2023-01-28 (Sat)✎
『ネームトレイン』 第32回 なは
新大阪に到着した寝台特急【なは】
※ 友人からのもらい受け
寝台特急【なは】 ・・ かつてJR西日本及びJR九州が、京都~熊本を東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で運行していた寝台特別急行列車である。 2008年3月14日発の運転をもって寝台特急【あかつき】とともに廃止された。
特急【なは】のデビュー時は
キハ82系気動車だった
※ 写真はサントリーカーブで撮った
【まつかぜ】の回送だけど
特急【なは】は、当時の『京阪九』(京都~博多・長崎)間を結ぶ優等列車として運行されていた昼行気動車特急列車【かもめ】が前身で、1965年10月2日のダイヤ改正で京都~西鹿児島間で運行されていた編成を【なは】として分離し、運行区間を大阪~西鹿児島として1968年10月から運行開始された。
485系電車が使用された時期もあった
※『列車名鑑・特急【なは】』より
登場時は前身の特急【かもめ】同様に昼行特急列車として気動車のキハ82系が充当され、大阪~小倉で日豊本線・宮崎発着の【日向】と併結運転していたが、1973年10月のダイヤ改正で485系を使用する電車化されて単独運行となった。
山陽新幹線の開業で特急【なは】は
昼行運転から寝台付の583系を
使用した夜行寝台特急となった
※ ウィキペディア画像を拝借
山陽新幹線が全通した1975年3月に、【なは】は運行時間帯を昼間から夜間に、また使用車両を583系に変更し、夜行寝台特急列車【なは】として、新大阪(一時期は京都発着)~西鹿児島の運行となった。
1984年のダイヤ改正からは
当時最新の24系25形客車を称した
寝台特急にグレードアップされた
※『列車名鑑・特急【なは】』より
1984年2月からは、使用車両を電車から寝台客車(24系客車)に変更し、京阪神と鹿児島本線沿線を結ぶ、いわゆる『関西ブルートレイン』の一員となった。
九州新幹線の部分開業により
熊本までと運行期間が短縮された上に
長崎方面に向かう寝台特急
【あかつき】と併結運転となった
※ ウィキペディア画像を拝借
2004年3月に九州新幹線が部分開業した事によって、並行在来線が第三セクターの肥薩おれんじ鉄道へ移管となり、それに伴って熊本発着に変更された。 翌2005年10月には、長崎・佐世保方面に向かう【あかつき】と京都~鳥栖で併結運行を実施する事となり、新大阪発着から京都発着に変更された。
貨物運用の相次ぐ廃止で余剰となった
貨物用機関車のEF66牽引の
寝台特急【なは・あかつき】
:
この寝台特急【なは・あかつき】が
京阪神と九州を運行する
最後の夜行寝台列車となった
※ ウィキペディア画像を拝借
だが、新幹線及び、高速道路網の充実で九州の各方面に運行開始された夜行バスに利用客を取られて利用率が伸びず、また車両の老朽化による車体更新等の問題も発生した為に寝台特急の全廃方針が打ち出されて、2008年3月14日発の便をもって【あかつき】と共に運行廃止となった。 当列車の運行廃止によって、京阪神と九州を結ぶ夜行定期特急列車は1965年の運行開始以来42年半、当列車においては39年半の歴史に終止符を打った。
列車名【なは】の由来は
「本土に沖縄名の列車を走らせよう」
というキャンペーンの下で
公募されたものであった
※『列車名鑑・特急【なは】』より
列車名の由来であるが、1967年に琉球新報が沖縄の日本復帰を願って、「本土に沖縄名の列車を走らせよう」というキャンペーンで公募したものである。 県内外からの5,211通の応募を元に、国鉄に提出された〔なは〕・〔おきなわ〕・〔しゅり〕・〔でいご〕・〔ひめゆり〕の5つの候補の中から、国鉄の列車愛称選考会によって選出されたものである。 その為に、当時アメリカ占領下に置かれていた沖縄県那覇市が名称の由来となった。
運行区間から編成に至るまで
全く同じだった寝台特急【明星】
※ 新大阪にて
また経由地・目的地に由来しない地名を列車名に使う列車であるが、鹿児島港で船に乗り継ぐ事によって、関西方面から沖縄へのアクセスの一端を担っていたという経緯もあった。 なお、1980年代に全く同じ区間設定の寝台特急【明星】が存在しており、異なる列車名の重複運行状態であったが、【なは】の愛称設定の経緯を考えて特例措置が取られていた。
寝台特急【なは】のテールマーク
※ ウィキペディア画像を拝借
《列車データ》
運行区間:京都・新大阪~西鹿児島 978.4km(2004年3月以降は京都~熊本 779.7km)
※ 1978年10月~1980年10月の間は京都発着となり、運行区間が京都~西鹿児島となる
※ 2004年3月に、九州新幹線の新八代~鹿児島中央の部分開業により、運行区間が熊本に
