2023-01-17 (Tue)✎
廃線鉄道 第96回 土佐電気鉄道・安芸線 〔高知県〕
路線廃止となってからも
バスの待合所としてして利用されていた
土佐電の終着駅・安芸駅
:
だが数年前に解体され
『カリヨン広場』という公園となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
土佐電気鉄道・安芸線(とさでんきてつどう・あきせん)は、かつて高知県南国市内の後免駅と安芸市内の安芸駅とを結んでいた、土佐電気鉄道(現・とさでん交通)の鉄道路線である。
終戦直後に電化され
自社の軌道線に乗り入れ
高知市内へ直通運転していた
※『土佐電気鉄道・1965年』より
一部の列車は軌道線の後免線・伊野線や、国鉄土讃本線に乗り入れていた。 廃止後は軌道後の一部が、『ごめん・なはり線』と呼ばれている土佐黒潮鉄道・阿佐線の建設用地や、トンネル等も含めてのサイクリングロード《高知県道501号高知安芸自転車道》として使用されている。 また、阪神の中古車両が走っていた事や、終点の安芸駅近くに阪神タイガースがキャンプを張る安芸市営球場があった事から、阪神とは縁の深い路線であった。
代替交通としては、2002年7月1日開業の土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の他、高知東部交通が『安芸・高知線』として路線バスを運行している。 なお、土佐くろしお鉄道のごめん・なばり線では、立田・野市・夜須など路線廃止となって敷地を譲った土佐電気鉄道が設置していた駅のあった付近に駅を設置している。
非電化だった開業時に投入された
ガソリンカーが制御車改造されて
電動車と組んで運用されていた
※『琴電・土佐電・伊予電』より
開業時は非電化路線で、蒸気機関車が牽引する客車や気動車による運行だったが、終戦後の世情混乱により石炭や石油などの燃料が高騰した事を契機として電化工事が推し進められる事となる。 だが、その電化工事も、やはり終戦後の困難な条件の下で行われた事に変わりがなかった。
電化開業を受けて電動車の新造と
ガソリンカーのエンジンを下して制御車化
するなど輸送力強化に努めていたが・・
※『土佐電気鉄道・1965年』より
そこでGHQの支援を受けて1949年4月18日に御免~手結を、3か月後の7月20日に手結~安芸の全線で電化工事を成し遂げ、開業に漕ぎつけている。 土佐電気鉄道の後身であるとさでん交通の後免町停留所付近には、時の首相・吉田茂の起草した電化記念碑(日本語と英語を併記)が建立され、GHQに対する謝辞が記されている。 この碑は安芸線廃止後の現在も残されている。
電化直後は沿線から出荷される
農作物の貨物輸送で順調な
経営状態であったが1972年に
国鉄との連絡運輸が打ち切られると
貨物輸送がなくなりイッキに窮乏した
※『土佐電気鉄道・1965年』より
このようにGHQの占領統治政策の後押しもあって開業した当路線であったが、1970年代に入ると道路の整備が進み、貨物輸送がトラックに切り替えられて貨物輸送が廃止となり、また過疎による旅客収入の減少も相俟って赤字の増大が顕著になっていた。 そこで、湖西線に鉄道用地を下げ渡した江若鉄道の例を参考に、鉄道建設公団の未成線であった国鉄・阿佐線の建設を促進するという名目で、用地売却によって赤字を解消する為に1974年3月末に路線廃止となった。
阿佐線そのものは『四国循環鉄道構想』の下で、1965年3月から安芸~田野が国鉄新線として着工されている。 土佐電気鉄道安芸線廃止後の1974年4月からは、後免~安芸でも高架橋の工事などが行われていたが、1981年12月に『日本国有鉄道経営再建促進特別措置法』(いわゆる『国鉄再建法』)の施行に伴い、建設線であった阿佐(西)線も工事が凍結されている。
『国鉄再建法』により建設が凍結され
永らく放置されていた奈半利駅予定地
※『鉄建公団のAB線』より
この時点で全長のうち18.9km(約44%)が完成していたが、工事凍結により長期間に渡って建設途中の高架橋や盛土が放置されたままとなった。 この様子から、『土佐の万里の長城』やら、もしくは『土佐のバベルの塔』と揶揄されていた。
国鉄再建法を受けて建設工事が
凍結されていた国鉄・阿佐線は
高知県主体で設立した第三セクター会社
