると、『オホーツク縦貫鉄道』路線の幹線格である天北線と合流する。 

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浜頓別到着後に
折り返し運用に就くキハ22
浜頓別駅では最も母屋寄りの
1番線が興浜線の発着ホームであった
※『旅 1982年・冬の号 汽車旅とローカル線』より

合流すると、程なく《浜頓別》駅に到着する。 《浜頓別》駅は北の要衝らしく、風格のある門構えの駅だ。 そして、路線が延びる方向からであろうが、その母屋寄りの『1番線』が興浜線の発着ホームであった。



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浜頓別の駅舎は撮ってなかったよ
地元郵便局会から購入依頼のあった
『さよなら天北線タトウ』より

浜頓別駅(はまとんべつえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字浜頓別154にあったJR北海道の駅である。 天北線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。 天北線内では最大の中心駅で、路線廃止時まで運行されていた急行【天北】の停車駅であった。 かつての国鉄時代に当駅から北見枝幸まで興浜北線が分岐していたが、1985年7月1日に路線廃止となっている。

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興浜北線廃止後は島式1面2線と
ホーム数は減らされたが
線内の花形列車・急行【天北】が
停車する天北線最大の駅だった浜頓別駅
※『天北線・浜頓別駅』より

廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 かつては島式ホーム2面3線(駅舎側ホームは片面使用)を有しており、1985年7月1日に興浜北線が廃止された後、駅母屋寄りの1番線の線路が撤去された。

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興浜北線在時は
2面3線の駅だった浜頓別駅
急行【天北】の接続の後
浜頓別を発車する興浜北線列車
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

興浜北線廃止前の1983年の時点では、駅舎側から1、2、3番線と割り振られ、2、3番線ホームと駅舎は南稚内方の跨線橋で、1番線ホームと駅舎は通路で連絡していた。 1番線が興浜北線専用、2番線が天北線上り、3番線が天北線の下りとなっていた。 そのほか1番線ホームの未利用の片面部分に旧貨物側線を1線有し、3番線の外側に5線の側線、及びそれらから分岐した側線があり、うち1線には転車台も備えられていた。

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浜頓別駅に設置された
『思い出お~い天北線』スタンプの絵柄は
クッチャロ湖のコハクチョウだった

職員配置駅で、駅舎は構内の東側に位置していた。 鉄筋の駅舎は天北線の中心駅である事を示すかの如く内部が広く取られて、また観光の拠点らしい建物であった。 1983年の時点では待合室にズワイガニの剥製が展示され、『わたしの旅スタンプ』が設置されていた。 興浜北線は、当駅所属の車掌が担当していた。 1985年の1日乗降客数は350人との事。

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駅名の由来となったクッチャロ湖畔をゆく
天北線内の花形急行【天北】

駅名の由来は当駅の所在する地名からで、地名の「頓別」は、アイヌ語の「トウ・ウン・ペツ(沼から出る川)」に由来する。 これに海辺の地域を示す「浜」を冠したのが駅名であるが、駅開業当初のこの地は頓別村であり、駅だけが「浜頓別」を称していた。

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駅跡には宗谷バスの
バスターミナルが建てられている
※ ウィキペディア画像を拝借

その後、海側の頓別地区から当駅周辺に行政中心が移って市街ができると、まず地区名が浜頓別となり、更に1951年の町制施行時に、町名も駅名に合わせて浜頓別町となった。 砂川駅などと同様に、駅名が町の名前を変更させた例の一つである。 なお、駅の跡地は広大で、内陸寄りに宗谷バスのバスターミナルが建てられ、海寄りに浜頓別町役場と駐車場が移転してきている。



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興浜北線廃止後しばらくは
原野の中に朽ちるがまま放置されていた
頓別仮乗降場の板張りホーム
※『興浜北線の追憶』より

頓別仮乗降場(とんべつかりじょうこうじょう)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字頓別にあった国鉄・興浜北線の仮乗降場である。 興浜北線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。
駅名は地名からで、その地名はアイヌ語の『トウ・ウン・ペツ』(沼から出る川)に由来する。

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仮乗降場往時は
海沿いの字集落から続く
砂利道があったようだ
※『屍の駅』より

元々『頓別』は頓別川河口付近の字名であったが、その後流域全体を表す大地名と化し、後年の分村や町政施行に伴う自治体名改称により『浜頓別』となった経緯があり、単なる『頓別』の地名は、浜頓別町海岸付近の字名として残るのみである。

