2022-08-13 (Sat)✎
『路線の思い出』 第497回 宮原線・北里駅 〔熊本県〕
駅の敷地が芝生となるなど
集落を見下ろす城郭の
雰囲気を持っていた北里駅
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
恵良~肥後小国 26.6km 109 / 1860
廃止年月日 転換処置
’84/12/ 1 大分交通バス
廃止時運行本数
豊後森~肥後小国 3往復(土曜 4往復)
豊後森~宝泉寺 下り2本・上り1本(内 1往復は休日運休)
北里駅に停車中の列車と
ほぼトンネルの北里駅舎
北里駅(きたざとえき)は、かつて熊本県阿蘇郡小国町大字北里に存在した国鉄・宮原線の駅(廃駅)である。 宮原線の路線廃止に伴い、1984年12月1日に廃駅となった。 廃止時点で、1面1線の単式ホームを持つ無人駅であった。
北里駅の跡地は周辺を見下ろせる
城跡の城壁のような石垣の上にあった
※『トリップアドバイザー』より
駅ホームは現在国道387号線のバイパスが通る高台の上ににあり、駅入口はトンネルとなっていて、中で階段を上がって駅ホームに出る構造となっていた。 また、駅開設当初は駅員が配置されていた為に駅務室が設けられ、トンネル内の階段を上がった所にラッチがあり駅務室より改札業務を行っていたと推察できる。
廃城の城郭のような石垣に
怪しさ満点の暗闇に入る階段
:
これが駅の入口とは到底思えまい
だが、駅開設後数年で無人化された為にトンネル内はほぼ真っ暗で、採光の為に設けられていた天井のステンドグラスも割れて床に落ちたまま放置されていた。 そして、駅入口となるトンネルも、一見して駅とは思えない廃城の門のような様相を呈していた。
現在はホームの石垣に
休憩所を設けた駅跡公園となっている
今は駅舎が取っ払われて
ただの階段通路となっているが
こんな気味の悪い階段を使う者は誰もいまい
※ 上下2枚とも『トリップアドバイザー』より
当駅の跡地はホームの石垣を利用した駅跡公園として整備され、国道バイパスの休憩所及び農産物直販所となっている。 前述のように往時は高台にホームがあり、入口からトンネル潜り階段を上ってホームに出ていた為に、そのホームへのトンネル・階段が、トンネル部分の天井の大半を撤去された上で残っている。
駅付近には当地の偉人
北里柴三郎博士の生家がある
当駅付近一帯は、医学博士の北里柴三郎の出身地として知られ、駅跡から200mほどで博士の生家と、博士が私財を投じて開設した図書館の北里文庫(現在は小国町に寄贈され、『北里柴三郎記念館』となっている)がある。
最後の夏をゆく
宮原線列車を追いかけて
北里駅は、今でこそ小国町出身の偉人・北里柴三郎博士の生家・文庫など、町の郷土史を語る観光名所となっているが、宮原線往時は民家があるだけで、今は町に寄贈され記念館となっている北里文庫も、恐らくであるが集落の公民館が管理する管理者おらずで拝観無料だったと思う。 要するに、実際は放置だったのだろう。 そして鍵も開けっ放しだったようである。
定宿・麻生釣駅ホテルにて
:
この頃のワテ・・ハンサムだったかも
ローカル線の光と影
:
撮り鉄のウデもこのころが絶頂で
後は退化の一途だったりする
なぜなら、当時も有料だったなら、この当時のこの駅をホテルにしていた小僧が入館する訳がないのである。
有料という言葉に反応しない奴が
こんな山小屋を定宿にする訳がない
そして、この小国町の北里もひと昔前の長閑な田舎で、地元の集落も北里柴三郎博士を目当てに、当時難路だった国道387号線を伝って郷土史めぐりなどする奴なんていないと踏んでいたのだろう。
