風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第93回  磐梯急行電鉄

廃線鉄道  第93回  磐梯急行電鉄 〔福島県〕

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酸川鉄橋を通る列車
※ 書籍『沼尻鉄道の思い出』より

磐梯急行電鉄(ばんだいきゅうこうでんてつ)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町の国鉄(現 JR東日本)磐越西線の川桁と沼尻(路線延長15.6km)とを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。
運営会社は東京証券取引所に上場していたが、1969年3月27日に全線が廃止された。 

一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)と呼ばれ、路線創成期に名乗っていた耶麻軌道(やまきどう)という名称で呼ぶ者もいた。 また、猪苗代町が設置した川桁駅跡の記念碑や各駅跡の観光案内板には、『沼尻軽便鉄道』の表記が用いられている。

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『黒ダイヤ』と呼ばれた石炭と共に
『黄金の鉱石』と呼ばれた硫黄の搬出
目的に敷設された鉄道路線だが
硫黄産業が廃れた後は
観光鉄道に変わろうとしていた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

この鉄道路線は、硫黄鉱山から採掘した硫黄鉱石を国鉄(現 JR東日本)磐越西線まで輸送する為に敷設された貨物輸送主体の鉄道で、旅客輸送は片手間に行われていた。 硫黄鉱山の閉山後は観光鉄道として脱皮を図り、旅客輸送で経営を維持しようとするが、業績不振で1968年10月に運営会社が倒産して運行休止となり、その半年後の1969年3月27日に路線廃止となった。

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歌謡曲にも歌われる
高原鉄道の情景の中をゆく
観光資源に恵まれた地域を
行き交っていた鉄道路線だったが
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

旅客輸送では磐梯山やスキー場へ行く観光客に利用される事もあり、夏の観光シーズンは学生の旅行者が多く、冬はスキー客とその荷物で車内は混雑したという。 また、 岡本敦郎が歌う『高原列車は行く』の舞台にもなった。

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明治末期から終戦後数年まで
日本産の硫黄は高純度の希少鉱物資源として
引く手数多の『黄金の鉱石』であった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

この路線は前述の通り、沼尻鉱山で採れる硫黄鉱石の輸送を目的として、日本硫黄によって敷設された鉱山軌道である。 アメリカ・ルイジアナ州などで大規模な硫黄鉱山が発見され、フラッシュ法による廉価な硫黄生産が開始される前の20世紀初頭は、日本で産出する高純度の硫黄は世界的にも稀少な鉱物資源であり、かつ近代工業がようやく軌道に乗り始めたばかりの日本にとっては貴重な外貨獲得手段の一つであった。

ところが、沼尻鉱山からの硫黄輸送においては、悪路を荷馬車によって搬送していた為に搬送途中で荷傷みによる損失が大きく、その改善が強く求められる状況にあった。 その問題解消の為、鉄道を建設しこれによって鉱石輸送を実施する事が計画され、1908年に日本硫黄の会社関係者及び地元有力者の手によって、川桁~大原(後の沼尻)で609mm軌間で動力を人力とする『耶麻軌道』の軌道建設特許が出願された。

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かつては貨物扱いもあり
磐梯山の東山麓観光の
拠点ともなった川桁駅
※『磐越西線・川棚駅旧駅舎』より

しかし、この計画は資金難から一度挫折した為、事態を重く見た日本硫黄本社が問題の解決に乗り出し、特許を出願者から譲受した上で社内に耶麻軌道部を設置し、自社直轄事業として軌道建設を実施する事を決めた。

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緑の村に静態保存されている
ディーゼル機関車の機番の上に
掲げられた日本硫黄の社紋章
※『ふくしまの旅・猪苗代緑の村』より

こうして旺盛な硫黄輸送需要に対応すべく、762mm軌間・馬力動力に変更した上で建設工事を進め、1913年5月11日に日本硫黄・耶麻軌道部として路線の営業を開業した。 その路線は大原(後の沼尻)から順に近傍の集落を通過して、最寄りの国有鉄道(鉄道院)磐越西線の川桁に至るもので、途中福島と猪苗代町を結ぶ国道115号と併走する区間もあるが、この地域では最大の集落地である猪苗代町を避けて川桁と接続している。

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日本硫黄・沼尻鉄道
(『磐梯急行電鉄』への社名変更前)
起点駅は町の中心の猪苗代ではなく
港に2km近いという
事などで隣駅の川桁となった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

この路線設定については猪苗代と川桁で路線誘致競争が行われ、最終的に川桁が積出港である横浜に2km近く、かつより有利な条件を提示した為にそちらを選択したとの関係者の証言や、建設費を抑えるべく国道115号が渡している長瀬川への架橋を避けて、川桁への路線建設を選択したとの説が存在するが真相は定かではない。 また、川桁と沼尻の間の一部集落では路線建設に伴う用地買収に対して強い抵抗があり、結果途中3か所で公道上への路線敷設を強いられ、当初は軌道法に基づく軌道として建設されている。

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沼尻を発つと川桁まで
延々と下り勾配が続く
大変なのは真逆の連続上り
急こう配となる沼尻行だ
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

路線は沼尻と川桁の高低差が174.52mで、沼尻からほぼ連続的な下り勾配で川桁に至るが、その勾配は木地小屋~沼尻で30~40‰台の急勾配が連続するという非常に厳しい路線状況であった。
また、沼尻鉱山は終点沼尻の更に奥地にあって、製品・資材輸送の為の索道が沼尻と精錬所・採鉱所の間に架設されていた。

