風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第94回  留萠鉄道

廃線鉄道  第94回  留萠鉄道 〔北海道〕

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留萠鉄道は気動車での
旅客営業も手掛けていたが
主要は雨竜炭田からの
石炭輸送を担う運炭鉄道だった
※『北海道の炭鉱鉄道』より

留萠鉄道(るもいてつどう)は、北海道雨竜郡(空知支庁管内沼田町)および留萌郡(廃止当時は留萌支庁管内留萌町で、現在は留萌市)で、それぞれ鉄道路線を運営していた私鉄である。 沿線の炭鉱の閉山により、沼田町内に所有していた路線(炭礦線)を最後に1969年に鉄道営業を休止し、1971年に正式に廃止した。

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留萌港に隣接して敷設された
留萠鉄道の線路
※『昭和8年・留萌港』より

会社名は、開業当初に留萠港周辺にも路線(海岸線)を所有していた事により名乗った名称である。
この留萌鉄道の項目では、旅客営業のあった『炭礦線』を主軸に記載し、貨物専用線で戦前に国有化されて留萌本線の側線となった『海岸線』は簡単に記すにとどめる事にする。

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屋根が落ちた廃墟となって佇む
留萠鉄道本社の社屋
※『ユーチューブ』画像より

なお、『萠』は『萌』の俗字だが、本鉄道が存在した間の正式な路線名称は『萠』であった為に、この項目では『萠』の文字を使用する。 また、国鉄(現在はJR北海道)の路線名・駅名については、1997年に正字に改められている。

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昭和炭鉱で石炭を
積み込む様子を写した絵葉書
※ ウィキペディア画像を拝借

石狩川水系の雨竜川の支流である幌新太刀別川(ほろにたちべつがわ)流域に開発された、雨竜炭田の各炭鉱から産出される石炭を留萌港に積み出す為、沿線各炭鉱を経営する明治鉱業や浅野炭鉱・三井鉱山などの我が国有数の財閥資本により、東京の京橋区銀座7丁目5番地に資本金250万円で設立された石炭輸送目的の鉄道路線である。

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廃墟になって佇む
留萠鉄道社屋の遺構
留萠鉄道は設立当時に
名だたる財閥の出資によって
設立された炭鉱運炭路線だった
※『フォートラベル』より

炭鉱の所在地が御料林であった事から宮内省(現在は宮内庁)も株主に名を連ねていた。
なお、当時に出資した財閥の株式保有数、即ち出資額は、明治鉱業1万株・浅野炭鉱1万株・生命保険協会1万株・三井鉱山3,500株・北炭3,500株・三菱鉱業2,500株・住友炭鉱2,500株・大倉商事2,500株・宮内省1,000株などであった。

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現在のJR留萌本線・恵比島駅
駅前面の雪面がかつて留萠鉄道が
石炭を積み下ろしした
貨物ヤードだったのだろう
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留萌鉄道往時の恵比島駅舎
石炭貨物を取り扱うに
相応しい大きな駅舎だった
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

鉄道路線建設は、留萠本線の恵比島から分岐して上流の各炭鉱に連絡して昭和に至る炭礦線と、留萠から分岐して石炭積出港である留萠港を取り巻く海岸線(南岸線・北岸線)からなっていた。
また、両線の間は、国鉄留萠本線に引き継いで輸送を行なっていた。
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開業時は車両を保有せず
各炭鉱保有のクラウス機関車で
運炭業務に就いていた
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

炭礦線は旅客と貨物の営業、海岸線は貨物営業のみを行ったが、当初の予定では海岸線での旅客営業も予定していた。 また、開業時は本線用の車両を保有せず、国鉄(当時は鉄道省)に運行を委託していた。
国鉄では、恵比島に駐泊所(深川機関区恵比島駐泊所)を設置し、機関車1両が常駐していた。

1939年に、天塩鉄道敷設に伴って留萠駅の構内配線が改良されると、これに連絡する海岸線は1941年10月買収・国有化されて留萠駅の構内側線となり、以降は炭礦線のみとなった。

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自社で発注したキハ1000形気動車
前面中央下部に走行に合わせて
光軸の向きの変換が可能な
特殊ヘッドライトを装備して
独特な容姿を魅せていた
※『鉄路の想い』より

1952年には客貨分離が行なわれ、漸く自社の機械式気動車による旅客列車の運行が為されたが、貨物(混合)列車は引き続き国鉄による運行管理が行われ、国鉄所有の機関車がこれを牽引していた。
1955年に液体式気動車が増備されるに及び、恵比島より留萌本線に乗り入れての深川への直通運転が計画され、翌1956年5月に実施されている。

