風来梨のブログ

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廃線鉄道  第91回  伊豆箱根鉄道・軌道線(路面電車)

廃線鉄道  第91回  伊豆箱根鉄道・軌道線 〔静岡県〕

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軌道線の電車と
駿豆線h91 (1)の蒸気機関車牽引の列車
三島町駅(現・三島田町駅)にて
※ ウィキペディア画像を拝借

伊豆箱根鉄道・軌道線(いずはこねてつどう・きどうせん)は、静岡県三島市の三島町停留場から、沼津市の沼津駅前停留場までの間を結んでいた伊豆箱根鉄道の軌道路線(路面電車)である。 島津線とも通称されていた。 明治時代の1906年11月に開業し、モータリゼーションの波が起こり始めた1963年2月に、三島バイパスなど道路整備の障害となって路線廃止となった。 軌道は、三島駅付近の東北東から沼津駅のある西南西へ、ほぼ全線にわたって東海道の街道上に敷設されていた。

軌道敷設の動きは、1896年5月に地元有力者が発起人となって、三島市内に駿豆電気株式会社を設立したのが始まりである。 駿豆電気は函南村に水力発電所を建設し、静岡県内初の電力会社となり、その後神奈川県にも進出していった。

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明治時代後期になると、余剰電力を利用し電気鉄道事業を始める電力会社が多くなった。
駿豆電気もそのブームに乗り、1905年11月に軌道敷設工事に着手し、1906年10月には『駿豆電気鉄道株式会社』に社名を変更の上で、同年11月28日に沼津停車場前から三島六反田(後の三島広小路)に至る電気鉄道を開業させた。

沼津停車場前~三島六反田間の途中に19か所の停留場が新設され、そのうち玉井寺前・黄瀬川・山王前の3か所に交換設備が設置された。 開業初日は開業セレモニーが開催されて、無料開放となった電車は乗客で満員となったという。 また、来賓の静岡県知事を乗せて開業式へ向かう沼津発の電車が途中で故障し、結局知事は徒歩で開業式へ向かったというエピソードも残されている。

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当初は駿豆線との平面交差が
認可されなかったので踏切前で
軌道線の線路が分断されていた
※ ウィキペディア画像を拝借

その後、第2期線として三島市内線が計画された。 そして、1908年8月3日に、三島六反田から久保町を経由して、伊豆鉄道の三島町駅の駅前へ至る軌道線が開業した。 しかし、伊豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道・駿豆線)との平面交差が許認可されなかった為、三島六反田~沼津駅前の線路と三島六反田~三島町の線路は、三島六反田にある伊豆鉄道の踏切で分断されていた。

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関係ないけど三島町(現 三島田町)は
急行【伊豆】の停車駅だった

その後、しばらくして平面交差が許可された為に、同年末に三島町~沼津停車場前の直通運転を開始する運びとなっている。 第2期線では三島六反田~三島町の路線の他にも、久保町から東海道を直進し三嶋大社近くの伝馬町へ至る路線の計画があったが、実現しなかった。

1912年4月、経営が思わしくなかった伊豆鉄道から、現在の駿豆線が駿豆電気鉄道に譲渡された。
この路線譲渡により、三島六反田~三島町で自社の鉄道線と軌道線が並走する形となって、軌道線の同区間は1915年1月18日付けで廃止となっている。

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駿豆線の600V電化により
軌道線の電車も三島町(現 三島田町)
に乗り入れていたが1949年には
乗り入れが打ち切られた
駅舎より最も離れた島式ホーム
3番線に乗り入れていたのだろうか
※ ウィキペディア画像を拝借

一旦廃止された三島町乗り入れだが、1919年5月に実施された鉄道線の三島~三島町の電化に伴って、軌道線の三島六反田から分岐する連絡線が建設され、自社鉄道線に乗り入れる形で三島町駅乗り入れが再開されている。 同時に、開業以来三島六反田の近くに設置されていた車庫が、三島田町駅の構内に移設されている。

鉄道線の三島町乗り入れに先立つ1916年10月に、駿豆電気鉄道は富士水力電気株式会社に吸収合併され、富士水力電気の鉄道部となる。 だが、富士水力電気時代は短く、同年12月に駿豆鉄道株式会社が設立され、1917年11月に富士水力電気から駿豆鉄道へ鉄道・軌道事業が譲渡された。 なお、駿豆鉄道は1938年に合併に伴って、駿豆鉄道箱根遊船株式会社に社名を変更しているが、2年後に駿豆鉄道に戻っている。

太平洋戦争中、営業電車の三島広小路~三島町の乗り入れが休止された。 また、スピードダウンや定員増強の為に、全座席の撤去が実施された。 1945年7月の沼津大空襲では、電車1両が焼失している。

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元三島町と名乗っていた三島田町駅
戦後早々の1949年4月に
三島町(現 三島田町)への
乗り入れが休止となった
※ ウィキペディア画像を拝借

終戦直後は農家への食料買出し客などで終日混雑し、電車待ちで3本は電車を見送らないと乗車できないほどであったという。 また、終戦後には鉄道線の三島町への乗り入れも復活したが、1949年4月に休止されている。

