風来梨のブログ

このブログは、筆者であるワテの『オチャメ』な日本全国各地への探勝・訪問・体験記です。

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私の訪ねた路線  第59回  白糠線

『私の訪ねた路線』  第59回  白糠線  〔北海道〕
 

『何もない終着駅』北進駅が
息を吹き返す列車到着の時
 
《路線データ》
     営業区間と営業キロ         輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
    白糠~北進 33.1km              123   /    3077

      廃止年月日         転換処置         廃止時運行本数    
      ’83/10/23         白糠町営バス           3往復
 

白糠駅にあった
北進駅のスタンプ
 
   《路線史》
沿線の炭鉱(雄別鉄道・上茶路坑)及び、森林輸送を目的として建設された路線。 本来は足寄までの計画線で、上士幌を経て札幌へと短絡する高速鉄道の構想もあった。

1964年に上茶路まで開通。 しかし、炭鉱は1970年に閉山。 その2年後の1972年に既存の区間までが完成したのだが、赤字運営が予想された為に開業を渋った国鉄に対し、時の運輸大臣の命令という形で異例の延長開業がなされた。
 

白糠線内車内補充券
(左は手書き式・右はパンチ式)

しかし、建設目的の主軸だった炭鉱の閉山で離村が相次ぎ、延伸はおろか既存線の存続も危ぶまれる程に過疎化が進行する。 この状況により国鉄再建法の施行を待つ事なく、北進までの延長開業と同時に延伸工事が凍結された。

終着駅の『北進』は、北に向かって線路が延びる事を祈って名づけられたというエピソードがある(元々の字地名だという説もあるが)。 この『北進』駅は、“何もない終着駅”として有名。 1980年からは、営業係数ワースト1の“日本一の赤字線”。 ちなみに1980年は、営業係数が3077であった。
 

おわかれ白糠線記念乗車券

沿線が同一市町村(白糠町)にある事で廃止転換交渉が容易な事もあって、1983年10月に廃止転換路線のトップを切って廃止された。 全通から僅か11年という短命の路線である。 その為か、真新しいコンクリート橋脚が線路の伝った場所の至る所で見られる。
 

白糠線のご案内
 
廃線となってからしばらくは、沿線最大の駅である上茶路はその軌道を利用してのトロッコ遊戯施設となっていたようだが、数年前に駅舎が解体されてからは放置されて密林化し、その所在が判らぬ程に自然回帰が進んでいるとの事である。 鉄道のあった“一つの世代”の誕生から朽ち果てるまでのシーンが、この廃線跡に凝縮されているのである。
 

 

上茶路駅で販売していた
北進ゆき乗車硬券と
白糠より茶路ゆきの乗車硬券
 
   《乗車記》
白糠線列車は1日たったの3往復。 その列車は白糠駅の3番線から発着していた。 列車の運用は朝の1往復が急行【狩勝】の間合い運用で、急行型のキハ56が入線していた。 午後の便はタラコ色のキハ22やキハ40が入線していた。 そして、末期は勾配の関係からか、乗客が増えた訳でもないのに2両連結で入線する事が多かったみたいである。 
 
さて、白糠駅を出ると、すぐに根室本線と別れて右手の内陸方向へそれていく。 今は、その名残が引込み線として残されているようである。 やがて、国道392号が寄り添ってきて、国道の右側を着かず離れずの間隔を取りながら進んでいく。 周囲にあるのは、広大な酪農場や荒地で、ホツンポツンと牛舎や酪農家の邸宅が見える位である。
 

上白糠駅名標
 
やがて、上白糠に到着する。 ホーム脇に建てられた待合室が雑草に埋もれるだけの棒線駅だ。
そして、利用者は学生のみのようだ。 下車した学生は、自らの家への最短距離なのであろうか、線路の上を歩いて帰っていくようだ。
 

自ら“仮乗降場”と名乗る
共栄仮乗降場
 
駅を出ると、また左側に国道392号線とその奥に茶路川、周囲はだだっ広い酪農場という変り映えのない情景が延々と続く。 程なく、自らで“仮乗降場”と名乗る共栄仮乗降場に着く。 だが、白糠線の他の駅と何ら変らぬ駅舎なしの棒線駅である。 だが、北海道の駅としての扱いでは、仮乗降場を掲載したKioskの『道内時刻表』にも掲載されない『幻の仮乗降場』と呼ばれていたそうである。
 