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硫黄輸送が活況を呈していた頃は
観光客誘致に会津樋ノ口から分岐して
秋元湖など裏磐梯の
観光客誘致も目論んでいた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

開業後は、1914年1月9日の認可で蒸気機関車を導入して、馬力で貧弱であった輸送力を飛躍的に強化し、更に1929年には観光客誘致を目論んで気動車を導入し、一時は会津樋ノ口より分岐し、長瀬川に沿って秋元湖へ至る裏磐梯観光開発に主眼を置いた路線の建設の計画が立てられ、特許も取得されたがこの計画は未成に終わっている。

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蒸気時代は難儀の限りだった
木地小屋~沼尻の
最大45‰の上り連続急勾配も
ディーゼル機関車の導入で解決した
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

上述で『蒸気機関車を導入して、馬力で貧弱であった輸送力を飛躍的に強化した』と記したが、実際には蒸気機関車時代の木地小屋~沼尻の上り連続急勾配の運行には大変難儀していたようで、この事は実際に木地小屋~沼尻の運転に携わった機関士の談話として残されている。

蒸気機関車コッペルの元機関士は、その頃の思い出を次のように語る。 「木地小屋~沼尻の4kmは千分の45の上り(45‰)になってまして、この勾配には苛められましたよ。 石炭を焚いても蒸気(蒸気圧)が上がらないんです。 少し走ってはストップ、また走ってはストップといった具合で、時速は10kmがせいいっぱいでした」と。

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主力の沿線鉱山が斜陽化し
地域開発も一段落がつき
いよいよ運ぶべきモノがなくなり
細々と駅取扱い貨物を引く混合列車
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

また、1940年の日本発送電による秋元発電所の建設に当たっては、途中の名家より分岐する資材搬入用側線を建設、本軌道を用いた資材輸送が実施されている。 路線の最盛期は昭和初期から太平洋戦争中にかけてのこの期間で、この時期は沼尻鉱山だけでも約1200人の鉱山従事者がいたという。
1945年1月1日に、運輸省および内務省からの行政指導に従って地方鉄道に変更し、日本硫黄・沼尻鉄道部と改称した。 終戦後は、ディーゼル機関車の導入をいち早く進めている。

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終戦後はいち早くディーゼル機関車を
導入するなどしたがその数年後に
石油からの硫黄生成という産業技術革新が起り
一転して硫黄産業は斜陽に向かった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

1950年代前半になると日章丸(出光興産所有のタンカー)がアラビアから原油輸送を始め、四日市で原油の精製が始まり、その原油精製の副産物として硫黄も生産されるようになった。 硫黄生産コストは、四日市の原油精製からでは硫黄1トン当たりで1万7千円だが、沼尻鉱山で採掘すれば4万円もかかり、沼尻の硫黄は価格で勝負にならなくなったのである。

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路線経営の基盤となっていた
硫黄産業が急速に衰退し
果ては脱硫による硫黄回収の義務化で
完全に硫黄産業が潰えて
旅客輸送に転換を図る必要に迫られた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

また、1950年代後半以降は、大規模かつ低コストな硫黄採掘技術の開発により海外での硫黄鉱山の開発が進み、沼尻産硫黄の国際競争力が相対的に大きく低下した。 更には硫黄の日本国内での大口消費者であった繊維業界のなべ底不況に伴う需要減少や、1960年代以降市場に出回るようになった廉価な回収硫黄(工場の排煙設備に脱硫回収装置の設置が義務付けられるなどの公開対策規制)の普及といった事情も手伝って、1960年代中盤以降は日本国内における天然硫黄の採掘は次第に採算が取れなくなっていった。

このように、1950年代中盤以降は鉱山での硫黄採掘産業が斜陽化し、硫黄貨物輸送にその収入の多くを依存していた本鉄道の経営状況が急速に悪化して1957年には無配に転落し、経営改善のために旅客輸送需要の拡大を図る必要に迫られるようになった。

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硫黄産業が急激に衰退して
この鉄道は磐梯山麓へ観光輸送を
生業とする観光鉄道への脱皮を図ったが
磐梯山の頂上付近から
紅葉の彩りを見下ろす

かくして鉄道路線の運営方針を裏磐梯への観光鉄道へ転換し、スキー場や温泉などの開発とセットで存続を図るべく、日本硫黄が子会社である沼尻観光を1964年6月1日に吸収合併して日本硫黄観光へ商号を変更し、さらに1967年8月1日に磐梯急行電鉄へと改称したのである。

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路線廃止となった
宮城バス・仙北鉄道線から
自称『電車』を譲り受けたが
※『仙北鉄道』より

また、この事業方針転換に合わせて、廃線となった宮城バス・仙北鉄道線(登米線・1968年3月25日廃止)から中古車両を導入して旅客輸送力の増強が図られるなど、観光鉄道化による存続を模索して様々な施策が取られたのである。

だが、同年7月に磐梯急行電鉄は突如会社更生法の適用を申請し、同年10月14日には会社の倒産に伴って全線が休止となり、更には1969年3月27日に正式に路線廃止となった。 この突如となる会社更生法の適用申請は、同年6月に沼尻鉱山が閉山となった事が主たる理由に挙げられているが、後述の上場株式の仕手戦に悪用されて、資産を食い潰された上で計画倒産に至ったという事が真の理由のようである。
また、閉山後の鉱山の主要施設は、順次撤去あるいは焼き払われている。