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現在の伊豆箱根鉄道は
西武の傘下で
車両も西部のお古を使っていたよ

戦後の動きであるが、1957年6月に駿豆鉄道は伊豆箱根鉄道株式会社に社名を変更する。
この頃から並走するバスの本数が多くなり、軌道線の乗客は減少していった。 1959年9月には、駿豆線が架線電圧を軌道線と同じ600Vから国鉄線と同じ1500Vに昇圧された。 これによって、営業電車の三島田町(旧・三島町)乗り入れ廃止後も続けられていた三島田町駅構内の車庫への回送ができなくなった為、新たに国立病院前停留場近くに長沢車庫を開設し、同時に三島広小路の連絡線も撤去されている。

1961年6月、この地方を襲った集中豪雨によって黄瀬川に架かる橋が流失した為に、三島広小路~国立病院前間の折り返し運転となり、不通区間となった国立病院前~沼津駅前はバス代行運転が実施された。
部分休止後も残った区間で営業を続けたが、三島バイパスとの交差や軌道線が通る旧東海道の舗装などの問題が重なり、1963年2月4日の営業運転を以って軌道線全線が廃止された。

営業運転最終日には、明治時代の電車を模したオープンデッキ(前面窓ガラスなし)、段落ち屋根風、救助網付きのスタイルに改造されたモハ202号が走り、翌日の2月5日には同車を使用して無料運行が実施された。

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都電・杉並線時代のモハ200形路面電車
※『荻窪東町会』のウェブサイトより

《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):三島町~沼津駅前 6.6 km
  ※ 駿豆線に乗り入れての三島広小路~三島町の運行は1949年4月に休止となり、1959年の
    駿豆線の1500V昇圧に伴って連絡線が撤去されて、事実上廃止となった
    連絡線撤去後の営業区間と営業キロは、三島広小路~沼津駅前の5.9kmだった
  ※ 1961年の豪雨災害によって国立病院前~沼津駅前が不通となり、以降廃止時までは三島町
    ~国立公園前の折り返し運行となった
軌間:1067mm、電化区間:全線(直流600V)、複線区間:ナシ(全線単線)
駅(電停)数:20駅
〔三島町〕(現在は三島田町)・〔久保町〕・三島広小路・〔茶町〕・木町・〔茅町〕・千貫樋・伏見
玉井寺前・〔八幡〕・長沢・国立病院前・臼井産業前・〔木瀬川橋〕・黄瀬川(木瀬川に改名)石田・
麻糸前・山王前・平町・三枚橋・〔志多町(志太町に改名)〕・追手町(大手町に改名)沼津駅前
  ※ 玉井寺前・黄瀬川・山王前の3停留所に交換設備が設けられていた
  ※ 茶町・茅町・八幡・黄瀬川橋・志多町の電停は路線廃止以前に廃止
  ※ 1949年4月の駿豆線・三島町(現在は三島田町)乗り入れ休止に伴い、三島町・久保町の
    停留所も休止→1959年9月の駿豆線昇圧の際に三島町への連絡船が撤去され、事実上廃止
    となる
  ※ 1961年6月28日の集中豪雨にて黄瀬川に架かる橋が流失し、以降は国立病院前~沼津駅前
    はバス代行輸送となり、そのまま路線廃止となった
車庫:開業当初は三島町(現在は三島田町)にあって、三島町への乗り入れ廃止後も使用されたが、
   1959年9月の駿豆線1500V昇圧に伴って使用不能となり、国立病院前停留所近くの長沢車庫
   に移転 
運行形態:廃止時点で、5時台~22時台迄で、終日12分間隔で運行されていた

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この角地の駅前敷地に並ぶように
踏切前で行き止まる形で
路面電車の乗り場が設置されていた

