2023-03-07 (Tue)✎
廃線鉄道 第99回 上武鉄道 〔埼玉県〕
機関車がミニサイズの
2軸客車を牽引するだけで
事足りる輸送量しかなかった
※『地方私鉄1960年代の回想』より
上武鉄道(じょうぶてつどう)は、埼玉県児玉郡神川町の丹荘と西武化学前の間を結んだ《日丹線》という鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。 1986年に鉄道路線を廃止し、以後は群馬県高崎市倉賀野に本拠を置く通運会社として存続していたが、1998年に解散公告を行い事業を停止している。
ほぼ全ての列車が
貨車と混結の混合列車であった
:
貨物と貨車を牽引して
丹荘へ向けて走り出すディーゼル機関車
※『マイナビニュース』より
元は、太平洋戦争中の1942年に、日本ニッケル株式会社が群馬県多野郡にあった多野鉱山、ニッケル精錬所と神流川を隔てた埼玉県児玉郡にあった若泉製鋼所の専用鉄道として敷設した鉄道路線である。
戦後、軍需物資の輸送が無くなり、これに頼っていた鉄道の維持が困難になっていた事と、沿線自治体の要望により1947年5月に地方鉄道に転換し、旅客営業を開始したもので、運営は日本ニッケル鉄道部が行った。 この路線は、通称で『日本ニッケル鉄道』と呼ばれていた。
上武鉄道の社紋を掲げた
自社発注のディーゼル機関車DB102
※『上武鉄道の機関車』より
1960年に日本ニッケルの鉄鋼部が朝日化学肥料に譲渡され、西武化学工業(現・朝日工業)が発足した事に伴って、日本ニッケルの一組織であった鉄道部が独立して1962年に上武鉄道となった。
有蓋貨車3両にマッチ箱客車を
1両くっつけた1日4往復の
定期旅客扱いの混合列車
※『上武鉄道<旧:日本ニッケル鉄道>』より
1943年11月には、軍需物資であるクロム鉱石などの輸送を目的とし、終点付近から分岐して若泉村渡瀬(わたるせ)にいたる2.3kmの延長計画が立てられたものの、資材の調達ができずに翌年断念となった。 戦後にも地方鉄道転換と共に延長を申請し、1946年9月に免許が下付されたが、この時も資金の目途が立たずに1966年に免許は失効している。
青柳駅
短い棒線ホームと離れた位置にある
掘っ建て小屋に地元の企業(銀行)の
宣伝板が掲げられた光景に
北海道の仮乗降場を思わせる
地方鉄道転換後は、途中に停留所(駅)が増設されたが、1日の利用客は10人を割り込む状況で、実態は専用鉄道同然であった。 極度に旅客利用がない事から。1972年12月いっぱいで旅客営業を廃止して貨物専業となったが、沿線住民からは特に反対はなかったという。 その後、貨物輸送は積替えの必要のないトラック輸送に切り替わり、1986年12月に路線そのものが廃止された。
当時は周囲に家屋はなく荒れ地が広がり
貨物鉄道以外に成立しない土地柄だった
※『上武鉄道<旧:日本ニッケル鉄道>』より
1980年代の上武鉄道では、国鉄で廃車となった大量の車両の解体が行われていた。 貨車はいうに及ばず、旅客車両までが西武化学前の解体場に送り込まれ、次々と解体されていった。 西武化学工業では日本ニッケル時代からスクラップの再生製鉄を行っており、そのノウハウを活かした副業が国鉄末期の需要とマッチしたものと推測される。
最も橋の側線に土盛りのホームが
あるだけの貨物専用線然とした
往時の上武鉄道・丹荘駅
廃線跡は大部分が遊歩道(丹荘よりの数キロはセンターラインのある車道となっている)になっており、神川中学校前と寄島のプラットホームが保存されている。 丹荘駅跡は神川町が借り上げて町の花である秋桜畑にしていたが、2004年4月頃に宅地分譲の為に残っていたホーム跡と一緒に更地にされて、当時の面影は残っていない。 地元では、『日丹線』又は『ニッケル線』の愛称で呼ばれていた。
上武鉄道・日丹線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):丹荘~西武化学前 6.1 km、軌間:1,067 mm、
電化区間:なし(全線非電化)、複線区間:なし(全線単線)
遊歩道の脇に
寄島駅ホームの石垣が残り
駅跡を示す駅名標が立っている
※『マイナビニュース』より
寄島駅の現役時は何もない荒れ地に
ポツンとホームがあるだけだったが
現在は住宅が立ち並んでいる
駅数:5駅(起終点駅含む)丹荘・神川中学校前・青柳・寄島・西武化学前
