2022-09-13 (Tue)✎
廃線鉄道 第89回 鞆鉄道 〔広島県〕
荷台を取り付けた単端ガソリンカー
単端ガソリンカーは貨車や増結客車
の牽引と機関車の役割も担っていた
※『鞆鉄道』湯口徹 著より
鞆鉄道(ともてつどう)は、鞆鉄道(株)が福山~鞆で1913年~1954年に運行していた鉄道路線である。
元々は軽便鉄道として開通した為、軌間762mmのナローゲージを用いていた。 また、同線で使用されていた蒸気機関車の煙突がラッキョウの形に似ていた事から、『ラッキョ汽車』とも呼ばれていた。
煙突がラッキョウ型で
『ラッキョ汽車』と呼ばれていた
※ ウィキペディア画像を拝借
1909年10月に福山町(現在は市に昇格)より鞆町(現在は福山市の一部に編入)への交通機関として、鞆町や福山町の有志と福山出身の有力代議士、大日本軌道の発起によって軌道条例による鞆軌道の出願がされた。
改修されるまでの芦田川が
荒れ川で多くの枝川があった為
川に沿って敷設された鞆鉄道の
橋梁跡が多く残っている
※ ウィキペディア画像を拝借
翌年の1910年に軽便鉄道法が公布される事が確定的となった事により、軽便鉄道に計画を改めて申請し、鞆軽便鉄道として免許状が下付される事となった。 11月に鞆軽便鉄道株式会社が設立される。
この軽便鉄道の役員は鞆銀行役員や桑田銀行関係者で占められていたが、これらはいずれも鞆町の代表的な資産家であった。
福山城の三ノ丸横を通るラッキョ汽車
※『福山築城 400年』より
開業時は港である鞆の浦港への貨物輸送などの期待が高かったが、港地区の地盤沈下で港の荷揚げが低迷した為に鉄道による貨物輸送は思ったほどになく、戦後に入ると鞆の浦の港への道路がいち早く整備されて、路線バスが多数運行されるようになる。 また、路線を経営していた鞆鉄道も自社で路線バスの運行を始め、旧態依然で設備更新の投資がかかる鉄道から路線バスへの転換を図るようになる。
水呑薬師後駅跡は
商店の倉庫となっていた
:
僅かに駅跡の雰囲気が残る
※ ウィキペディア画像を拝借
また、路線バスのバスターミナルが市街地の中心に設けられたのに対して、鉄道の終着駅は市街地の入口付近にあって利便性も悪く、自社路線バスの運行拡大と共に鉄道の運行は縮小されて、晩年の路線廃止前は朝夕のみの運行となっていた。 その結果、戦後から10年も持たない1954年3月1日に、自社路線バスに完全に代替される形で全線廃止となった。
現在の鞆鉄道は
バス専業会社となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
鞆の浦は県内有数の観光地となり
観光客向けにレトロな
ボンネットバスを運行している
※ ウィキペディア画像を拝借
現在の鞆鉄道はバス専業会社となっているが、サンデン交通(前身は山陽電気軌道)や船木鉄道などと同じく、会社創業時に保有していた鉄道会社名をそのまま使用している。
鞆鉄道の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):福山~鞆 12.5 km 、軌間:762mm、
電化区間:ナシ(全線非電化)、複線区間:ナシ、動力方式:蒸気→内燃(ガソリンカー)
バス停となった葛城駅跡
バス停の土台が
旧駅プラットホーム跡との事
※ ウィキペディア画像を拝借
駅数:12駅(起点駅含む)福山・三ノ丸・野上・草戸稲荷・半坂・妙見・水呑薬師・水呑・葛城・
田尻村・金崎・鞆
廃止時の運行本数:廃止を控えた末期は、運行本数13往復で朝夕のみの運行だった
芦田川を渡る満員の旅客列車
※ 水呑公民館に展示されている写真より
鞆鉄道 年表
1910年(明治43年) 9月 5日:鞆軽便鉄道発起人に対し、鉄道免許状下付(鞆~福山)
11月18日:鞆軽便鉄道株式会社設立
1913年(大正 2年)11月17日:野上~鞆が開業する
軽便鉄道法に基づく軽便鉄道線であった
1914年(大正 3年) 4月12日:福山町~野上が開業
1919年(大正 8年) 1月 1日:福山町を鞆鉄福山に改称
7月 :台風によって芦田川橋梁の橋脚流出するなど、草戸稲荷~野上が
壊滅的な被害を受ける
1925年(大正14年) 7月 :置き石により機関車が転覆し、機関士が死亡
1926年(大正15年)12月19日:軽便鉄道線から地方鉄道法に基づく鉄道路線へ変更し、社名を
鞆鉄道とする
1928年(昭和 3年)12月23日:災害で被害を受けた妙見~野上の線路新設付け替え(芦田川改修
工事に伴い在来線路が新川敷となる為)
1931年(昭和 6年) 9月10日:福山~三ノ丸が開業
これに伴って、鞆鉄福山を三ノ丸に改称
1954年(昭和29年) 3月 1日:既に並行する自社路線バスが多く走っていた為、それに代替して
全線廃止となる
国鉄の大型機関車と並ぶ