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車両1両分の長さに満たない
板張りホームに手書きの即席駅名標と
今に存在したなら『降り鉄』さんの
聖地となっていただろうね
※『なつかしの駅名標』より

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホーム長が気動車一両分にも満たない板張りのホームであった。 廃止時まで仮乗降場で、駅舎もない無人駅だった。 出自は1956年2月26日に、興浜北線を管轄する旭川鉄道管理局の局設定として開業した仮乗降場である。

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頓別乗降場跡は
完全に原野に還っていた
道は恐らく線路跡で
現在は風力発電用風車の
保守・管理道路となっている
※『mapIon』より

板張りホームは、路線廃止後もしばらくは朽ちるがまま放置されていたが、現在は原野の中に完全に埋もれて、駅跡地の判別すら着かなくなっている。




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カプセル駅舎が残存する豊牛駅と
駅横に建てられた火ノ見櫓

豊牛駅(とようしえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字豊寒別にあった国鉄・興浜北線の駅である。 興浜北線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 廃止対象路線となった翌年の1981年の1日の平均乗降人員は5人で、廃止年の1985年は平均乗降人員は1人だったとの事。

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駅舎は残ったが周囲は
一部が畑となった他は原野となった
※『mapion』より

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。 分岐器を持たない棒線駅となっていた。 駅舎は構内の北東側に位置し、ホームから少し離れていた。 無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築されて、斜内駅と同型のマスプロ設計の小型駅舎に建て替えられていた。 なお、駅舎内にトイレを有していた。

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アイヌ語に漢字を当てはめると
全くアイヌ語の意味と異なってくるね
『土・かぶさる・川』が
牛が豊かになるように』だからね
※『屍の駅』より

駅名の由来は、駅所在地は『豊寒別』と『プイタウシ』の中間にあり、「牛が豊かになるように・・」との地元の要望から『豊寒別』の『豊』、『プイタウシ』の『ウシ』・・即ち『牛』の1文字づつを取って命名したものである。

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施錠されてはいるが
倉庫としては使われているようで
駅前までは除雪されていたよ

なお、『豊寒別』はアイヌ語の『トイカムペッ(toy-kamu-pet)』(土・かぶさる・川)に由来するとされ、『プイタウシ』はアイヌ語で「エゾノリュウキンカの根を掘る所」の意とされている。

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物置となったカプセル駅舎の中には
駅往時に掲げられた
時刻表がそのまま残っていた

駅跡周辺には小さな漁村がある。海岸までは約0.2km。 駅裏は原野になっている。 現在も駅舎が残存しており、物置として利用されている。 以前は駅舎の中に入る事ができたが、現在は扉は施錠されており、ガラス越しにしか中が見れなくなっている。 旧駅舎の周囲は、畑になっている。



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豊浜仮乗降場の駅名標
廃棄された駅名標を塗りつぶして
手書きで書いて再利用・・
かなり格下の乗降場だったようだ
※『屍の駅』より

豊浜仮乗降場(とよはまかりじょうこうじょう)は、かつて北海道 (宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字斜内にあった国鉄・興浜北線の仮乗降場である。 興浜北線の廃線に伴い1985年7月1日に廃駅となった。
駅名は斜内地区の海岸の通称からで、『豊かな浜』の意とされる。

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現在の駅跡は原野に埋もれていた
※『mapion』より
 
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、ホーム長が気動車一両分にも満たない板張りのホームであった。 廃止時まで仮乗降場で、駅舎もない無人駅だった。 出自は1956年2月26日に、興浜北線を管轄する旭川鉄道管理局の局設定として開業した仮乗降場である。 駅跡は跡形もなく、原野に埋もれている。



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かつての斜内駅跡は野花が咲く
哀愁漂う情景を漂わしていた

斜内駅(しゃないえき)は、北海道枝幸郡浜頓別町字斜内にあった旧国鉄・興浜北線の駅(廃駅)である。 興浜北線の廃線に伴い1985年7月1日に廃駅となった。 駅名は所在する地名からで、その地名はアイヌ語の「ソー・ナイ」(滝の川)に由来する。

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斜内駅名標
オホーツクの海際にあった斜内駅は
冬は厳しい風雪を受ける為か
風防の衝立てで守られていた
※『屍の駅』より

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する棒線型の無人駅であった。 駅舎は線路の東側に位置し、ホームに接していた。 有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛駅と同型の駅舎となっていた。 廃止対象路線となった翌年の1981年の1日の平均乗降人員は8人で、廃止年の1985年は平均乗降人員は0.5人だったとの事。