※ 丹荘駅には数本の側線を挟んで専用の単式ホームがあり、国鉄線と線路が連絡していた
※ 中間の停留場は全て1面1線の棒線駅で、ホームは客車1両分の長さしかなかった
※ 終点の西武化学前は、西武化学工業若泉工場の敷地内にあり、自転車置き場や構内通路と
一体となった旅客ホームがあった
※ 西武化学前の駅構内には車両基地があり、機関車や客車が留置されていた
末期の1日平均の
乗客5.5人を考察すると
乗客のほぼ全てが
中学校までの通学生と思われる
※『上武鉄道廃線探索』より
輸送実績:旅客(最大時1949年)年間 72000人〔1日平均 192.3人〕
(旅客営業廃止直前・1970年)年間約2000人〔1日平均 5.5人〕
貨物(最大時1963年)年間 176897トン〔1日平均 484.6トン〕
(路線廃止直前・1985年)年間11954トン〔1日平均 32.8トン〕
定期列車4往復で仕立てた列車は
ほぼ全てが貨客混合列車だった
※『マイナビニュース』より
運行形態:1963年のダイヤでは定期列車4往復と不定期列車5往復が設定されていたが、実質的には定期列車4往復のみの運行であった。 主に混合列車で運転され、貨車の後に木製の2軸客車1両を連結してディーゼル機関車が牽引する形態であった。
走行中に切り離して機関車と貨車が
側線に入った後にポイントを切り替える
アクロバットな運行は
今なら確実に運行停止処分を
受けていただろうね
※『マイナビニュース』より
終点の西武化学前では、直前で列車を停止して最後尾の客車に連結手が乗り込み、再発車後に客車は走行中に解放され、機関車と貨車が側線に入った後にタイミングを計ってポイントを切り替え、客車だけがホームに進入するという運転を行っていた。 また、駅でなくても線路際で手を上げれば、列車を止めて乗車できた。 旅客営業末期のダイヤは1日1往復のみで、丹荘~西武化学前の運転時分は24分であった。
西武化学駅構内の一角にあった
上武鉄道の機関庫
上武鉄道・日丹線 年表
1941年(昭和16年) 7月16日:専用鉄道敷設許可
10月15日:敷設工事着工
1942年(昭和17年) 6月30日:日本ニッケルの専用鉄道として開通
1946年(昭和21年) 3月15日:地方鉄道転換申請
9月25日:地方鉄道転換認可
1947年(昭和22年) 5月 1日:地方鉄道に転換し、旅客営業開始
途中の停留所として、青柳・寄島・若泉(後の西武化学前)を設置
1962年(昭和37年) 1月 1日:上武鉄道に改称
主力機関車となるDC101を譲り受けたのは
旅客営業廃止の7年前でこの時でも
貨物輸送は日に400トン以上あったが
旅客は日に100人を少し超える位であった
※『1970年 秋 上武鉄道』より
1966年(昭和41年) : 神川中学校前設置
1973年(昭和48年) 1月 1日:旅客営業廃止して、貨物専業鉄道となる
同時に、途中駅の神川中学校前・青柳・寄島を廃止
1986年(昭和61年)10月31日:国鉄(八高線の丹荘駅)との連絡運輸を打ち切り
12月31日:正式に全線廃止
1998年(平成10年) :鉄道路線廃止後も群馬県高崎市倉賀野に本拠地を置いて通運会社
として操業していたが、この年に解散広告を出して事業を停止
西武化学構内で貨車を牽引して
走り出す蒸気機関車
※『マイナビニュース』より
車両
蒸気機関車
上武鉄道に在籍した蒸気機関車は、専用鉄道としての開業時に飯山鉄道から譲り受けた1両 (形式3号機) のみというのが通説であったが、3両とする説もある(3以外はA1と8)。 いずれにしても3号機以外は、国鉄または西武鉄道からの借入れ車で占められていた。 この他、1942年に国鉄から1165(1150形)または1070(1070形)のいずれかを短期間借入れた記録がある。
ほぼ全てが譲り受け車両だった上武鉄道で
唯一の自社発注の機関車である
DB102ディーゼル機関車
※『上武鉄道の機関車』より
ディーゼル機関車
上武鉄道のディーゼル機関車はDB102を除いて全て他社からの譲渡車であり、中にはディーゼル機関車草創期の車両もあるなど、きわめて多彩なものであった。
無煙化に際し最初に導入された
D1001ディーゼル機関車
:
この機関車は国鉄DB10型と同型機で
鹿島参宮鉄道からの譲渡車であった
※ ウィキペディア画像を拝借
D1001ディーゼル機関車の原型となった
国鉄DB10型ディーゼル機関車
※ ウィキペディア画像を拝借
