風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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廃線鉄道  第87回  興浜南線

廃線鉄道  第87回  興浜南線 〔北海道〕

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恐らくつながる事を夢見た
興浜北線と共に最も復活して欲しいと
思う路線だった興浜南線

興浜南線(こうひんなんせん)は、かつて、北海道紋別郡興部町の興部で名寄本線から分岐し、同郡雄武町の雄武までを結んでいた国鉄の路線で、 浜頓別駅を終点とする興浜線の先行部分として開業した路線である。 当線の先行開業後も、興浜線(興部~浜頓別)全線開通を目指して延伸工事が行われたが、1980年に施行された国鉄再建法によって、第1次特定地方交通線に指定されて延伸工事は凍結となり、既存区間も1985年7月15日に路線廃止となっている。

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立派な駅舎で貨物も扱い
町にも活気がみられた
興浜南線の終点・雄武
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

名寄線開通により鉄道が敷設された興部村とその北側の雄武村は幾多の恩恵を受けたが、興部と雄武の間には道路が整っておらず、融雪期や多雨期の水産・農産物輸送に支障が出ていた。その折の1922年4月に公布された鉄道敷設法に、興部より幌内・枝幸を経て浜頓別に至る路線(興浜線)が含まれていて、鉄道敷設請願が実った形に期待を寄せられた。

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昔は松前藩の烽火台
だった日ノ出岬
もうこんな車窓を魅せる路線は
日本にはない

だが、政府の予算不成立などによって着工は遅延する一方の状況に、公設を待たずに私設鉄道を作る機運が高まるほどになっていた。 その工事着手は1933年春までズレ込み、1935年9月15日にようやく沿線の漁場や山林開発を目的とした興浜南線・興部~雄武が開通した。

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『興浜南線さよなら』タトウ
他所でタナボタ的に
入手した『お宝グッズ』

先行部分開業後も雄武~枝幸の未成区間の開通を目指して積極的な陳情を行ったが、太平洋戦争の拡大により同区間の着工は棚上げされ、興浜南線自体も1944年10月5日に不要不急線に指定されて、同年11月1日より営業休止となって省営自動車による代替輸送が行われた。

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雄武駅に掲げられていた時刻表

この休止により剥がされた線路などの鉄材は樺太の軍用施設に転用される予定であったが、運ばれる前に終戦を迎えた事からいち早く復旧に着手し、終戦から4ヶ月足らずの1945年12月5日に路線が復活したのである。

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元沢木は仮乗降場なれど
周辺は小さな波止場町で
正駅の栄丘より民家があった

再開後は通学生や鮮魚商で活況を見せ、1955年12月には新たに仮乗降場2ヶ所(元沢木と雄武共栄)が設置され、運行の手間のかかる蒸気機関車牽引列車に代えて機動性に富んだレールバスの運行を開始した。
更に、1966年3月には大型気動車が導入され、若干ではあるがスピードアップも適った。

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漂う流氷と雄武の街

このように、投入車両の刷新が行われた昭和30年代前半までが興浜南線の最盛期で、同年代中盤より客貨量共に徐々に減少し始め、1959年3月より線内各駅を興部駅の管理とするなどの合理化も進められた。 黒字とはならなかったが営業係数は125~200前後であった事から、1960年4月に雄武~北見枝幸の着工が決定し、延伸工事が進められた。

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高度成長期終盤になると
車社会化と過疎の進行
運ぶべき貨客のない
閑散赤字線へと転落していた
※ フイルム間違いのサルベージ写真

昭和40年代に入ると、過疎やモータリゼーションの進行により営業成績が急激に悪化する事となる。 1960年の年間輸送人員は42万4千人程であったが、1970年は29万8千人に減少し、以降も減少の一途であった。 また、貨物取扱量も最盛期の半分以下に落ち込んでいた。 これを受けて、雄武~北見枝幸の未成区間の工事は1977年度をもって中止となった。

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路線廃止対象となって
その4年後に路線廃止となり
「願わくばもう一度乗りたい路線」と
なってしまった興浜南線

各地で鉄道路線の赤字問題が取り上げられる中、1981年9月11日に稚内から興浜南線などオホーツク海沿いの鉄路を経て釧路へ至る『オホーツク本線敷設構想』を沿線自治体で立ち上げる。 これは興浜線の工事再開や需要喚起を狙っての事であったが、この1週間後となる9月18日に接続する予定であった興浜北線と共に、国鉄再建法による第1次廃止対象路線に選定されたのである。