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自社で気動車を保有してからは
国鉄との運転委託を取りやめて
恵比島より深川への乗り入れを行うなど
積極的な旅客営業を行った
路線廃止後茨城交通に譲渡されたキハ2000形
この国鉄型に模した車両で
留萌本線に乗り入れていた
※『茨城交通・港線』より

その後、自社発注のディーゼル機関車導入に伴って、1960年10月末日をもって国鉄との運転管理委託を解除し、すべての列車を自社運行とした。  1958年には、ロータリー式除雪用ディーゼル機関車のDR101CLを導入している。

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留萠鉄道の傍系子会社が開発した
わが国の初の本格的ロータリーラッセル車
※『同志社大学鉄道同好会』より

これは、留萠鉄道傍系の三和興業(のちのNICHIJO)が開発して新潟鐵工所で製造したもので、ロータリー装置を脱着可能な1067mm軌間のディーゼル機関車としては日本初のものであり、国鉄DD14形開発の先駆となった事から、留萠鉄道は運輸大臣から表彰を受けている。
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炭礦線の終点だった昭和駅
この先には明治砿業・昭和炭鉱への
専用線が続いていた
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盛業時の明治砿業・昭和鉱山
※上下2枚とも
『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

沿線炭鉱の順調な出炭に支えられて、昭和30年代までの経営状況はきわめて良好で、液体式気動車も5両を数える程であったが、エネルギー革命の変革で石炭産業が斜陽化し、1968年11月に雨竜炭鉱、翌1969年4月に昭和炭鉱と太刀別炭鉱が相次いで閉山すると存在理由を失って経営苦難に陥り、同年5月に営業休止して会社更生手続きに入った。

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閉山によって
コンクリートで埋められた
昭和炭鉱の坑口
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

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炭鉱の閉山で
鉱山住宅も廃墟となった
※『廃墟の光景』より

この間、砕石事業などを主体とする会社再建案も検討されたが、子会社の倒産も相次いだ事から、翌1970年11月には会社の清算が決まり、運行再開する事なく1971年に全線を廃止した。

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太刀別付近で石炭満載の
貨物列車を牽引する
クラウス小型機関車
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

炭礦線(たんこうせん)は、北海道雨竜郡沼田町の恵比島から同町内の昭和を結ぶ17.6kmの路線で、沿線の炭鉱(昭和炭鉱・浅野炭鉱)から産出される石炭を留萌港に輸送する使命を担っていた。 
1928年に、後述の海岸線(北岸線)と共に恵比島~太刀別、翌1929年に太刀別~佐々木沢の鉄道敷設免許を取得し、1930年7月に恵比島~太刀別の14.0km、同年10月に太刀別~昭和の3.6kmを順次開業させた。

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浅野財閥(現在の浅野セメント)が
開坑した雨竜炭鉱全景
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

なお、佐々木沢付近で予定された三井鉱山鉱区の炭鉱開発計画が頓挫した為、昭和~佐々木沢の2.35kmは未着工のまま、1942年に免許を失効している。 開業当初から鉄道省(国鉄)札幌鉄道局に運行管理を委託し、客車も鉄道省から借入れていた為、当時の自社保有車両は昭和駅構内で入換えを行う小型機関車のみであった。

戦後、御料林からの木材発送がなくなった太刀別駅を1949年に廃止した。 1952年には、ディーゼル動車を購入して乗降場を設置して旅客サービスの向上に努めると共に、これまで混合列車で使用していた国鉄借入客車を正式に譲受けて自社保有とした。
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太刀別駅は宮内庁・御料林の木材搬出が
無くなって一度廃駅となったが
太刀別炭鉱の開坑に
よって再度駅復活となった
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1963年に開坑した
太刀別炭鉱の選炭場
※ 上下2枚とも
『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

1963年には、九州鉱山・太刀別炭鉱の開坑に伴って太刀別を石炭積出し駅として復活させるなど、昭和30年代の貨物は年間約45万トン・旅客は年間約45万人を数える程に輸送量が漸増傾向で、営業係数もほぼ70~80台と順調な業績を示して経営も安定していた。
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雨竜炭鉱のから採掘した石炭の
積み込み先だった新雨竜駅
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

しかし、1968年12月の政府の第4次石炭政策答申で国内炭鉱の整理統合政策が明確に示されると、中小炭鉱は相次いで閉山へとなだれ込んで、沿線の炭鉱が消滅して留萠鉄道は存在理由を失うに至った。
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閉山によって
廃墟となりつつある雨竜炭鉱

