風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第97回  柳ヶ瀬線

廃線鉄道  第97回  柳ヶ瀬線 〔滋賀県〕

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木ノ本駅で発車を待つ
柳ヶ瀬線の単行気動車
※『ready for』より

柳ヶ瀬線(やながせせん)は、かつて北陸本線の木ノ本と敦賀を結んでいた国鉄の鉄道路線である。
北陸本線として開業した路線のうち、輸送力強化による経路変更によって切り離された区間を、地域輸送の為に支線として残していたモノである。

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近江と越前を結ぶ街道や峠道は
戦国時代にも重要戦略地として
領有争いが繰り広げられた
ここで織田勢の猛追撃にあって
大敗を喫した朝倉氏は
その7日後に滅亡した
※ 刀根坂の古戦場跡

近江盆地と若狭・越前間の交通及び物資輸送は、古来よりその重要さにもかかわらず分厚い山脈に阻まれ、また当地が有数の豪雪地帯でもある事から難渋を極め、日本海を大回りする海上輸送に頼らざるを得なかった。 笙の川水系を介して敦賀湾~琵琶湖を短絡する運河の開削も検討されたが、大掛かりな土木工事となる事が必至で、予算・開削技術などを考え合わせても非現実的な構想に過ぎなかった。

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スイッチバック駅の
刀根駅で交換する
敦賀線の貨客混合列車
※『鉄道ピクトリアル1993年4月号』より

そうした問題をイッキに克服する手段が鉄道の敷設であった。 こうして、長浜~敦賀をつなぐ鉄道敷設計画が持ち上がったのである。 1872年5月7日に新橋~横浜に鉄道が誕生してから、僅か12年という異例の早さでこの地に鉄路が敷設された事を見ても、如何にこの地域の交通が重要視されていた事が解る。 

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新橋~横浜に初めて鉄道が登場してから
僅か12年で敷設されるなど
国策上重要路線だった『敦賀線』
※ ウィキペディア画像より
新橋~横浜をゆく
開業当時の鉄道を描いた錦絵

東京と京都・大阪を結ぶ鉄道敷設は、当初『中山道幹線』(現在の中央本線)のルートとして敷設工事が為されたが、予算と工事規模が大きくなり過ぎる事が判明して東海道周りの『東海道幹線』に変更され、琵琶湖の水運を挟み、大津~神戸と長浜~岐阜(資材輸送のため名古屋を経て武豊までの支線も敷設されている)で開始される。

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明治初期の列車
※ ウィキペディア画像を拝借

この路線敷設工事に取り掛かると、すぐに長浜から敦賀までの延伸計画が議題に上ったのである。
1876年4月に上申された『西京(京都・大阪の事)~敦賀並びに中仙道及び尾張線の明細測量に基づきたる上告書』によると、当初は高月から木ノ本を経由せずに西に折れて、西山から塩津村(現在の近江塩津駅よりも南方)・深坂峠・新道・麻生を経て疋田に抜ける路線(現在の国道8号線が通るルート)が検討されたが、一向に認可が下りずにいた。

予算の都合で当初のルート案が通らないと判ると、1880年1月に柳ヶ瀬経由に変更した案を諮って翌月にようやく認可が下りた。 このルート案が通った理由としては、塩津村経由よりも勾配が緩やかである事に加え、中之郷・柳ヶ瀬・雁ヶ谷は栃ノ木峠を越えて今庄村へと続く北国街道沿いの宿場町であり、沿線村落の需要が見込めた事、更には椿坂から今庄までの連絡線も敷設する目論見があったからだと言われている。

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路線廃止後に車道に切り替えられ
照明が取り付けられたが
鉄道トンネルとしては断面積が狭く
事故を多発させた柳ヶ瀬トンネル
※『PR TIMES』より

塩津村経由よりも幾分勾配が緩やかになったとはいえ、それでも雁ヶ谷~刀根村には長大トンネルを掘る必要があり、イギリス人技師による測量を経て日本初のダイナマイト掘削となった。 こうして、雁ヶ谷~刀根村を掘削した柳ヶ瀬トンネルは、42万5千円(1円=現在の40000円相当の計算で170億円)の工費を投じて1883年11月16日に貫通し、翌1884年の4月16日に開業へと漕ぎつけた。

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柳ヶ瀬トンネルの
雁ヶ谷ポータルを抜ける
D51牽引の貨客混合列車
※ 滋賀県のウェブページ
『写真で見る滋賀の20世紀』より

この柳ヶ瀬トンネルは全長1352mと当時としては日本最長であり、また外国人の技術に頼らずに日本人だけで完成したトンネルとして、我が国の鉄道敷設史における語り草となったが、開通当時は日本の鉄道が黎明期であった為に、トンネル断面が小さく傾斜も急であるなど運転上の制約が多く、機関士にとっては通過が命賭けとなるトンネルでもあった。

そのトンネル掘削工事では生野銀山や石見銀山の坑夫が多数動員され、手掘で速度で1日1~1.5mほどで、削岩機や空気圧縮機も併用して掘削された。 また、トンネルの断面積は、国鉄一号形トンネルの71%に過ぎない手狭な様相で、腰までが石積みでその上はレンガのアーチとなっていた。 なお、道路トンネル化の際に改良工事を受けて、現在は壁の石と煉瓦積みの一部をコンクリート巻(セメントのモルタル吹付け)にして、待避所・蛍光灯・信号機を設けて一般車の通行の利便を図っている。

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柳ヶ瀬付近をゆく下り貨物列車
これより柳ヶ瀬トンネルに
向けて登っていく
※『鹿島建設』のウェブサイトより

柳ヶ瀬線区間の路線全工費は150万円で、建設工事は4区に分けられ、最大の難所である柳ヶ瀬トンネルは実績のあった藤田組(後の同和鉱業でゼネコンのフジタとは別会社)が担当した。 また、鹿島組(現在の鹿島建設)も新規参入したが、線路敷設工事では新顔という事もあって、中之郷~柳ヶ瀬と刀根~疋田の比較的簡単な土木工事の受注となったが、以降は鉄道関連の土木事業に進出する事となった。

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往時の敦賀港駅
※ ウィキペディア画像を拝借

こうして全通した木ノ本~敦賀港(元北陸本線の貨物支線に所在した貨物駅で、2009年に列車貨物の取扱いを終了し、2019年3月末で鉄道駅としては廃止となり、現在はトラック貨物を扱う『オフレールステーション』化されている)は本線として、また敦賀港より大陸連絡を担う重要路線として位置づけられた。

