2022-07-30 (Sat)✎
廃線鉄道 第86回 羽後交通・横荘線 〔秋田県〕
横手駅で発車を待つキハ3形気動車
※ 横手市のウェブサイトより
羽後交通・横荘線(うごこうつう・おうしょうせん)は、秋田県横手市の横手と由利郡下郷村(現・由利本荘市)の老方を結んでいた羽後交通の鉄道路線である。 1971年7月20日に全線が廃止された。
横手駅の旧5番ホームは羽後交通・横荘線のホームで、低くて短いホームで車両も古くて小さいものであった為、通称『横荘っこ』と呼ばれていたという。
地方鉄道の命綱であった
木材輸送の貨物列車
※ 雄物川郷土資料館の展示写真より
釜石から横手を経て本荘に至る陸羽横断鉄道構想が発端となって建設された路線で、横手と本荘の両側から建設が始められた。 最初は1918年8月18日に横手~沼館が開業し、翌年の7月に沼館~館合、更にその翌年(1920年3月)には羽後大森までと徐々に延伸し、更に羽後大森~二井山の延伸(1928年11月)を経て、1930年10月5日に二井山~老方までの開業区間全線が開通する。
矢島線の訪問は国鉄時代には叶わず
第三セクターとなってからだった
一方、羽後本荘側からも路線建設が進められ、羽後本荘~矢島を結んでいる旧国鉄矢島線の由利高原鉄道鳥海山ろく線のうちの羽後本荘~前郷は、1922年8月に横荘鉄道・西線として建設・開業したもので、本来は八島ではなく横荘線・東線の老方と連絡する計画であった。
気動車が機関車の代わりに客車を
牽引するような地方私鉄の資金力では
壮大な鉄道建設構想は成し得ない
国の資金でないと実現は難しいのだ
※ クリエイティブ・コモンズより
その羽後本荘からの横荘鉄道・西線の建設と同時に、東線の老方より先も建設が進められたが、老方~前郷を建設する段階になって昭和恐慌(1929~31年)が発生し、その影響で資金難に陥ってしまって路線建設が頓挫してしまう。 その後、本荘側(本荘~前郷)は国に譲渡して、国鉄矢島線(現:由利高原鉄道)となっている。 なお、その後に勃発した日中戦争や太平洋戦争によって、完全に延伸工事が凍結されている。
国鉄矢島線時代に使用された
旧矢島駅の木造駅舎
:
隣の茶色の建物が新駅舎で
現在は取り壊されている
また、1937年に国鉄に譲渡された横荘鉄道・西線(国鉄時代は矢島線で、現在は由利高原鉄道)の前郷から先は老方ではなく、より町の規模の大きな矢島に延伸先を変更されて、路線をつなぐ夢が頓挫する。
大正時代の車両を使うような地方私鉄に
災害を乗り越える力などなかった
※ クリエイティブ・コモンズより
戦後に入ると、台風や集中豪雨といった水害などの度重なる被害により、また地域の道路整備による乗客減も重なって、部分廃止を繰り返す事になる。 1947年7月の台風災害で老方~二井山が不通となって1953年8月に正式に廃止となり、1965年7月の集中豪雨で雄物川の橋梁が傾き、二井山~舘合が不通となる。 その後、傾いた橋梁が倒壊して、休止区間が1966年6月正式に廃止となる。
雄物川町の郷土資料館に
展示されている
『横荘線の乗車きっぷ』
※ 横手市のウェブサイトより
その後は相次ぐ災害による被災と、モータリゼーションによる利用客減少などで経営難に陥り、1969年1月の館合~沼館の部分廃止を経て、1971年7月20日に沼館~横手の全線が廃止となっている。
なお、横手と本荘を結ぶ路線計画であったにも拘らず、横荘線のルートがいびつな形状をしているのは、地主たちによる『我田引鉄』が行われた結果であり、それが輸送人員減少の遠因になったとの指摘もされている。
壮大な鉄道路線構想の岩手県側は
釜石線・北上線が全通・現存しているが
秋田県側は老方~前郷の15kmのみが
未成線区間として残り開業した横手~老方も
営業不振や災害で路線廃止されてしまった
※ 横手市のウェブサイトより
横荘鉄道による横手~羽後本荘の路線建設は、三陸地方と日本海側を横断する壮大な鉄道構想の秋田県側の区間で、横手駅から三陸方面へは現在のJR北上線が1924年に全通し、JR釜石線が1950年に全通する事で実現に至っているが、横荘線の老方~前郷のあと約15kmだけが繋がらず未成線となったのである。