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中興部駅で偶然もらったお宝グッズ
興浜南線廃止後にこの証明書写真を見て
「ここで撮れてればなぁ」と悔やんだよ

この第1次廃止対象路線指定により、興浜南線の沿線自治体である興部町と雄武町は興浜線の工事再開やオホーツク本線どころではなくなり、興浜南線の存続運動に注力する事となる。 だが、1982年度の営業係数は1,734にまで悪化するなど万策尽き、廃止を認めざるを得ない状況となる。 1984年2月に貨物取扱が廃止となり、1985年7月14日の当路線の廃止をもって、半世紀に渡る興浜線建設の歴史の幕が閉じられた。 翌日の7月15日からは、北紋バスにバス転換されている。

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興浜南線の予想路線図
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です

《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):興部~雄武 19.9 km 、軌間:1067mm、
電化区間:ナシ(全線非電化)、複線区間:ナシ(全線単線で全線で1閉塞路線)、
閉塞方式:票券(タブレット)閉塞式
駅数:6駅(起点駅含む)〔興部〕・沢木・元沢木(仮)・栄丘・雄武共栄(仮)・雄武
  ※ 起点駅の興部は興浜南線廃止後も存続したが、1985年第二次廃止対象の指定を受けた
    所属路線の名寄本線が、1989年5月1日に路線廃止となったのに伴って駅廃止となっ
    ている
  ※ 元沢木・雄武共栄は、国鉄本社の承認を得ない局設定(路線を管理する旭川鉄道管理局)
    の仮乗降場であった
  ※ 雄武駅が所在した地方自治体名は、同じ漢字を使いながらも『おうむ』という呼称で
    あるが、駅名標には『おむ』と書かれ、地名と駅名では読み方に相違があった。
路線廃止区間の1982年度の営業係数:1734、同輸送密度:203
廃止時の運行本数:普通列車のみ1日6往復

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輸送密度200人の路線でも
定時運行を確保すべく
ラッセル車で雪を除ける

   国鉄・興浜南線 年表
1935年(昭和10年)  9月15日:興部~雄武 (19.9km) を興浜南線として開業
               沢木・雄武の駅設置
1944年(昭和19年)11月  1日:戦争激化に伴い、不要不急路線として全線 (19.9km) が休止となり
                線路撤去
                撤去された線路資材は樺太に送られる事となる
1945年(昭和20年)12月  5日:全線 (19.9km) の営業を再開
                樺太に送る予定の線路資材の輸送直前に終戦となり、その後4ヶ月
                の突貫工事で営業再開となった
1948年(昭和23年)  7月  1日:栄丘仮乗降場を新設
1955年(昭和30年)12月25日:元沢木仮乗降場・雄武共栄仮乗降場を新設。
1956年(昭和31年)  9月20日:栄丘仮乗降場が駅に昇格
1975年(昭和50年)  3月        : 蒸気機関車の運転を廃止して気動車化(無煙化)
1981年(昭和56年)  9月18日:第1次特定地方交通線として廃止承認
1984年(昭和59年)  2月  1日:全線の貨物営業を廃止
1985年(昭和60年)  7月15日:全線 (19.9km) が路線廃止となり、北紋バスにバス転換となる

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興浜南線の路盤跡と名寄本線の線路
興浜南線は興部駅を出ると
感覚とは逆に紋別方向に1kmほど進んで
南進する名寄本線と分かれて北進していた

   廃線跡
分岐駅の興部駅の跡地は『道の駅・おこっぺ』となり、興部駅跡からオホーツク海に注ぐ興部川の手前までサイクリング道として整備されている。 興部川橋梁は撤去されている。 川の雄武側は砂利道化されている。 だが、オニシ沼に近づくにつれて、放置されて藪湿地と化している。 なお、オニシ沼の橋梁は、撤去されずに線路と共に残置している。

放置されて藪化した線路跡は沢木駅のあった沢木集落前まで続き、沢木駅跡はバス転回場と小公園となり、駅名標などが移設されて残っていたが、公園施設の取り替えをした2016年に駅名標は撤去されている。