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駅舎は民間に払い下げられて
個人の別荘として使用されているらしく
手入れが行き届き保存状態は良好だった

現在はホームなどは残っていないが廃線時の駅舎は残存している。 だが、駅舎は残存してはいるが、個人所有となっている為に中に入る事はできない。 いち時期は所有者の別宅として再利用されていたようで、現在は物置となっているようである。



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廃止時まで残った
目梨泊駅の木造駅舎と駅名標
※『駅名標の旅』より

目梨泊駅(めなしどまりえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字目梨泊にあった国鉄・興浜北線の駅である。 興浜北線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 駅名は駅が所在した地名からで、アイヌ語の『メナㇱ - トマリ』(東風〔のとき〕の・泊地)に由来する。 駅周辺の海岸部には防波堤のように突き出た岬(現在、目梨泊岬と呼ばれている岬)があり、かつては東南風の際に船がこの岬に避難したという。

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雪に埋もれた目梨泊駅名標
※『屍の駅』より

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。 ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。 分岐器を持たない棒線駅となっていた。

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かつてはタブレット閉塞の為の
要因が配置された有人駅で
廃止時まで撤去される事なく
木造駅舎が残っていた

無人駅(簡易委託駅)となっており、有人駅時代の木造駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北東側に位置し、ホームから少し離れていた。 駅舎は老朽化が激しかったが、豊牛や斜内のようにカプセル型の駅舎に建て替えられる事なく、路線廃止まで存在していた。 駅自体は完全無人であるが、駅前の個人宅で乗車券を販売している簡易委託駅となっていた。

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木造駅舎撤去後は長らく
空地として放置されていたが
周囲の宅地造成を受けて
コミュニティセンターが建てられている
※『フォートラベル』より

路線廃止後の駅跡は、砂利敷の更地となり永らく空地として放置されていたが、近年に周囲が住宅地として整備され、駅跡には『目梨泊コミュニティセンター』が建てられている。



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手書き駅名標の仮乗降場だったが
頓別や豊浜と違って
待合室があったらしい
※『屍の駅』より

山臼仮乗降場(やまうすかりじょうこうじょう)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字目梨泊にあった国鉄・興浜北線の仮乗降場である。 興浜北線の廃線に伴い1985年7月1日に廃駅となった。
駅名の由来は、アイヌ語の『ヤㇺ - ワッカウㇱ」(冷たい・水・いつもある〔ところ〕)からとされている。

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完全に原野に還って藪化した
山臼仮乗降場跡地
※『mapion』より

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で、気動車1両に満たない長さの板張りホームが北見枝幸に向かって左手(海側)に設置され、近くに待合室があった。 出自は1956年2月26日に、興浜北線を管轄する旭川鉄道管理局の局設定として開業した仮乗降場である。 駅跡は跡形もなく、原野に埋もれている。



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豊牛や斜内と同型の
カプセル駅舎となっていた問牧駅
※『北海道690駅・宮脇俊三 著』より

問牧駅(といまきえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字問牧にあった国鉄・興浜北線の駅である。 興浜北線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 駅名の由来は開業時の所在地名からで、地名はアイヌ語由来の「トゥイ-パケ」(崩れた・出崎)からとされるが、確証はされていない。

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集落とは1km近く離れて
駅周辺に民家は見当たらなかった
※『屍の駅』より

廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)にあった。 分岐器を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛や斜内と同型のプレハブ駅舎となっていた。 駅舎は構内の東側に位置しホームに接していた。
駅舎内部の事務室部分は、カーテンが引かれて物置となっていた。

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駅跡にはコミュニティセンター
が建てられている
※『mapion』より

興浜北線は内陸側の高台を通っており、問牧の集落は海沿いにある小さな波止場集落で、当駅から目梨泊寄りに1km近く離れていた。 現在の駅跡には、『問牧コミュニティセンター』が建っている。

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奥に見える高架道が『枝幸バイパス』で
国道の新道と並走していた線路跡は
枝幸の市街地に入ると舗装道路となる
※『屍の駅』より

国道238号線の旧道は海沿いにある問牧の集落を経由していたが、1980年頃に興浜北線の線路と並行するルートで『枝幸バイパス』と呼ばれる新道が建設されている。 この国道238号線の『枝幸バイパス』は、ジグザグの道筋となっていた枝幸の市街地を通らずに、町の外側を高架道で周って一直線に興浜北線の問牧駅前付近に抜けている。