国道より少し入った所
あった茶路駅
 
ホームのみの棒線駅を出ると、“さっき見た景色”が再び視界に入ってくる。 酪農地を避けるように土手上を行き、それも行き詰るとトンネルで小山を越えていく。 やがて、駅名標の文字のみが違うだけの同じ規格の駅・茶路に到着する。
 

真新しいコンクリート橋で
蛇行する茶路川を渡って
直線的に進んでいく
 
茶路を出ると、そろそろ山間に分け入っていき、蛇行する茶路川を新規格の路線らしく直線で突っ切るようにコンクリート鉄橋で渡していく。 川に沿って蛇行する国道392号線(現在の国道392号線は、道路改良工事で直線的で高規格な道に付け替えられている)と対照的に、トンネルと橋を駆使して直線的に連ねていく。 4回ほど蛇行する茶路川を渡ると、程なく縫別だ。
 

この駅の周辺が
最も集落があったような気がする
縫別駅
 
縫別は周囲は酪農地であるが、道路に沿って雑貨屋兼食料品兼駄菓子屋1件(あくまでも当時であるが・・)があって、その前にそのお宅の名前を取って『田中前』、『鈴木前』と、地方独特のバス停が設けられていた。
 
縫別を出ると、更に山に分け入っていく。 酪農地は丘状の大地に広がり、川も蛇行がキツくなり流れも早瀬となっていく。 そして、徐々に山に囲まれた谷状の所を行くようになる。 1日3往復で、しかも車もない徒歩撮影では1日3往復の路線の駅以外の撮影は不可能に近いのだが、それでも当時少年(ヒネてはいたが・・)の自分が最大限努力した写真を1枚。
 

茶路川を渡る534D
縫別から上茶路まで
8kmを歩いて撮った
 
丘状の地を列車はトンネルでかわし、蛇行する川は真新しいコンクリート橋で跨いでいく。 
だが、改良前の国道392号は、土地の形状に忠実にアップダウンを繰り返し、蛇行する川が近づいてきたなら、その川に逆らわぬように川岸を弧を描いて通過していく。 従って、国道経由の方が線路より2kmほど長いようだ(現在は道路の改良付け替え工事で距離が短縮されている)。
 

今の上茶路駅標は
トロッコ施設運行時
設けられたモノみたいですね
これが本当の上茶路駅標でっす
 
やがて、利用客はほとんどいないが、線内最大の駅で唯一駅舎を持つ上茶路に着く。 ここはかつて雄別炭鉱上茶路鉱があり、本鉱の雄別と併せて1万2千の人口があったという。 また本鉱の雄別に至っては、最盛期は炭鉱住宅や病院・スーパー・映画館・パチンコ屋から女郎屋まであったという。 今はゴーストタウンの廃墟となっているという。
 

木造モルタルの上茶路駅舎
 

がらんどうの待合室に
掲げてあった時刻表

その上茶路駅は石炭積み出しの為の駅で、側線を持ち、駅舎もあり、交換設備もあった。 もちろん、炭鉱閉山の1970年までは有人駅だっただろうし、その為の設備や宿直室の区画もあったみたいだ。

しかし、無人駅となって人の手が入らすがらんどうになり、そして荒れ果てつつあった。 また周囲も、炭鉱が閉山となった時に住民が一気に離村してゴースト化し、この当時(昭和58年の路線廃止時)には民家が1~2軒残るのみとなったという。
 

上茶路駅に停車中の一番列車
 
この上茶路から先は、白糠線の負の歴史のみが語られる区間となる。 なぜなら、炭鉱が閉山した2年後に完成し、政治路線として開業した区間だからだ。 近代的な真新しいコンクリート道床で何もなき原野を直進的に越えてゆく姿は、奇妙にさえ見えた。 廃止されて大方30年になるが、まだ真新しく白いままのコンクリート道床が原野に佇んでいるのが見られるのである。
 