路線廃止後の現在は、羽後交通が自社バス路線として『本荘・横手線』を運行しているが、ルートは矢島経由ではなく、国道107号の老方を経由している。
羽後交通・横荘線の予想路線図
:
ウェブサイトに載ってある地図を
真似て作成しただけなので
あくまでも『予想図』の範疇です
《路線データ》
路線廃止区間と路線距離(営業キロ):横手~老方 38.2 km 、軌間:1067mm、
電化区間:ナシ(全線非電化)、複線区間:ナシ(全線単線)、閉塞方式:票券閉塞式
駅数:15駅〔横手〕・樋ノ口・東浅舞・浅舞・豊前・羽後里見・沼館・船沼・館合・羽後大森・
(上溝)・八沢木・二井山・浮蓋・老方
※ 上溝は1965年の豪雨災害による営業休止以前に駅廃止
※ 浮蓋・老方は1949年12月に営業休止し、1953年8月に正式廃止
※ 羽後大森・八沢木・二井山は1965年7月の豪雨災害で営業休止となり、翌年6月に正式廃止
※ 船沼・館合は1969年1月の部分廃止で駅廃止
保有する気動車で牽引されていた
『ハコ』そのものの客車・ホハフ6
※ クリエイティブ・コモンズより
輸送実績:旅客(最大時1963年)年間 992000人〔1日平均 2717.8人〕
(部分廃止以前・1945年)677914人〔1日平均 1857.3人〕
貨物(最大時1943年)年間 68667トン〔1日平均 188.1トン〕
羽後交通・横荘線の足跡
※ 横手市のウェブサイトより
羽後交通・横荘線 年表
1914年(大正 3年) 7月 - 横手~本荘の鉄道敷設免許申請
1915年(大正 4年) 1月13日 - 鉄道敷設免許状下付
1916年(大正 5年)10月24日 - 横手鉄道株式会社設立
12月 5日 - 横荘鉄道株式会社に社名変更
1918年(大正 7年) 8月18日 - 横手~沼館(15.31 km)開業
1919年(大正 8年) 7月15日 - 沼館~舘合(3.6 km)開業
1920年(大正 9年) 3月24日 - 舘合~羽後大森(1.8 km)開業
旧国鉄のキハ04も
キハ4形として譲り受けていた
※ クリエイティブ・コモンズより
1928年(昭和 3年) 3月19日 - 瓦斯倫動力併用認可(横手~羽後本荘)
3月25日 - 瓦斯倫車(ガソリンカー)運転開始
11月 1日 - 羽後大森~二井山(5.4 km)開業
1930年(昭和 5年)10月 5日 - 二井山~老方(12.1 km)開業
1931年(昭和 6年) 8月21日 - 羽後大森~八沢木に上溝停留所開業
1943年(昭和18年)10月16日 - 雄勝鉄道と合併し、横手~老方は横荘線となる。
1944年(昭和19年) 5月31日 - 羽後鉄道に社名変更
1947年(昭和22年) 7月23日 - 台風により線内39か所に被害
1949年(昭和24年)12月27日 - 旅客運輸営休止認可(二井山~老方)
1951年(昭和26年) 4月18日 - 貨物運輸営業休止認可(二井山~老方)
1952年(昭和27年) 2月15日 - 羽後交通に社名変更
1953年(昭和28年) 8月 5日 - 二井山~老方(12.1 km)廃止許可
機関庫火災で車両不足となり
国鉄から譲り受けたと思われる
旧国鉄客車のホハニ4
※ クリエイティブ・コモンズより
1957年(昭和32年) 5月17日 - 機関庫で火災が発生し、4両焼失
1965年(昭和40年) 7月 9日 - 集中豪雨により、舘合~羽後大森に架かる雄物川橋梁の橋脚が傾く
10月21日 - 舘合~二井山(7.2 km)が営業休止
1966年(昭和41年) 2月 4日 - 河川増水により、雄物川橋梁第9橋脚が倒壊
6月15日 - 舘合~二井山(7.2 km)廃止
1969年(昭和44年) 1月16日 - 沼館~舘合(3.6 km)廃止
1971年(昭和46年) 7月20日 - 横手~沼館(15.3 km)廃止となり、横荘線全線が廃止となる
横荘線の代替輸送は
バス専業会社となった羽後交通が
自社路線バスを運行している
※ フォートラベルより
代替交通
