2022-09-28 (Wed)✎
廃線鉄道 第90回 大和鉄道 〔奈良県〕
近鉄創成期における黒歴史の
舞台となった鉄道路線・大和鉄道
※『DVD・大和鉄道唱歌』より
大和鉄道(やまとてつどう)は、かつて奈良県に路線を有していた鉄道事業者である。 同社の有していた路線の一部は、近畿日本鉄道(以下は近鉄と記す)の田原本線として現存している。
田原本地域は、元々は大和川の上流にある河港として栄えていたが、大阪鉄道 (初代)によって今の関西本線が1892年に開業し、その後に今の桜井線や和歌山線も開業すると、水運は衰退して鉄道に取り残された町は賑わいを失った。
河港として栄えた時を取り戻すべく
奈良盆地を横断して
国鉄関西本線と桜井線をつなぐ
壮大な構想で敷設された大和鉄道
※『近鉄田原本線開業100周年イベント』より
そのため地元の有志が田原本を通り、奈良盆地を横断する鉄道の敷設を目論むようになる。
当初、中和鉄道として立案された計画は、田原本鉄道と名前を変えて免許の取得に至り、1914年に着工へこぎつける。 規格は国鉄との貨車直通を考慮し、軌間1067mm(狭軌)の非電化路線と決定した。
その3年後の1917年には、大和鉄道と社名を変更している。
開業時から波乱続きの
鉄道路線だった大和鉄道
※『大和鉄道パネル』より
社名変更の翌年の1918年に、新王寺~田原本(現在の近鉄・西田原本)で営業を開始する。
この開業日に奈良県知事などを招待して祝賀セレモニーを催すが、来賓客を乗せた臨時列車を牽引する蒸気機関車が途中で故障して、結局故障地点から会場までの約2kmを歩かせるという失態も演じている。
その後も順次桜井方面への延伸に取り組み、1923年には桜井町駅(後に廃止)までの開業にこぎつける。 同社は桜井線の桜井駅への乗り入れを目指していたが、これは用地収得などの準備の遅れもあってしばらく後となった。
奈良盆地から桜井に向けて路線を拡大する
大和鉄道の前に立ち憚ったのは
近鉄の前身である大阪電気軌道だった
※ ウィキペディア画像を拝借
一方で、近鉄の直系母体会社である大阪電気軌道(大軌)は、1914年に現在の近鉄奈良線に当たる路線を開業させ、大和鉄道開業の頃は業績も一時の不振から立ち直って、反転攻勢で路線網の拡大を目論んでおり、以前より地元から敷設の請願があった西大寺(現 近鉄・大和西大寺)から南進して、桜井線の畝傍や橿原神宮に至る畝傍線(後の近鉄・橿原線)の計画を立てていた。
だが、これが開業すると、関西本線との連絡で大阪方面への輸送を担っていた大和鉄道及び天理軽便鉄道(新法隆寺~天理)の経営に深刻な打撃を与える事が確定的となった。 その為、軌道の管轄を行っていた内務省が大軌に特許を交付する際、大和鉄道と天理軽便鉄道の買収・合併を行う事を条件につけたという。
大軌はそれを承諾し、大和鉄道と天理軽便鉄道の買収工作に取り掛かった上で、畝傍線を1921年~1923年にかけて順次開業させた。 しかし、天理軽便鉄道については1921年に合併して同社の天理線・法隆寺線(後者は戦時中に廃止)としたものの、大和鉄道については諸事情があり、なかなか経営権を押さえる事ができずにいた。
大和鉄道・社章
:
伊勢への延伸という
身の丈を超える大きな野望を抱いた事が
合併吸収へと墜ちる序曲となった
※ ウィキペディア画像を拝借
大和鉄道は大軌による畝傍線建設が進んでいたころ、名張・宇治山田への延伸という壮大な計画を立てて、1922年に桜井~名張の免許を取得していたが、中小会社ゆえに資金的な問題で建設は不可能であった。
一方、大軌は自社の有する八木線(後の近鉄大阪線の大和八木以西)を延伸して、大阪から伊勢神宮への快速参拝ルートを造り上げる事を構想として持っていたが、大阪鉄道 (2代目)(後の近鉄南大阪線などを建設)や、伊勢への延伸計画が大和鉄道との競願となっていた為、自社単独での免許取得は難しいと考え、早期に地元に密着した企業である大和鉄道を抑えなければ計画が進展しないと考えるようになっていった。
大和鉄道の仇敵・大軌は
伊勢進出を始め名古屋へ
までも進出する事となる
:
当時の鉄道敷設免許は地権者の過半数を
取り込む事で下伏されるザル法だった為に
地権者から株式(土地権利証)を奪い取るべく
地権者を破産に追い込み自殺させるなど
血生臭い免許争奪戦が繰り広げられた
※『鉄道ファン・1979年4月号』より