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このガラス張りの展望台も
冬は観光客が来なかったのか
閉鎖されていたよ
冬の荒波にさらされたその姿は
侘しさだけが残る
『無常』の理を現す光景だったよ

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興浜南線の通っていた
丘の上に建つ巨大ホテル
世の中は便利になっていくと同時に
大切なモノをポロポロと
落としているような気がした
※『楽天トラベル』より

沢木駅からの線路跡は舗装され、日ノ出岬にはガラス張りの展望台が建てられ、岬はオートキャンプ場などが整備された岬園地となっている。 また、元沢木仮乗降場までの線路跡も舗装され、線路跡の上の丘の上に建てられたホテルや日ノ出岬園地への誘導路となっている。

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駅跡には『道の駅・おうむ』と
農協のスーパー『Aコープ』が建てられた
『道の駅・おうむ』は『Aコープ』
買い物客の駐車場と化してたりして
※ ウィキペディア画像を拝借

この誘導路は元沢木駅跡付近で国道に合流し、その先の線路跡は雄武駅の手前まで放置されて原野と化している。 雄武駅跡は『道の駅・おうむ』となり、駅跡には道の駅の展望塔が建てられている。
また、駅跡の敷地の一部は農協のスーパー『Aコープ』とその来客駐車場となっている。

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サルベージして何とか掲載が適った
『ファースト北海道旅』での
興浜南線の撮り鉄写真
興浜南線は最初の北海道旅でも訪れているが
この時は痛恨のフイルム間違いで
青みが掛かって全ボツとなったよ

   乗車記
廃止ローカル線に鉄道の夢を馳せた者なら、興浜北線と共にもう一度乗りたかったローカル線であった興浜南線。 その興浜南線も路線廃止となって、もう35年以上経ったのである。 そりゃぁ、当時小僧だったワテもアラフィフになる訳だ。

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架空旅を想うだけで
次々とDISCOVERE(再発見)がある

でも、この興浜線の架空乗車旅を想うだけで、あの頃にタイムスリップした気分になれる。 
それでは、廃止ローカル線を半分命賭けで追いかけていたあの頃に立ち戻って、『オホーツク縦貫鉄道の夢』を今一度追っかけてみよう。

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興浜南線の列車の発着時刻は
名寄本線列車が接続する
興部駅が最もにぎわう時
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

興浜南線の起点駅であった興部駅は、駅舎の建つ単式ホームと島式ホーム複合の2面3線のスタンダートな『国鉄型の駅』であったが、興浜南線の列車は全て真ん中の2番線から発着していた。 興浜南線の列車が2番線に入線している時は、名寄本線の上下のどちらか、あるいは上下両方の列車と接続していたので、興浜南線の列車の発着時刻となると興部駅はいつも賑わいを魅せていた。

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興部からの名寄本線と興浜南線は
この観光案内図ように分かれていた

興浜南線の列車は単行で、大概は名寄本線の列車の発車後に発車していた。 興部駅を出ると、列車は名寄本線の下り紋別方面の線路と並行して1kmほど進む。 やかて国道238号の高架下を潜る前で左右に離れていき、国道238号線の高架の違う橋げたのスパンをくぐって、名寄本線は右へ興浜南線は左に進んでいく。 この国道高架下で、興浜南線と名寄本線は180度反対の方向に進んでいく。

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興部を出てしばらくすると
列車はオホーツクの海際に出て
車窓には流氷が広がる

左に反れた興浜南線は興部川を渡って、オホーツクの海際に出る。 座る座席は、断然海側の進行方向右側の座席だ。 しばらく海岸段丘の上をゆくが、もし流氷接岸時ならば、今なら砕氷船にでも乗らないと望めない流氷情景が車窓から望めるのだ。 何という贅沢な車窓風景だろう。 ここで是非とも『流氷列車』の撮影をしたいと何度も思ったが、興部から次の駅の沢木までは8.3キロ離れているので、車など足のない小僧のワテはここでの『流氷列車』は諦めざるを得なかったよ。

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もしあの時に車があれば
流氷が来るまで何日でも
この鉄橋で粘っていただろうね
※『北海道鉄道百景』
監修・国鉄北海道総局より