が引き受ける事となった
※『土佐くろしお鉄道ウェブ』より
その後の1986年5月に、高知県を主体とした『土佐くろしお鉄道株式会社』が設立され、同じく建設線であった宿毛線と共に引き継がれる事となり、1987年1月に同社が後免~奈半利の第一種鉄道事業免許を取得し、同年3月から7年ぶりに工事が再開された。
開業した『土佐くろしお鉄道株式会社』の創成期は、高松や本州の岡山から直通特急の運行が期待される宿毛線の建設(1997年10月1日開業)と、特定地方交通線に指定された中村線の維持に力を注いだ為に阿佐(西)線の建設は後回しとなったが、2002年7月1日に工事着工から37年目(安芸線廃止後28年目)にしてようやく開業している。
《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):御免~安芸 26.8km、軌間:1067mm、
電化区間:全線(直流600V)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅数:24駅(起終点駅含む)
〔後免〕・〔後免町〕・永田・立田・日章・物部川・西野市・野市・遠山・古川・赤岡・岸本・月見山・
夜須・手結(てい)・海浜学校前・土佐住吉・長谷寄・西分・和食・赤野・八流(やながれ)・穴内・安芸
※ 御免は現在もJR四国と土佐くろしお鉄道の駅として現存する
※ 御免町はとさでん交通(土佐電気鉄道の後身)の軌道線(路面電車)の始発停留場として現存する
※ 永田・物部川・遠山の3駅は戦前の電化前に廃駅となっている
※ 立田・西野市・古川・月見山・夜須・長谷寄・和食・八流の各駅は戦前に一度駅廃止と
なったが、1949~1952年頃に復活した
現在は安芸線の遺構が全くなくなった
とさでん交通の御免町停留所
※『ユキサキナビ』より
運行形態:急行列車を含む高知市内線直通があり、軌道線車両により鉄道線内は最大3両を連結して
運行されていた。
1960年のダイヤ改正時点で、旅客列車が安芸発で1日30本運行され、均すと33分間隔の
運行だった。 うち後免行き22本、軌道線に乗り入れて高知市内へ直通する列車が8本
(朝方に急行1本含む)あった。 他にも朝方手結から1本・野市から2本の市内直通する
区間運行列車があった。 貨物列車は後免~安芸に定期1日1往復、不定期で1日2往復運行
されていた。 促成栽培の野菜出荷時には、1日30両の貨物輸送要請があったという。
1969年のダイヤ改正時では、旅客列車が安芸発列車が1日27本で、着列車が28本運行され
ていた。 軌道線経由で高知市内から乗り入れが10本・市内行き12本あり、上下で各1往復
急行が運行していた。 他にラッシュ時には手結、赤岡、野市折り返し便もあった。
貨物列車は1日1往復運行され、他に混合列車もあった。 野菜出荷時には、1日30両以上
の出荷要請があり、貨物列車が増発されていた。
ガソリンカーを制御車に改造して
投入するなど車両の使いまわし
が地方鉄道の常であった
※『琴電・土佐電・伊予電』より
土佐電気鉄道・安芸線 年表
1919年(大正 8年) 7月12日:土佐電気鉄道の後免及び、鉄道院(後の国鉄で現在はJR四国)
の高知線(当時工事線)に接続し、安芸に至る路線の免許出
11月 3日:同免許が下付される
1920年(大正 9年) 1月 8日:高知鉄道設立
1924年(大正13年)12月 8日:高知鉄道によって、後免(現・後免町)~手結(11.8km) 開業
1925年(大正14年) 3月31日:省後免~後免 (0.96km) の敷設免許申請
7月14日:申請区間の工事施工認可
11月15日:同区間の着工
1926年(大正15年) 4月11日:省後免を後免・後免を後免町と改称し、後免~後免町の開業
1929年(昭和 4年) 4月 1日:手結~安芸 着工
義経号で有名となった
国鉄型の7100形蒸気機関車も
導入されていた
※ ウィキペディア画像を拝借
1930年(昭和 5年) 4月 1日:手結~安芸 (14.1km) が開業し、後免~安芸の全線が開通する
6月21日:省線(後の国鉄)経由で、高知駅への乗り入れ開始
1941年(昭和16年) 7月12日:2日前に土佐電気の軌道線部門を譲受し、土佐バスなどを合併
した高知鉄道が土佐交通に社名を変更