鞆鉄道のラッキョ汽車
※ 鞆鉄道株式会社所蔵の写真より
輸送実績
旅客輸送は終戦前後に、戦地からの引揚者などで最大となった。 その終戦年である1945年の年間輸送人員:1664560人(1日平均 4560.4人)。 なお、路線廃止前年の1953年の旅客輸送は、年間 428000人(1日平均 1172.6人)と1/4に落ちていた。 貨物輸送の最大は1941年で、14768トン(1日平均 40.46トン)だった。 同じく、路線廃止前年の1953年の貨物輸送は、年間 1453トン(1日平均 3.98トン)と最盛期の1/10に落ちていた。
煙突の集煙塔がラッキョウ型で
『ラッキョ汽車』と呼ばれていた
ドイツ・アーノルト・ユンク製蒸気機関車
※『鞆軽便鉄道廃線ウォーク』より
車両
開業時用意された車両は機関車4両(雨宮製作所2両、ユンク(ドイツ)2両)
ボギー客車(定員40人)6両、ボギー有蓋貨車3両、ボギー無蓋貨車6両、四輪有蓋貨車4両(雨宮製作所及び大阪加藤工場製)
その後、1915年にボギー無蓋貨車3両を自社工場で改造して夏期納涼列車(ボト11~13、定員28人)を製作。 1918年に、機関車2号(雨宮製作所製)を阪神急行電鉄(阪急宝塚線と神戸線の前身)に売却される。 1921年に、機関車(コッペル)1両とボギー客車(加藤車輌製作所製)1両を増備した。
運用の機動性とスピードアップの必要から
単端式ガソリンカーが導入された
※『地方私鉄1960代の回想』より
昭和に入ると沿線乗合自動車の進出に対抗するべく、運転本数増加と所要時間短縮の必要からガソリンカーを導入する事となり、1927年に日本車輌製造で軌道自動客車(単端式気動車)を2両製作したのを皮切りにとして、1928年に松井自動車工作所で四輪ボギー車(定員40人)を1両製作する。 1930年と1933年に片ボギー車を1両ずつ増備した。
蒸気機関車はガソリンカーの増備により余剰となった為、1935年に1号(雨宮製作所製)を岡山県庁へ売却した。 1936年に国鉄より、軽便用2軸ボギー三等客車5両(福塩南線ケコハ225.228.233.235.237)の払下げを受け、ボハ8~12と付番した。 この客車増備によって、無蓋貨車より改造した客車は元の貨車に戻されている。
戦後まもなく、日本製鉄釜石より機関車2両(156・157)の購入と機関車1両を新製(立山重工業)する。 1949年に客車1両(ボハ6)を廃車している。 廃線間近の保有車両は内燃動車4両・客車12両・貨車6両で、蒸気機関車は使用されなくなった。 また、戦後購入した3両が車庫に留置。 客車も、朝のラッシュ時のみの使用となっていた。
『鞆車庫前』のバス停となった鞆駅跡
電柱の下にあるタイル石が改札口跡との事
※ ウィキペディア画像を拝借
鞆駅(ともえき)は、かつて広島県沼隈郡鞆町後地(現在の福山市鞆町後地)にあった鞆鉄道鞆鉄道線の終着駅(廃駅)である。 鞆町の市街地の北側の入り口に位置していた。
定期観光バスとして
運行されるボンネットバス
:
鉄道在りし頃はこのボンネットバスに
取って代わられた皮肉
※『フォートラベル』より
戦後に入ると鉄道路線は自社バス路線の代替対象となっていて、晩期には朝夕のみの運行になっていた。 これはバスの鞆側ターミナルが市街地の中心地に位置しており、当駅よりも利便性に優れていて、これが鉄道路線廃止の原因の一つとなった。 他にも、当初営業の目的であった鞆の港で荷揚げされる鉄道貨物輸送が、港の地盤沈下によって振るわなかった事も指摘されている。
バスセンターは傘下会社の
土産物屋店に改装されている
※ ウィキペディア画像を拝借
なお、鞆にあるバスターミナルは2005年春に建物が更新され、敷地内に関連企業の株式会社グローバルが運営する土産物店『ともてつバスセンター』に建て直されて、鞆鉄道としての営業拠点は失われた。
このバスセンター館内には、鞆鉄道営業当時の写真や備品類が展示されている。
駅跡は鉄工場の敷地や
バスの転回場となっている
※ ウィキペディア画像を拝借
駅跡地は、鉄工工場の敷地とバスの回転場などの広場となっている。 また、旧鉄道路盤も、県道22号線の拡幅工事によって痕跡は消滅している。 駅の痕跡は廃止から半世紀以上が経過しており、鉄道を記念するモニュメントも一切存在しない為かほとんど確認する事はできない。 バス停の名称は『鞆車庫前』であり、敷地内の片隅に標識がある。 その標識と屋根の下に、わずかに駅舎の改札口の基礎の残存が確認できる程度である。
地下駅で列車のライトを点けて欲しいと
SOS通報ボタンを押したり
地下鉄駅で脚立に乗って
ホームドア越に撮ろうとしたりと
最近頻繁に『デジカメ・撮り鉄』が
世間を騒がして顰蹙を買っている
そういえば「他に真似のできないアングル」と
電柱によじ登って撮り注意されると