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太刀別炭鉱の閉山で
駅は炭鉱から延びていた索道の
残骸の廃棄場と化していた
※ 上下2枚とも
『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

この為に、1969年4月30日をもって営業休止し、2年後の1971年4月15日に炭礦線全線が正式に路線廃止となった。 路線廃止後は、石狩沼田駅~幌新温泉に沼田町営バスが運行されて現在に至っている。

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炭礦線の線路跡は1991年に
竣工した沼田ダムの人造湖
ホロピリ湖の湖底に沈んでいる
※『北空知広域水道企業団』のウェブページより

また、路線廃止翌年の1972年より幌新太刀別川に沼田ダムが建設され、1991年に竣工している。
廃線跡の沼田ダムより先はダム湖であるホロピリ湖の湖底に沈んでいる。

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ホロピリ湖の畔には
雨竜炭鉱の出炭施設の残骸が
廃墟となって残っている
※『ユーチューブ』画像より

また、ポロピリ湖の上端に陸地が突き出た所に沿うように新雨竜駅が設けられて、その陸地の奥に雨竜炭鉱の出炭施設の残骸が廃墟となって残っている。 なので、現在はダム湖の水位が下がった時に、新雨竜駅が設置された付近の線路跡が確認できる。

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留萠鉄道・炭礦線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):恵比島~昭和 17.6km、軌間:1067mm、
電化区間:ナシ(全線非電化)複線区間:ナシ(全線単線)、閉塞方式:タブレット閉塞式、
駅数:8駅(起終点駅含む)〔恵比島〕・本通乗降場・幌新・袋池乗降場・新雨竜・宝沢乗降場・
              太刀別・昭和
  ※ 全駅が雨竜郡沼田町に所在した
  ※ 幌新・新雨竜は列車交換駅だった
  ※ 宝沢乗降場は路線廃止前に廃止

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恵比島に到着した
湘南顔のキハ1103
※『留萠鉄道』より

   留萠鉄道・炭礦線 年表
1928年(昭和 3年)  3月31日:恵比島~太刀別の鉄道敷設免許を申請
            4月21日:申請区間の鉄道敷設免許が下付される
            6月  5日:留萠鉄道設立
1929年(昭和 4年)  5月  8日:太刀別~佐々木沢の鉄道敷設免許を申請
            8月 24日:申請区間の鉄道敷設免許が下付される

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雨竜炭鉱の双辰坑
この炭鉱からの運炭目的に
留萠鉄道は敷設された
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

1930年(昭和 5年)  7月  1日:恵比島~太刀別 (14.0km) を開業し、旅客・貨物の運輸営業を開始
                 恵比島・幌新・浅野炭山・太刀別の4駅を新設
          10月  1日:太刀別~昭和 (3.6km) を延伸開業し、旅客・貨物の運輸営業を開始
                 昭和の1駅を新設
1942年(昭和17年) 5月13日:三井鉱山鉱区の炭鉱開発が頓挫した為、未着工のまま昭和~
               佐々木沢 (2.4km) の鉄道敷設免許失効
1949年(昭和24年) 7月  1日:御料林からの木材発送が無くなり、太刀別を廃止
1952年(昭和27年) 5月  1日:旅客輸送強化に伴い、本通乗降場・袋地乗降場・宝沢乗降場を新設
           10月  1日:浅野炭山を新雨竜に改称
           12月   :気動車導入に伴い客貨分離
1956年(昭和31年)  5月15日:留萠本線・恵比島~深川で気動車による直通運転開始
1960年(昭和35年)11月  1日:国鉄による運行管理廃止
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太刀別炭鉱
山の中腹にある坑口から選炭場まで
索道によって石炭を運搬していた
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

1963年(昭和38年)  7月15日:太刀別炭鉱の開坑に伴い太刀別を復活させる
                また、宝沢乗降場を廃止
1968年(昭和43年)12月    政府が第4次石炭政策答申で国内炭鉱の整理統合政策を明示
                 このエネルギー転換政策により沿線の炭鉱が相次いで閉山となる
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閉山となって放置された
雨竜炭鉱の選炭場
※『炭鉄港(文化庁・日本遺産)』より

1969年(昭和44年)  5月  1日:炭鉱の閉山で主要貨物が無くなって経営苦難に陥り、全線の営業
                を休止する
1971年(昭和46年)  4月15日:恵比島~昭和の全線 (17.6km)の路線廃止

