2023-03-20 (Mon)✎
廃線鉄道 第100回 興浜北線 その1 〔北海道〕
岬灯台の下を急カーブに
車輪を軋ませながら
行き交っていた興浜北線列車
興浜北線(こうひんほくせん)は、かつて国鉄が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。
北海道枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅で天北線から分岐し、オホーツク海沿岸を南下して枝幸郡枝幸町の北見枝幸に至る国鉄の路線で、浜頓別を終点とする興浜線の北側の先行部分として開業した路線で、南側部分の興浜南線より遅れる事10ヶ月の1936年7月10日に開業している。
創成期の北海道の鉄道は
開拓の使命を担うべく森へ港へ鉱山へと
多くの路線が敷設された
※『鉄道ジャーナル別冊・列車追跡』より
当線の先行開業後も、興浜線(興部~浜頓別)全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定されて延伸工事は凍結となり、既存区間も興浜南線より半月早い1985年7月1日に路線廃止となっている。
名寄本線の興部から雄武まで
先行開業した興浜南線の雄武から
雄武~北見枝幸の未成線を介して
:
勝手に想像して作成したもので
路線位置や駅の位置などに
何ら根拠も確証もありません
北見枝幸から興浜北線で浜頓別までつなぐ
:
網走(根室)から稚内へオホーツク海沿岸を
縦貫する壮大な鉄道構想であった興浜線
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
改正鉄道敷設法別表第145号に規定する予定線の一部で、本来は興浜南線と結んで興部~浜頓別のオホーツク海沿岸を縦貫する鉄道(興浜線)となる計画であった。 1936年に北見枝幸までが開業したが、太平洋戦争末期の1944年に不要不急線として全線が休止、全線路が撤去された(樺太の鉄道用に利用される予定であったが輸送前に終戦を迎えた)。
レンタカーの中から撮った
興浜未成線区間の橋梁
だが未成区間の建設計画は
開拓期の終了と過疎化などで頓挫し
先行開業区間の廃止対象指定と共に
建設自体が完全凍結となった
※『鉄道ジャーナル別冊・列車追跡』より
終戦の翌9月に枝幸村から政府への復旧陳情が行われるとすぐに許可が下り、全道から工事作業者を募集して、工事着手から僅か2ヶ月の12月5日に復活させた。 両線間の未成区間の一部で建設工事も行われていたが、沿線の開拓計画の頓挫などから建設は進まなかった。
戦後の道路整備て旅客が減少した
興浜北線には無煙化のつなぎとして
レールバスが導入された
※ ウィキペディア画像を拝借
1956年7月1日からレールバス(小型気動車)が導入され、1966年4月8日からは一般形気動車に置き換わっている。 また、無煙化は遅く、1975年5月まで蒸気機関車の運転があり、貨物列車の牽引を行っていた。
路線廃止1年半前の1984年2月まで
貨物列車が運行されていた
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
結局、1980年に施行された国鉄再建法によって接続する予定であった興浜南線と共に第1次特定地方交通線に指定され、未成区間の延伸工事が凍結されると共に、両線とも1985年7月に全線廃止(当線の廃止は、興浜南線の廃止より2週間早く断行された)。 稜線の廃止により、一部で完成していた未成区間の路盤等も放棄された。
『国鉄再建法』によって第1次廃止路線に
指定されて1985年7月1日で
廃止となったこの時をもって
『オホーツク縦貫鉄道』の構想は夢となった
※ オークションで現物を購入
急行【天北】との接続後に
浜頓別を発車する
ダイヤ設定が組まれていた
:
その本線格の天北線も
興浜北線廃止4年後の1989年5月で
路線廃止となっている
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
更に、両線が接続していた天北線と名寄本線も第2次の特定地方交通線に指定され、JR北海道に承継された後の1989年5月に両線とも全線廃止となっている。 また、北見枝幸からは、宗谷本線の美深を起点とする美幸線が接続する計画もあった。
美幸線の未成線区間と
歌登町営軌道の予想路線図