羽後交通バスが『横手・本荘線』として、横手~本荘間と横手~沼館間の2系統と区間便からなる乗合バス路線を運航している。 ルートが鉄道時代と大きく異なる区間が長いが、横手バスターミナルから浅舞・老方を経て、横荘線が到達できなかった本荘(本荘営業所)までを結んでいる。 また、横手~本荘間の直通便は急行便として運行されている。 だが、横荘西線として開業した由利高原鉄道鳥海山ろく線とは路線を重複せず、前郷も経由しない。
浅舞公園に移設された
浅舞駅名標のレプリカと腕木式信号機に
草生し覆われた貨車
※ 横手市のウェブサイトより
廃線跡
廃止後の路盤の大半は農道や県道に転用されている。 だが、築堤や橋台も随所に残っている。
また、旧雄物川町内の駅跡地には記念碑が建てられているので、容易にルートを辿る事ができる。
羽後交通ホームに停車する
キハ1形気動車
:
横手駅の羽後交通ホームは
現在も4番線として使用されている
※ 横手市のウェブサイトより
横手駅(よこてえき)は、秋田県横手市駅前町にあるJR東日本とJR貨物の駅である。 1971年4月20日まで、羽後交通・横荘線が乗り入れていた。 単式ホーム2面2線と島式ホーム1面2線の合計3面4線のホームを持つ駅で、現在は橋上駅舎となっている。 JR東日本の直営駅で、横手統括センター所在駅ある。
管理駅として、従前の横手管理駅エリアである奥羽本線の院内~飯詰及び、北上線の黒沢~矢美津の各駅を管理している。
廃線となった羽後交通横荘線のホームは、現在でも4番線として利用されている。 ここはやや狭くなっていて、4番線の向かいにも番線表記のない線路があるが、これは廃線となった羽後交通横荘線の名残りである。
樋ノ口駅(ひのくちえき)は、かつて秋田県平鹿郡平鹿町(現・横手市平鹿町)醍醐にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(老方方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっており、駅舎は無いがホーム東側出入口附近に待合所を有した。 待合所は比較的新しい作りであった。 ホームは横手方に階段を有し、駅施設外に連絡していた。
路線廃止後に区画整理が行われて、駅跡は残っていない。 また、当駅跡附近の線路跡は道路に転用されている。
東浅舞駅(ひがしあさまいえき)は、かつて秋田県平鹿郡平鹿町(現・横手市平鹿町)浅舞道川にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、無人駅となっていた。 一部の普通列車は通過していた(1964年8月20日改正の時刻表で上下各2本が通過)。
路線廃止後に区画整理が行われて、駅跡は残っていない。 また、当駅跡附近の線路跡は道路に転用されている。
在りし日の浅舞駅舎
※ 横手市のウェブサイトより
浅舞駅(あさまいえき)は、かつて秋田県平鹿郡平鹿町(現・横手市平鹿町)浅舞福田にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。 島式ホーム1面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 駅舎側(南側)が下り線(老方方面)、外側(北側)が上り線(横手方面)となっていた。
その他に、側線として下り線から南に分岐し駅舎との間を通過する機回し線を1線と、機回し線横手方から南に分岐し駅舎東側に至る行き止りの側線を1線有していた。 沼館駅とほぼ同じ配線となっていた。
平鹿町の中心駅で職員配置駅となっていた。 駅舎は構内の南側に位置し、ホーム西側のスロープ付きの階段とを結ぶ構内踏切で連絡した。 駅舎の屋根は瓦は使われていなかった。 ホーム上に待合所を有し、待合所の出入口側に隣接して腕木式信号機が設置されていた。 なお、腕木式信号機は駅留置の貨車と共に浅舞公園に移設されて鉄道公園となったが、貨車は放置状態が悪く草生し覆われた廃墟と化している。
現在は農協(JA)の営農センターになっていて、駅前にあった桜の木が残っている。 また、附近には農業倉庫や農協の建物など、駅に関係の深い建物が残っているが、線路跡の一部には住宅が建築されている。 また、当駅跡附近から沼館駅跡附近までの線路跡は農免道路となっている。