海岸線(かいがんせん)は、留萠港からの石炭・木材の積み出しの為に建設された貨物線で、北岸線と南岸線の2路線を有していた。 この貨物線が本鉄道の名称の由来であり、炭礦線の使命を補完するものであった。 当初の計画では、北岸線のみの鉄道敷設免許を得て旅客貨物営業を目論んだが、留萌港の築港工事に伴って南岸でも石炭荷役を行う事となり、南岸線(旅客貨物営業)を追加した。 だが、開業後は両線とも貨物営業のみを行い、営業扱いは実施されなかった。

それは、申請を受けた道庁の報告によれば、南岸線の旅客運輸営業計画ではガソリンカーの導入も検討されたようだが、旅客用施設建設などで具体化に至らず、留萠町内で乗合自動車(路線バス)の運行が始まると旅客営業の必要が薄れて、結局実現する事のないまま貨物の営業も廃止となっている。

なお、1934年に、南北両線での一時限りの旅客輸送許可を得ている。 これは当時、北満(満州国のロシア国境付近)に出兵していた第7師団の交代兵員を留萌港に輸送する為に、第7師団から通知された日時に国鉄の客車を直通運転するものであった。

1934年には、北岸線から分岐して古丹浜に至る約1.2kmを着工したが、古丹浜の駅設置予定地の土地買収が予定通りに進まず、その手前に設けた仮古丹浜で木材を中心とする貨物扱いを行っていた。
海岸線は留萠駅の改良に伴って1941年に買収国有化され、国鉄留萠駅の構内側線となった。 
列車の運行管理については、開業から買収に至るまで鉄道省(戦後は国鉄で現在はJR)に委託されていた。

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留萠鉄道・海岸の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):南岸線 留萠~西留萠 1.2km
                北岸線 留萠~北留萠 1.0km 及び 分岐点(留萠起点0.3km)
                    ~仮古丹浜 1.1km
軌間:1067mm、電化区間:ナシ(全線非電化)
複線区間:ナシ(全線単線)、閉塞方式:タブレット閉塞式、
駅数:3駅(起終点駅含まず)南岸線〔留萠〕・(貨)西留萠
               北岸線〔留萠〕・分岐点を経て(貨)北留萠
                       及び分岐点を経て(貨)仮古丹浜

   留萠鉄道・海岸 年表
1928年(昭和  3年)  3月31日:留萠~北留萠(北岸線)の鉄道敷設免許を申請
             4月21日:申請区間の鉄道敷設免許が下付される
1929年(昭和  4年)  7月  2日:起業目論見書記載事項変更許可(留萠~西留萠の南岸線を追加し、
               北岸線を貨物運輸営業のみに変更)
1930年(昭和  5年)12月  1日:南岸線 留萠~西留萠の貨物運輸営業を開始し、(貨)西留萠を新設
1932年(昭和  7年)12月  1日:北岸線 留萠~北留萠の貨物運輸営業を開始し、(貨)北留萠を新設
1934年(昭和  9年)  1月30日:一時限旅客輸送許可(第7師団から通知の期間のみ)
           7月24日:北岸線 工事方法変更認可(分岐点~古丹浜の延伸)
           9月13日:北岸線 仮古丹浜の駅設計認可
           9月30日:北岸線 分岐点~仮古丹浜の貨物運輸営業を開始し、(貨)仮古丹浜
                を新設
1939年(昭和14年)  7月27日:南岸線の旅客運輸営業廃止許可
1941年(昭和16年)10月  1日:海岸線全線が買収・国有化されて、留萠駅構内側線となる

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昭和炭鉱の構内で石炭を積んだ
貨車の入れ替え作業を行う
クラウス小型機関車
※『北海道の炭鉱鉄道』より

    輸送実績
   炭礦線
輸送人員の最盛期は1930年代で、約45万人(1日平均1233人)、貨物輸送の最大は1936年の250222トン(1日平均685.5トン)だった。

   海岸線
海岸線は旅客扱いをしていなかったので、貨物輸送実績のみ。 南岸線の貨物輸送の最大は1936年の374335トン(1日平均1025.6トン)だった。 一方の北岸線の貨物輸送の最大は1936年の179441トン(1日平均491.6トン)だった。

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路線廃止後に茨城交通へ譲渡され
国鉄準急色に塗装されたキハ2004
※ ウィキペディア画像を拝借

   車両
1952年の気動車導入当初は、国鉄の機械式気動車に類似した車両を新造したが、うち1両は木造客車の台枠を流用して製作されたと言われている。

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国鉄乗り入れ用の気動車は
国鉄準急型のキハ55の前面と
極寒冷地向けのキハ22の側面を持つ
採用したキハ2000型だった
※『鉄道チャンネル』より