:
地図上の駅の位置などは
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
この延伸工事も、開業済みの仁宇布から先で一部路盤やスノーシェッドなどの延伸工事が行われ、一部の区間では路盤がほぼ完成していて『レールを敷けば開業』の状況まで漕ぎつけたが、美幸線の既存区間自体が『日本一の赤字線』となるほど経営環境が悪かった為に北見枝幸までの全線開通は叶わず、美幸線も当線と同様に第1次特定地方交通線に指定されて1985年9月17日に廃止されている。
北見枝幸駅に到着する
興浜北線の単行気動車
:
初めての夏の北海道旅で
フイルム間違いで全ボツとなった
写真のサルベーシ(モノクロ化)でっす
廃止協議の過程で、北見枝幸~雄武を完成させて天北線・名寄本線・湧網線などと一体化させる『オホーツク縦貫鉄道構想』も立案されたが、開業しても毎年数億円単位の赤字が発生する事が判明し、結局は断念されている。
国鉄・興浜北線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):浜頓別~北見枝幸 30.4 km、軌間:1,067 mm、
電化区間:なし(全線非電化)、複線区間:なし(全線単線)
興浜北線の全正規駅が記載された
パンチ式の車内補充券
駅数:9駅(起終点駅含み正規駅 6・仮乗降場 3)
〔浜頓別〕・頓別仮乗降場・豊牛・豊浜仮乗降場・斜内・目梨泊・山臼仮乗降場・問牧・北見枝幸
※ 起点駅の浜頓別は興浜北線廃止後も存続したが、1985年第二次廃止対象の指定を受けた
所属路線の天北線が、1989年5月1日に路線廃止となったのに伴って駅廃止となっ
ている
※ 頓別・豊浜・山臼は、国鉄本社の承認を得ない局設定(路線を管理する旭川鉄道管理局)
の仮乗降場であった
在りし日の北見枝幸駅
:
線内途中駅は全て無人駅で
タブレットは駅員配置の
始発駅・浜頓別と終着駅・北見枝幸での
受け渡しとなっていた
※ 『旅と鉄道』'83年春の号より
閉塞方式:票券〔タブレット〕閉塞式(全線1閉塞)
※ 過去に、目梨泊でも閉塞扱いを行っていた
音威子府からの始発列車に併結されて
浜頓別で切り離されて
興浜北線6往復の運用に就き
最終の音威子府行きに併結されて
機関区に帰る車両運用であった
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
運行本数:全列車が終着の北見枝幸折り返しで6往復運行されていた
路線廃止区間の1983年度の営業係数:2201、同輸送密度:111
灯台下を周り込むようにゆく
興浜北線の列車
:
岬めぐりのできる風光明媚な路線で
「一度は乗ってみたい路線」であった
※『北海道鉄道百景』
監修・国鉄北海道総局より
国鉄・興浜北線 年表
1936年(昭和11年) 7月10日 : 浜頓別~北見枝幸 (30.4km) を興浜北線として開業
豊牛・斜内・目梨泊・問牧・北見枝幸を新設
1944年(昭和19年)11月 1日 : 戦争激化に伴い、不要不急路線として全線 (30.4km) が休止となり
線路撤去
撤去された線路資材は樺太に送られる事となる
1945年(昭和20年)12月 5日 : 全線 (30.4km) の営業を再開
樺太に送る予定の線路資材の輸送直前に終戦となり、その後2ヶ月
余りの突貫工事で営業再開となった
頓別仮乗降場
:
即席で立てられた感
アリアリの駅名標だった
豊浜仮乗降場
:
古くなって廃棄された駅名標の
文字を塗り潰して
その上から手書きで作成されたようだ
山臼仮乗降場
:
頓別と同じ仕様の駅名標だが
聞く所によると他の2つと違って
掘っ建て小屋の待合室があったらしい
※ 3枚いずれも『屍の駅』より
1956年(昭和31年) 2月26日 : 頓別仮乗降場・豊浜仮乗降場・山臼仮乗降場を新設
7月 1日 : レールバス(小型気動車)が導入される
耐寒対策によりデッキ付きで
支線の急行運用に
就く事もあったキハ22
1966年(昭和41年) 4月 8日 : 一般形気動車(キハ22)に置き換え
1975年(昭和50年) 5月 : 蒸気機関車の運転を廃止して気動車化(無煙化)
1981年(昭和56年) 9月18日:第1次特定地方交通線として廃止承認
路線廃止の1年半前まで
原木輸送の貨物列車が走っていた