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敦賀港駅が稼働していた
当時の貨物ヤード風景
※ ウィキペディア画像を拝借

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現在の敦賀港駅は貨物駅としては
廃止となって線路は全て撤去されて
トラックコンテナ輸送を取扱う
『オフレールステーション』化されている
※ ウィキペディア画像を拝借

貨物輸送に関しては、高月・木ノ本・敦賀・今庄の各駅で編成を分割・統合していた。
補機の付け替えは中ノ郷・敦賀・今庄で行われていた。

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東京・名古屋・大阪から
開通した『敦賀線』を介して
敦賀港駅へとつないだ欧亜国際連絡列車
※ ウィキペディア画像を拝借

敦賀港より大陸連絡を担う重要路線として位置づけられた路線であったが、路線の脆弱さや地域条件の険しさなどから様々な事件・事故に見舞われたのである。 それは、柳ヶ瀬トンネルの勾配がキツく上り列車(木ノ本方面への列車)がトンネル内で立ち往生、あるいは逆行する事がしばしばあり、機関士・乗客の窒息事故が頻繁に起こったのである。

なぜなら、全線を通して雁ヶ谷駅を頂点とする25‰の険しい勾配線区の為に、特に長浜に向かう上り列車では一旦止まると、牽引する蒸気機関車が上り坂での再発進ができずに、刀根又は敦賀まで逆戻りしての再発進を余儀なくされていた。

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雁ヶ谷側の川の氾濫で
水がトンネル内に流れ込んで
洪水崩壊を引き起こした
柳ヶ瀬トンネルの刀根ポータル
※『フォートラベル』より

豪雨の際は、雁ヶ谷側で川が氾濫すればその水がトンネルから刀根村側に流れ込み、しばしば洪水を引き起こしていた。 豪雪地帯でもある為、雪崩による事故は毎年の如くであった。 その他にも、異常繁殖したヤスデが線路を覆い、機関車が通ると潰れたヤスデから出た体液の油分により空転を起こし、走れなくなる事故もあった。 こうした事から、敦賀機関区(現・敦賀地域鉄道部)は対処する技術の開発を余儀なくされ、それが技術の向上にもつながったという。

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トンネル内での煤煙の充満による
乗務員の窒息事故を防ぐべく
雁ヶ谷ポータルに取り付けられた
隧道幕と排煙装置
※『フォートラベル』より

その技術の考案及び、新線への付け替えの検討の契機となったのが、1928年12月に発生した柳ヶ瀬トンネル内で延べ5名が窒息死する惨事となった『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』である。 この事故以前にも窒息事故はしばしば起こっていたが、この時は未明に雪も止み、低温で線路が凍結していた為に、疋田を過ぎる辺りから車輪の空転が激しくなって速度がかなり落ちていたという。

45両の貨物編成が雁ヶ谷口手前約30mの所で遂に発進不能になってしまい、異変に気づいた後続補機の乗務員が本機乗務員の救助に向かったが、後続補機の乗務員も窒息するに至り、何とか2名が雁ヶ谷口まで這い出した。 雁ヶ谷信号場で待機していた下り列車の機関士が、その様相を目にして異変に気づき、下り機関車を発動させて上り列車を押し出す形で刀根まで戻したが、この下り機関車の機関士にも犠牲者が出る多重被災事故となったのである。

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蒸気機関車の煙突に
取り付けられた集煙装置
※ ウィキペディア画像を拝借

この事故によって、トンネル内での煤煙による事故を防ぐ対策技術が考案・実施されるようになったのである。 その一つが機関車の煙突に取り付けた集煙装置で、蒸気機関車の煙突から出る煙はトンネル天井部にぶつかった反動でトンネル断面全体に広がり、これが乗務員の呼吸困難等を引き起こしていたが、これを解消する為に煙を後方に送るべく煙突に被せた鉄製の箱である。

その仕組みは、煙突からの煙は地上区間では今まで通りに上方に排気されるが、トンネル内では集煙装置上方のシャッターを閉じて、煙を装置後方の排気口からトンネル天井に沿った形(機関車の上を通過する形)で排煙を後方に送って、トンネル断面全体への排煙の充満を防いだ。 この装置の効果は絶大で乗務員からも好評だった為に『敦賀式集煙装置』と呼ばれて、その後は日本全国のトンネルの多い勾配区間を走行する機関車に広まった。

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釜の上に取り付けられた
重油供給ノズルとバーナー
※『ラサの煙』より

2つ目は重油併燃装置で、この時代はあまり良質の石炭は供給されず、泥炭もしくはそれに近い低質炭と呼ばれるものが主として使われていた為に、これらの石炭は通常のものと比べても燃焼火力が不足気味であった。

また、石炭の供給不足(石炭の供給は人力であったが為に、機関助士は過酷な作業であった)も補う為に、ボイラー上部に設置された重油タンクから供給される重油を火室内に噴霧して一緒に燃焼させる事により、火力を向上させると共に煤煙を減少させる仕組みも考案された。 重油併燃装置は機関助手の投炭作業の軽減にも役立った為、勾配区間の多い線区や機関車の出力を要求される線区に広く採用された。

3つ目は運転室換気装置で、地上近くの清浄な空気を圧縮し機関車運転室に送り換気を促進する装置が考案された。 その仕組みは、ブレーキ用の圧縮空気を機関士の足元付近のパイプ内に噴射し、その導引カによって炭水車後部下辺からトンネル内の低部の新鮮な空気を取り込むもの(炭水車の水の中をパイプで通る時に冷やされてくる)である。 それでも機関士は、濡れタオルを口に巻いて運転していた。

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トンネルの坑口に掛けられた
隧道幕と幕の開閉を託された隧道番
※ 交通博物館の所蔵写真より

また、トンネル自体にも排煙の充満を防ぐ仕組みが考案されている。 それは隧道幕で、雁ヶ谷ポータル(トンネルの入口の事)に開閉式の幕(帆布製生地で肋骨板にマニラロープを横に数条通したもの)を設け、機関車がトンネル内に入ると幕を閉め、上方に設けた排煙装置から煤煙を排出する仕組みである。