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在りし時の北見枝幸駅
当時は『撮り鉄』で頭がいっぱいとなり
駅を撮るの忘れてたよ
※『旅と鉄道』'83年春の号より

北見枝幸駅(きたみえさしえき)は、かつて北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字栄町にあった国鉄・興浜北線の駅である。 興浜北線の廃線に伴い、1985年7月1日に廃駅となった。 1981年度の1日平均乗降客数は100人との事。 駅名の由来は、開業時の自治体名・地名(枝幸村エサシ)からで、同音の江差線・江差駅との区別の為に旧国名の『北見』を冠していた。

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北見滝ノ上などと同じ
様式の木造駅舎だった北見枝幸駅
※『鉄道ジャーナル別冊・列車追跡』より

北見枝幸駅は、天北線浜頓別駅からオホーツク海沿いに南下していた興浜北線の終端駅である。
当駅から南に向かい、興浜南線の終端駅である雄武駅との間50キロ強が鉄道で結ばれる興浜線計画があり、路盤や施設などは一部が建設されていたが、同区間は未成線のまま開通する事なく興浜北線・南線も廃止された。

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興浜南線の終着駅・雄武との未成線区間は
宗谷バスが連絡している
※『旅と鉄道』'83年春の号より

また、当駅は宗谷本線美深駅を起点とする美幸線の終点ともなる予定であったが、同線は『日本一の赤字線』となるほどに経営環境が悪く、路盤や施設などの一部が建設されていた仁宇布駅から先の未成区間の建設工事が凍結された上で、開業区間の美深〜仁宇布も廃止された。

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路線廃止の1年半前まで
原木輸送中心の
貨物列車も運行していた
※『壁紙館』より

廃止時点で単式ホーム1面1線を有する駅で、興浜北線の終端駅であった。 ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。 また貨物用などの側線を2線有し、その他にも駅舎側本線の延長上から浜頓別方の駅舎側に分岐し、駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。 構内には興浜線・美幸線未成区間の路盤が完成しており、レールの敷設が行われればすぐにでも列車が走行可能な状態であった。

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北見枝幸駅構内全景
夏のフイルム間違い失敗作を
モノクロサルベージしたので
濃くて滲む写真デス

職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置しホーム中央部分に接していた。 開業から5年目に改築された白壁の駅舎であった。 駅舎正面中央辺りに『興浜北線・終着駅 北見枝幸駅』の看板が建っていて、旅情を誘っていた。

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枝幸の街は宗谷管内では
稚内に次ぐ大きな街で
大店舗スーパーがあるなど駅以外は
普通の街の機能を有している
※ ウィキペディア画像を拝借

駅名となる町名であるが、アイヌ語の「頭が・浜に・ついている・所」、即ち「岬」を意味する「エサウシイ(エサウシ)」に由来するとされる。 枝幸町は、宗谷支庁管内では稚内市に次いで2番目の大きな街であり、西條百貨店などがある。

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駅跡に建立された
駅跡を示すデカイ石碑
※ ウィキペディア画像を拝借

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だがこの鉄道公園は
今まで見た駅跡公園で
最もショボいモノだった
※ ウィキペディア画像を拝借

駅舎跡地は交通公園として整備されており、『北見枝幸駅跡』の記念碑が建立されている。
その向かいに建つバスターミナルも駅跡だった敷地に建っている。

通常はミュージアムの収蔵庫に
保管されて見れないので
(たぶん)お蔵入りして公開されていない
興浜北線の資料おば
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撮ってて良かった
北見枝幸駅の駅名標

駅名標・行先標・乗車券・備品などの興浜北線の資料は、バスターミナル2階に開設された『交通記念館』に展示されていたが、バスターミナルの1階に移された後、2012年の時点ではバスターミナルから『オホーツクミュージアム枝幸』に移され、その一部のみ常設展示されている。

興浜北線の資料・その2
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往時の北見枝幸駅に設置されていた
『ディスカバー・ジャパン』と手掘りの駅スタンプ

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北見枝幸駅入場券と
掲げてあった駅看板

資料の多くは収蔵庫に保管されて通常は公開されていないが、収蔵庫公開の折に見る事が出来る。
以前はバスターミナルの2階に置かれていただけであったが、現在はミュージアム内に整理された形での展示となっている。

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駅前食堂は北見枝幸駅廃止後
四半世紀経っても
まだ営業しているようだった
※ ウィキペディア画像を拝借