同時に、こんな田舎で所蔵品を盗む輩もいないだろうと踏んでいたのだろう。 だから、朝夕に近くの住民がカギを開け閉めに来る程度の管理だったのだと思う。
夜明けの麻生釣駅にて
:
かつてはゴミ箱もあった高原の駅は
放棄されてこのように
自然に還っていた
当時は宮原線訪問では珍しく(何が『珍しく』なのだろうか?)夏休み中の行動で、いつものステーションホテルで2泊して、1泊目は土曜日のみ増便となる昼の1往復を狙ってのアーチ橋で湧蓋山バックなどを撮り、水は土手に登って土手から流れ落ちる流水を汲みに行き、水が得れない時は鯉が泳ぐ池の水でカップメンを作ったりする仙人生活をしていたよ。
宮原線は土曜のみ1往復増の
3往復+区間運行の閑散路線だった
※『JTB時刻表』より
湧蓋山バックのコレを撮るには
1往復増の土曜日が必須条件だった
そして、翌日の日曜日は土曜日の増便もないので、歩いて街である肥後小国に出れる北里で行動する事にしたのである。 だが、3往復の朝一番列車で北里に降り立つと、約1時間半後の肥後小国折り返しの上り列車を撮ると、夕方16時半まで列車がないのである。
日曜の朝は朝の上り列車を撮って
7:42発の下りで北里に
場所を移動する事にした
あるのは、シュラフと自炊道具(この時はテントは所持していなかった)と、『撮り鉄』の為だけにもってきたカメラ一式を詰めた銀箱のみである。 これは重量8kgと重いが、椅子代わりになる利点があったよ。 そして、本元の自炊用具等を詰め込んだザックは、コンロが部(ワンゲロ)から借りパク確定的なホエーブスで、ガゾリン一式で重さ5kgの『優れモノ』だ。
鋳物で本体も重く丸い缶収納でいびつで
重量の倍の重さを感じる
ホェ~と唸る程に重いホエーブス
※『懐かしい昭和の登山装備』より
形は丸い缶に入っていて、パッキングにはいびつで重量以上の重さを担ぐハメとなるが、火力は折り紙付きで飯ごうもOKだし、実際に鍋でご飯を2合炊いて釜めしの素などで食っていたので、食料も3~4食分で3㎏以上で、カメラバックの8kgを合わせると裕に30㎏を超えていたよ。
そして、当時の田舎には、『ちびまる子ちゃん』のオープニングで出てきたサイダー屋(駄菓子屋)があって、他の店屋は全て盆休みで店を閉めていたが、駄菓子屋だけは開いていたのだ。 なぜ開いていたかというと、自動販売機などはまだ設置されておらず、こういった『サイダー屋』が飲料水の貴重な入手先だったからだ。
こう暑くては折り返し列車を
決め撮りすべく撮影場所を探して
うろつく根性などなかったよ
朝の唯一の確定行動である折り返しの列車を撮ると、熱波の中に取り残される。 真っ暗な北里のトンネルの中が唯一の避暑地となる位だ。 そんな中で、このサイダー屋は嬉しい限りだったよ。
アイスキャンディーバーとビー玉ラムネで、本当に救われたよ。
暑い夏はキンキンに冷えた
ラムネが最も効くよ
※『メルカリ』より
アイスキャンディーバーとビー玉ラムネで落ち着いても、まだ上り列車を撮ってから1時間ほどしか経ってない。 次の列車の16時半まで8時間近くあるよ。 ・・で、次は、サイダー屋のオバちゃんに「中は涼しいよ」と教えられるまま、北里文庫にゆく。 だから、北里文庫は避暑目的に行ったので、中に何があった展示物は全く眼中になかったよ。
今は小国町の郷土史観光名所となっている
北里文庫も以前は「入館者などいまい」と
無料開放で放置同然の管理体制だった