その概要は、幕を閉じる事によってトンネル入口からの空気の供給が絶たれて、列車の後方が気圧の低い状態となる為に、通常は列車にまとわりつくように動いていた煙が列車後方に吸い出されるようになる。
列車後方に残された煙は排煙装置から排出され、次の列車がトンネルに進入する際に煙が残らないようにされるなど、トンネル通過における安全対策の技術が大いに向上したのである。

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柳ヶ瀬トンネルでの窒息死亡事故を
契機に新線への付替えが検討されるが
その検討案は黎明期に通らなかった
深坂峠の急勾配をトンネルとループに
よって克服するルート案であった
※ ウィキペディア画像を拝借

『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』を契機に、国鉄は上述の集煙装置設置や隧道幕やなど対策を施し始める(1933年設置)と共に、新線の検討に取り掛かったのである。 その検討の結果、深坂トンネル経由の新線への付け替えが承認されて、1938年より新線の敷設工事が着手されたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴って1944年に工事が中断されている。

終戦後の1946年に新線の建設工事を再開したものの、1948年に発生した福井地震などの影響を受けて1949年に再度中止・1950年に再着工と中止・再開が繰り返され、1953年に深坂トンネルは完成したが、前後の接続工事が未完の状態であった。

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柳ヶ瀬越と深坂峠越えの勾配比較図
※ ウィキペディア画像を拝借

なぜなら、深坂トンネルの新疋田側坑口から敦賀までは87mの標高差があり、このまま線路を敷設すると目標とする10パーミル勾配に抑える事が困難だったのである。 そこで登り勾配となる上り線に対してのみループ線を設けて10パーミル勾配に抑えて新疋田に取り付き、下り勾配の下り線は25パーミル勾配で従来の線路に取り付いて敦賀へ向かう構想とされていた。

だが、上り線用のループ線工事は、1953年に先送りが決定されて中断となる。 この結果、下り線に使う予定であった25パーミル勾配を用いて従来線に取り付く線路のみが工事される事となり、1957年10月1日に漸く木ノ本~敦賀の新線が開通した。 なお、新線の開通と同時に、田村~敦賀は交流電化されている。

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2両連接で機関車として
牽引力が発揮できた
電気式機関車の先駆け
DD50形ディーゼル機関車
※ ウィキペディア画像を拝借

この新線開通によって、旧線は柳ヶ瀬線として分離された。 新線と『柳ヶ瀬線』として分離された旧線との敦賀側の合流点には鳩原信号場が置かれ、敦賀までの区間の線路を共用していた。

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晩年は国鉄の配色が成されていたが
単行では片運式で転車台が必要となるなど
使い勝手が悪く早々に
休車扱いとなっていたDD50
※ ウィキペディア画像を拝借

また、新線が開通した頃には、無煙で強力な牽引力を持つディーゼル機関車や電気機関車が主力となり、蒸気機関車の煤煙と戦う時代は終わりを告げたのである。

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1980年頃までは米原~田村間が
最後まで電化されなかった名残りで
敦賀~米原はキハ52による
気動車列車が運行されていた
これは柳ヶ瀬線の列車の一部が
米原や彦根まで直通運転していた
運用の継承かもしれない
※ 1980年頃の米原駅にて

新線の開通で支線となった柳ヶ瀬線は1閉塞区間となり、勾配区間用の2基エンジン搭載の気動車キハ52が導入された。 だが、営業成績は営業係数が1145前後と非常に悪く、早い段階で廃止が取り沙汰され、それに反対しての国会への存続陳情も度々行われた。

路線末期の時点で沿線人口は約5,800人で、中ノ郷・柳ヶ瀬から木ノ本方面と刀根・疋田から敦賀方面への通勤通学輸送が利用の中心で、1日平均約1,500人の利用であった。 気動車化に加え、駅員無配置化・運転方式簡素化・貨物輸送の集約・不要財産の撤去など、鉄道としての最低限度の運行に徹する合理化が行われたが、それでも約4000万円の赤字を計上していた。

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鳩原ループをゆく大阪発の
特急【サンダーバード】と
下り線にあった鳩原信号場
※『毎日新聞』より

また、先送りされていた新線の上り線に対する勾配を緩和するループ線の工事であるが、1961年になって再開され、このループ線の完成によって新疋田~敦賀が複線化となるに際して、新疋田から鳩原信号場で従来線に合流して敦賀へ向かう線路は下り専用となるのである。

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新線の『鳩原ループ』が開通して複線化
されると今まで柳ヶ瀬線列車が通っていた
新線の先行開通区間は下り線となって
柳ヶ瀬線の上り列車の運行が不能となり
疋田~敦賀が運行休止されてバス代行運転となった
※『ready for』より

この状況で柳ヶ瀬線の運行を継続する為には、巨額の費用を投じて柳ヶ瀬線用に別の線路を敷設する方法以外は、北陸本線の下り線に柳ヶ瀬線の上下列車を運行させなければならず、運転保安上の問題になると共に、北陸本線の線路容量が制約を受ける問題が生じたのである。 そこで、1963年9月30日に上りループ線が完成して新疋田~敦賀の複線化が完了した際に、柳ヶ瀬線の敦賀~疋田の運行は休止となり、国鉄バス代行となった。 だが、この措置によって、柳ヶ瀬線の利用者は更に激減する事になったのである。

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新疋田駅から大阪方を望むと
大阪方からの上り線に口を開ける
新深坂トンネル(右)と
下り線で口を開ける深坂トンネル(左)
柳ヶ瀬線は新疋田駅の敦賀側にあった
鳩原信号場で左側の下り線に合流していた
※ ウィキペディア画像を拝借

地元では、鳩原信号場~敦賀の1線増設を要求して柳ヶ瀬線の存続を求めたが、これには約5億円の経費が掛かるとして国鉄側は難色を示し、廃止の為の交渉が継続された。 こうして、1964年5月10日限りで柳ヶ瀬線を全線廃止し、翌5月11日より国鉄バスによる代行輸送が開始されれている。 柳ヶ瀬トンネル敦賀側ポータルに残存していた、かつての洞道西口駅ホーム跡もバス転換の際に撤去されて、後に記念碑が建てられている。