また、交通公園の周囲は駅前の雰囲気が残り『駅前食堂』という名の食堂や駅前旅館も残っている。
この食堂は2010年時点でも営業中である。 線路跡は町道『興浜線通』に転用されており、末端部分は国道の跨線橋下まで続いている。


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代用食としてコオロギなどの
昆虫食が持ち上げられているが
ワテは飢えてもそんなの食いたくないわ

コオロギ食うくらいなら食べられる
別の食い物を必死になって探すよ
ゲテモノは食わないけど飢える中でも
生きる事を絶対に諦めたりはしない

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そしてひろゆき氏の言うように
コウロギ食う前に蛋白源として牛乳を飲むよ
ワテは牛乳はあまり好きではないが
だからこそ飲めるようにコーヒーを
ひとさじ加えるなど美味しく飲む努力をするよ

以前のバナー下の内容に通じる事だが
外国人や特段生活に困らぬ国際大会出場選手への
支援など一切凍結して業として継続が
困難となっている酪農業や銭湯など生活が
かかっている層への支援に切り替えるべきなのだ

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話は変わるが傾きかけたワテの勤め先は
先ゆきジリ貧必至の車の駆動部品の代わりに
多様なビジネスとして昆虫食やドローンの
生産・販売を手掛けようとしている

これを見てワテは「この会社は
持って10年だな」と確信が持てたよ
まぁ10年先はワテは引退してるので
この会社がどうなろうが知った事ないけど

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けれどこのままでは自身の身の上に危機が
迫ると理解して早く副業である家主業を
独り立ちさせて「いつこの会社が
潰れたり解雇されてもいいように
もっていかねばならない」と思ったよ

昆虫食は日本では拒絶者が多く
ビジネス展開などできないし
ドローンもオモチャ・業務用の
どちらで売り出すかの指針を確立させねば
全く売れないで総崩れとなるよ

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なぜなら軍事用として扱われるドローンは
業務用で売り出すなら改造不能の処置を
施さねば犯罪の温床となりかねないし
オモチャとして売り出すなら製品の安全対策に
かなりの投資を強いられるだろうしィ

正直言って本業の車の駆動部品で
電気自動車に対応する新製品が開発できない
この会社に未来はないなって思ったのである

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でもあんまり『オール電化』に溺れると
災害などで停電すると
死に直面する大事となりかねないよ

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それは形は全く違うがデジタルが
人の能力や思考力を奪っていく様の
末路と同じような気がするワテでした






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No Subject * by hanagon60
興浜北線、懐かしいです。
学生時代に北海道の鉄道を乗り回していたのですが、この路線は大好きでした。
斜内山道も印象的でしたが、沿線の駅にも惹かれました。
夏の豊浜駅ではホームでお昼寝もしました。贅沢に時間が使えた時代でしたね。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-393.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanahonさん、こんばんは。
恐らく、最も乗りたいあるいは乗りたかった廃止路線ですね。 興浜北線は。

私は最初の旅でフイルム間違いで撮った写真が全ボツとなってからは、リベンジに燃えてました。 だから、冬に駅寝も辞さなくなったのですね。

私は専ら、北見神威岬でした。 徒歩『撮り鉄』なら1ヶ所で撮るのが限界ですから。 廃止になってからも、クッチャロ湖の白鳥と撮るときに必ず立ち寄ってますね。

撮っててよかった、幸運だったって事ど、なぜもっと撮らなかったのだろうという公開がありますね。 この興浜北線には。

コメント






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No Subject

興浜北線、懐かしいです。
学生時代に北海道の鉄道を乗り回していたのですが、この路線は大好きでした。
斜内山道も印象的でしたが、沿線の駅にも惹かれました。
夏の豊浜駅ではホームでお昼寝もしました。贅沢に時間が使えた時代でしたね。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-393.html
2023-04-12 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanahonさん、こんばんは。
恐らく、最も乗りたいあるいは乗りたかった廃止路線ですね。 興浜北線は。

私は最初の旅でフイルム間違いで撮った写真が全ボツとなってからは、リベンジに燃えてました。 だから、冬に駅寝も辞さなくなったのですね。

私は専ら、北見神威岬でした。 徒歩『撮り鉄』なら1ヶ所で撮るのが限界ですから。 廃止になってからも、クッチャロ湖の白鳥と撮るときに必ず立ち寄ってますね。

撮っててよかった、幸運だったって事ど、なぜもっと撮らなかったのだろうという公開がありますね。 この興浜北線には。
2023-04-13 *  風来梨 [ 編集 ]