豊前駅(ぶぜんえき)は、かつて秋田県平鹿郡平鹿町(現・横手市平鹿町)浅舞豊前にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(老方方面に向かって左手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。
無人駅となっており、駅舎は無いがホーム西側出入口附近に待合所を有した。 待合所は長方形の建物の上に、大きな片流れ屋根が覆い被さった独特な作りであった。 ホームには老方方にあったスロープで、ホームから駅施設外に連絡していた。 また、浅舞駅跡附近から当駅跡附近を含む、沼館駅跡附近までの線路跡は農免道路となっている。
在りし日の羽後里見駅舎
※ 横手市のウェブサイトより
羽後里見駅(うごさとみえき)は、かつて秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市雄物川町)東里東里北にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。
単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の南側(老方方面に向かって左手側)に存在した。
その他にも、側線として本線から北に分岐した機回し線を1線と、本線横手方機回し線転轍機の手前から南に分岐し駅舎東側に至る行き止りの側線を1線有していた。 職員配置駅となっていた。
駅舎は構内の南側に位置し、ホーム中央部分に接していた。
羽後里見駅の駅名標
※ 雄物川郷土資料館に展示された駅名標
附近に農業倉庫や農協の建物など、駅に関係の深い建物が残っている。 また、駅跡の農協の敷地の一角に、当時の雄物川町によって『横荘線 羽後里見駅跡』と記載された沿革の記された白い記念碑が建立されている。 また、浅舞駅跡附近から当駅跡附近を含む、沼館駅跡附近までの線路跡は農免道路となっている。 その他、当駅跡附近の畑に、木造有蓋車ワ1形の廃車体が個人の倉庫として再利用されている。
在りし日の沼館駅舎
※ 横手市のウェブサイトより
沼館駅(ぬまだてえき)は、かつて秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市雄物川町)沼館にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の廃線に伴い、1971年7月20日に廃駅となった。 島式ホーム1面2線を有する駅で列車交換可能な交換駅であったが、1969年1月16日の当駅から舘合の部分廃線で、以降羽後交通全廃時までの2年半は当駅が終着駅となった。
駅舎側(西側)が下り線(老方方面)、外側(東側)が上り線(横手方面)となっていた。
その他にも、側線として下り線から西に分岐し駅舎との間を通過する機回し線を1線と、機回し線横手方から西に分岐し駅舎南側に至る行き止りの側線を1線有していた。 浅舞駅とほぼ同じ配線となっていた。
ホーム上に腕木信号機と
桜の大木がある長閑な駅風景だった
※ 雄物川郷土資料館の展示写真より
雄物川町の中心駅で職員配置駅であった。 駅舎は構内の西側に位置し、ホーム北側の階段とを結ぶ構内踏切で連絡していた。 ホーム上に待合所を有し、待合所の出入口側に隣接して腕木式信号機が設置されていた。
路線の開通記念に植えられた桜の大木が残っている。 また、火の見櫓が建てられている。
駅跡の道路の一角に、当時の雄物川町によって『横荘線 沼館駅跡』と記載された沿革の記された白い記念碑が建立されている。 また、浅舞駅跡附近から当駅跡附近までの線路跡は。農免道路及び県道13号線となっている。
雄物川郷土資料館に
展示されている駅名のホーロー版
※ 雄物川郷土資料館にて
船沼駅(ふなぬまえき)は、かつて秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市雄物川町)沼館八掛にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の沼館~館合の部分廃線に伴い、1969年1月16日に廃駅となった。