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柳ヶ瀬線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):木ノ本~敦賀 26.1km 
  ※ 疋田駅の先に設置された鳩原信号所~敦賀の3.1kmは、北陸本線の新線の下り路線に転用
軌間:1067mm、電化区間:ナシ(全線非電化)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅数:7駅(起終点駅含む)及び信号所1ヶ所
〔木ノ本〕・中ノ郷・柳ヶ瀬・雁ヶ谷・刀根・疋田・(鳩原信号場)・〔敦賀〕
  ※ 当路線は北陸本線旧線で、深沢トンネル経由の新線の完成で、北陸本線より分離されて
    柳ヶ瀬線となった
  ※ 北陸本線からの分離に伴って、従来線(現在は北陸本線の下り線)との合流地点(疋田
    より2.7km敦賀寄りの地点)に鳩原信号所が設けられ、鳩原信号場~敦賀の3.1kmは収容
    されて新線(新線の開通当時は単線)となった区間を行き交った
  ※ 1963年9月30日に新線の上りループ線の完成に伴って複線化され、従来線に合流していた
    鳩原信号場から先が複線化によって新線の下り専用線(木ノ本方面行き)となり、柳ヶ瀬
    線の上下線列車を新線の下り線に通す問題に直面して、柳ヶ瀬線の路線は休止となってバス
    代行運転となり、1964年5月11日に正式に路線廃止となった
  ※ 柳ヶ瀬トンネルの開通以前には、雁ヶ谷~刀根(柳ヶ瀬から約3.8km)のトンネル西坑口
    側に洞道西口という停留所が設けられたが、柳ヶ瀬トンネルの開通により廃止された    
  ※ 刀根~疋田にも麻生口という停留所が設けられたが、柳ヶ瀬トンネルの開通により廃止と
    なった洞道西口と同じ日に廃止となった
運行形態:1961年10月1日国鉄ダイヤ改正(通称サンロクトオ)当時
     列車本数は全線で6往復半(付加で休日に上り全線で2本、平日に木ノ本~中ノ郷下り
     1本設定)されて、一部列車は米原及び彦根より直通運転されていた
所要時間:下り(敦賀方面)42~44分、上り(木ノ本方面)47~54分
     通常は、気動車(主にキハ52形)による単行又は2両編成で運行されていた
     多客時や運用の都合など、稀にDD50形電気式(DF50や現在のDF200と同じ方式)
     ディーゼル機関車による3両の客車列車も設定される事もあった

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柳ヶ瀬線の気動車列車
一部の列車が
米原や彦根に直通していた
柳ヶ瀬トンネルを通る為か
車体が排煙で煤汚れている
※『GANREF』より

  国鉄・柳ヶ瀬線 年表
1882年(明治15年)  3月10日:長浜~木ノ本~柳ヶ瀬及び、洞道口~敦賀~金ヶ崎(後の
                敦賀港〔貨〕)が開業
                また、柳ヶ瀬~洞道口は徒歩連絡となっていた
                開業当初は『敦賀線』と呼ばれ、後に柳ヶ瀬線となる区間に
                木ノ本・中ノ郷・柳ヶ瀬・洞道口(後の洞道西口)・刀根・
                麻生口・疋田・敦賀の各駅が開業する
1883年(明治15年)11月16日:柳ヶ瀬トンネルが貫通する
1884年(明治16年)  4月16日:柳ヶ瀬トンネルの使用開始に伴い、柳ヶ瀬~洞道西口が延伸開業
                し、『敦賀線』区間が全通する
                延伸開業と同時に洞道西口と麻生口の駅が廃止となる
1885年(明治17年)  3月16日:刀根駅の廃止
1909年(明治42年)10月12日:国鉄による線路名称制定により、木ノ本~敦賀(金ヶ崎・後の
                敦賀港)と共に、当時米原より魚津まで延伸していた北陸本線
                の一部に組み込まれる
1913年(大正  2年)  4月  1日:刀根信号所を開設
1916年(大正  5年)12月25日:刀根信号所を駅に格上げし、刀根(2代目)開業
1922年(大正11年)  3月15日:雁ヶ谷信号所を開設
                ※ 同年の4月1日より、信号所は『信号場』に呼称改正
1928年(昭和  3年)12月  6日:積雪による車輪の空転により、トンネル出口手前で貨物45両を牽引
                していた上り(木ノ本方面行)蒸気機関車が立ち往生して、機関士
                など乗務員が窒息する事故が発生し、救援行動を起こした補機の
                乗務員や、立ち往生した機関車を押し出した対向の下り機関車の
                  乗務員も窒息で死亡するなど、乗務員5人が窒息死する多重災害の
                  大惨事となった『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』が発生             
1933年(昭和  8年)     :『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』を契機にトンネル内の窒息
                事故防止の為に柳ヶ瀬トンネルの両ポータルに隧道幕が設置れ、
                機関車も排煙を後方に逃がす集煙装置の設置など、煤煙対策が
                強化される
1938年(昭和13年)     :『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』を契機に新線への付け替えが
                検討され、この年から深坂トンネル経由の新線への付け替え工事
                  が着工となる
1943年(昭和18年)  3月29日:新線の深沢トンネルが貫通するが、竣工に向けた工事は戦況の
                悪化や1948年に発生した福井地震などの影響を受けて、工事中止
                と再開が繰り返される
1953年(昭和28年)  3月       :ようやく深坂トンネルが竣工するが、取り付け(トンネル への
                線路接続工事)で土砂崩壊事故が発生するなど工事が難航して
                上り線のループ線建設は先送りとなり、構想では下り線専用での
                使用を計画されていた同トンネルを当面単線で使用開始するべく
                25%の勾配のままの状況で鳩原信号場の設置するなど、トンネル
                への取り付け工事を進行させる
1957年(昭和32年)10月  1日:木ノ本~近江塩津~敦賀の新線開業に伴い、木ノ本~柳ヶ瀬~敦賀
                の旧線が柳ヶ瀬線として分離となる
                分離した柳ヶ瀬線の各駅は1面1線化され、刀根でのスイッチバック
                も解消される
                また、北陸本線時の中心駅だった中ノ郷の引き込み線・切り替え
                設備などは全て使用廃止となって全線1閉塞となった
                また、雁ヶ谷が信号場から駅に昇格し、新線との合流地点として
                鳩原信号場が新設され、本線は新疋田から、柳ヶ瀬線は疋田から
                鳩原信号場で合流する事となった
                なお、 国鉄の分割民営化に伴って経営をJR西日本が引き継いだ
                時点から北陸本線の起点終点が逆となり、直江津(現在は北陸
                新幹線の開業に伴っての路線譲渡で金沢)が起点となっている
                但し、時刻表などでは大阪からの特急列車が経由する湖西線や
                名古屋から米原を経由する特急列車の運行状況に従って、国鉄
                時代の表記を踏襲しているモノが多い
1963年(昭和38年)  2月   :新深坂トンネル着工。
           10月  1日:北陸本線上り線専用となる衣掛隧道・鳩原(はつはら)ループ線
                開通に伴い、単線区間として開業していた既存線は本線の下り線
                専用となり、共用していた柳ヶ瀬線の疋田~敦賀は前日の9月
                30日より運行を休止しバス代行運転となる
                また、 同区間の運転休止により、鳩原信号場も廃止となる
1964年(昭和39年)  5月11日:前日にさよなら列車の運転が行われ、この日をもって柳ヶ瀬線は
                休止区間を含めて全線が路線廃止となった
          11月  :木ノ本~柳ヶ瀬~疋田が改修を受けてバス専用道路化となる
                その後、このバス専用道が県道として一般車通行が解禁となると
                路線バスの木ノ本~敦賀直通便は廃止となり、柳ヶ瀬トンネルを
                通る路線バスは消滅する
1966年(昭和41年)  2月   :新深坂トンネル竣工
           11月30日:新深坂トンネル開通で、1957年の田村~米原の複線化と1962
                年の電化を合わせて、米原~敦賀の全区間が電化及び複線化された
                但し、田村~長浜で交直流切り替えのデットセクションとなって
                いた(現在は大阪~敦賀の新快速直通運行の為に敦賀まで直流
                に変換されて、デットセクションは敦賀~南今庄に移っている)