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
1984年(昭和59年) 2月 1日:全線の貨物営業を廃止
1985年(昭和60年) 7月 1日:全線 (30.4km) が路線廃止となり、宗谷バスにバス転換となる
岬灯台直下をめぐっていた
興浜北線の線路跡
廃線跡めぐり
分岐駅の浜頓別駅の跡地は、浜頓別町によって『浜頓別バスターミナル』として整備されている。
宗谷バスの窓口が設置され、天北線代行バス・興浜北線代行バス・都市間バスが乗り入れている。
浜頓別駅の跡地に建てられた
宗谷バスの浜頓別バスターミナル
※ ウィキペディア画像を拝借
また、バスターミナルの建物2階には、浜頓別町立図書館と鉄道記念館が設けられている。
駅の裏手に当たる位置には、2001年8月に浜頓別町役場が移転新築されている。
浜頓別から酪農地や原野湿地帯を
一直線にオホーツクの海に向かっていた
線路跡には風力発電の風車が建てられ
その保守・管理道路となっている
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
浜頓別駅から出た線路跡は、かつて駅構内であった地点まで鉄道公園として整備され、タイルが敷かれて車輪のオブジェが展示されている。 その後は牧草地との境の盛土となり、現在はその上に風力発電の風車が建てられ、線路跡は風車の管理・点検用の道路に転用されている。
原野の中に設けられた
頓別仮乗降場
※『なつかしの駅名標』より
現在は廃業したのか酪農地だった
駅跡周辺は原野と化している
※『mapion』より
頓別乗降場跡は原野湿地帯と化している。 頓別を過ぎて程なくオホーツク海に寄り添って、オホーツク海と並行する国道238号線を挟んだ内陸側を並走するようになる。
豊牛駅のカプセル駅舎は現存し
物置として使われている
豊牛駅のカプセル駅舎の跡は現存し、物置として使用されている。 物置となった駅舎跡の中に、かつて豊牛駅で使われていた時刻表が残っている。 また、駅舎の右脇に、火の見櫓が建てられている。
完全に原野に戻った
豊浜仮乗降場跡地
※『mapion』より
豊牛から斜内までも、引き続いて国道238号線を挟んでオホーツク海に並行するが、線路跡は荒れ地となりブッシュが生い茂って歩行困難となっている模様である。 集落が見え始めると斜内に出る。
斜内のカプセル駅舎も現存しているが
コチラは聞く所によると内地の人が
別荘として購入したようで
定期的に清掃されているようだ
斜内も、カプセル駅の駅舎跡が現存している。 何でもこのカプセル駅舎は民間に払い下げられ、物置兼別荘として利用されているらしい。 この駅舎跡の右脇にも、豊牛駅跡と同様に火の見櫓が建てられている。
斜内からの興浜北線の線路は
斜内山道の裾を岬灯台まで
真っすぐに進んでいた
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より
斜内からは、線内最大の難所・斜内山道の裾を通り、沿線きっての名勝・北見神威岬の灯台下を馬蹄形にめぐっていくが、路線往時にその下を通っていた国道238号線は斜内山道を直接貫く『北オホーツクトンネル』が1999年に開通し、興浜北線と一緒に岬を周っていた道は町道に格下げられて、岬周遊の観光道路となっている。
国道238号線は興浜北線の
更に下を周回していたが
『北オホーツクトンネル』の開通により
冬季閉鎖の観光道路に格下げとなった
また、この町道は冬季は完全閉鎖となる。 この『北オホーツクトンネル』の完成により、斜内から岬へ渡る線路跡の土盛が撤去されてトンネルの坑口となってる。 斜内からは更にオホーツク海に接近した斜内山道裾の土手上を通る。
北見神威岬灯台下の
急カーブをゆく
線路跡の上に立って
岬灯台と峻険な斜内山道を見上げる
岬灯台が後ろに見えると
急カーブで
岬を半周以上周った事が判る
やがてクライマックスの北見神威岬で、岬の灯台下をR190の急カーブで往時は車輪を軋ませながら周り込んでいた。 岬の灯台下を馬蹄形に周りこみ、『北オホーツクトンネル』となって斜内山道を貫いた国道238号線と合流する。 その合流地点には北見神威岬と斜内山道を望む展望公園として整備されている。
トンネルの枝幸側坑口の
先にある展望公園から
北見神威岬と斜内山道を望む