単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の西側(老方方面に向かって左手側)に存在した。
転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっており、駅舎は無いがホーム西側に待合所を有した。
駅跡の道路の一角に、当時の雄物川町によって『横荘線 船沼駅跡』と記載された沿革の記された白い記念碑が建立されている。 また、当駅跡附近の線路跡は道路となっている。
舘合駅(たてあいえき)は、かつて秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市雄物川町)薄井中鳥屋場にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線の沼館~館合の部分廃線に伴い、1969年1月16日に廃駅となった。
開業当初は途中駅だったが、1965年7月9日に発生した集中豪雨によって雄物川橋梁橋脚か洗掘(その後に第9橋脚が倒壊)された為に、当駅~二井山が運休となって当駅が一時的な終着駅となる。
その翌年の1966年6月15日に当駅~二井山が正式廃止となって、1969年1月16日の沼館~館合の第三次部分廃線まで終着駅となった。
単式ホーム1面1線を有する駅で、職員配置駅となっていた。 駅舎は構内の東側に位置し、ホーム中央部分に接していた。 ホームは線路の東側(老方方面に向かって右手側)に存在した。 その他に、側線として本線から西に分岐した機回し線を1線と、本線横手方機回し線転轍機の手前から東に分岐し駅舎南側に至る行き止りの側線を1線、機回し線の老方方本線合流部分の手前から分岐する行き止りの側線を1線有していた。
雄物川河川敷まで延びる砂利採取線を有し、1947年の水害による営業休止時には羽後大森駅残存車輌の回送に利用された。
雄物川町(現在は横手市)には
羽後交通・横荘線の資料館がある
※ 横手市のウェブサイトより
駅跡の農協敷地内に、当時の雄物川町によって『横荘線 館合駅跡』と記載された沿革の記された白い記念碑が建立されている。 また、当駅跡附近の線路跡は道路となっており、当駅跡から雄物川堤防に至る道路は道床跡が残り、鉄道の雰囲気が残っていた。
当駅と羽後大森の間には雄物川が流れており、『雄物川橋梁』が架けられていた。 この鉄橋は延長428mで、23基の橋脚と24連の橋桁を有する構造となっていた。 だが、雄物川の川砂利の濫獲や堤防工事に伴って河床が低下しており、1965年7月9日に発生した集中豪雨によって第9橋脚の洗掘が著しく進行(同日より列車運行休止)し、また調査の結果から他の橋脚の老朽化も進んでいる事が発覚し、復旧は絶望的と目される。
そして、翌1966年2月4日に職員の目の前で第9橋脚が倒壊して復旧の道は絶たれ、横荘線廃止の大きな要因の一つとなったのである。 その雄物川橋梁の橋脚は、河川改修の為の発破作業によって取り壊されたが、羽後大森方には橋台と丸い橋脚の基礎が中州に残存していた。
羽後大森駅(うごおおもりえき)は、かつて秋田県平鹿郡大森町(現・横手市大森町)町田にあった羽後交通横荘線の駅である。 1965年7月9日に発生した集中豪雨で雄物川に架かる橋脚が洗堀の被害を受けて以降は運休となり、運休区間となっていた館合~二井山が正式に廃線となった事で、1966年6月15日に廃駅となった。
島式ホーム1面2線を有する駅で、列車交換可能な交換駅であった。 その他にも、側線として南側本線横手方から南西に分岐し末端部に車庫を有する行き止りの車庫線を1線と、北側本線横手方から北に分岐し、分岐後に2線に分かれ駅舎東側に至る行き止りの側線を有していた。 職員配置駅で駅舎は構内の北西側に位置し、ホーム西側とを結ぶ構内踏切で連絡していた。