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柳ヶ瀬駅の待合室を利用した
バス停に到着した
柳ヶ瀬線の代替バス
※『国鉄バス資料室』より

  路線廃止後
柳ヶ瀬線の国鉄バス転換後は、中ノ郷~雁ヶ谷は県道(現・国道365号)に転用され、雁ヶ谷~刀根~疋田の主立った路盤跡はバス専用路として使われた。 線路を専用道に改修する為には7か月を要する為、暫定措置として一般県道を利用して敦賀側は宮前橋まで、木ノ本側は雁ヶ谷までの折り返し運行を行った。
そして9月1日をめどに柳ヶ瀬トンネルの車道化改修を完了させて、一般道併用で木ノ本~敦賀の直通運行開始、12月1日の専用道完成をもって専用道経由の運行に切り替えるという方式が取られた。

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刀根駅跡に設置された
北陸自動車道の刀根PA(下り線)
※ ウィキペディア画像を拝借

その後は北陸自動車道建設時に路盤を提供し、国鉄分割民営化を経て西日本JRバスに引き継がれるが、沿線の過疎化の進行や利用客のマイカー利用への転移などにより、1987年に滋賀県側が県道として認定されて一般車が通行できるようになった事で、木ノ本~敦賀の直通バス路線は廃止されている。

残った木ノ本~雁ヶ谷は湖国バスへ移管後、現在は余呉バスが運行している。 敦賀~雁ヶ谷はJR西日本バスが鉄道代行のバス路線として維持するも、柳ヶ瀬線が正式に路線廃止となった1年後に刀根~雁ヶ谷が部分廃止され、後には全区間でJR西日本バスのバス路線は廃止となる。

JR西日本バスの撤退(全区間の廃止)を受けて、地元・敦賀市がコミュニティバス(〔きらめきあらち号〕を経て敦賀市コミュニティバス)に転換されている。 柳ヶ瀬トンネルはJR化後の1987年4月1日から《福井・滋賀県道140号 敦賀柳ヶ瀬線》として一般開放されたが、トンネルの断面積は鉄道時代のままで、信号機による待時制の一方向通行となり、かつての鉄道時代を偲ばせている。

トンネル内には、国鉄バス専用道化時に新たに離合用の待避設備が設けられている。 なお、トンネル入口に設置された信号機は赤信号が6分30秒続くが、理由は前述の通りの交互通行によるトンネル内での衝突事故防止の為である。

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柳ヶ瀬線の遺構として残る
小刀根トンネル跡
※ ウィキペディア画像を拝借

  廃線跡
木ノ本側の新旧路線の分岐である余呉新旧分岐点:本線上り線に収容されている
余呉新旧分岐点~雁ヶ谷:築堤路盤を国道365号線に供出

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中ノ郷ホーム後に立てられた
駅名標のレプリカ
駅名の記載が町名に従い
『中“之”郷』となっていた

中ノ郷駅跡:一部にホーム跡が残り、レプリカの駅名標が立てられているが、駅名標の記載は地名
      にちなんで駅名の中ノ郷ではなく『中之郷』となっている
柳ヶ瀬トンネル両ポータル付近:ほぼそのまま
刀根駅付近:北陸自動車道刀根下りPA、刀根集落には駅名標が残され、レールなどの残骸がそこ
      かしこに残存しているという

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小刀根トンネルは
土木学会選奨土木遺産』に選定されている
※ ウィキペディア画像を拝借

小刀根トンネル付近:ほぼそのまま
刀根トンネル:拡幅し、福井県道140号線となる
刀根~麻生口:県道もしくは農道化
麻生トンネル:切り通し化
麻生口~疋田信号交差点:農道もしくは自然に回帰していて、かつてあった疋田鉄橋は消滅している
疋田駅付近:疋田駅の周囲は建物が取り囲み直通はできない
      融雪溝は残存しているものの、上り線及び引き込み線部分は敦賀~疋田の休止時に
      更地化されて連絡バス待機場所に転用された
      現在は私有地となっている
      疋田駅下りホームには旧愛発児童館が立ち、旧駅舎は鮮魚店となっている
疋田新旧分岐点~鳩原信号場:ほぼそのまま



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建替え前の木ノ本駅
※ ウィキペディア画像を拝借

木ノ本駅(きのもとえき)は、滋賀県長浜市木之本町木之本にあるJR西日本・北陸本線の駅である。
かつての北陸本線は、当駅~敦賀では急勾配の『柳ヶ瀬越え』と呼ばれるルートを走っていたが、1957年に現在の新線に切り替わっている。 旧線は北陸本線より分離されて柳ヶ瀬線として存続したが、1964年5月11日に廃止された。 2019年の1日平均乗車人員は646人との事である。