北海道の路線らしい雰囲気の中で
上茶路付近にて
 
やがて、路線設備とは逆に放置されてボロボロの駅名標の下北進に着く。 道路とは少し離れた草むらの中に駅があり、おそらく利用は限りなくゼロであったろうと思う。
 

錆びてボロボロとなった
下北進駅名標
 
下北進を出ると、ずっと寄り添ってきた国道392号線は線路と離れて丘を登っていく。
線路は流れが細くなった茶路川に沿って谷の中へと分け入っていく。
 

侘しき雨の原野の中をゆく列車
北進付近は完全無欠の荒れ原野であった
 
やがて、“何もない終着駅”北進駅に到着する。 “何もない終着駅”では倉吉線の山守駅も有名だが、こちらは完全無欠に何もなかったのである。
 

『何もない終着駅』で有名な北進駅
線路は200m先で夢潰えていた
 
集落は車が往来するのがやっとのダートの急坂を上がった600m先にあり、そこには廃校となった小中学校や郵便局があった。 そして10~20の居宅があり、小集落を形成しているようであった。
従って、駅周囲の景色とは裏腹に利用客がどこからとなく現れて、それなりの利用客がある(といっても、10人程)駅だったと聞く。 今は、その居宅の半分が離村で“主のいない家”となっていると耳にするのだが。
 

北への願いを込めて
北進駅
 
そして、今の北進駅は、自然回帰という言葉がぴったりと当てはまっている。 途中区間のコンクリート道床はあと100年は変らずに残るものと思われるが、北進駅は20数年で自然回帰を成し遂げたのである。 その証を今年の冬に訪れた写真で証して文を締めようと思う。
 

2011年冬・北進駅の跡に立つ
今や車も入れぬ原野に回帰していた

   ※ 詳細は『魅惑の鉄道写真集』より『白糠線』を御覧下さい。
 
 
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No title * by タケちゃん
こんばんは。
本当にいいものを見せて頂きました。
時々雑誌等に掲載されていた急行型2連は間合い運用だったのですね。

政治と鉄道路線敷設という複雑な関係は、こんなローカル線であれ新幹線であれ、今でも何も変わっちゃいないな、と考えさせられました。

No title * by 風来梨
タケちゃん様、こんばんは。

コメント頂き、有り難うございます。
この白糠線は、私が北海道ローカル線にハマるキッカケの路線でした。 雑誌で見た牧場を行くキハ22や北進駅の侘しさなど、当時中学~高校の時でしたが、心を捉えて離れませんでした。

そのお陰で、受験につまづいて平凡な所に進学せざるを得なかったのは藪の中に(爆)。 秋に廃止詣でをしたのがバレて、××になったのは藪の中に(核爆)。 この時に、上茶路で駅寝したのが自身となって、アウトロースタイルが確立したのは藪の中に・・。 と我が半生におけるボタンの掛け違えが始まったキッカケとなった事は藪の中に・・の貴重な思い出一杯の路線です。

自分が魔法が使えるなら、たぶんこの線とオホーツク沿岸路線を復活させるでしょうね(笑)。

No title * by takataka
こんばんは。
本当に貴重な写真の数々ですね!【ポチっ!】
私も、一度だけ上茶路まで乗車した事があり懐かしく拝見致しました。
当時、上茶路には炭鉱社宅跡を利用した青少年旅行村があり、宿泊した記憶があります。

No title * by オータ
これはスゴい!です。雑誌のルポでもここまで詳しく追っかけていたか? 上茶路など途中駅の細かい様子までよく取材!されていますね。そうですか…ハマるきっかけになったのですか。
なお、コメントのtakataka氏の「上茶路青少年旅行村」の体験も花を添えていますね。宿泊体験というのもスゴいなぁ…

私も1982年の初渡道時、士幌線の次に乗った廃止対象線でした。ここは絶対廃止されるとわかっていたからです。でも一番列車で往復したのみ… シホサツや補充券も作ってもらいましたが… まさか北進駅のスタンプがあったとは! 恐れ入ります。傑作!