『北オホーツクトンネル』の目梨泊側の坑口も路盤跡の土盛りは撤去されているが、往時は国道238号線は常時海側で、線路跡は内陸側を並行して進んでいた。 少し国道から離れて内陸の小集落地に入ると目梨泊駅跡だ。
目梨泊駅跡は永らく空き地であったが
現在はコミュニティセンター
が建てられている
※『フォートラベル』より
駅跡は永らく荒れ地で放置されていたが、今は住宅地として整備され、コミュニティセンターが建てられているとの事である。
山臼仮乗降場跡も遺構が
全く残らず原野と化していた
※『mapion』より
目梨泊駅跡を過ぎると再び藪地の中に入り、全く駅跡の形跡が残らない山臼仮乗降場を通って、そのまま土手の高台を通り、その土手のやや開けた所に問牧駅があった。
問牧駅跡はいち早く
コミュニティセンターが
建てられたようだ
※『mapion』より
現在はコミュニティセンターが建っているが、問牧の集落は国道から分かれて海沿いを周る町道にあり、駅からは1km近く離れている。
バイパスとなった国道238号線の
下を潜ると枝幸の市街地に入り
線路跡も舗装道となる
※『屍の駅』より
問牧からの線路跡も引き続き藪化した中を通る(線路跡は砂利道化)が、バイパス化された国道238号線の下をくぐった辺りより北見枝幸の市街地に入り、その先の線路跡は舗装された道路となる。
この道路は町道に指定され、《興浜線道》と名付けられている。
舗装された線路跡は
『興浜線通』と名付けられている
※『屍の駅』より
この《興浜線道》を1kmほど行くと、現在宗谷バスのバスターミナル(正確には側線が敷かれていた駅構内)となっている終点北見枝幸駅跡に出る。
北見枝幸駅跡のかつて側線があった所には
宗谷バスのバスターミナルが建っている
この建物の2階部分は
いわく付きの興浜北線資料室があった
:
その『いわく』については
次回の《その2》にて
※ ウィキペディア画像を拝借
駅舎のあった側には
デカイ石碑のある駅跡公園がある
:
ワテが今まで見た駅跡公園で
最も“らしくない”駅跡公園だったよ
バスターミナルと線路跡の《興浜線道》を挟んだ駅舎の建っていた敷地は公園整備されて、駅跡公園となっている。 公園には『北見枝幸駅跡』と刻まれたデカイ石碑が設置されている。
※ 長くなるので、続きは『第101回 興浜北線 その2』にて
利権の為に『ロシアフレンズ』となって
「ロシアは(ウクライナに)負けるハズがない」
と宣ったムネオハウスさんは論外だが
北海道のオホーツク沿岸で水産業を
営む方々がロシアを悪く言えない
気持ちを抱くのは理解できる
なぜなら北方四島や樺太近海の好漁場が
ロシアの管理下にあり
ロシアが態度を硬化させれば
ウニ・鮭・サンマなとの海産物が入手できなくなり
飯の食い上げとなりかねないからである
これは国民が感染爆発によって
大被害に遭うのが解っていながら
己の利権の為に東京五輪を開催した
推進者共と全く異なるのである
ホント・・東京五輪の開催を推進して
国民7万人超を殺害する感染爆発を
引き起こしたチョンの日本人成りすまし
政治屋や推進者共は今すぐにでも
首に縄を掛けて吊るしてやりたいよ
でも今は厳しくともどちらにもいい顔の
対応をしてロシアを野放しにしては
後々更に悪い影響を及ぼすし
他の悪意ある国もナメてかかってきて
国が侵食されてしまう
それでなくてもチョンの背乗り天皇ヒロヒトを
処刑・処罰しないなど問題を先送りして
天皇ヒロヒトにより『謝罪ATM国家』に貶められて
シナやチョンにタカられ続ける在日チョン災禍を招く
失態で日本は戦後70年苦しめられたのだ
だからこそ全ての問題を解決に向かわせるべく
チョンの背乗りである皇族をチョンと看破して
日本から追放してそれを口実に
チョンを一斉追放して国交を断絶させて
西側諸国の一員として覇権主義を目論み
今後は日本の国と敵対する事が確実な
シナやロシアと対峙していかねばならないのだ
そして外国人や生活に特段困難のない層への
利権目当ての支援はやめて
日本の国の為に税を使うよう改めるべきだし
ヘイト法・外人ナマポ・免税店など
反日的な制度や法は全て廃して
減税で国民に還元すべきなのだ
経済を回す為に今回の不況の原因である
武漢コロナの蔓延をもたらした
東京五輪の推進者共を処刑・処罰して
蔓延の始まりが東京五輪参加外人と特定して
武漢コロナを終息に向かわせるべきなのだ
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