  伊豆箱根鉄道・軌道線 年表
1896年(明治29年)  5月  3日駿豆電気が三島に設立。
1905年(明治38年)       臨時株主総会を開き、会社の目的を電灯及び電力供給・電気器具
                販売以外に、電気軌道の敷設・旅客貨物の運輸業を加えた定款
                変更を行う
                また、伊豆鉄道と線路賃貸借契約を締結し、鉄道事業に参入
1906年(明治39年)10月  1日駿豆電気鉄道に社名変更
           11月28日沼津停車場前(後の沼津駅前)~三島六反田(後の三島広小路)開業
1908年(明治41年)  8月  3日三島六反田~三島町開業(但し、平面交差が認可されなかった為、
                既存線と線路は繋がっていない)
           10月  1日旧伊豆鉄道が三島六反田での平面交差が承認され、踏切で分断
               されていた軌道線同士が接続されて、同年末から直通開始する
1912年(明治45年)  4月  1日駿豆電気鉄道が、現在の駿豆線を経営していた伊豆鉄道の事業を買収
1914年(大正  3年)  末   旧伊豆鉄道線と重複する三島六反田~三島町を休止
1915年(大正  4年)  1月18日三島六反田~三島町を正式廃止
1916年(大正  5年)10月  5日駿河電気鉄道が富士水力電気に合併
1917年(大正  6年)11月  5日富士水力電気の鉄道・軌道事業が駿豆鉄道に譲渡
1919年(大正  8年)  5月25日旧伊豆鉄道線の三島~三島町電化に伴い、三島町駅までの乗り入れ
                を開始
1938年(昭和13年)  4月  6日駿豆鉄道が駿豆鉄道箱根遊船に社名変更
1940年(昭和15年)11月28日駿豆鉄道に社名変更
1941年(昭和16年)  3月14日沼津行電車が黄瀬川橋梁上で脱線、川に転落する事故が発生
                工員等23名重軽傷
1949年(昭和24年)  4月  1日三島町までの営業列車乗り入れを再び廃止
1956年(昭和31年)  2月  1日三島町を三島田町と改称
1957年(昭和32年)  6月  1日伊豆箱根鉄道に社名変更
1959年(昭和34年)  9月  7日駿豆線の架線電圧昇圧に伴い、三島田町にあった車庫を長沢へ移転
                三島田町への回送電車直通運転を廃止し、連絡線を撤去
1961年(昭和36年)  6月28日黄瀬川にかかる橋梁が洪水で流失し、臼井産業前~沼津駅前が休止
                その後は廃線時まで、国立病院前~沼津駅前をバス代行輸送
1963年(昭和38年)  2月  5日全線廃止、バス輸送に転換

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武蔵電気鉄道時代のモハ8型電車
※ ウィキペディア画像を拝借

  車両
廃線時点での在籍車両は、モハ8・15~17、201~207の10両で、路線廃止後に他に譲渡されたものはない。 電動貨車・付随客車も一時在籍していた。

  モハ8形(モハ8)
元武蔵中央電気鉄道1形で、大雄山線経由で当線に1949年に入線(届出は翌年)。
  モハ15形 (モハ15~17
大雄山線からの転入車両。 元は大雄山鉄道開業時に用意された車両デハ1形(1~3)
  モハ200形 (モハ201・202・203~206)
旧西武鉄道新宿線(後の都電杉並線)の車両で、オープンデッキであったが後に扉付きに改造されている。 西武21→都電201→駿豆201、西武43→都電263→駿豆202に改番されていた。 なお、モハ203~206は旧番不明。 モハ202は廃止当日に前述の花電車に改造され、番号も3に改められた。

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ほとんど西武のバスと変わらない
自社傘下の伊豆箱根バスが
旧道経由系統で軌道線跡を運行している
※『Bus info 伊豆箱根バス』より

  廃線後の状況
路線廃止後は、自社系統の『伊豆箱根バス』の路線バスが『旧道経由 三島駅~沼津駅』系統として、広小路~沼津駅前の軌道線跡に運行されている。 但し麻糸前~平町では、狩野川沿いの旧道ではなく県道380号(旧国道1号線)を通っている。 なお、大部分の区間で、東海バス・オレンジシャトルの路線が並行している。

旧長沢車庫跡は、廃線後に西側に敷地を拡大して代替バスの車庫として使用されたが、現在はパチンコ店が立地している。


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戦後における日本国の大失敗は3つある
いずれも災禍を招いた責任を
取らずにウヤムヤにして日本の国民全てが
未曽有の被害や災禍を被ったのである

まず最初に挙げる失敗は
終戦直後にチョンの背乗りである
天皇・ヒロヒトを戦争犯罪で
処刑・処罰しなかった事だ

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これは続く2つの失敗にも関わってくる
日本の大失敗の根幹とも言えるものだ
戦争に負けた後に責任者を処罰する事で
キッチリと清算する事から逃げて
戦後80年で現在にも及ぶ災禍をもたらしたのだ

そう・・それはチョンの背乗り天皇ヒロヒトを
処罰する事で「日王ヒロヒトは責任を取るニダ~」
と喚きタカリにくる密入国の在日チョン共に
在日特権を与えざるを得なくなった事だ

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もしチョンの背乗り天皇ヒロヒトを
キチンと戦争犯罪の廉で絞首刑に処していれば
喚きながらタカってくる在日チョンを
「おまエラの言う日王はキチンと処刑処罰した」
として全てチョンに追い払う事ができたのだ

要するにこの時にチョンを根こそぎ
チョン本国に追い払っておけば
現在にも及ぶ在日チョンからの被害は一切なく
街に氾濫する汚らしい
ハングル文字も見ずに済んだのだ

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また助命されたヒロヒトは
チョンの背乗りの本性を剥き出しにして
「あの戦争は全てにおいて
日本軍が引き起こしたもの」として
世界中に日本国の象徴として謝り続けたのである

日本の象徴・・即ち国家元首が謝ると
追随する日本政府は相手国の言うがままの
賠償責任を負わされるのだ
こうして日本は謝って金を出す
『謝罪・ATM国家』に貶められたのである

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それにつけいったシナやチョンにより
タカり放題にタカられたのだ
売春婦騒動や徴用工などインネンをつけられ
何度も賠償の『おかわり』をされたのである
・・長くなったので次回に続く




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