やがて、オホーツク海の海際を走っていた列車の車窓が、流氷から波止場の集落に変わると沢木駅だ。
駅は名寄本線の中名寄や渚滑線の下渚滑と同じカプセル駅舎となっていたが、当時の国鉄時代は、列車を待つお客さん自身がストーブを点火できるような心配りがあった。

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岬にいるうちに小吹雪となり
残念ながら白飛びしたれど
天気が良ければ生涯のお宝が
2枚になっていただろうね
※ 白飛び修正済

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あの生涯のお宝写真を撮った
場所から眺めた
あの岬に行ってみよう

沢木を出た列車は海岸段丘の上に上がって、線内最大のクライマックス情景となる。 松前藩の烽火台跡であった日ノ出岬を見ながら進み、この区間が流氷漂うオホーツク海に最も寄り添うのだ。
また、次の乗降場である元沢木まで2kmほどと、徒歩で『流氷列車』を狙える区間でもあるのだ。

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我が生涯のお宝写真となる
1枚をゲット

列車は駆け上がった海岸段丘をゆっくりと下り、小さな波止場集落が見えると板張りの仮乗降場である元沢木に着く。 板張りホームだが、駅出口の踏切脇に牢獄のような待合室がある。 また、板張りのホームからはオホーツク海と流氷が望める。 元沢木からは国道と海に挟まれた湿地帯をゆくが、路線敷設時に湿地帯に入るのを嫌ったのか国道にぴったり寄り添って、少しオホーツク海から離れる。 オホーツク海から40~50mはなれた所を進んで栄丘に着く。

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興浜南線は日の出岬で
リベンジしたので
栄丘駅のカラーは車掌の
好意で撮れた駅名標写真のみ

栄丘は駅に昇格したものの、周囲は小さな波止場で民家もみられた仮乗降場の元沢木より断然寂しい雰囲気で、駅前にある民家が1件とセメント工場があるのみで、駅もホームに掘っ建て小屋の待合室が建っているのみであった。

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強い海風に煽られると
ギシギシと軋み音が響く
ボロボロの待合室
※ フイルム間違いのサルベージ写真

栄丘駅よりしばらく国道に寄り添って、オホーツク海から40~50m離れた位置を進むが、やがて国道を築堤で跨いで内陸側に移り、酪農地に入って舗装された農道を踏切で渡った脇に、板張りホームと掘っ建て小屋待合室の雄武共栄仮乗降場があった。 雄武共栄仮乗降場からは、国道の内側で更に国道より10~20mほど離れた位置をゆき、やがて国道との間に民家が建ち始めて、そのまま市街地に突入すると終点・雄武に着く。

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列車に全国発注された
オホーツク海水揚げの
新巻鮭を積み込んで
※『ドキュメント・列車追跡 Vol.11』より

駅は片面ホーム1線だが、貨物側線が複数あって廃止前年まで貨物の取り扱いをしていた。
海沿いの活気のある町にある駅では、列車が着くと全国発送される新巻鮭が列車に積み込まれるシーンが見られた。

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両端の鉄道が廃止諮問された頃の
興浜線の南北をつなぐ路線バス
※『旅と鉄道』'83年春の号より

雄武駅からの興浜線未成線区間は1日4往復の宗谷バスが結んでいたが、その乗り場は駅前の真正面であった。 なお、興浜北線の北見枝幸は、駅から300m離れた所にバス停があり、かなり不便であると指摘されていたよ。



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立派な駅舎があった興部駅
※ 知り合いより画像もらい受け

興部駅(おこっぺえき)は、かつて北海道(網走支庁)紋別郡興部町字興部にあったJR北海道の駅である。 名寄本線の廃線に伴い、1989年5月1日に廃駅となった。 1980年9月30日まで運行されていた急行【天都】、1986年10月31日まで運行されていた急行【紋別】の停車駅であった。

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2面3線の国鉄標準型の
構内配線だった興部駅
※ ウィキペディア画像を拝借

廃止時点で単式ホーム・島式ホームの2面3線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。
互いのホームは、駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡していた。
職員配置駅となっており、駅舎は構内の北西側に位置し、単式ホーム中央部分に接していた。
ホームの有効長は120mあった。 1981年度の1日乗降客数は403人との事。

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名寄本線の駅は
改札口に大きく駅名表示を
かかげている駅が多い
※ 知り合いより画像もらい受け