それは、大和鉄道がこの名張への延伸免許を取得した事でいっそう顕著となり、大軌はあらゆる手を尽くして同社の株式を取得し、ようやく1924年にその過半数を抑え、取締役へ大軌の役員を就かせる事に成功した。
なお、この時の大軌の地権者の取り込みは苛烈を極め、地権者が営む本業に敵対する商売敵の企業を傘下に置いたり、取引からの締め出しを講じて地権者を破産させて自殺に追い込んだりした『黒歴史』が存在する。 これは、現在で言う敵対的M&A(自企業に対抗する会社の一方的な株式買収)の先駆け例として、経済学の重要インシデントとなっているらしい。
1924年に大和鉄道の株式の過半数を抑えて、取締役へ大軌の役員を就かせるなどして大和鉄道を傘下に置くと、大軌は早急に自社の有する八木線を桜井駅まで延伸する免許を申請し、更に大和鉄道名義で桜井~名張間の免許を宇治山田まで延長する事を申請した。 この時、国鉄の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省は、省が有する参宮線などとの競合を理由に難色を示したが、結局は1927年には八木~桜井間と名張~宇治山田間の免許を交付している。
そして、伊勢への進出は金がかかり会社の経営に影響を及ぼす事から、大阪電気軌道と大和鉄道のいずれでもない新設会社で行う方が良いという結論に至り、その結果設立された参宮急行電鉄(参急)に大和鉄道は免許を譲渡した。
地方鉄道の大和鉄道に大資本化して
エアコン付きの専用特急車両さえ走らせる
大軌に敵うハズもなく呑み込まれて
参宮急行という別会社を
仕立てて伊勢進出が叶う事となった
※『鉄道ファン・1979年4月号』より
新しく仕立てた参急によって、1931年までに宇治山田までの路線(現、大阪線・山田線)は、全線が開通する。 また遅れていた大和鉄道の国鉄の桜井駅乗り入れも、1928年に果たされている。
床下エンジン化で
軌道自動車と呼ばれたレカ21
:
大軌に対抗するには
コレではダメでしょうね
※『鉄道ホビタス』より
しかし戦中の1944年には不要不急線として、大阪電気軌道の畝傍線・桜井線(旧:八木線)と競合する田原本~桜井を休止している。 撤去された軌条はセレベス開発鉄道建設資材として神戸港へ発送し、分岐器類は常北鉄道の大甕~日立市の路線建設に、また橋桁は南海鉄道・阪神電鉄・三重交通・山陽電鉄等へ転用された。 戦後には線路敷も、奈良県道14号・桜井田原本王寺線に転用されている。
近鉄の子会社化した大和鉄道は
改軌と電化はしたものの
車両を保有せずに
近鉄のお古を借り受けて運用していた
:
戦前は120Kw×2基という
破格の出力を持つ車両だったが
戦後に入ると木造のお古となった
元大軌の近鉄モ200形電車
※『昭和の電車』より
戦後、近鉄色を更に強めた大和鉄道は、1948年に1067mmから近鉄標準の1435mm(標準軌)への改軌と電化を行う。 電化は、戦中に徴用されていた朝鮮・中国系の鉱山労働者が戦後帰国し、石炭の採掘量が減少して入手困難になっていた事への対策であった。 この時に用いられた電車は、大軌が製造した戦前の旧型車を近鉄から借り受けたモノであった。
その後はしばらく動きはなかったが、戦後も10年以上経過した1958年に、戦時中に休線となっていた田原本~桜井を正式に廃止している。 また、1961年に、大和鉄道は近鉄生駒線などを運営していた信貴生駒電鉄に合併されるが、その3年後の1964年には信貴生駒電鉄も近鉄に統合され、旧大和鉄道の路線は田原本線となった。
現在、田原本線の西田原本~新王寺が、近鉄の他線の駅(橿原線の田原本及び生駒線の王寺)と離れた位置に存在しているのは、この路線が元々別の会社の運営する路線であった名残りと言える。
今でも利用者(特に年配の利用者)の中には、同線を『大鉄(やまてつ)』と呼ぶ者がいるという。
大和鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):新王寺~桜井 17.6 km
※ 新王寺~田原本(現 西田原本)は近鉄との合併を受けて、近鉄・田原本線として現存する
田原本~桜井は、1944年に戦時不要不急路線に指定され休止となり、その後運行は再開
される事なく1958年に廃止となっている
軌間:1067mm(開業時) → 1435mm(1948年に改軌)
電化区間:ナシ(全線非電化)→ 1948年に電化(直流600V)→近鉄合併後の1969年に1500Vに昇圧
複線区間:ナシ、動力方式:蒸気→内燃(ガソリンカー)→電車