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橋上化されて
地元の交流施設との合築駅舎となった
現在の木ノ本駅
※ ウィキペディア画像を拝借

現在の当駅は、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の合計2面3線のホームを持つ橋上駅舎の駅構造(駅舎の1階に長浜市木之本町の交流施設が入る合築駅舎となっている)となっているが、柳ヶ瀬線廃止前は単式・島式の複合型3面6線であり、1・2番線が北陸本線の上下線、3番線が彦根方面に直通する柳ヶ瀬線からの列車ホーム、4番線~6番線は非電化のままで米原方向が櫛型となる行き止まり型ホームで、主に4番線に柳ヶ瀬線の気動車が入線していた。



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中ノ郷駅のホーム跡に立つ
表記が旧町名に合わせて
『中之郷』となった駅名標
※ ウィキペディア画像を拝借

中ノ郷駅(なかのごうえき)は、かつて滋賀県伊香郡余呉村中之郷(現・長浜市余呉町中之郷)にあった国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。 1964年の5月11日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。
北国街道沿いの宿場町にあり、北陸本線が長浜から金ヶ崎(現在の敦賀港駅)まで延伸した時に設置された駅である。 本線時代には、駅弁売りも出るほどの活況であったという。

この駅は補機付け替えに特化された駅で、貨物列車の編成は隣接する木ノ本や高月で行われた。
最盛期には複合式2面9線という構造で、上下ホーム間に3線と上りホーム南側に側線3本、下りホームの西側に側線3本あった。 

戦後は、本線時代の優等列車停車駅でありながら旅客ホームは1面1線で、通過線が1本、そして待避線及び側線が何本も枝分かれしていた。 また、転車台、給水塔があった。 転車台と待避線の間にあったホームは、戦前は主に下り線用として使用されていたが、戦後は使用されずに鉄柱も取り払われて草むしていた。

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駅ホーム跡に立てられた
駅跡だった事を示す説明板
※ ウィキペディア画像を拝借

支線に格下げとなった柳ヶ瀬線時代にはそれらの設備はすべて撤去し農地に戻され、給水塔・転車台のみが離れ小島のように農地の中に取り残されていたという。 駅員は数十名から2名に減らされたが、それでも柳ヶ瀬線唯一の駅員常駐駅であった。 上記の如く柳ヶ瀬越えを控え、補機付け替えの為に全ての列車が停車する重要駅であったが、北陸本線の新線建設に伴う路線の付け替えにより『柳ヶ瀬線』という支線に降格している。 

その後、1963年9月30日の新線の複線化完成に伴って、疋田の先の鳥原信号所で北陸本線に合流して敦賀に向かっていた柳ヶ瀬線が、複線化開業後に敦賀へ向かう為には新線の下り線の線路を使用せねばならない(複線化された新線は上下線が離れた位置を通るので、上下の渡り線を設ける事が困難だった)問題が発生する。

この事で敦賀まで柳ヶ瀬線全列車(上下13本)を走らせる新線の下り線と上り線のつり合いが取れなくなり、それによって北陸本線全体の輸送力の減退を招く事や、何より下り専用線に上下列車を走らせる事は運行の安全上の問題となる事を危惧した国鉄当局は、柳ヶ瀬線の疋田~敦賀の運行休止に踏み切ったのである。

これで新線開通翌日の1963年10月1日に敦賀〜疋田が運行休止となって、バス代行運転となったのである。 この柳ヶ瀬線運行休止によって敦賀〜疋田が分断された事で営業係数が更に悪化して、支線降格後7年の1964年5月に全線が廃止となって国鉄バスに代替された。

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中ノ郷のホーム跡の真正面に建つ
旧余呉町(現在は長浜市余呉支所)役場
※ ウィキペディア画像を拝借

柳ヶ瀬線の路盤は国道に転用され、駅跡は余呉町役場(現在は長浜市役所余呉支所)となっていて、ホーム(一部のみ)には駅名標のレプリカが立っている。 周囲の施設跡は、一旦農地に戻された後に売却されて建物が建っている。 駅名は正式には『中ノ郷』であるが『中之郷』と表記される事も多く、駅名標のレプリカも初代が『中の郷駅』、取り替えられた現在は『中之郷駅』と表記されている。



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バス停の待合所として使われていた
柳ヶ瀬駅の駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借

柳ヶ瀬駅(やながせえき)は、かつて滋賀県伊香郡余呉村柳ヶ瀬(現・長浜市余呉町柳ヶ瀬)に存在した国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。 1964年の5月11日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。
かつては国鉄の北陸本線の前身である『敦賀線』の終着駅であり、同じく終着駅であった洞道西口駅と徒歩連絡となっていたが、1884年4月に柳ヶ瀬トンネルが完成すると、敦賀まで直通運転が可能となった。

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恐らく柳ヶ瀬線となってから
設けられた待合室駅舎であろう
※『ホリデー』より

北陸本線時代は相対式ホーム2面2線を有する駅であったが、柳ヶ瀬線となった後は交換設備が撤去され、単式ホーム1面1線のみとなっていた。 駅舎も撤去されて待合室のみとなっていた。 1960年度における1日平均の乗車人員は118人だったとの事。

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バス停となってから建てられた
待合所といっても遜色がないほどに
簡素化されていた柳ヶ瀬駅舎
※『ホリデー』より

駅跡地は、国道365号線に転用された以外はあまり変化がない。 ホーム跡はバス転換当初はそのまま存続していたが、いつ撤去されたのかも草に埋没したのかも詳細は不明となっている。 以前はバス停待合室に、柱用のホーロー駅名板が残されていたが現存しない。 末期は、文字が判読できないほどに劣化していたという。



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柳ヶ瀬トンネル・雁ヶ谷ポータルの
管理駅だった雁ヶ谷駅
※ 滋賀県のウェブページ
『写真で見る滋賀の20世紀』より

雁ヶ谷駅(かりがやえき)は、かつて滋賀県伊香郡余呉村柳ヶ瀬(現・長浜市余呉町柳ヶ瀬)に存在した国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。 1964年の5月11日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。
1922年3月15日に信号所(半月後の4月1日付で『信号場』に改称)として設置されたもので、新線の開通で旧線が柳ヶ瀬線として分離されると同時に旅客駅に昇格した。 旅客のみを取り扱う駅員無配置駅だった。