1983年時点では、駅舎側(西側)が1番線、上屋が設置された島式ホーム駅舎側が2番線、外側が3番線となっており何れも上下共用であったが、概ね1番線が下り紋別・遠軽方面、3番線が上り名寄方面、そして真ん中の2番線が興浜南線の発着ホームに割り当てられていた。

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興部駅が廃駅となるまで
設置されていた
『さようなら興浜南線』のスタンプ

また、3番線の外側に側線を3線有し、そこから給水線などの行き止まりの側線も数線有した。
その他にも。1番線の遠軽方から分岐して、駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を2線有していた。 駅名の由来は当駅の所在する地名からで、アイヌ語の「オウコッペ」〔川尻・互いにくっつく・もの(川)〕に字を当てたものであるとされる。

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現在の駅跡は
『道の駅・おこっぺ』となっている
※ ウィキペディア画像を拝借

現在の駅跡はバスターミナルを兼ねた『道の駅・おこっぺ』となっている。 その『道の駅・おこっぺ』の一角には、1992年6月より興部町によって「興部交通記念館」が開設されている。 記念館の館内には、当時使用していた備品、乗車券、レール、時刻表、駅舎モデル、写真パネルなどが保存・展示されていて、駅舎モデルは宇津駅、当駅、沙留駅の3駅が展示されている。

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『道の駅・おこっぺ』に展示されている
キハ22の急行【はまなす】(ルゴーサ・エキスプレス)

一方、館外の敷地にはキハ22形気動車キハ22 202、キハ22 251の2両が連結された状態で静態保存・展示され、前者が休憩所・後者がライダーハウスとして使用されており、『ルゴーサ・エクスプレス』(意味は急行【はまなす】)と名付けられている。 その他、駅構内跡地は広く公園にも転用されており、モニュメントとしてD51形蒸気機関車・365号機の動輪が保存・展示されている。

また、名寄本線の北興駅~当駅の線路跡の一部がサイクリングロードに転用されており、それを跨ぐ陸橋に『天北こ線橋』の名が残っていた。



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『ファースト旅』でのボツ写真を
白黒化してアラが出ないように縮小して
それでも出た黒い斑点はカットして
何とかサルベージできた沢木駅駅舎

沢木駅(さわきえき)は、かつて北海道紋別郡雄武町字沢木に存在した国鉄・興浜南線の駅である。
興浜南線の廃線に伴い、1985年7月15日に廃駅となった。 駅名の由来は当駅が所在していた地名からで、地名はアイヌ語の「サラキ」(葦)、「サマケ」(傍らの所)など、由来には諸説ある。

廃止時点で、1面1線の単式ホームと線路を有する駅であった。 開業当初は有人駅であったが、1978年の貨物・荷物の取り扱い廃止に伴い無人化された。 ホームは、線路の北西側(雄武方面に向かって左手側)に存在した。 この他、雄武方から駅舎側に分岐する側線を1本有していた。 このホームは本来島式ホームで、興浜線全通の際には列車交換可能な配線とする計画があった事が指摘されている。

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一時は駅跡の公園に
駅名標などが展示されていたが
区画整理に伴って撤去されている

駅舎は構内の南西側に位置し、ホームとは通路で連絡していた。 有人駅時代の駅舎は建て替えられて、渚滑線・下渚滑駅や興浜北線・豊牛駅などと同型のカプセル型駅舎となっていた。 建て替えの際に、線路未敷設側のホーム上に位置変更している。

当駅の跡地は小さな公園となっており、駅名標や名所案内も残っていたが、2016年頃に駅名標と名所案内は撤去された。 また、雄武方の日の出岬に向かう線路跡は道路となっている。



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車両1両分の板張りホームだった
元沢木仮乗降場
周囲は小さな波止場を形成していて
民家は割とあった

元沢木仮乗降場(もとさわきかりじょうこうじょう)は、かつて北海道紋別郡雄武町字沢木にあった、国鉄・興浜南線の仮乗降場である。 興浜南線の廃線に伴って、1985年7月15日に廃駅となった。
局設定の乗降場であるが、全列車が停車していた。