1956年5月からの国鉄乗り入れ用車両として導入された気動車は、キハ1000(1001・1002)・キハ1100(1103)・キハ2000(2004・2005)の5両で、キハ1000形は湘南型の前面にバス窓の側面、1100形は前面が湘南型で国鉄キハ21形と国鉄キハ22形を折衷したような側面形状であった。

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前面下部の光軸可変ヘッドランプなど
奇抜な設計で模型でも人気のある
留萠鉄道・キハ1000形

キハ1000形は前面窓下にも1灯式ヘッドライト(最近の乗用車で見られるような、光軸が曲線区間では内側に向くものであった)を装備し、また台車は寒冷地での運用を考慮して空転しにくい2軸駆動方式とするなど試行要素が多かったが、キハ1100形は通常型ヘッドライトや1軸駆動など、より平凡な設計になっている。

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車体中央下部の一つ目ヘッドライトなど
奇抜なデザインだったキハ1000形に比べ
湘南型で通常灯の平凡な造りだったキハ1103
※『思い出鉄道探偵団』より

また、キハ2000形は基本的に国鉄キハ22形に似せた造りだが、タイフォンが国鉄キハ55系のように前照灯の両脇に取り付けられ、また便所が未設置であるなど室内レイアウトに若干の違いがある。
なお、国鉄乗り入れ車には国鉄型ATS-Sが搭載されていた。

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茨城交通に譲渡後は
元羽幌炭礦鉄道のオリジナル塗色である
ワインレッドと白帯塗装となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借

廃止後、茨城県の茨城交通(現・ひたちなか海浜鉄道)に上記の全車が譲渡され、羽幌炭礦鉄道から来たキハ22形3両にあわせて、元羽幌炭礦鉄道のオリジナル塗色であるワインレッドと白帯色に塗り替えられて運行されていた。

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同じく茨城交通に譲渡され
ツートンの国鉄急行色になったキハ2005
※ ウィキペディア画像を拝借

キハ2000形2両は、譲渡先の茨城交通(2008年4月からはひたちなか海浜鉄道)で2015年まで使用された。 譲渡先で2005年頃に塗装変更されたキハ2004は、元羽幌炭礦鉄道のオリジナル塗色と前面のデザインによる為か、かつてのキハ55のイメージを彷彿させる国鉄準急型気動車の塗色となり、キハ2005も2009年末に国鉄急行色に塗色変更された。

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ひたちなか海浜鉄道(元茨城交通)より
イベント向け動態保存車両として
平成筑豊鉄道に譲渡されたキハ2004
※『へいちくネット』より

その後、キハ2004は2016年に平成筑豊鉄道へ譲渡される事となり、同年10月17日に同鉄道の金田駅に搬入されたが、イベント向けの動態保存目的の為に車籍編入はなされておらず、本線走行は認可されていない。 また、博物館明治村に、元日本鉄道の客車2両(ホハニ201・ホハフ2854)が譲渡されたが、台車のみ展示されている。


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「東京五輪の開催に賛同できないのは
心が貧しいか日本人ではない
特亜の成りすましのどちらかだ!」とホザいて
東京五輪の開催を煽った在日チョン右翼

「感染爆発を引き起こすからヤメロ!」と
あれほど警告したのに開催を強行して
案の定感染爆発を引き起こして
日本の国民を多数殺害し
日本を感染爆発災禍に陥れたのだ

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そして万を超える死者を出すなど
日本が大きな被害を被った結果に
『感動した』とホザいた
チョン丸出しの在日チョン右翼

事実は「反対する奴は日本人ではない」
とほざいたコイツらが
日本を乗っ取り隷属支配を狙う
チョンの成りすましだったのである

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その在日チョンの日本人成りすましの右翼は
更にワクチン接種を妨害し
「ワクチンを打てば半年以内に落命する」と
大嘘を振り撒いて日本の
感染爆発の維持を目論んだのである

そんなチョンの日本人成りすましが
意のままにならない日本の国民を
情弱やら平和ボケやら思考停止と詰る事で
コイツらが例え正しい事を主張しても
日本人のほとんどは聞いてはくれまい

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スパイ防止法制定もその一つだが
憲法改正も然り核武装も然り
自衛隊の国軍化も然り有事法制の制定然り
台湾有事に対する備え然り原発再稼働然り
主張している事はほぼ全て正しいのである

だが日本人を侮辱するコイツらが主張しても
日本人は誰も聞いてくれない訳で
却って事の実現や成就の妨害となるのである
もしコレを狙ってしているとしたら
在日チョンにしてはかなりの策士だよ

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それにスパイ防止法の制定は
チョンの背乗り天皇や皇室が
存在する限り成立しても
全く意味のないモノになってしまう
長くなるので次回に続く






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