1948年(昭和23年) 3月16日:電化工事施工認可申請し、10月1日に許可が下りる
6月 3日:南海鍛圧機(元の土佐電気)が土佐交通を合併し、土佐電気鉄道
に社名を変更
1949年(昭和24年) 4月18日:後免~手結の電化が完成し開業
7月20日:手結~安芸の電化が完成し、全線電化開業となる。
軌道線の車両を使用して
安芸線から高知市内への
直通運転が実施された
※ ウィキペディア画像を拝借
1954年(昭和29年) 7月 5日:軌道線車両によって、高知市内~手結の直通運転開始
1955年(昭和30年)10月31日:高知市内への直通運行区間を安芸まで延長
1972年(昭和47年) :国鉄との連絡運輸が打ち切りとなり、貨物営業が廃止となる
貨物営業の廃止により、業績が急速に悪化する
1974年(昭和49年) 4月 1日:安芸線・御免~安芸の全線が廃止される
簡易路線の草分け的存在だった
C12形機関車
:
開業時は国鉄型の機関車を
導入して貨物を中心とした
貨客混合列車を運行していた
※ ウィキペディア画像を拝借
車両
1949年の電化完成時まで、貨物列車を中心に蒸気機関車が導入されていた。 所有していたのは、国鉄型の7100形・1120形・C12形など国鉄型の蒸気機関車が使用された。 電化後も1~2年は貨物列車を牽引していたが、北海道の雄別炭鉱への譲渡や廃車解体で1952年までに全ての蒸気機関車が除籍となった。 また、1924年の開業時に、国鉄から払い下げとなった木造2軸客車8両を牽引する貨客混合列車も運行された。
導入された気動車は
東武・熊谷線の前身である
越生鉄道のキハ11と
同型のガソリンカーだった
※ ウィキペディア画像を拝借
電化開業までの旅客列車は、気動車で運用された。 基本はガソリンカーで、戦中及び終戦直後の燃料不足時には、木炭ガス式に動力改造を受けていた。 同社が電化開業を急いだのも、みの戦中・戦後の燃料不足による燃費高騰からである。
御免町で交換する
安芸線の主力車両モハ5000形
※『土佐電気鉄道・1965年』より
電化後は、ナニワ工機で京阪100型の鋼体化時に余剰になった車体と、南海電鉄から譲り受けたブリル77E台車、制御装置は三菱電機から購入した新品を組み合わせ寄せ集めで製造されたモハ1000形8両が、同線の主力車両となっていた。
車体更新時に阪神電車の1101形の
車体に載せ替えられ改番されて
モハ1000からモハ5000となった
※『土佐電気鉄道・1965年』より
また、車体更新で阪神電車の1101形の車体を載せ替えたクハ3000形や、同じくモハ1000形の車体更新時に自動扉を装備したモハ5000形などが、路線廃止まで運用に就いていた。
ガソリンカーだった車両の
エンジンを下して
制御車化した車両もあった
※『土佐電気鉄道・1965年』より
他にも、電化時まではガソリンカーだった車両のエンジンを取り外して制御車とした車両がサハとし使用された。 また、制御車を電装化改造で動力制御車とした車両もあった。
ED1000形凸型電気機関車
:
軽い自重から重しを載せて
間接制御に改造されるなど
使い勝手が悪く予備車となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
電気機関車はED1000形とED2000型の各1両が在籍していた。 いずれも、国鉄との連絡運輸が打ち切りとなって貨物営業が廃止されるまで運用に就いていた。
ED2000形凸型電気機関車
:
ED1000形の置き換えとして導入
同形式に栗原電鉄のED20がある
車齢が若く他社への譲渡が検討されたが
600Vの機関車は引き取り手がなく解体された
※ ウィキペディア画像を拝借
ED2000形は製造年が1951年と車齢が若く、路線廃止時に譲渡が考慮されたが、600V機関車の引き取り手はなくED1000形と共に解体されている。
冷房改造を受けるなど
現在も半数が現役の200形
※ ウィキペディア画像を拝借
軌道線(現在もとさでん交通・軌道線として存在する)からの乗り入れ車両として、200形・500形・600形が使用されていた。 なお、現在も200形の半数と600形の全車両が、冷房改造を受けるなどして現役で在籍している。
最新技術を盛り込んだ高性能車両だったが
それが災いして保守・整備に手間取り