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簡易の駅名標と
全列車が停車していた時刻表

廃止時点で1面1線の単式ホームを有する駅で、ホームは鉄の骨組みに板を張りつめただけの簡易なもので、線路の北側(雄武方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。
無人駅となっており、板張りホーム出口から踏切のある道路を挟んだ位置に、電灯の設置されていない掘っ建て小屋同然の待合室があった。

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掘っ建て小屋というより
牢獄のような
元沢木仮乗降場の駅待合室

駅周辺は小さな波止場集落を形成していて、隣の正規駅である栄丘より駅の周辺家屋は多かった。
駅跡は跡形もなく撤去され、国道からホームのあった場所に入る道路の入口には、日ノ出岬来訪を歓迎するアーチ門が建てられている。



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オホーツク海を望み
タンポポが咲く草むらのホームに
掘っ建て小屋の駅舎
茫洋としてうら寂しい明日なき
ローカル線の佇まいを魅せる栄丘駅
※『消えゆくローカル線・東日本編』
宮脇修三・諸河久 著より

栄丘駅(さかえおかえき)は、かつて北海道紋別郡雄武町にあった国鉄・興浜南線の仮乗降場である。
興浜南線の廃線に伴い、1985年7月15日に廃駅となった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の内陸側を走る国道238号線に沿うようにして存在した。 無人駅となっている。 駅舎は存在せず、ホーム中央部分に待合所を有していた。

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持っている鉄道雑誌の写真から
でも、旅する前に見て絆された
写真とは別のモノ

駅名は駅が所在した集落名からで、1973年に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』には、「この地は部落が栄えるように繁栄の『栄』と、見はらしの良い『丘』を合わせてつけられた」名称と記述されていた。 駅の施設は全て撤去され、駅跡は跡形も無くなっている。 周囲は放置されたままに原野と化している。



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農道との交点にあった
雄武共栄乗降場

雄武共栄仮乗降場(おむきょうえいかりじょうこうじょう)は、かつて北海道紋別郡雄武町字南雄武にあった国鉄・興浜南線の仮乗降場である。 興浜南線の廃線に伴い、1985年7月15日に廃駅となった。
局設定の乗降場であるが、全列車が停車していた。 駅名の由来は近隣の集落名『共栄』からであるが、元々は『トーフツ』や『南雄武』と呼ばれていたが、「共に栄えようという部落の理想を地名にした」とされている。



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在りし日の雄武駅舎
※ ウィキペディア画像を拝借

雄武駅(おむえき)は、北海道紋別郡雄武(おうむ)町字雄武にあった国鉄・興浜南線の駅である。
興浜南線の廃線に伴い、1985年7月15日に廃駅となった。 廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する駅で終端駅であった。

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興浜南線・雄武駅の足跡は
失敗旅の時に北線・北見枝幸へのバス乗り継ぎ
の際に降りただけの稀薄なものだった

ホームは、線路の北東側(雄武方面に向かって右手側)に存在した。 この他にも貨物線・留置線・給水線など、旅客用の1番線の外側に4番線(2~4番線はホーム無)までと、興部方から駅舎側に分岐し駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1本有していた。 1番線の先には1975年3月時点で専用線が続いており、3番線の先には蒸気機関車時代の転車台が残っていた。

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興浜南線が廃止になった後は
『オホーツク縦貫鉄道の夢』という
夢企画の取材!?で度々訪れていた

線路の延長上に興浜北線・北見枝幸駅までの未成線の路盤が10km以上先まで続き、駅の北側には『雄武トンネル』も完成していた。 職員配置駅で、駅舎は線路の東側に位置しホーム中央部分に接していた。
貨物列車は1980年時点で隔日運転で、発送荷物はパルプ用丸太、到着貨物は石油・肥料・飼料が主であった。

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『さよなら乗車記念』タトウの裏面に
記載されていた雄武町の町名の由来

当駅の所在する地名からで、地名はアイヌ語の「オムイ」(川尻・塞がる・所)、あるいは単に「オム」(川尻・塞がる)に由来する。 現在の雄武川の河口が、風や潮流に運ばれた砂で塞がれる事から付けられた地名である。 なお、駅名は「おむ」と読むが、駅が所在する雄武町は「おうむ」と読み、駅名と地名では読み方に相違があった。