なお、同鉄道は末期に電化路線を示す『電鉄』の社名を掲げていたが、路線の電化は成されず、最後まで非電化軽便鉄道規格のままであった。 その磐梯急行電鉄への社名変更は、1960年代後半になって観光業への事業転換を図る日本硫黄観光の経営権陣によって、接続する磐越西線の電化に合わせた同鉄道の1067mm改軌と交流電化を目論んだ事で、磐越西線への直通と牧場やスキー場・別荘地などの観光開発促進という計画を唱えた『電化路線計画』によるものであった。

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硫黄鉱山の閉山で貨物輸送が潰えて
観光業への転換を図ったが
この時から会社がおかしくなった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

だが、この計画は、一連の事業計画に必要な資金を福島県や農林中央金庫からの融資で賄うというものなど、同社の苦しい実情から鑑みればあまりにも現実離れしており、実現の見込みは皆無であった。
この為に、日本硫黄時代から保有していた山林の含み益や転売するなどして何とか資金捻出を図ったが、それらも実際には金融機関が担保としていたり、そもそも移転登記すら行われていないものだったりして、事案によってはトラブルに発展したという。

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磐梯山より見下ろす沼尻方向
方向には確証ないけどたぶん
観光業と鉄道業で積み重ねた信用を
邪な目的で悪用したのが今回の疑惑だ

加えて、経営実態に見合わない過大な利益計上や8分あるいは1割といった高率の配当実施など、健全な企業経営の原則から大きく逸脱した不自然な経営(いわゆる粉飾決算)が常態化していた。
倒産直前の1968年には、磐梯急行電鉄株(東京証券取引所二部上場)が仕手筋の介入によると見られる異常な値動きを示すなど、投機筋によるマネーゲームに翻弄されるがままとなっていた。

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磐梯山の山の神も
嘆いていただろう・・
この不明朗な倒産騒ぎには

結局、一連の倒産直前の粉飾決算と思しき経営は、投機筋や出自の怪しい不動産業者が倒産間際ではあるものの、それなりに社会的信用があった同社を隠れ蓑として、投資家から資金を集めながら、同社の資産を食い潰したと見て差し支えないだろう。

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結局『鉄道業』という高い信用に乗って
株の仕手屋共が会社の資産を食い潰した
計画倒産の疑獄事件だったのである
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

しかも、唐突な会社更生法の申請でさえ計画倒産に類するものであったと言われ、鉄道事業そのものの経営状況とは無関係に、経営的に不明朗な経緯で廃線に追い込まれたものであった。 倒産当時はスキャンダルにもなったようで、新聞や雑誌に数々取り上げられたという。

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いきなり会社更生法を出して
倒産して運転休止から路線廃止の
目まぐるしい動向は利用者にも
鉄道運行に当たっていた従業員とっても
青天の霹靂ともいう事態であった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

この休止から廃線の動向は、鉄道運行に当たっていた職員にとっても沿線住民にとっても青天の霹靂と言うべき事態であったらしく、労働組合による抗議・鉄道存続に向けた活動なども行われたと言われる。
だが、介入前の段階で既に鉄道部門は赤字経営となっており、さらに施設が総額20億円に上る負債の為に差し押さえ対象となった事もあり、そのまま路線廃止が実施されている。

電化をしていないのに『磐梯急行電鉄』を名乗った事には多くの疑問が寄せられて、中にはこんなエピソードも残されている。 それは、廃線となった仙北鉄道からディーゼルカーのキハ2401とキハ2402が入線した前年の1967年に社名を『磐梯急行電鉄』と改定したが、鉄道書籍の著者の1人が駅長に急行列車も電車もない『急行電鉄』のこの社名について質問した所、駅長から次のような返答があったという。

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この会社にとってはこの車両は
ダイナモという発電機を積んだ
『電車』であるという見解だった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

それは「このディーゼルカーは、発電機を積んだ『電車』ですので『電鉄』というのです。 
しかも、この電車になってからディーゼル機関車よりも2分もスピードアップされ、急行運転できますので『磐梯急行電鉄』といいます」と。 完全なる落語の『落ちネタ』の世界である。

社名が誇大妄想的な『急行電鉄』に改称されたのは、先述の通り仕手筋による乗っ取りと現実離れした改軌・電化計画案が背景である。 駅長の屁理屈のような説明は、会社乗っ取りによる異常な内情を現場である程度知りつつも、一般には明かせなかった立場の反映とも受け取れる。 2401・2402のような機械式ディーゼルカーに積まれているエンジン付属の『発電機』は、セルモーターや前照灯・車内照明などをまかなう程度の小容量のものに過ぎず、技術的に『電車』とは全く呼べないからである。

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鉄道と自然観光を悪用した結果は
不動産部門は乗っ取り同然に
大資本に追い出されて消息不明となるなど
その身を亡ぼす結果となった

磐梯急行電鉄の倒産後、同社の経営陣は磐梯電鉄不動産という不動産会社を設立して、1972年に和歌山県の御坊臨港鉄道を買収し、紀州鉄道に改称して自らはその不動産部門となっている。
その紀州鉄道は1979年にリゾートホテル等を展開する鶴屋グループと経営陣が交代しており、磐梯電鉄不動産を起こした経営陣の消息は定かではない。

会社倒産後の鉄道の線路や敷地などの土地は労働組合の管理下に置かれ、従業員の退職金はこれらの土地を猪苗代町や福島県に売却して得た金で支払われたという。 元従業員の話によると、その退職金は雀の涙ほどの金額であったという。