早々に新車置き換えで廃車となった500形
※ ウィキペディア画像を拝借
また、500形は直角カルダン駆動・電空併用ブレーキ・間接自動制御などを備えた米国PCCカーに準ずる高性能車両であったが、特殊な構造が災いして保守・整備に手間がかかり、在来車両と同様の吊りかけ式・直接制御方式に改造されていた。 この車両は試作車で1両しかなかった為、2002年に新型車両との置き換えで廃車となっている。
土佐電気鉄道・安芸線の線路跡は
鉄道建設公団が建設中だった
国鉄・阿佐線の建設用地に供された
※『土佐くろしお鉄道ウェブ』より
路線廃止後
路盤敷地の多くが土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の建設用地に転用され、このごめん・なはり線は『鉄道建設公団』の建設予定線であった為、高規格な高架軌道で建設されていた。 一度は『国鉄再建法』の施行によって工事が凍結されて、建設途中のまま放置されたが、高知県主体の第三セクター『土佐くろしお鉄道』により建設が再開され、現在は奈半利までが開業している。
廃線跡はトンネルも含めて
舗装されて県道指定された
サイクリング道路となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
前述したように『土佐くろしお鉄道』の軌道の大半が高架軌道で建設されたので、元々土佐電気鉄道が通っていた高架軌道下の路盤跡はサイクリング専用道路として活用され、《高知県道501号高知安芸自転車道》となっている。
終点の安芸駅は、現在の土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線球場前駅付近にあった。 市街地の外れにあり、用地買収に手間取り安芸市の中心部には線路を延ばす事ができなかったようである。
安芸駅跡はカリヨン時計
(オルゴール付時計台)が設置された
『カリヨン広場』となっている
※『フォートラベル』より
駅舎はバスの待合所として活用されていたが、解体されて現存せず跡地は『カリヨン広場』となっている。 また、とさでん交通の後免町駅構内には、安芸線に接続していた線路が残っていた。 しかし、待合所の建替えで一部残っていた安芸線の線路も完全に撤去され、後免町駅に残る遺構は安芸線電化開業記念碑のみとなっている。
前回の続き
:
シンカンセンを不採算路線として
廃止したならその標準軌道は
最大限利用すればいいのである
使用を日に2~3本の貨物列車に限定して
増収策を講じないのは愚の骨頂である
その為の3線軌条でオフシーズンは
標準軌に改造した電車の運行で
シーズンのみ先に出した札幌直通特急や
夜行快速〔はまなす〕など青森からの
直通列車を狭軌利用で設定すればいい
通常期に北海道に渡る旅客のほぼ全てを
旅客機かフェリーに奪われた現状では
列車の運行は空気輸送となり赤字が嵩むだけだ
無理に札幌まで直通させる必要はない
要するに儲かる時に儲かる列車を仕立てて
大いに安く北海道に来てもらって
これら呼び込んだ客層に道内で
金を落としてもらえばいいのだ
でもコレって商売の鉄則でしょ?
ワテが利口な訳でも何でもなく
ただ『商売の鉄則』通りに事を運べは
必ず結果がついてくると言いたいだけである
それと貨物も政府の補助金を
赤字補填に使うのではなく
JR貨物利用の顧客に料金の25%を
割引するべく使えばいいのである
25%割り引けばトラックの運送業者と
十分に張り合えるハズだし
トラック運転手の不足が顕著な今は
下手したらトラックより割安となって
顧客が戻ってくる事も考えられる
鉄道貨物の最も優れた点は
旅客輸送にも当てはまる事だが
「決まった方向に一度に大量の
物資を輸送する事」にあるのだから
とにかく鉄道貨物利用客を増やす事である
商売の鉄則は『薄利多売』なのだ
そしてシンカンセンのような路線は
東海道・山陽・東北のように
在来線と共存できるほどの輸送量が
ないと成り立たない路線種なのである
それは東海道シンカンセンのように
輸送密度が242000人/日があっても
営業係数が61円と15万人分の
運賃・料金が経費として飛ぶほどに
「儲からない」のだから・・
:
まだまだ続く7回目へ
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