JA(農協)秋田ふるさと大森支所の附近と推定出来たが、建物や道路が新しくなっており場所の特定は難しい状況であった。 その後は農協が撤退し、近隣の農家の作業所になっていた。 また、雄物川岸から当駅跡附近までの線路跡は、堤防から続く築堤が若干残存していた。
上溝駅(うわみぞえき)は、かつて秋田県平鹿郡大森町(現・横手市大森町)上溝にあった羽後交通横荘線の駅(廃駅)である。 横荘線廃線前の1964年以前に廃駅となった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(老方方面に向かって右手側)に存在した。 転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっており、駅舎は無いがホーム中央部分に待合所を有した。 周囲は水田であった。
駅跡地は、秋田県道29号・横手大森大内線に転用されている。
八沢木駅(やさわぎえき)は、かつて秋田県平鹿郡大森町(現・横手市大森町)上溝にあった羽後交通横荘線の駅である。 1965年7月9日に発生した集中豪雨で雄物川に架かる橋脚が洗堀の被害を受けて以降は運休となり、運休区間となっていた館合~二井山が正式に廃線となった事で、1966年6月15日に廃駅となった。
駅は旧八木沢村の中心部から遠く離れた、村域の南側をかすめたような場所にあった。 単式ホーム1面1線を有する駅で、職員配置駅となっていた。 駅舎は構内の北西側に位置し、ホーム北側部分に接していた。 ホームは線路の北西側(老方方面に向かって右手側)に存在した。 その他にも、側線として本線横手方西に分岐し駅舎東側に至る行き止りの側線を1線と、本線老方方から東に分岐しモーム南側に至る行き止りの側線を1線有していた。 現在の駅跡は羽後交通バスの折返場となっている。
二井山駅(にいやまえき)は、かつて秋田県平鹿郡雄物川町(現・横手市雄物川町)二井山にあった羽後交通横荘線の駅である。 1965年7月9日に発生した集中豪雨で雄物川に架かる橋脚が洗堀の被害を受けて以降は運休となり、運休区間となっていた館合~二井山が正式に廃線となった事で、1966年6月15日に廃駅となった。
島式ホーム1面2線を有する駅で、当駅~老方の最初の部分廃線前までは列車交換可能な交換駅であった。 その他にも、側線として西側(駅舎側)本線横手方から西に分岐し駅舎北側に至る行き止りの側線を1線有していた。 職員配置駅で駅舎は構内の西側に位置し、ホーム南側とを結ぶ構内踏切で連絡していた。
駅跡の道路の脇に、当時の雄物川町によって『横荘線 二井山駅跡』と記載された沿革の記された白い記念碑が建立されている。 また、駅跡付近には駅名を引き継いだ羽後交通のバス停がある。
また、当駅跡附近から老方の集落入口附近までの線路跡は秋田県道48号・横手東由利線県道として再利用され、ほぼ当時の姿を保った築堤や切通しが残っている。 この県道は道床をそのまま舗装したような道路で、転用されなかった部分が雑草の生い茂った切通しや未舗装の小道として残存していた。
なお、当駅~老方には5か所のトンネルがあり、崩落の危険のある最も当駅に近い『二井山トンネル』は通行禁止となって、坑口が木々に覆われた形で残存していた。 このトンネルは2003年春に、老方側坑口から2m地点付近で崩壊している。
浮蓋駅(うきぶたえき)は、かつて秋田県由利郡下郷村(後に東由利町を経て現・由利本荘市東由利町)老方にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線で随一の営業不振区間であった二井山~老方は1949年12月22日に営業休止となり、1953年8月5日にこの区間が正式に部分廃止となった事で廃駅となった。
単式ホーム1面1線を有する駅で、ホームは線路の北側(老方方面に向かって右手側)に存在した。
転轍機を持たない棒線駅となっていた。 無人駅となっており、駅舎は無いがホーム中央部分に待合所を有した。
旅客のみ取扱いであったとされるが、かつては線路脇に伐採された原木を積み上げて無蓋車に積載する、森林鉄道を思わせる木材輸送の『途中積み』の中心駅であったと推定されている。 この原木積み込み作業は夕刻から始まって、場合によっては夜通しとなったとの事である。 1949年12月22日の二井山~老方の運行休止に伴って、この作業も終焉を迎えたと考察されている。