No title * by 風来梨
takatakaさん、こんばんは。

上茶路の青少年旅行村、御利用された事があるのですか! それはすごい。 初めて白糠線に乗った1983年の夏、裏の広場で乗馬していたのを見た記憶があります。 たぶん、旅行村のイベントだったのだろう・・と思います。

それで、少し興味を抱いてググッてみると、白糠線が廃止された1983年を境に利用者が激減し、ついに平成16年から年間利用者ゼロらしいです。 この旅行村は、白糠線が最大の『売り』だったようですね。

傑作、有り難うございます。

No title * by 風来梨
オータさん、こんばんは。

いつもコメントありがとうございます。
本当に、この線は私の半生をこのように変えた路線でした。

撮影も、他の線以上に頑張っていたようです。 次の列車まで、北進で8時間待ったり・・とか、歩いて上茶路まで向かったり・・とか。

改めて、今は持ち得ない情熱で動いていた気がします。

コメント






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No title

こんばんは。
本当にいいものを見せて頂きました。
時々雑誌等に掲載されていた急行型2連は間合い運用だったのですね。

政治と鉄道路線敷設という複雑な関係は、こんなローカル線であれ新幹線であれ、今でも何も変わっちゃいないな、と考えさせられました。
2011-10-11 * タケちゃん [ 編集 ]

No title

タケちゃん様、こんばんは。

コメント頂き、有り難うございます。
この白糠線は、私が北海道ローカル線にハマるキッカケの路線でした。 雑誌で見た牧場を行くキハ22や北進駅の侘しさなど、当時中学~高校の時でしたが、心を捉えて離れませんでした。

そのお陰で、受験につまづいて平凡な所に進学せざるを得なかったのは藪の中に(爆)。 秋に廃止詣でをしたのがバレて、××になったのは藪の中に(核爆)。 この時に、上茶路で駅寝したのが自身となって、アウトロースタイルが確立したのは藪の中に・・。 と我が半生におけるボタンの掛け違えが始まったキッカケとなった事は藪の中に・・の貴重な思い出一杯の路線です。

自分が魔法が使えるなら、たぶんこの線とオホーツク沿岸路線を復活させるでしょうね(笑)。
2011-10-12 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

こんばんは。
本当に貴重な写真の数々ですね!【ポチっ!】
私も、一度だけ上茶路まで乗車した事があり懐かしく拝見致しました。
当時、上茶路には炭鉱社宅跡を利用した青少年旅行村があり、宿泊した記憶があります。
2011-10-13 * takataka [ 編集 ]

No title

これはスゴい!です。雑誌のルポでもここまで詳しく追っかけていたか? 上茶路など途中駅の細かい様子までよく取材!されていますね。そうですか…ハマるきっかけになったのですか。
なお、コメントのtakataka氏の「上茶路青少年旅行村」の体験も花を添えていますね。宿泊体験というのもスゴいなぁ…

私も1982年の初渡道時、士幌線の次に乗った廃止対象線でした。ここは絶対廃止されるとわかっていたからです。でも一番列車で往復したのみ… シホサツや補充券も作ってもらいましたが… まさか北進駅のスタンプがあったとは! 恐れ入ります。傑作!
2011-10-14 * オータ [ 編集 ]

No title

takatakaさん、こんばんは。

上茶路の青少年旅行村、御利用された事があるのですか! それはすごい。 初めて白糠線に乗った1983年の夏、裏の広場で乗馬していたのを見た記憶があります。 たぶん、旅行村のイベントだったのだろう・・と思います。

それで、少し興味を抱いてググッてみると、白糠線が廃止された1983年を境に利用者が激減し、ついに平成16年から年間利用者ゼロらしいです。 この旅行村は、白糠線が最大の『売り』だったようですね。

傑作、有り難うございます。
2011-10-14 * 風来梨 [ 編集 ]

No title

オータさん、こんばんは。

いつもコメントありがとうございます。
本当に、この線は私の半生をこのように変えた路線でした。

撮影も、他の線以上に頑張っていたようです。 次の列車まで、北進で8時間待ったり・・とか、歩いて上茶路まで向かったり・・とか。

改めて、今は持ち得ない情熱で動いていた気がします。
2011-10-14 * 風来梨 [ 編集 ]