なお、『磐梯急行電鉄株式会社』は法人としては倒産した(及び前記の紆余曲折を経た)為に連続性が窺えないながらも、同名の法人が2008年時点において休眠会社として存在していた形跡があり、また2015年10月には同名の法人が国税庁から法人番号の指定を受けていたなど、ミステリアスな面が多々見受けられる。

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路線廃止後の沼尻駅舎は
元鉄道従業員達が立ち上げた
観光会社『沼尻観光』の
事務所として使われていた
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

沼尻地域周辺のスキー場などは、旧従業員らが設立した沼尻観光(磐梯急行電鉄が日本硫黄時代に合併した同名子会社とは別会社)が引き継いで、2017年現在は株式会社オーディエンスサービス(マックアースの子会社)と名を変え現在も営業を継続している。

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磐梯急行電鉄の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
廃止区間と路線距離(営業キロ):川桁~沼尻 15.6km
  ※ 沼尻より奥地にあった沼尻鉱山からの精練製品や資材輸送の為に、精錬所・採鉱所と
    の間にの索道が架設されていた
軌間:762mm(特殊狭軌・軽便鉄道規格)、電化区間:ナシ(全線非電化)
複線区間:ナシ(全線単線)、閉塞方式:票券閉塞式、
駅数:11駅(起終点駅含む)〔川桁〕・白津・内野・会津下館・荻窪・白木城・会津樋ノ口・名家・
              酸川野・木地小屋・沼尻

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廃線となった仙北鉄道より
譲り受けた新鋭気動車が行き交うのは
僅か半年の間だけだった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

   磐梯急行電鉄 年表
1907年(明治40年) 4月15日 - 日本硫黄を設立
1908年(明治41年)      - 耶麻軌道(川桁~大原)の軌道建設出願
1913年(大正  2年) 5月11日 - 日本硫黄耶麻軌道部として川桁~大原(後の沼尻)の営業開始
1914年(大正  3年) 1月  9日 - 蒸気機関車導入認可
1929年(昭和  4年)      - 気動車を導入
1936年(昭和11年) 4月    - 沼尻駅前より、横向温泉経由鷲倉温泉行きの路線バス運行開始
1940年(昭和15年)      - 秋元発電所建設資材輸送用側線を敷設
1945年(昭和20年) 1月  1日 - 軌道法による軌道から地方鉄道法による地方鉄道に変更
               路線名も日本硫黄沼尻鉄道部に名称変更
1953年(昭和28年)      - ディーゼル機関車を導入
1957年(昭和32年)      - 硫黄貨物輸送の激減により株主への配当が無配となる
1964年(昭和39年) 6月  1日 - 日本硫黄観光に名称変更
1967年(昭和42年) 8月  1日 - 磐梯急行電鉄に名称変更
1968年(昭和43年) 7月    - 会社更生法の適用を申請
           10月14日 - 会社の倒産とそれに伴い全線の運行休止
1969年(昭和44年)  3月27日 - 全線廃止

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硫黄鉱山の閉山後は車庫には客車が
休車となって放置されて
子供の遊び場となっていた

   車両
 蒸気機関車 - 累計で8両の蒸気機関車が在籍した。
  B71~73
軌道開業後に導入された、ドイツ・オーレンシュタイン・ウント・コッペル社製7t級B型蒸気機関車で、B71・72が1913年製造で同年に入線、B73が1914年製造で1917年に入線している。
導入当初は1~3の機番が充てられたが、1941年に鉄道省仙台鉄道局の指導に従い、動軸数(2軸でB)と自重(7t級)を組み合わせた形式番号に改番されている。 B73は1947年に九十九里鉄道に譲渡、B71とB72は1953年にディーゼル機関車の導入によって廃車された。

なお、客車・気動車については川桁・沼尻以外の各駅・停留所にプラットホームの設備がなく、路面からの乗降を行うため、いずれも出入り台あるいは客用扉にステップ付きとなっている。

  C911
同じくオーレンシュタイン・ウント・コッペル社が1924年に製造した9.45t級C型蒸気機関車で、元は三蟠鉄道(岡山)の13号機で、同線が1931年に廃止された後に譲渡されて1935年に入線した。
1941年に鉄道省仙台鉄道局の指導に従ってC911に改番している。 1953年にディーゼル機関車の導入に伴って、下取り機として搬出された。

その他にもC93、C121(米国製)、C122・123(コッペル社製)があったが、ディーゼル機関車の導入に伴って、C121がC911と同じく下取り搬出、C122・123は廃車となった。 なお、処分法の変わり種はC93で、浜松鉄道(のちの遠州鉄道奥山線)移籍した後に、遠州鉄道元城工場によってディーゼル機関車のDC1901に動力機関の改造がなされている。

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ディーゼル機関車の導入で
大いなる省力化が図られたが
数年後は硫黄産業の斜陽化で
機関車の力を持て余す程に貨客が無くなった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

 ディーゼル機関車
累計で3両のディーゼル機関車が在籍した。

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『猪苗代・緑の村』に
静態保存されているDC121
※『猪苗代・緑の村』より

  DC121・122
地元福島の協三工業製の12t級C型ディーゼル機関車。 1953年製のL型機で、蒸気機関車と同様にサイドロッドによる動力伝達機構を備えている。 最大出力は140馬力を有した。 入線後は、廃止になるまで主力機として活躍した。 DC121は、福島県猪苗代町の猪苗代緑の村に保存されている。