最初に入線したD1001と借り入れ車のD21以外、全ての車両が1986年の路線廃止まで在籍した。
元成田鉄道のD1001型
ディーゼル機関車だったD21
:
最初に導入したディーゼル機関車と
形式が被る為にD21と改番されていた
※『上武鉄道<旧:日本ニッケル鉄道>』より
出力は随一だったものの
井川のダム建設の為に制作された
機関車ゆえに運転室が低く運転がし辛く
早々に休車となったDD104
※『上武鉄道の機関車』より
建設省より譲り受けた
DC101形ディーゼル機関車
運転操作性が良かったようで
主力機関車となっていた
※『1970年 秋 上武鉄道』より
上武鉄道最後の増備機関車となった
液体式凸形機関車のDB351
※『上武鉄道の機関車』より
在籍したディーゼル機関車は1953年に鹿島参宮鉄道より譲受した機械式L形機関車のD1001と、成田鉄道でD1001だった機関車を番号が被る為に改番したD21、井川ダム建設用に井川線に投入された機関車を譲り受けたDD104、1966年に建設省より譲受した液体式L形機関車のDC101、自社で新製したDB102、旅客営業廃止後に八幡製鉄より譲受した液体式凸形機関車のDB351と多彩であった。
末期はマッチ箱客車と呼ばれた
2軸箱型客車が唯一の旅客用車両だった
※『1970年 秋 上武鉄道』より
客車
上武鉄道の旅客列車は混合列車であった為、その輸送は全て客車が割り当てられていた。
しかし、旅客営業開始当初より旅客人員が少なく、空気を運ぶ状態が多発した為に、車両は全て小さな二軸客車のままであった。 主要な車両は、西武鉄道からの借り入れもしくは譲受車両であった。
なお、旅客営業開始時に客車調達が遅れた為に、鉄道省よりナハフ14151を一時的に借り入れていた事がある。
せっかく譲り受けたものの
マッチ箱客車1両でも持て余す
輸送量しかなく機関庫で留置されたまま
全く走る事がなかった気動車車両
※『1970年 秋 上武鉄道』より
気動車
上武鉄道は上述の通り客車によって旅客営業をしていたが、後々に気動車化する構想があったようで、1946年に旅客営業を始める際に飯山鉄道とキハ51の譲受を交渉している。 これは実現しなかったが、後年無煙化に際して津軽鉄道よりキハ2400を譲受するに到った。 だが、旅客数が極めて少なかった為に、旅客営業廃止まで気動車列車が走る事はなかった。 このように、西武化学前駅構内に留置されたままほとんど使用される事なく、廃止の翌年1973年にひっそりと廃車となった。
路線廃止後の貨車は
国鉄の受け入れ条件である
軸受けの二段リンク改造が成されず
廃車となるものが多かった
※ ウィキペディア画像を拝借
貨車
元々専用線である上武鉄道では貨車の保有数が最も多かったが、1両を除いて全て他会社からの譲受車両であった。 国鉄との乗り入れ条件として提示された軸受けの二段リンク改造を受けられずに廃車になった車両が多かった。
前回(5回目)の続き
:
この事からいっても国民7万超を殺害した
東京五輪推進者共を糾弾し
その罪を命をもって償わせる事は
如何に重要な事かが解かるだろう
多数の国民の命を奪った大罪は
極刑をもって処罰しない限り
次の進展は難しいのだ
話は反れたがチョンの背乗りを
処罰しなかったが為に
チョンの背乗りは『日本国の象徴』という
領域外の特権を行使してチョンが抱く
日本への『恨』を果たしたのである
それが国防の権限を放棄した現憲法の保持と
チョンにタカられ続ける『在日特権』を与え
日本を侵略国家に貶めて謝り倒して
日本を『謝罪ATM国家』に貶めたのである
その子のアキヒトもこれまたチョンで
竹島に侵略したチョンの酋長に売春婦騒動の
事など全て日本に非があるとする『謝罪書簡』を
認めて竹島のチョンの領有を認め
「チョンは日本と縁がある」と
日本人なら口が裂けても言わない
文句を言い放ったのである
このどこが日本人なの? 右翼さん
アンタらもチョンの成りすまし日本人だからなぁ
そして今回の武漢ウイルスも
シナが『貧者の核』として兵器開発した
ウイルス兵器の失敗流出によるモノである
でもシナは失敗して自国民に被害が出ても
圧政で抑え込んで兵器開発を進めた為に
取り返しがつかない状態となったのが
今回の武漢コロナウイルスの世界的蔓延である
:
次回に続く
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