駅数:12駅(起点駅含む)新王寺・大輪田・池部・箸尾・但馬・黒田・田原本(現 西田原本)
寺川・味間・大泉・東新堂・(桜井町)・桜井
※ 新王寺~田原本までは、近鉄への合併吸収を受けて近鉄田原本線の駅として現存
※ 田原本より先の寺川~桜井は1944年に戦時不要不急路線の指定を受けて休止し、
後の1958年に廃止
※ 桜井町駅は、鉄道省(現在のJR)桜井線の桜井駅への延伸が実現するまで
置かれていた仮駅
レールカーを略したレカ11
:
ガソリンエンジンを前部に取り付けた
単端式ガソリンカーだった
※『大和鉄道・レカ11』より
運行本数(1934年当時):新王寺~桜井間10往復半、新王寺~田原本4往復、田原本~桜井3往復
所要時間は全線で42~65分
※ 寺川駅は13往復半の列車が通る中で6往復半しか停車せず、但馬駅も3往復通過する列車が
あった。 また、新王寺~田原本で箸尾のみ停車する列車や、田原本~桜井間無停車の
列車もあった。
晩年は車両を持たず
近鉄からかつての仇敵・大軌のお古を
分けてもらって運用していた
※『奈良の鉄道100年史』より
大和鉄道 年表
1911年(明治44年) 6月 7日:田原本鉄道に対し鉄道免許状下付(田原本~王寺)
1912年(明治45年) 7月14日:田原本鉄道株式会社設立
1913年(大正 2年) 4月 5日:鉄道免許状下付(奈良県磯城郡田原本町~山邊郡丹波市町)
12月 2日:鉄道免許失効(奈良県磯城郡田原本町~山邊郡丹波市町)
指定の期限内に工事施工の認可申請を為さざる為
1915年(大正 4年) 7月10日:起工
1917年(大正 6年) 1月23日:大和鉄道と社名変更
1918年(大正 7年) 4月26日:新王寺~田原本(現在の西田原本)開業
1919年(大正 8年)11月19日:鉄道免許状下付(磯城郡田原本町~同郡桜井町)
1920年(大正 9年) 4月 :大阪電気軌道(大軌)が、独自で八木から宇治山田に至る路線の
免許を出願
1921年(大正10年)11月21日:大和鉄道が、桜井~名張の延伸免許を申請
1922年(大正11年) 6月 7日:大和鉄道に対し鉄道免許状下付(奈良県磯城郡桜井町~三重県
名賀郡名張町)
1922年(大正11年) 9月 3日:田原本~味間が開業
1923年(大正12年) 5月 2日:味間~桜井町が開業
1925年(大正14年) 4月28日:大和鉄道の株式の大部分を収得した大阪電気軌道が、同社の社長に
大槻龍治・常務取締役に金森又一郎(それぞれ、大軌の社長と専務
を兼任)を就任させて、事実上の会社の乗っ取りを成功させる
1925年(大正14年)10月 8日:大和鉄道の名義で、名張~宇治山田の延伸免許申請
1926年(大正15年) 3月 3日:再出願
1927年(昭和 2年) 4月19日:大和鉄道名義で名張~宇治山田の免許取得
なお、大阪電気軌道も、八木~桜井の八木線延伸免許を同時取得
している
9月28日:大阪電気軌道の完全子会社として、参宮急行電鉄(参急)発足
大和鉄道は、桜井~名張~宇治山田の免許を同社に譲渡
1928年(昭和 3年) 5月 1日:桜井町~桜井が開業し、延伸までの仮駅だった桜井町を廃止
12月20日:大福を東新堂に改称
1944年(昭和19年) 1月11日:田原本~桜井が戦時不要不急線の指定を受けて休止
撤去された線路は軍事物資として徴用される
1948年(昭和23年) 6月15日:新王寺~田原本を標準軌に改軌し、同時に直流600Vで電化
1958年(昭和33年)12月27日:休止中の田原本~桜井を廃止
1961年(昭和36年)10月 1日:信貴生駒電鉄が大和鉄道を合併し、同社の田原本線とする
この合併によって大和鉄道は消滅
1964年(昭和39年)10月 1日:近畿日本鉄道(近鉄)が信貴生駒電鉄を合併し、近鉄の路線となる
床下にエンジンを吊り下げた
レールバス型の気動車を導入していた
※『大和鉄道・レカ21』より
輸送実績
※ 新王寺~桜井の全線開業時(~1944年)
年間での輸送人員の最大は1943年で、1572312人(1日平均4307.7人)、貨物輸送の最大は1928年の56383トン(1日平均154.5トン)だった。
※ 田原本~桜井の休止で新王寺~田原本となって以降(1945年~1961年)
年間での輸送人員の最大は1958年(これ以降記録ナシ)で、2098000人(1日平均5747.9人)、貨物輸送の最大は1945年の28190トン(1日平均77.2トン)で、戦後は旅客輸送に方針転向した為か、1952年に僅か1359トン(1日平均3.7トン)と、小荷物扱い程度のみに激減している。