  DC103
1953年協三工業製のセミセンターキャブ10t級C型ディーゼル機関車で、この機関車も動力伝達にサイドロッドを用いていた。 最大出力は85馬力であった。 全線廃止となった宮城バス仙北鉄道線から1968年に譲り受けたものだが、その直後に沼尻鉄道も破綻した為にほとんど使われる事がなく、路線の廃止後に廃車解体された。

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『猪苗代・緑の村』に
静態保存されているバサハ12
※ ウィキペディア画像を拝借

  客車
客車については、附番が混乱しており、未解明な部分が残されている。 馬車軌道時代の最古参客車からオープンデッキ車まで在籍し、末期は木造ボギー客車や雨宮鉄工所製の半鋼製客車も導入された。
気動車導入後に輸送力増強を図るべく製造されたサハ8~10は、当初から半鋼製で、ガソリンエンジンの気動車ガソ101の専用付随客車として、発注の時点から付随車として製造されている。

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エンジン換装を受けて
単端式となったガソ101
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

  気動車
気動車は全3両が在籍した。
  ガソ101
1929年10月雨宮鉄工所製の半鋼製2軸ガソリン動車で、1930年から使用が開始された。
1両のみ在籍していた。 最初から最後まで2軸駆動で、単体での輸送力の不足を補うべくサハ8~10が製造され、これらの竣工後は常時これらの内のいずれか1両ないしは2両を牽引して運用された。

当初はブダKTUガソリンエンジンを一端に搭載し、ラジエーターもそちらの車端部妻面に設置していたが、1950年にニッサン製の自動車用ガソリンエンジンに換装されている。 元来は変速機から逆転機を経て、歯数比4:29のウォームギアによって車輪に動力を伝達するという雨宮製作所独特の駆動メカニズムを備えた両運転台車であったが、1950年の機関換装時に変速機からベベルギアを経て両軸チェーンによって車輪を駆動するメカニズムに変更され、逆転機の搭載が省略された。

この為に駆動メカニズム改造後は、エンジンの装架されている側の一端にのみに運転台を持つ単端式となっていた。 窓配置は(1)D5の点対称配置で、単端式への改造後も最後まで後端に旧運転台スペースと前照灯が残されており、折りたたみ式荷台と共にデザイン上のアクセントとなっていた。 日本国内最後の単端式気動車であり、最後のガソリン動車でもあった。

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倒産による休止半年前に
路線廃止となった宮城バス仙北鉄道線
から譲渡されたキハ2401・02
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

  キハ2401・2402
1968年にDC103と同様、宮城バス仙北鉄道線から譲渡された気動車である。 1934年日本車輌製造東京支店製の2軸ボギー・機械式ディーゼル気動車で、日本車輌製造の軽便鉄道向けボギー式気動車の標準設計に従う車両であり、台車も形鋼組み立て式の規格化設計に基づく菱枠台車を採用し、ボルスタ位置を動軸寄りにずらして動軸の粘着力増強を図った偏心台車を動台車に採用していた。

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運行休止の半年前に
譲り受けた気動車には
前後に荷台を備えていた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

また、前後に荷台を備えていた。 窓配置は1D(1)5(1)D1で、当初はブダH-298ガソリンエンジンを搭載していたが、これは仙北鉄道時代の1952年にいすゞDA45ディーゼルエンジンに換装され、さらにその後いすゞDA120ディーゼルエンジンに換装されている。 一時は主力車となったが、その直後に沼尻鉄道が破綻した為に短期間の使用に留まった。

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『猪苗代・緑の村』に静態保存されている
DC121ディーゼル機関車と運用されていた客車
※『保存車両めぐり』より

  路線廃止後の現状
旧沼尻駅周辺には沼尻駅前という地名が残り、当時の駅舎も90度向きが変わっているが現存している。 廃線後の沼尻駅の駅舎は1983年時点で沼尻観光(株)が使用していた。 また、磐梯急行電鉄の旧経営陣が設立した磐梯電鉄不動産が引き継いだ事とされている紀州鉄道が、沼尻に『紀州鉄道沼尻国際リゾートホテル』という名の施設を運営している。

途中の駅の跡地には、猪苗代町によって立てられた『懐かしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』という駅票を模した看板がある。 また、『猪苗代緑の村』にはDC121とボサハ12・13が保存されている。
また、猪苗代の野口英世記念館脇にもボサハ14が保存されていたが、朽て荒廃化した為に廃棄されて現在は存在しない。 廃止時に個人に売却されたキハ2401も、現存しているとの噂があるが所在地不明である。

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会津下館駅跡地に建てられた
旧長瀬協同組合は
現在は『村の停車場』となって
磐梯急行電鉄の資料や模型などの
常設展示が行われている
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

沼尻温泉の田村屋旅館の浴場の入口には、磐梯急行電鉄の列車の写真が数枚飾られている。 
会津下舘は廃駅となりながらも福島県道227号下舘停車場線の名称に未だに残っている。
更に会津下舘駅前に現存する旧長瀬協同組合は、『村の停車場』と称された施設へと生まれ変わり、同鉄道の資料や模型などの常設展示が行われている。



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かつて磐梯急行電鉄が
改軌と電化乗り入れを夢に見た
磐越西線の川桁駅も今や無人駅
※ ウィキペディア画像を拝借