二井山~老方は人家のほとんど無い山間部を縫うように通っており、唯一同区間において初めての人家のある所に駅が設けられた。 廃止となった横荘線の二井山~老方の線路跡の大部分が、秋田県道48号横手東由利線として転用されて道路となっている。 この県道は道床をそのまま舗装したような道路で、築堤や切通しがほぼ当時の姿を保っている。 その道路に転用された浮蓋トンネルを老方側に抜けた附近に、駅跡があったと推定されている。
なお、二井山~老方には5か所のトンネルがあり、崩落の危険のある最も二井山側の『二井山トンネ』通行禁止となって破棄(その後崩落)されたが、その他の『御岳トンネル』・『金屋トンネル』・『浮蓋トンネル』・『第一柴倉トンネル』の4つのトンネルは、道路トンネルとしてそのまま再利用されている。
老方駅(おいかたえき)は、かつて秋田県由利郡下郷村(後に東由利町を経て現・由利本荘市東由利町)老方にあった羽後交通横荘線の駅である。 横荘線で随一の営業不振区間であった二井山~老方は1949年12月22日に営業休止となり、1953年8月5日にこの区間が正式に部分廃止となった事で廃駅となった。
島式ホーム1面2線を有する駅で、その他にも側線として北側(駅舎の反対側)本線横手方から北に分岐し末端部に車庫を有する行き止りの車庫線を1線と、南側本線終端部方から南に分岐し駅舎西側に至る行き止りの側線を1線有していた。 職員配置駅で駅舎は構内の南側に位置し、ホーム東側とを結ぶ構内踏切で連絡していた。
駅跡には東由利町役場が建てられていたが、その後町役場庁舎は新庁舎が建てられて移転した為に、旧町役場は取り壊されて更地になって『役場跡』の石碑が建立されているが、戦後まもなく廃止となった老方の駅跡を示すものは何も無かった。 また、役場跡地の再利用として、老人介護施設が建てられている。
安倍氏の暗殺事件では
統一教会ばかりがヤリ玉に上がり
その結果を最もほくそ笑んでいるのは
黒幕の真犯人サイドだよね
その手口は完全に右翼で
状況から鑑みても今回だけは
パヨクは黒幕ではないだろう
如何にパヨクが安倍氏を憎んでいたとしても
選挙前に要人暗殺を企てるまでは考えにくいし
シナやチョンも政権から離れた
安倍氏の暗殺を指令するメリットがない
そして統一教会はチョンの組織であり
パヨクがチョン本国の工作組織である
統一教会を政敵暗殺に差し向けた
鉄砲玉の殺意の理由にまではしないだろう
パヨクは今回に後付けで
撒き上がった安倍氏の国葬論争で
モリカケ・桜を見る会以来の美味しい
『ジミンガ~』の餌を得たに過ぎないのである
だが右翼の急進派である天皇信奉右翼ならば
チョン同士の覇権争いが勃発して
今まで仲の良かった統一教会を
敵視していく事も十分考えられる
恐らく今回の暗殺事件は
チョン右翼と下チョンの工作組織である
統一教会の覇権争いという内ゲバに
巻き込まれたと推察するのである
超党派の在日チョンの成りすまし議員団で
天皇信奉右翼思考の『日本会議』と
下チョンの工作組織である統一教会との
覇権争いが発生して『日本会議』と統一教会の
二股だった安倍氏が標的となったのであろう
この所の右翼は東京五輪の開催で
日本の国民を大量に殺害し
ワクチンやマスク着用に反対して
感染の蔓延を煽るなど露骨に
日本を潰す方向に舵を切っている
その右翼急進派である天皇信奉右翼が
パヨクの政治的な攻勢の口実となり
天皇全体主義構築の邪魔となる安倍氏を
日本財団(正体は笹川会というヤクザ)
を使って始末したとワテは考える
そのプロの殺し屋で組織に従順な
犯人である男をヒットマンとして
養成して送り出す事と警察の一部を
たらし込んで護衛を手薄にさせる暗殺工作も
政治組織の絡んだヤクザ組織なら可能だ
奴らの望む政治体制は
チョンの背乗りである天皇を国家元首とした
北朝鮮型の天皇全体主義体制で
裏から天皇を操っての在日チョンによる
日本の隷属支配なのだから
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