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車道トンネル化された
柳ヶ瀬トンネルの雁ヶ谷坑口
※ ウィキペディア画像を拝借

信号場時代は待避線と側線を含む3線構造で、柳ヶ瀬トンネルの雁ヶ谷ポータル(トンネル入口)に設置されていた。 『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』を契機として、設置された排気調節用の隧道幕の開閉管理を行っていた。

柳ヶ瀬線となった際は、1閉塞区間となった為に信号場の役目は無くなったが、引き続いて柳ヶ瀬トンネルの管理の意味もあって駅に昇格している。 駅に昇格してからは、1面1線の単式ホームを有していた。 沿線人口の希薄な地域にあったが、通勤・通学時には2~3両の気動車に定員の3倍が詰め込まれるような状況で、無人駅でありながら待合室には火鉢も置かれていた。

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柳ヶ瀬トンネルに掲げてあった
トンネルの石額
「ばんせいながく頼む」
との願いを込めて時の宰相・
伊藤博文が記した『万世永頼
※『フォートラベル』より

当駅周辺に大規模な集落は存在しないが、余呉町椿坂や余呉町中河内の住人が利用していた。
1960年度の1日平均の乗車人員は43人だったとの事である。

駅跡地は、大幅に造成され原型を留めていない。 柳ヶ瀬トンネルの雁ヶ谷ポータル部分のみが、辛うじて北陸道と旧線路盤を元に拡幅された北国街道に挟まれた谷間に残存している。 なお、駅の周囲には民家がほとんどない。



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敦賀鉄道資料館にあった
刀根駅の俯瞰写真と構内配線図
※『フォートラベル』より

刀根駅(とねえき)は、かつて福井県敦賀市刀根に存在した国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。 
1964年の5月11日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。 この駅も出自は複雑で、まだ柳ヶ瀬トンネルが開通していない路線の黎明期に駅として開設されたが、トンネルが開通した翌年に詳細不明(恐らく、水害等で駅構内が被害を受けた為だと思われる)で駅廃止となっている。

1913年4月に、元あった初代駅とほぼ同位置で北陸本線の信号場として復活し、3年後の1916年12月25日に駅に昇格した。 当駅は柳ヶ瀬トンネルの両端に設けられた信号場の内の刀根村(当時)側に設けられた信号場であるが、当信号場が刀根村の中心にある事から、早々と駅に昇格していた(もう片方も後に雁ヶ谷駅となる)。 これが初代の刀根駅である。 また、この駅は山の斜面の中腹にあり、本線が25パーミルの勾配となった事から、スイッチバック駅となっていた。

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鉄道トンネル時代の原型を留めている
柳ヶ瀬トンネルの刀根側坑口
※ ウィキペディア画像を拝借

柳ヶ瀬トンネルの刀根側ポータルは、本線時代より度重なる水害や雪害に遭って、幾度となく改修工事が繰り返された経緯を持つ。 それは、柳ヶ瀬トンネルの刀根側ポータル~刀根駅の大半及び小刀根トンネル~麻生口の南半分あたりは、元々は谷川が流れる河原に橋梁を架けていた為、谷川の反乱などの水害によってごっそり崩落した事もあり、戦前に既に大幅に造成されていた。  現在は、平らかな道路と化している。

新線の開通で柳ヶ瀬線の所属となった1957年10月1日に貨物・荷物の取扱を廃止、駅員無配置の旅客駅となる。 また、スイッチバックも廃止されて本線上に島式ホームが設けられていたが、交換設備は使用停止されていたようで単式ホーム扱いだったようである。 1964年度の1日平均乗車人員は153人との事であった。

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柳ヶ瀬トンネルの刀根ポータル
から出てくるD51機関車
※ DVD『D51、北陸の難所に挑む』より

当駅は集落を見下ろす山の斜面の中腹に設けられていて、北陸本線時代はスイッチバックの引き込み線上に島式ホーム1面2線を持つ駅であった。 その両端に、それぞれ側線が設けられていた。
引き込み線には雪よけが設けられ、保線設備もあった。 貨物列車などの刀根駅に停車しない下り列車(現在とは逆で敦賀方面行き)は引き込み線に入る必要がなく、そのまま本線上を通過していた。
これは敦賀~今庄で海岸沿いに敷設されていた北陸本線の旧線区間にあった新保駅と同様である。

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駅跡地は北陸自動車道の
刀根PA(下り線)に転用されている
※『柳ヶ瀬線・刀根駅跡』より

駅跡地は、1977年に北陸自動車道が開通した際に、刀根パーキングエリア下り方面の敷地に転用されている。 刀根駅跡地は北陸自動車道建設の際に開削され、駅跡を思わせるモノは判別すら不能となっている。 また、刀根トンネルも、道路転用後に拡幅され原形を留めていない。 柳ヶ瀬トンネル付近のスノーシェッドから刀根駅までの径路も、北陸自動車道が建設された後は原形を留めていない。

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日本最古の鉄道トンネル
として残る小刀根トンネル
※『フォートラベル』より

だが、完全な形で現存する鉄道トンネルとしては日本最古である小刀根トンネルとその周辺のみ、かろうじて当時のままで残存している。 このトンネルは『土木学会選奨土木遺産』に選定されている。



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疋田駅跡地
現在はホーム石垣の上に
児童館が建てられている
※ ウィキペディア画像を拝借

疋田駅(ひきだえき)は、かつて福井県敦賀市疋田に存在した国鉄・柳ヶ瀬線の駅である。
新線の開通に伴って、1963年の9月30日に当駅~敦賀の運行が休止となって代行バスに転換されて、廃止までの9ヶ月は列車運行の終点及び代行バスの乗継駅となっていた。 その後、1964年の5月11日に柳ヶ瀬線が路線廃止となり、それに伴い廃駅となった。

北陸本線が長浜から金ヶ崎(敦賀港駅)まで延伸した時に設置された駅で、本線時代は相対式ホーム2面3線であった。 1957年10月1日に、北陸本線の新線の開通で本線から分離されて柳ヶ瀬線となった時に、交換設備が撤去されて単式ホーム1面1線の棒線駅となった。 同時に貨物・荷物の取扱も廃止されて、駅員無配置の旅客駅となった。 1964年の1日平均乗車人員は61人との事であった。