川桁駅(かわげたえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町大字川桁字新町にあるJR東日本・磐越西線の駅である。 かつては駅員配置駅であったが、磐越西線のCTC化によって、現在は会津若松駅管理の無人駅となっている。 2004年度の1日平均の乗車人員は107人との事である。

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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
川岸駅跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

相対式ホーム2面2線を有する駅で、互いのホームは跨線橋で連絡している。 ホームは1線スルー方式で、列車は原則として本線である駅舎側の1番線を使用する。 通過列車は郡山方のポイントで50km/hの速度制限を受ける。 かつては、駅舎反対側の下りホームは島式ホームで、3番線まで存在した2面3線の線路配置であった。 これは、かつて磐梯急行電鉄が当駅から分岐していた為と思われる。



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
白津停車場跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

白津駅(しろづえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町八幡にあった磐梯急行電鉄の駅である。
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の東側(沼尻方面に向かって右手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。

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舗装されず砂利道だった県道に
直に線路が敷かれホームもなく
乗客も直に路面から客車に乗り込んでいた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

昭和に入ってから沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には白津停留場であった。 当駅は、川桁~内野の未舗装の県道との併用軌道上に存在し、当駅のすぐ北側で線路と道路が交差して左右の位置が入れ替わっていた(当駅までは線路の左側に道路、その先は線路の右側に道路となった)。
  
駅跡は消滅している。 その後、猪苗代町によって、駅跡地に『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。
併用軌道上の線路跡は、県道323号線に取り込まれている。 



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
内野停車場跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

内野駅(うつのえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町八幡にあった磐梯急行電鉄の駅である。
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。

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農業用のため池の脇にあった内野停留所
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

昭和に入ってから沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には内野停留場であった。 当駅は川桁~当駅の未舗装の県道との併用軌道が終わり、専用軌道に入った位置に存在していた。 農業用のため池の脇に位置し、沿線風景は磐梯山が背景の絶景が続いていた。

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駅からは磐梯山の絶景が見られた
磐梯山に登った時に撮った
弘法清水小屋(休憩所)と磐梯山より

駅跡は消滅している。 その後、猪苗代町によって、駅跡地に『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。
併用軌道上の線路跡は、県道323号線に取り込まれている。



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庄屋が設けた寺子屋のような
会津下館駅舎
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

会津下館駅(あいづしもだてえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町大字三郷字下館にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅である。 磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅でプラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
鬱蒼とした森の中にあった。

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便所棟にあった
『W.C』の文字もそのまま
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の西側に木造の駅舎があった。
また、駅舎の北側に、壁にペンキで『W.C』と書かたトイレ棟を有した。

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交換設備と駅舎と便所があれば『駅』で
ホームのあるなしは問わないというか
ほとんどの停車場で設置されていなかった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

かつては2線を有する列車交換可能な交換駅で、使われなくなった駅舎と反対側の旧上り線は、交換設備運用廃止後も側線として残存していたが、方開き分岐の転轍機は鎖錠され『鎖錠』と記載された立て札が立てられていた。 その他にも、旧上り線の川桁方から構内外側に分岐する行き止りの側線を1線有していた。 なお、晩年の列車交換については、臨時列車などの特別な場合に行われたとの記事もある。

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唯一残存していたトイレ棟は
鉄道遺構の目玉として綺麗に
修繕・改装がなされている
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

トイレ棟のみが残存し、青で染付けされた便器もそのまま残存していた。 だが、駅の敷地自体は県道となっており、白木城附近までの約4kmが一直線の弾丸道路となっていた。 このトイレ棟は、猪苗代町によって駅跡地に『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された駅名標を模した案内板が立てられた時に、トイレ棟の扉の板や床板が修復され、トイレ棟周辺や床に茂っていた雑草も除草されている。

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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
会津下館駅跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

この『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』の案内板には、駅の説明文と現役時代の写真が掲げられている。 駅脇にあった旧・長瀬産業組合の建物は後にJAがテナントとして入り、2010年6月から「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」の手により『あいづしもだて駅・村の停車場』という名の文化保存施設として再利用されている。 この2階に『沼尻軽便資料展示室』が開設され、鉄道及び鉱山の資料や写真、ジオラマなどが保存・展示されている。 また、県道(福島県道227号下舘停車場線)に駅の名を残している。



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
荻窪停留所跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

荻窪駅(おぎくぼえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町三郷にあった磐梯急行電鉄の駅である。
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に、出入口が2つある片流れ屋根の大型の待合所を有していた。

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白津や内野よりも小マシな
出入口のついた待合室があった荻窪停留所
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

昭和に入ってから沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には荻窪停留場であった。 田園地帯にあった。

駅跡は消滅している。 その後、駅跡地から50メートルほど東の位置に、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。 線路跡は、県道323号線に取り込まれている。



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
白木城停留所跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

白木城駅(しらきじょうえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町蚕養にあった磐梯急行電鉄の駅である。 磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。

開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。 当駅のすぐ川桁方に『5‰』の勾配標があり、待合所の向かいには『7』のキロポストが存在した。

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弾丸道路となった線路跡の県道と
その脇の農地の前に立てられた
『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
駅跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

駅跡は消滅している。 その後、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。 線路跡は県道323号線に取り込まれていて、会津下館駅跡附近から当駅跡附近までの約4kmが一直線の弾丸道路となっていた。



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会津樋ノ口駅舎
駅員配置の線内最大の駅で
晩年は他の駅の交換設備は使用停止となり
列車交換も全て当駅で行うダイヤが組まれた