図書館という事で湿気とか熱がこもる事を防止する建付けの為か、サイダー屋のオバちゃんの言う通り中は涼しかった記述があるよ。 まぁ、日差しの直撃を避けれるだけでも、十分に涼しいけれど・・。 でも、座る所がなかった(中のイスは腐食破損防止の為か着席禁止)ようで、文庫の中は涼しかったけど長時間の滞在はムリッぽかったよ。 まぁ、この一連の記事内容は、旅日記に書いてあった記述を参考にしたものであるが・・。
路線廃止となってから
立ち寄った時には
400円の入場料惜しさに
入らず立ち去ったよ
※『阿蘇ペディア』より
でも、この旅日記を読み返すまで、「北里文庫は立ち寄らずに写真を撮っただけ・・」だと思っていたよ。 でも、まだ11時をちょっと回ったほどで、そろそろここで時間を潰すのも限界となってきたよ。
それで、先程のサイダー屋で瓶のスコール(『愛のスコール』は宮崎の都城に本社工場があり、九州が本拠だったりする)を飲んで、炎天下の中を肥後小国に向けて歩き出す。 宮原線在りし頃は、まだバイパス道もできていない峠道で道路を行くと倍の遠回りなので、線路上を歩く事にしたよ。
現在は国の重要文化財となって
丁重に保存・維持されている橋梁
:
廃止になってから無くなった
モノを惜しむのは人の性なのだろうね
※『文化遺産オンライン』より
30kgを担いで、炎天下の宮原線線路を歩く。 現在重要文化財で歩道橋となっている幸野川橋梁を現物として渡ったよ・・、この時に。 滴り落ちる汗が太陽でチンチクリンに熱せられた線路に落ちて、ジュゥと蒸発したのを憶えているよ。
幸野川橋梁は『撮り鉄』でも
軽トラ荷台のヒッチハイクで
平衡感覚をヤラレて大手ブレとなるなど
歩行・撮り鉄共々いい思い出がない
でも、この時に履いていた靴が靴底のしっかりした登山靴(一番安いキャラバンだったけど)で良かったよ。 スニーカーなら線路の熱で靴底が溶けて穴が開いて火傷して歩けなかったと思うしィ。
幸野川橋梁
資材不足ゆえの竹筋コンクリート橋だが
橋台に美しい模様の透かし穴をつけるなど
見栄えも重要視した橋だったようだ
※『文化遺産オンライン』より
でも、残念な事に、暑すぎて鉄橋からの絶景を望む余裕はなく、下を向いてひたすら歩いていたよ。
・・で、幸野川橋梁を渡り終えてしばらく行くと、小国の町に向かって大きくカーブして坂を下ってくる。 カーブの途中に銭湯があるのを見つけて、線路の土手を駆け降りて(でも実際は暑すぎて、駆け下りるなんて事はムリだったかも)、銭湯に入る。 銭湯は開いたばかりだったようで、一番風呂だったよ。
こんな感じだったなぁ
夢の銭湯
風呂屋は古き良き時代の銭湯で、木の下駄箱に手形の鍵、脱衣場は番台がありロッカーなどはなく網の籠だけ・・。 風呂の中は壁のタイルに阿蘇の山の絵が描かれ、『湯』『水』の押しカラン、ケロリンの風呂桶に鉄のコック式のシャワージャグジーなど、本当に『いい風呂』だったよ。
そして、風呂から上がったら、トランクス一丁で腰に手を当ててフルーツ牛乳を飲む儀式も当然やったよ。 天井のカラカラ扇風機が、風呂上りの火照った身体を柔かい風で優しく煽ってくれて、その中で飲むフルーツ牛乳は生涯でも5本の指に入る美味い飲み物だったよ。
肥後国の駅名標は
独特の様式だった
銭湯で時間を潰し、小国の駅に着いたのは乗り込む予定の上り最終列車が発車する16時43分の1時間ちょい前の理想的な時間だったよ。
今は道の駅が建ち町の中心にある
肥後小国駅の往時は
町外れにある閑散駅だった
入場券などを買って肥後小国の駅を撮ってから、折り返しの最終となる列車がやってくるこの日2度目の『撮り鉄』の機会がやってくる。
この折り返しが
最終というには早すぎる
16:43発の豊後森行だ
夕方となってようやく空が曇りだしたっていうか、晴れて欲しい時に曇って今イチ&手ブレで3枚中2枚ボツの結果を残して、最終というには早すぎる16時43分発の列車で夏の宮原線を後にする。