駅の北側に新旧合流地点があり、本線との振り分けはそれより更に敦賀寄りに新設された鳩原信号場で制御されていた。 その後、1963年9月30日に衣掛隧道ループ線が本線上り用として開通(開通後は『鳩原ループ線』と呼ばれている)すると、敦賀~新旧合流地点までは本線下り線用となり、柳ヶ瀬線として共用していた敦賀~当駅は休止扱いとされ、国鉄バス路線に転換となった。 また、翌年5月には、柳ヶ瀬線そのものが全線廃止となった。

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乗継駅とはみなされなかった新疋田駅
※ ウィキペディア画像より
新疋田駅の旧駅舎

新疋田駅はこの駅より700m離れた山間部に位置し、当初は併存していた事もあって代替駅とは見なされておらず、当駅~新疋田は連絡バスもなかった。 乗客の流れも新疋田駅には向かわず、敦賀~当駅の代替バスの需要が主だったが、国鉄バスを引き継いだJRバスは2002年に廃バス路線を廃止して撤退し、現在は敦賀市コミュニティバス『愛発線』が運行されている。

当駅から雁ヶ谷までの路盤は国鉄バス専用道路に転用されたが、北陸自動車道建設時に供出している。
上り線ホームは柳ヶ瀬線移行時に更地に、柳ヶ瀬線で暖式ホームとして使用された下り線ホームには愛発幼稚園が建てられた(現在は幼稚園は閉園して公民館となっている)が、当時のホームの石積みが残っている。

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レンガ積みの水路(暗渠)遺構
※ ウィキペディア画像を拝借

更に駅跡から200 mほど西には、当時のレンガ積みのアーチ状の水路遺構も残る。 麻生~当駅では、旧柳ヶ瀬線と旧国道8号が所々で交錯していたが、大半は谷間の両側に位置していて現在の国道8号とはほとんど一致せず、今では農道もしくは川沿いの茂みと化している。

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駅ホーム跡の上に建てられた
児童館のグラウンドには
新たに駅跡標が建てられた
※ ウィキペディア画像を拝借

また、旧麻生トンネルは切り通し化された。 更新の遅れか、国土地理院の地図でも柳ヶ瀬線が廃止になるまで新線は記載されなかった。 2018年10月に、駅名標を模した看板が駅跡地に設置された。



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新線と旧線だった柳ヶ瀬線と
その合流地点である
鳩原信号場の相関図
※ ウィキペディア画像を拝借

鳩原信号場(はつはらしんごうじょう)は、かつて北陸本線に存在した国鉄設置の信号場である。
敦賀と新疋田の間にあり、疋田方面から柳ヶ瀬トンネルに向かう旧線(柳ヶ瀬線)への分岐点となっていた。 『鳩原』は、敦賀市の地名としては『はとはら』であるが、信号場の読みは『はつはら』であった。

鳩原信号場は新旧合流地点の少し北側よりループ線が交錯する辺りで、旧国道8号をアンダーパスする手前までの区間であった。 本線の西側に待避線が2本あった。 1963年9月30日に新線の『鳩原ループ線』の開通によって廃止となり、廃止後は間もなく更地となった。

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全て撤去されて
野に帰った鳩原信号場
※『毎日新聞』より

明治時代初期に米原駅と敦賀駅を結ぶ路線として建設された時は、北陸本線は25パーミル勾配を含む経路で柳ヶ瀬トンネルを経由していた。 しかし、この経路は急勾配と急曲線が連続して輸送力が低く、度々トンネル内で窒息事故を起こすなど問題を抱えていた。

昭和初期に起こった乗務員5人が窒息死に至る多重災害事故の『北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故』が発生し、この事故を契機に安全とこの区間の輸送力増強の為に経路変更が計画され、戦後の鉄道建設土木技術の水準で、最急勾配を10パーミルに抑える事ができる深坂トンネルを通る経路を建設する事となった。

だが、深坂トンネルの北口側から敦賀までの標高差は87mあり、最急勾配を10パーミルに抑えることは困難であった。 そこで、敦賀から深坂トンネルへ登り勾配となる上り線(国鉄時代は上り線だったが、現在は下り線)はループ線を設けて10パーミルに勾配を緩和し、一方下り勾配となる下り線については25パーミル勾配を使って従来の北陸本線の線路に接続する構想となった。 この際に従来の柳ヶ瀬トンネルを経由する北陸本線をどうするか検討され、ローカル列車のみを通す柳ヶ瀬線として存続させる事となった。

第二次世界大戦の混乱によって深坂トンネルの工事完成は戦後にズレこみ、敦賀から深坂トンネルまでの上り列車に対する急勾配を緩和するためのループ線の建設は先送りされる事となった。 1957年10月1日に深坂トンネル経由の新線が開通し、従来線は柳ヶ瀬線としてローカル列車のみの運行が行われるようになった。 この際に新線と旧線の合流点に設置されたのが、当信号場である。

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新線の線路時期跡の通路があるなど
鳩原信号場の遺構を残している所もあった
※『フォートラベル』より

その後、先送りされていた上り線用のループ線の建設が進められ、1963年9月30日にループ線が開通して新疋田~敦賀間が複線化された。 この際に、従来から使われてきた新疋田から鳩原信号場で旧線と合流して敦賀へ向かう線路が下り線となっている。

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鳩原ループの光跡
※『朝日新聞デジタル』より

ループ線が完成した事により、柳ヶ瀬線の運行で使っていた新線の先行開業区間は下り専用線となり、柳ヶ瀬線の運行を続行する為には、巨額の費用を投じて敦賀から鳩原信号場の位置まで並行して路線を敷く以外には、北陸本線の下り線に柳ヶ瀬線の上り列車を運転しなければならず、保安上の問題があると共に北陸本線の線路容量を制約する原因になるとされた。

この為に柳ヶ瀬線の疋田~敦賀は運転休止となり、国鉄バスで代行される事になった。 この区間の運転休止は、正式には1963年10月1日からと公示されており、鳩原信号場はこの日に廃止となった。
なお、『鳩原ループ線』の完成は前日の9月30日で、柳ヶ瀬線も9月30日よりバス代行運転となっている。
疋田~敦賀がバス代行となった柳ヶ瀬線は、残りの区間においても利用客が激減し、翌1964年5月11日に全線が廃止となっている。


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