短縮されて新大阪~熊本となる
※ 2005年10月改正で、寝台特急【あかつき】との併結運転開始によって、始発駅が新大阪
から京都に変更され、運行区間が京都~熊本となる
運行期間:1968年10月 1日:従来【かもめ】として新大阪~西鹿児島で運行されていた昼行気動車
特急列車を独立させて【なは】として運行を開始
運行開始時は小倉まで、日豊本線の宮崎発着列車である【日向】と
併結していた
1973年10月 1日:485系電車を使用して電車特急化される
1975年 3月10日:山陽新幹線の博多までの全通に伴い、583系の使用による電車寝台
特急【なは】となる
1978年10月 2日:当ダイヤ改正より同一区間運行の寝台特急【明星】との入れ替えに
よって京都発着に変更される
583系時代は
寝台特急【明星】と共通運用だった
※ サントリーカーブにて
1980年10月 1日:京都発着の寝台特急【なは】を廃止し、新大阪発着だった寝台特急
【明星】の1往復が寝台特急【なは】に置き換えとなる
この事によって新大阪発着に短縮となる
1984年 2月 1日:当ダイヤ改正により、寝台客車24系25形客車14両に車種変更となる
これは寝台特急【明星】の1往復を寝台特急【なは】に名称変更し、
従来の583系電車寝台特急【なは】を廃止したものだった
ほぼフラット寸前まで座席を倒せた
『レガートシート』
:
夜行バスと違って列車は幅が広く
本当に楽だったよ
コレを拡充すれば夜行バスに楔を
打ち込む事ができたのに・・と思うよ
※ ウィキペディア画像を拝借
1990年 3月10日:高速バスに対抗して、指定席車に高角度リクライニングシートである
『レガートシート』の連結開始
鉄道は値引きではなく
車内の装飾で張り合おうとしたが
夜行利用客が求めるモノの第一は料金・運賃で
寝辛くとも運賃の安い夜行バスに
敗れ去ったのである
※ ウィキペディア画像を拝借
1991年 3月16日:B個室寝台『デュエット』を連結開始
1992年 7月14日:B個室寝台「ソロ」を連結開始
『レガートシート』は西鹿児島発着の基本編成に連結となる
1995年 1月30日:阪神淡路大震災の発生により、同年3月31まで福知山・山陰・播但線
経由の迂回運転(迂回する区間はDD51が牽引)
2004年 3月13日:九州新幹線の新八代~鹿児島中央(西鹿児島から駅名改称)の部分
開業と肥薩おれんじ鉄道(第三セクター)の開業に伴い、熊本発着
に短縮
2005年10月 1日:寝台特急【あかつき】と京都~鳥栖間で併結運転開始となり、運転
区間が京都~熊本間となる
また、普通車指定席の『レガートシート』が編成から外された
当ダイヤ改正以降は、臨時運行を除き『「京阪神対九州特急』は
寝台特急【なは】【あかつき】の併結列車1往復のみとなる
2008年 3月14日:この日発の運転をもって寝台特急【なは】は、併結の【あかつき】
と共に運行廃止となる
これにより、九州直通のブルートレインは東京発の【富士】
【はやぶさ】の1往復となったが、同列車も翌2009年3月13日に廃止
となった
停車駅:京都・新大阪・大阪・三ノ宮・姫路・岡山・倉敷・福山・(尾道)・(三原)・〔新山口〕・
〔宇部〕・〔厚狭〕・下関・門司・小倉・黒崎・博多・鳥栖・久留米・大牟田・熊本・
八代・水俣・出水・阿久根・川内・串木野・伊集院・西鹿児島
※ 尾道・三原は下り列車のみ停車
※ 新山口・宇部・厚狭は上り列車のみ停車
※ 上・下り列車共に、広島・徳山で運転停車
大阪駅に到着した
EF65-1000番台牽引の寝台特急【なは】
※『列車名鑑・特急【なは】』より
使用車両:運行開始当初はキハ82系気動車による運転で、1973年10月1日より485系電車を投入して
電車化された。 1975年3月10日のダイヤ改正より、583系が投入されて電車寝台貨列車
となった。 また、1984年2月1日のダイヤ改正より客車寝台化されて、24系客車が使用
されるようになった。
寝台編成の半数を『レガートシート』にすれば
割引料金の設定次第では夜行バスから
顧客を奪回する事ができたのに・・ね
:
同じ『レガートシート』でも
夜行バスの寝苦しさとは
雲泥の差がある訳だしィ
※ ウィキペディア画像を拝借
平成に入って1990年3月10日より、高速夜行バスに対抗するべく普通車座席指定席に
『レガートシート』を連結して使用を開始する。 だが、2005年10月1日からの
【あかつき】との併結開始に伴って、前日の9月30日出発分を以って編成から外された。
カップル向けの個室寝台も仕立てたが
夜行バスに比べて料金が高すぎた
※ ウィキペディア画像を拝借
B個室寝台『デュエット』は1991年3月16日、B個室寝台『ソロ』は1992年7月15日