会津樋ノ口駅(あいづひのくちえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町蚕養にあった磐梯急行電鉄の駅である。 磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 開業時からの駅の一つで、当線のほぼ中間地点に位置し、晩年は途中駅で唯一の列車交換可能な交換駅となっていた。 閉塞通標は川桁~当駅が『○』、当駅~沼尻が『□』であった。

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下り線側に中間駅で唯一
「この路線では見られぬモノ」
の乗降ホームがあった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

中間駅で唯一、下り線側(西側)のみであるが、プラットホームが存在した。 上り線側(東側)には他の駅同様存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。 その他、駅舎と上り線の間に副本線が1線、またその副本線沼尻方から分岐し、小さな転車台を有した行き止りの側線を1線有した。

職員配置駅で、木造の駅舎が構内の西側に位置していた。 駅舎の南側に、別棟でトイレ棟を有していた。
構内には、ホームの北側で駅舎からは無線路を挟んだ向かい側に、蒸気機関車時代の給水槽が2基残存していた。 また、2基の給水塔は、ホームの北側の駅舎からは線路を挟んで向かい側に存在し、駅舎から見て右側がコンクリート製、左側が鉄製であった。

旧駅名は樋ノ口駅であるが、1923年11月から実施された旧国鉄との連帯運輸に備えて、他の駅と同名になる事を避けるべく、駅名に旧国名の『会津』を冠して会津樋ノ口に改称した。 但し、当時は国鉄の駅に『樋ノ口』は存在せず、横荘鉄道(後の羽後交通横荘線)に『樋ノ口駅』が存在したのみである。
なお、駅名の表記については、最晩年の1968年4月に撮影された写真では、駅舎の駅銘板が『会津樋の口』となっていた事が確認されている。

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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
会津樋ノ口跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

駅舎跡地には、Aコープ(農協スーパー)が建築されていた。 また、駅前旅館の建物が当時を偲ばせていた。 Aコープは2007年頃に閉店し、看板は外されている。 また、猪苗代町によって「なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて」と記載され、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。

だが、Aコープの建物は出入口などの開口部が板で塞がれ、駅前旅館は2軒ともに廃業していた。
鉄道遺構としては、当駅の沼尻方にあって撮影地として知られていた『酸川橋梁』は、沼尻方の橋台の一部が残存していた。



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名家停留所を出ると
酸川の橋梁を渡る
背後に秋元発電所の導水管が見える
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

名家駅(みょうけえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄の駅である。
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。 待合所の駅名標には『みようけ』と記載されていた。

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東京電灯(現在は東京電力)の
秋元(水力)発電所建設の
資材輸送の為の専用構外線が
敷設されたのがこの駅の始まりだった
※『会津若松観光ナビ』より

1937年に当地附近で東京電灯秋元発電所が建設される事となり、その建設工事に際して、当鉄道が建設資材の輸送に使用される事となった。 それを受けて、秋元発電所への専用構外線が仮設される事となり、本線との分岐点として当駅が新設された経緯がある。

専用構外線は発電所の完成に伴って、1941年5月28日限りで使用が終了となり、その後撤去されて当駅は旅客専用となった。 正確な開業年月日は不詳であるが、1937年12月16日に新設申請され、1938年4月4日施工認可されている。 駅の新設当時は仮停留場、専用構外線使用終了翌日の1941年5月29日に停留所として営業開始とあった。 正式には名家停留場であった。 駅の周囲は畑で、県道との間にガソリンスタンドが存在したが廃業している。

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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
名家停留所跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

駅跡は消滅している。 その後、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。 当駅跡附近の線路跡は、コンビニエンスストア裏手の未舗装道路として再利用されている。



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
酸川野停留所跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

酸川野駅(すかわのえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄の駅である。 
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅で、転轍機を持たない棒線駅となっていた。 プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降していた。
開業時からの無人駅で駅舎はないが、線路の北西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。

昭和に入ってから沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には酸川野停留場であった。 杉林の中に位置した。 酸川野は藩政(会津藩)時代には宿場町であった。
当駅のすぐ川桁方に設置された『酸川野踏切』は、踏切と交差する旧・土湯街道(現・国道115号)の交通量が多く、踏切警報機が設置されていた。

駅跡は消滅している。 その後、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。 線路跡は、国道115号線に取り込まれている。



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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
木地小屋駅跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

木地小屋駅(きじごやえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄の駅(廃駅)である。 磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で1線を有する駅であったが、プラットホームは存在せず乗客は地面から直接乗降していた。 無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。 駅舎は構内の北側に位置し、駅舎とは別棟でトイレ棟を有していた。

開業時からの駅の一つであった。 交換設備を有していたが、晩年は交換設備が施錠されて無人化されていた。 駅名標には『きぢごや』と表記されていた。 酸川野駅から当駅に至る鬱蒼とした林を抜けて平地が開けた所にあり、高原といった風情が漂う雰囲気であった。 当駅から沼尻の区間は、人家の全く無い原野で40‰(最大45‰)の勾配となっていた。

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木地小屋駅
山野にあって利用客が
期待できない駅であったが
その分だけ森林資源に恵まれて
沼尻閉山後も木材貨物は群を抜いて多かった
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

かつては2線を有する列車交換可能な交換駅で、使われなくなった駅舎側(北側)の旧下り線は、交換設備運用廃止後も側線として残存していたが、方開き分岐の転轍機は鎖錠され、『鎖錠』と記載された立て札が立てられていた。 その他にも、本線の沼尻方から構内外側に分岐する行き止りの側線を1線有していた。 荷物取扱時は、薪炭や木材などの産出量が群を抜いて多かった。