最終には早すぎる17時前に
最終列車に乗り込んで肥後小国を発ち
宮原線・夏の旅を終えた
麻生釣の情景は間違いなく
鉄道名景の一つだろう
秋は雨で山が霞んだので
このショットが湧蓋山と撮る
最後のショットとなった
この日は小郡(現 新山口)まで出て(寝台列車があったので待合室は終日開放)、翌日は普通列車を乗り継いで帰阪したよ。
セミリタイヤやFIREを目指すなら
やり始めからすぐに月10万は稼げる
裏付けを構築せねばならないのだ
早期リタイヤして海外に渡って
バックパーカーをしてる奴のブログを見たけど
一つ言える事は日本ではこのような事は
絶対にムリで上述のようにすぐに月10万
は稼げる裏付けを構築せねばならないのだ
なぜならアメリカは人を雇うのに
雇用契約や身分保障などの煩わしい事がなく
即決で「飯と寝床をくれてやるから働け」で
バックパッカーでも農作業の手伝いや
酪農などに入れるのだ
そして収穫が終わったりしたなら
バックパック旅を1~2ヶ月継続できる
金をもらってその地を去るのだ
でも日本は違う
雇用契約を巻いて社会保障をかけて
一度雇用したら雇用者の都合で
クビにできない身分保障も着くのだ
だから「金がなくなったから働く」って
事が日本ではほぼ不可能なのである
だからこういったバックパッカーは
日本での全てを捨てて海外放浪生活を
選択して今の自身があるのだろうね
だからスモールビジネスや
フリーランスにも言えるのだ
日本で事を成すには『会社法』で
ガンジガラメとなっていてキチンと手続きを踏んで
継続しない限り成りわう事ができないのだ
要するに会社を立てた時点で
営業・経理・金策・クレーム処理が
付いてまわってきて一つでも怠ると
途端に破滅となるのだ
また初動資金も何百万単位で膨らんでいく
そして信用取引に対しての慣例がキツいので
後参入では仕事が回ってこないのだ
だから日本でFIREをするなら
始めから土地・財産を持っている
者以外には無理なのだ
もちろん以前いった条件の
首都圏居住や勤務・独立してない子持ち
自営無経験・資産ナシなどは
スモールビジネスもムリだし
ムリな奴に限って夢物語な寝言を吐きまくる
スモールビジネスの一つとして孤独な老人の話を聞いたり
老人にパソコンを教えるとか言ってるが
ケチな老人が見知らぬオッサンに
世間話を聞いてもらって金を払う訳ないだろ?
老人はケチだから金持ってんだよ
そういうのをやるには老人ホームへと
参入する手掛かりと人脈が必要だし
それを構築するにはやはり許可権者に
多額のリベートを納めるなど初期投資がいるんだよ
それと株で資産運用なんてムリだよ
アメの金利上昇連発で
アメの個人・中小企業がいつ
破綻するかしれないし
破綻したら株式は紙切れとなるよ
- 関連記事
-
- 路線の思い出 450~500 目次
- 『路線の思い出』 第500回 羽越本線、由利高原鉄道・羽後本荘駅
- 『路線の思い出』 第499回 函館本線(砂原支線)・銚子口駅 〔北海道〕
- 『路線の思い出』 第498回 大阪環状線、近鉄大阪線、大阪メトロ千日前線・鶴橋駅 〔大阪府〕
- 『路線の思い出』 第497回 宮原線・北里駅
- 『路線の思い出』 第496回 信越本線・青海川駅
- 『路線の思い出』 第495回 日高本線(未成線)・襟裳岬駅予定地
- 『路線の思い出』 第494回 三江線・江平駅
- 『路線の思い出』 第493回 東海道本線、樽見鉄道、養老鉄道・大垣駅
- 『路線の思い出』 第492回 奥羽本線・峠駅
- 『路線の思い出』 第491回 宗谷本線・豊富駅
スポンサーサイト