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雄武駅の入場券

雄武駅は、興部駅から北上してきた盲腸線である興浜南線の終端駅である。 興浜南線が興浜線(興部~浜頓別)の先行開業区間として開業した経緯で、当駅は盲腸線の終端駅となった。当駅から北に向かい、枝幸郡枝幸町の興浜北線・北見枝幸駅との間の未成区間が計画され、路盤や施設などは一部が建設されていた。

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『道の駅・おうむ』のフロアの一角には
興浜南線の鉄道資料館が設けられていた
※ 『道の駅・おうむ』のウェブサイトより

しかし、社会情勢の変化に伴い、この未成区間は開通する事なく興浜南線と共に雄武駅は廃止された。
本来、興浜線の途中駅となる計画であった為に、線路は駅からさらに数百メートル北上した地点まで伸びていた。

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駅跡の裏手にひっそりとある
雄武駅跡の記念碑
※ ウィキペディア画像を拝借

路線廃止後は駅舎は取り壊され、跡地には2000年頃に地域交流センターが建設され、バスターミナルの『道の駅・おうむ』となった。 また、地域交流センター横に「歴闘五十年 興浜南線終着駅 おむ」と記された記念碑が設置されている。 駅跡の敷地の一部は、農協のスーパー『Aコープ』とその来客駐車場となっている。 駅近辺には、未成区間の『雄武トンネル』も残存している。

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道の駅の裏手の住宅地に
列車の通らぬトンネルが
ポッカリと口を開けていた
※ ウィキペディア画像を拝借

かつて当駅から幌内川中流域の上幌内地区へ向け、簡易軌道雄武線が運行されていた。 計画では雄武~上幌内地区の延長27kmで、その内の開業区間は雄武~上雄武の12.0kmであった。 動力は内燃で、栽培されていた甜菜及び森林資源の搬出が目的であった。 しかし、モータリゼーションの影響によって未完成区間の工事は1953年度限りで中止となり、開業区間も撤去された。 また機関車は、歌登町営軌道に転用された。


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世の中をナメている
「働きたくないでござる」のオッサンを
徹底的にダメ出ししているが

このオッサン甘えてるだけで
ワテよりずっと恵まれているよ
キチンと親に育ててもらったようだし
高学歴そうだし世帯は持ってるし
相続資産のある親のようだし

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東京で「メンタルが壊れた」で
3ヶ月も休業させてくれるような会社は
恐らく上場企業だろうね
またどこまでかは知らんが
コンピューターの技術・知識も持っている

ワテはまともな家庭環境を知らないし
学歴は無いに等しいし
技術も知識もスキルも全くないし
2年前に『オチャメ』って
4週間休んだらクビを突きつけ脅されて

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コッチが「クビでもいいよ」というと
手のひらを反して「社則で非正規格下げ
だけど同じ待遇で雇いなおす」と擦り寄ってきて
せっかく派遣から正社員に上がったのに
直雇いだが元の非正規に戻されたしィ

だからこんなダメダメな条件から
自身の力でここまで戻したワテが
何で高学歴で知識・技術を持つ奴の
甘えや泣き言に共感せねばならないの?
「テメエの高いスキルで何とかしろよ」と言いたいよ

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ホント「死にたいならとっとと死ね!」だよ
ワテは「生きたい」って奴は応援するけど
「死にたい」って奴は即見捨てるね
だってワテ・・生きていたいもの

共感を求めて傷をナメあってるようだけど
そんな事しても何の解決にもならないし
さらに落ちていくだけだよ
要するに根本から甘えてんだよ

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給料が上がらないのはテメエが
会社の利益に全く貢献してないからで
バイトは時間給だから利益貢献には関係ないけど
正社員の給料は会社の利益から出るという
事を受け入れてないからだよ

スモールビジネスでもそう
元手を計算しなければ
あらゆる商売はできないよ

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それにお客に金を払う気にさせるまでの
プロセスをナメ過ぎだよ
それはテメエならこんな事に
金を出してサービスを受けるか?
と問うと一発で答えが出るよ


会社を恨み同僚を会社の犬と罵り
日本なんて潰れてしまえ!って奴に
客となって金を出してくれる奴
なんかいないわなぁ

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要は置かれた状況で立ちまわる事の出来る
分析力と判断力と考察力で
学校で得た知識はあまり必要としないのだな
高学歴や高いスキルを持ちながら置かれた状況に
不平不満を愚痴るならそんなの要らねェよ





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