逆ギレしたヤツもいたっけ・・な
それから身長より高い三脚で場所を取り合い
喧嘩となって三脚で頭を小突いて
警察沙汰になった例もあったなぁ
でも昔はこんな事は一切なかったよ
まぁ身長より高い三脚なんて
必要なかったしもちろんホームドアも
SOSボタンもなかったけど・・ね
なぜなら今『デジカメ・撮り鉄』が
物議をかましている撮り方は
フイルムカメラでは一切採用しないからである
ファインダーを見て撮るフイルムカメラでは
身長より高い不安定な三脚を立てた所で
ファインダーを覗き込む事もできないし
何よりそんな不安定ななりでは
レンズを支える事が出来ないのである
また電柱に昇ったバカの真似をせずとも
手持ちで歩いているだけで
オリジナリティに溢れた写真が撮れるのだ
それは当然だろう
手持ちならカメラの構え方の違いだけで
オリジナリティが創造されるのだから
また三脚や脚立・・そしてデジカメが
造り出した虚偽の画面・モニターといった
道具に頭を乗っ取られて
人間の大切な能力をポロポロと
落とし無くしていってるのだ
だからすぐにキレるし
善悪の判断が着かない自己中になるし
皆同じくネットの情報に頼るから
オリジナリティを無くして
皆ほぼ同じ場所・アングルの写真を量産する
しかも連写で1秒に100コマ以上・・
それで「1センチ列車の位置がズレた」
「影が数センチ被った」というのが
写真の優劣の比較対象となる
そうなのだ
写真という芸術を撮るのではなく
デジカメという機械を正確無比に扱えた奴が
評価を受けるようになっているのだ
そこに写真趣味の抱く芸術性は皆無で
想像力・分析力・判断力・危険予知・
善悪の判断・イザという時の対応力など
人として必要な能力を失っていくのだ
そうなれば思い通りにならねば
キレる以外に術がなくなるのだ
でも当人たちはそれに全く気付いてはいない
だから同じような事が起きてしまうのだ
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Re: No Subject * by 風来梨
こんばんは。
基本は蒸気機関車にはあまり興味がないのですが、ラッキョウはちょっと目を引きました。 あと、単端のガソリンカーは、井笠鉄道や船木鉄道と同じタイプで、鉄道の廃止に至る経緯も、運営会社のバス専業化で同じですね。
何かそういう土地柄なのでしょうかねぇ。 中国地方は。
基本は蒸気機関車にはあまり興味がないのですが、ラッキョウはちょっと目を引きました。 あと、単端のガソリンカーは、井笠鉄道や船木鉄道と同じタイプで、鉄道の廃止に至る経緯も、運営会社のバス専業化で同じですね。
何かそういう土地柄なのでしょうかねぇ。 中国地方は。
No Subject * by hanagon60
少し前に井笠鉄道記念館に行ったのですが、そこに何故かしら鞆鉄道・鞆駅の写真が展示してありました。
プラットホームと蒸気機関車の写真で、おそらくさよなら列車のものではないかと。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-2346.html
鞆鉄ボンネット観光バスですが、子供の頃祖父の家に行った時に時々見た井笠鉄道バスに色合いやデザインが似ているなぁと感じました。関係ないですけど(笑)
プラットホームと蒸気機関車の写真で、おそらくさよなら列車のものではないかと。
https://hanagon60.blog.fc2.com/blog-entry-2346.html
鞆鉄ボンネット観光バスですが、子供の頃祖父の家に行った時に時々見た井笠鉄道バスに色合いやデザインが似ているなぁと感じました。関係ないですけど(笑)
Re: No Subject * by 風来梨
hanagonさん、こんにちは。
山陽・中国地区の軽便鉄道は、同じような流れで設立して、いすれも自社バスへの転換による淘汰と同じ運命をたどってますね。
船木鉄道やサンデン交通、鞆鉄道など、鉄道の名を冠したバス会社が多いです。
私も新山駅の衣笠鉄道記念館には訪れた事があるのですが、当時(10年前)の御時勢は井笠鉄道がバス事業でも破綻して倒産し、破産管財人管理となって写真はNGでした。 なので、残念ながら展示品はほとんど憶えてませんね。
山陽・中国地区の軽便鉄道は、同じような流れで設立して、いすれも自社バスへの転換による淘汰と同じ運命をたどってますね。
船木鉄道やサンデン交通、鞆鉄道など、鉄道の名を冠したバス会社が多いです。
私も新山駅の衣笠鉄道記念館には訪れた事があるのですが、当時(10年前)の御時勢は井笠鉄道がバス事業でも破綻して倒産し、破産管財人管理となって写真はNGでした。 なので、残念ながら展示品はほとんど憶えてませんね。
母は福山出身なので鞆鉄道の事は覚えていました。
昨日の事は忘れてしまうのに。。