より編成に追加されている。
本州区間の牽引を担当した
EF65形1000番台
※ ウィキペディア画像を拝借
牽引機関車は、本州区間は直流機関車のEF65形1000番台が担当。
末期は貨物牽引が減少して余剰となったEF66が担当していた。
九州区間の牽引を担当した
交流用のED76機関車
※『列車名鑑・特急【なは】』より
下関と門司で機関車交換が行われ、関門トンネル区間(下関~門司)は交直流両用の
EF81の400番台、九州区間は交流用のED76が担当していた。
寝台特急【なは】
小坊の時に大阪駅で撮っていたよ
乗車経験:ナシ(寝台特急【あかつき】が単独運転の時に、『レガートシート』車に乗った事はある)
撮影経験:大阪駅で583系電車寝台時に撮影経験アリ
出世して勤め先の中枢に入るなど
軌道に乗れた奴を除いて
最もシンドイのが
アラフィフ世代だと思う
でもこのアラフィフの10年を
耐えきれなかった奴は・・
特に逃げた奴はこの先不幸以外の
結末はないだろうと思う
それは当たり前の事だが
生活に困窮するからである
そして逃げの最大行為が自殺で
悲しいかなアラフィフ世代が
群を抜いて多いのである
そして逃げの最大理由が
生活=金に行き詰ってが理由だ
でも最大の逃げを行使しても
何の解決にもならずに
本人を始め周り全部が不幸となる
だからダメはダメなりに仕事ができない
無能なら無能なりに知恵を絞って
上手くいっている奴の更に上を行く事を
思い描きその実現手法を模索実践しながら
必死に耐えているし耐えねばならないのだ
ワテは自身に『強がり』を持っているので
他人の施しや皆が払う税金が元手の公的援助を
ちゅーちゅー吸う事を恥もなくひけらかす
クズに落ちぶれたくはないし
自らこの道に落ちる奴は男の恥だとも思う
次に結婚して子供を儲け家庭を持つ事だが
子供の教育費にかかる金が大卒までで
最低4000万は必要という現実を垣間見て
心の狭いワテはこんな無駄で自分を
犠牲にするのは真っ平御免に思う
でも子供ができてしまえば有無を言わず
逃れられない十字架を背負うんだよね
そしてその特典は自分が死ぬ時に
死に水を取るなど面倒を見てもらえる事だが
その為に4000万は高すぎると思うよ
まぁ批判承知で言ってるのだが・・
そんな金は自分の為に使い
自分の為に貯めるよ
性欲の処理もソープに行けば
今はナマが当然でキッチリ料金分
サービスしてくれるので事足りるしィ
食欲や睡眠欲も下手すれば子供の為に
我慢せねばならなくなるのだし
大好きな旅やヤマも行く機会が減るだろう
そして気苦労も多くなってワテの性格なら
これほど割に合わない事はないと思うわ
気ままの代償として死ぬ時に
面倒を見てもらえないって事だが
それでもワテは一生涯養育という
十字架を背負う位ならそれでも
構わないと思っているよ
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Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんばんは。
写真の撮影経験でも記した通り、私は583系の寝台電車運転時に大阪駅にタカる小坊の『駅撮り鉄』の一人でした。
当時は午前中は大阪駅で、大阪駅を10時頃に発車する特急【白鳥】を撮ったら、鶴橋か今里に行って近鉄を撮っていました。
それと、当時使ってイタカメラは、今は珠玉の名機と言われるレンジファインダーでフルマニュアルの東京光学『TOPCON T-35L』でした。 ピント合わせは元より、シャッタースピード・絞りなど全てマニュアルで、大人でも扱えないようなカメラでした。
今、それなりに撮れるのは、このカメラで揉まれたから・・かもです。
それと、気動車特急で見た事あるのが、キハ181の特急【やくも】ですね。 確か、中坊の時だったかと。
写真の撮影経験でも記した通り、私は583系の寝台電車運転時に大阪駅にタカる小坊の『駅撮り鉄』の一人でした。
当時は午前中は大阪駅で、大阪駅を10時頃に発車する特急【白鳥】を撮ったら、鶴橋か今里に行って近鉄を撮っていました。
それと、当時使ってイタカメラは、今は珠玉の名機と言われるレンジファインダーでフルマニュアルの東京光学『TOPCON T-35L』でした。 ピント合わせは元より、シャッタースピード・絞りなど全てマニュアルで、大人でも扱えないようなカメラでした。
今、それなりに撮れるのは、このカメラで揉まれたから・・かもです。
それと、気動車特急で見た事あるのが、キハ181の特急【やくも】ですね。 確か、中坊の時だったかと。
最寄り駅に停車するので駅近くまで日曜日には見に行ってました。「かもめ」が通過するのは残念でしたが(笑)
夜行寝台となってからは縁遠くなってしまいましたね。