床下エンジンで軌道自動車と
呼ばれたレカ21の車両概要表
※『大和鉄道・レカ21』より
車両
1,067mm軌間時代は自社発注の蒸気機関車・客貨車によって開業し、大阪電気軌道・参宮急行電鉄の傘下となった1920年代後半以降は、フリークエント・サービスの向上を目的として軌道自動車と呼ばれる小型気動車の導入が進んだ。
戦時の燃料統制で木炭ガス
発生装置を取り付けたレカ11
※『大和鉄道・レカ11』より
戦時の燃料統制が厳しくなってからは、木炭ガス発生装置による代燃装置の取り付けが一部の気動車で実施され、敗戦直後の燃料難の時期にはこれら代燃車と国鉄からの借り入れ機関車などによって営業が継続された。
晩年はかつての仇敵だった大軌のお古を
近鉄から借り受けて運用していた
※『昭和30年代の近鉄電車』より
1948年の改軌・電化後は、近鉄からの貸し出し車(モ200形など)が運行され、1961年の信貴生駒電鉄との合併まで自社籍の車両の導入は行われなかった。
別会社で開業した経緯から
生駒線の王寺とは同じ近鉄でも
完全に別の駅となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
会社消滅後
上記に記したように、新王寺~田原本(現 西田原本)は、近鉄との合併吸収に至って近鉄田原本線として現存している。 従って、ほぼ同じ位置に駅のある近鉄生駒線の王寺と近鉄樫原線の田原本とは線路がつながっておらず、新王寺・西田原本と個別の駅となっている。
橿原線と田原本線をつなぐ連絡線
※ ウィキペディア画像を拝借
だが、厳密に言うと、西田原本と樫原線の田原本は引き込み線扱いの連絡線でつながっているが、車両の保守・点検での検車区回送や車両入れ替え時のみ使用されて、定期列車の往来はない。 だが、イベント時に直通列車が運行された事は数回あるとの事である。
戦時中に不要不急路線の指定を受けて
休止から廃止となった田原本~桜井は
ほぼ全線が奈良県道14号線に転用されている
※『ならいく』より
1944年に不要不急線となって休止後に廃止となった田原本~桜井は、その線路敷のほとんどが、《奈良県道14号・桜井田原本王寺線》に転用されている。
ワテが絶対になりたくないモノ
その第一は学校の教師である
何故なら自我を完全に捨てねば
務まらないからである
そして『敵』なる存在が多すぎる
反抗して自身の生活を潰しにかかる
生徒なんかは許されるなら
○してやりたくなるよ
そしてその親もテメエの子の躾の至らなさを
全て教師や学校の責任にしかねないのだ
そしてそれらの理不尽に反抗する事も許されず
手を上げたら社会的に抹殺されかねない
上司は元より世間一般も敵に回しかねないのだ
もちろん苛めによる自殺も
生徒の管理保護不足の責を問われる
まぁ「死にたけりゃとっとと死ねよ」という
ワテの思考は絶対に教師は務まらないだろうけど
次にIT技術系のフリーランスの仕事
コレって確実にクライアントの奴隷という
隷属関係に陥るよ
まず安く叩かれてそれに抗すれば
「他の奴に頼む」でチョン
その後はクライアントの意向が入って
組合からも干されて仕事は回ってこない
そして納期の厳守で品物の品質に
不具合があると徹底的に吊るし上げられ
何度もやり直しな上に
違約金まで取られかねない
もう奴隷そのものだ
なぜならクライアントはフリーランスの
立場や生活や権利を考慮する必要がないからだ
そして仕事の欲しいフリーランスが
そんな奴隷そのものの条件でも
依頼を受けるから悪循環が繰り返されるのだ
これにフリーランスも一応起業という事で
営業・経理・金策・クレーム処理を
一手に手掛けねばならない訳だ
もうこうなると人生のバーストを待つのみだわ
クライアントや組合に疎まれてもバースト
仕事を受けても心身をすり減らす地獄行き
仕事をこなせないと大クレームの嵐で
その責任を取らされる真に奴隷そのもの
あとナマポだね
他人の施しを寄生虫のように吸い
あまつさえ「もっと寄こせ!」という
人間のクズには成り下がりたくないよ
だからワテはこうならぬように
裏付けを完全に確立して
アラフィフを越えて立場が落ちて
粗末な扱いを受ける会社勤めから
晴れての解放を目論んでいるのだ
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