駅跡は消滅しているが、国道115号線沿いのドライブインの前に駅跡が確認できる。 その後、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が立てられている。 駅舎のあった位置には赤い屋根の建物が建築されていた。
また、当駅跡附近から沼尻方の線路跡は、水田や雑木林の間に未舗装の道路として残存していた。 
沢に掛かるコンクリート橋も再利用されていた。 この線路跡の未舗装道は、農道として使用されている。



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立派な駅舎が建つ沼尻駅
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

沼尻駅(ぬまじりえき)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄の駅である。
磐梯急行電鉄の廃線に伴い、1969年3月27日に廃駅となった。 廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南東側(沼尻方面に向かって右手側)に存在した。 職員配置駅となっており、駅舎は構内の南東側に位置しホーム中央部分に接していた。

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列車の機回しには転車台ではなく
デルタ線を用いていた
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

本線のホーム部分の真北に車輌機回し用のデルタ線を有し、デルタ線の先端部は側線として長く伸び、さらに途中から計3線の側線が分岐し、うち1線は沼尻鉱山の精錬所から結ばれた索道で運ばれて来た硫黄の積込設備への引込線、残り2線は倉庫への貨物側線となっていた。

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デルタ線の先の側線は
機回しの他にも留置線として
使用されたようだ
※『セピア色の鉄道写真帖(サイト閉鎖)』より

また、デルタ線の左辺に当たる部分の途中から分岐し、更に2線に分岐する工場線、及び本線川桁方から構内南西方に分岐し、更に2線に分岐して片方には小さな車庫が設置された車庫線も有していた。
硫黄の積込設備は、屋内でバケットから無蓋貨車に積載されていた。

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沼尻駅舎は沼尻観光撤退後は
保存するべく改装されていた

路線廃止後は駅舎の位置が移設により移動し、関連会社であった沼尻観光の事務所として再利用されていた。 当時の車庫も残存し、その隣に駅舎が移動していた。 附近の木材倉庫の陰にレールが6本打ち捨てられていた。

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『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』
沼尻駅跡案内板
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

なお、駅舎の移設については向きを東から南に変え、位置を若干西側に移動させたようであった。
また、猪苗代町によって『なつかしの沼尻軽便鉄道を訪ねて』と記載された、駅の説明文と現役時代の写真が付いた駅名標を模した案内板が建てられていた。 駅舎は現在は使用されておらず、保存に向けた改装が行われている。

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路線が廃止となって
駅が存在しなくなっても
地名は『沼尻駅前』となっている
※『街道Web・日本硫黄沼尻鉄道』より

当駅跡附近の線路跡は木地小屋駅跡から続く未舗装道路となっており、当駅跡手前にあった小さな橋梁が、林の中に利用可能の状態で残存していた。 この橋梁は通行可能にするべく、渡る為の木片が敷かれていた。 現在は、国道115号線から中ノ沢温泉への分岐地点近くまでが、『沼尻駅前』という地名となっている。


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ワテの場合1日の食費は
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No Subject * by hanagon60
この鉄道が存在した事については高校生の頃から知ってはいましたが、廃止時に記述された闇のようなものがあったとは知りませんでした。
廃線跡については仙台赴任時に訪れています。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-325.html

Re: No Subject * by  風来梨
hanagonさ。こんにちは。

この電鉄にまつわる黒歴史は、紀州鉄道を調べているときに知りました。
何でも、今の鶴屋グループ傘下となった紀州鉄道が、赤字必至の鉄道業を維持するのは、鉄道業という株式で評価の高い名誉職、即ちネーミングライツを見込んでの事ですね。 特にリゾートホテル業界にとっては、かなり株式で優遇となるそうですね。

近鉄が近畿日本ツーリスト、阪急や南海が阪急交通社や南海交通社、そしてJTBは日本交通公社と公社ですから。

でも、磐梯電鉄不動産を立ち上げた磐梯急行電鉄のトップは消息不明になるなど、株式に踏み込んだ闇も感じられますね。
まぁ、素人経営者や個人は、株式にはあまり首を突っ込まない方が賢明であるという事ですね。

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No Subject

この鉄道が存在した事については高校生の頃から知ってはいましたが、廃止時に記述された闇のようなものがあったとは知りませんでした。
廃線跡については仙台赴任時に訪れています。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-325.html
2022-11-20 * hanagon60 [ 編集 ]

Re: No Subject

hanagonさ。こんにちは。

この電鉄にまつわる黒歴史は、紀州鉄道を調べているときに知りました。
何でも、今の鶴屋グループ傘下となった紀州鉄道が、赤字必至の鉄道業を維持するのは、鉄道業という株式で評価の高い名誉職、即ちネーミングライツを見込んでの事ですね。 特にリゾートホテル業界にとっては、かなり株式で優遇となるそうですね。

近鉄が近畿日本ツーリスト、阪急や南海が阪急交通社や南海交通社、そしてJTBは日本交通公社と公社ですから。

でも、磐梯電鉄不動産を立ち上げた磐梯急行電鉄のトップは消息不明になるなど、株式に踏み込んだ闇も感じられますね。
まぁ、素人経営者や個人は、株式にはあまり首を突っ込まない方が賢明であるという事ですね。
2022-11-21 *  風来梨 [ 編集 ]